先日、紀子様のお父様が亡くなられたと知り、そして、あるお寺さんを訪れたときのことを思い出し、、
瑞雲山興徳寺
(冒頭より)
時はくだり、
伊達政宗公は仮館として、豊臣秀吉公は政丁 (奥羽仕置の御座所) として宿泊されたとあり、なるほどここ興徳寺さんは大変由緒ある大寺院だったようだ
更にくだり、
幕末の会津藩主松平容保公御実弟定敬公は、戊辰戦争最中の慶応四年 (1868年) 七月、容保公とこちらで再会された、また、旧幕府老中板倉勝静等の宿舎にもなっていたらしい、が、会津戦争で堂宇は焼失、、
現在は、
本堂前に、おっと... 容保公自作自筆の碑が (ほ~✨)
百とせを / 三たびかさねし / 若松の
さとは幾千代 / 栄えゆくらん
その本堂 (今は鉄筋コンクリート造り) は1964年に再建されたようで、その翌1965年には落慶大法要が盛大に催された とあった、そして朝比奈源老大師を大導師とし、、
ん (°_°)?
老大師と書かれていたから円覚寺派の管長をされていた時だねぇ
でもどうして、
円覚寺派なんだろ?
妙心寺派なのに?? (*1)
ワイ???
いやー、でも こういう 謎 に出くわすのがまた散策の楽しみ、醍醐味だなあ✨
で、調べてみた✨✨
興徳寺御開山の鏡堂覚円は円覚寺御開山の無学祖元とともに来日され、鎌倉の浄智寺/円覚寺/建長寺の住持をつとめられた方のようだ (・ω・)ノ
なるほど~ そういうつながりかー✨✨✨
会津にも円覚寺ゆかりのお寺さんがあったんだねぇ(=゚ω゚)ノ~
浄智寺さんはまさに宗源老師の菩提寺でもあるし
そういえば、唐突にすぎるが、
皇室と会津若松とのつながりは、松平容保公の孫にあたる秩父宮雍仁親王の妃となられた雍仁親王妃勢津子様にさかのぼる
勢津子様の名前は会津ではよく目にするところ
御朱印
中央に墨書きのないお寺さんの御朱印もめずらしい (?)
瑞雲山興徳寺
臨済宗妙心寺派
会津若松市
秀吉公は会津に来られたことがあるんだねぇ、ここは北限の地でもあるそうで
釈宗演老師の書になる板碑
いやーここまで北鎌倉を意識させられる碑に会津若松で出会えるなんて~✨ しかも板碑にまでなっているのは北鎌倉でも見たことないぞー と
(((゜Д゜;≡;゜Д゜)))
そして
境内には織田家/前田家とつながりのある蒲生氏郷の五輪塔 (お墓) があるのだけれど、もうひとつとても興味深いお墓が
池上四郎、会津藩士池上武輔の四男で二百五十石取りの上級藩士、会津戦争では年齢制限のため「白虎隊」には入隊できなかったが鶴ヶ城に籠城した とある
つまりは、、
新島八重等とともに新政府軍と戦い、そして、開城のその日をともにした方のお墓だね、、
そうかぁ、会津藩士の血も受け継いでおられるのか、、、
紀子様の父方の曽祖父にあたる方のお墓だった
*1:
参拝の後、何年か経って知ったのだけど、朝比奈宗源老師は妙心寺で修行されていたそうで (*2)
また、釈宗演老師の得度の師は親戚筋にあたる妙心寺管長釈越溪老師とのことで (ほ〜✨)
なるほど なるほど、こうしてみると、二重三重にも御縁がつながっていたんだね
*2:
以前より、妙心寺派のお寺さんで宗源老師の書が掛かっているのを目にすることがしばしばあり、少し不思議にも感じてたんだなぁ
それにしても
散策を重ねるたびに強く思うのは
世の中はどこかでつながりあっているということ
そのことをひしと
【福島県】
■会津若松市
・会津鶴ヶ城1 (幕末明治期ゆかりの神社巡り④[番外]) その2
・会津若松篇ダイジェスト1 ダイジェスト2 ダイジェスト3 ダイジェスト4 ダイジェスト5 ダイジェスト6
【鳥取県】
■倉吉市
・大江神社
第百十九代光格天皇 (*1) の御生母、大江磐代君 (おおえいわしろぎみ) をお祀りするお社
大江磐代君は、第百二十二代明治天皇の高祖母 (四代前) にあたり、
第百二十一代孝明天皇、静寛院宮様 (和宮親子内親王) からみれば曾祖母にあたる方
その墓所は京都の廬山寺さんにもあるようだ、次の京都ではお参りさせていただこうかな
あまり知られてないかも? だけど、故郷も皇室とのつながりがこのように、、