結局だれも人の話は聞いていない~教授会模様
先日、新年度最初の教授会がありました。
見回すと、相変わらず、いろんな人がいます。内職をしている人(ピーピー音を鳴らしながら堂々とパソコンで作業している人もいますねえ)、寝ている人(大いびきまでかいている人がいますねえ)。最初に会議が成立したのを見届けるとさっさと出ていく人。
結局かなりの人は、自分に関係あるところ以外、何も聞いていない、という感じですね。講義ではちゃんと聞くように、っていっている人もいるんだろうな、この中には。
自分はどうかって言うと・・・、理想は内職でもしたい。でもながら族でありながら、会議での人の話は気になって、本などを読んでいることはできません。気軽に読める雑誌ぐらいなら大丈夫です。
寝るのも良いかもしれないけど、あの椅子は寝心地が悪い(笑)。かといってさっさと消える勇気もない。でも、真剣に会議に参加している訳でもないなあ。ということで、ちゃんと出席していても、上の人たちと五十歩百歩といったところでしょうか。
テレビ
さっきまで「トリビアの泉」を観ていた。今は「報道ステーション」。
つい先日、学生にと話をしていたら、「先生、結構テレビ観てますね」と言われた。まあ、元来ながら族なので、BGM代わりといったところだろうか。
しかし、ここ数年は、すっかり連続ドラマを見なくなった。例外は去年の「白い巨塔」。連続ドラマだと、1回見逃すとストーリーがわからなかったりするので、最近はもっぱらサスペンス系の二時間ドラマかお笑い系が中心である(ニュースは別)。深夜番組も結構つけっぱなしのまま、仕事をしていることも多い。だからじゃないけど、歳の割には(?)学生の話について行けるような気がするのは、自分だけでしょうか。え、学生の方が話をあわせてくれているだけですから、って。残念!
さて、明日はどんな小ネタを講義に織り込もうかな。
学部間での統一はどこまで行うべきか
このブログを始めた頃のエントリーにも書いたが、勤務先は、いわゆる総合大学である。文系の学部も理系の学部もある。そして、リンクなどを貼らないが、同業者のブログからもわかるように、大学間によってもカルチャーが大部違うように、文系と理系でも異次元の世界のような感がある。
従来、大学の各学部は、自治という名のもと、かなり勝手な独自性のあることをやってきた。しかし、大学間の競争が激しくなってきたせいか、上の方は、なぜか色々な面を統一しろと言い出してきた。
例えば、シラバス。今まで学部によってシラバスの様式等がかなり異なっていた。それを、全体で統一した様式にしろ、と言いだした。理由は、他学部履修などの便宜を考えると統一した方が良い、ということらしい。で、この結果が、良い方向に改められるならば良い。しかし、文字数も制限されてしまったので、学部によってはこれまでのシラバスと比較して半分ぐらいの内容しか書けなくなったと聞く。どうみてもこれは改悪でしかない。
この他にもいろいろあるが、学部の特性を顧みない統一の一例が試験時間の統一である。この議論が行われるまで、不勉強で知らなかったのだが、文系の自分は、学生時代、前の勤務先、今の勤務先、そしてこれまで出講したすべての非常勤先で、試験時間は60分というのが当たり前だったが、理系では90分の場合も多いそうだ。計算させたりする試験だったりすると、60分では短すぎるのだそうだ。そのような学問の特性を考えると、試験時間が学部によって異なることには合理性があると考えられる。しかし、上の方は、これを統一するよう求めているのである。理由は、これまた他学部履修の便宜を図るため、とのこと。
先に書いたように、勤務先は総合大学である。総合大学の利点は、文理を超えた科目を他学部履修で学ぶことができることにあるらしい。
講義はどこの学部も1コマ90分であるため、試験時間が60分の文系の場合、大抵は、講義とは異なる試験時間割を組み、同じ3時限目といっても開始時間が異なることがある。そして理系の場合は90分の時間帯があったりするので、文系の試験時間割とも開始時間が異なる場合がある。そしてこのようなケースで、一方の学部の学生が、自分の学部の試験時間割の開始時間で他学部の試験を受験しようとしたら、すでに試験が終わっていたことがあった、というのがきっかけらしい。
あと、見え隠れしてくる理由が、事務管理上の都合である。
しかし、学部の特性を殺してまでも統一する利点がどうしても見いだせない。でも、最近めっきり事務方の方が強いようなので、教員の意見は無視され、統一が進められていきそうな気がする。
初回の講義の時間
特に同業者の皆さんに対する素朴な疑問だったりしますが、みなさん初回の講義の時間はどのくらいでしょうか。
おいおい、ちゃんと90分やりなさい、という声も聞こえてきそうですが、実際に1回目からがんがん講義をしてしまうと顰蹙を買ってしまうのが実態です。もちろん、必修で、クラス指定などがあって履修者が確定していれば良いのですが、たいていの場合、この時期はまだ学生は履修する科目を選んでいる時期で、履修者が確定していません。なかには確信犯もいて、2回目からしか出てこない者もいます。
1週間ぐらいの間、色々な講義に顔をだして、講義を選択する訳です。特に同じ時間帯にとりたい講義が複数ある時とか、新しい教員でまだ情報が少ない時などは、学生は、初回のガイダンスの内容で選択することになる訳です。
個人的には、ここ数年、30分ぐらいを目処にしています。授業料泥棒と言われそうですが。自分の勤務先だけなのかもしれませんが、彼らの関心は、シラバスには余り細かく書かれていない成績評価の方法が中心なんです。講義の内容はシラバスに書かれています。で、成績評価については、「試験で評価する」とか、「試験70%、出席30%」ぐらいしか書かれていません。そこで、試験は持ち込み可なのかとか、出席の取り方とか、発言を重視するとかを聞きたいみたいなんです。
こちらとしても、いきなりトップスピードで講義に入らなくて良いので、ちょうど良い感じではあります。実質的な講義を1~2回したらGWによって一休みできたりしますしね。
キャンパス内での花見
今週は良い天気に恵まれ、桜が満開となった。という訳で、近くの桜の名所に簡単な花見に行った。
そこでふと思い出すのが、自分の学生時代のことである。出身校のキャンパス内には桜が植えてあって、一般にも開放していた(開放していたと言うよりも、特に別に制限をしていなかっただけなのかもしれない)。世間では、花見といえばお酒がつきもののようである。そうなると、昼間からキャンパス内に酔っぱらいが多数出ることになる。もちろん、世間に開放しているので、酔っぱらいは学生だけには限らないのだが。
普段は、キャンパス内の食堂でもビールぐらいは飲めるのだが、やはり大学という以上無制限とはいかないので、夕方(4時か5時だった記憶が)からだけ飲めるという制限があった。例外は、大学祭期間中であった。
でも、花見となると、近所のコンビニ等で買ってきたお酒を飲むので、ついに、禁酒令が発令された。けれど、そんな禁酒令は破られるのがオチである。みんな、お構いなしで酒を酌み交わしていた。さすがにその足で授業に出ることはなかったけれど。でも、花見も兼ねた屋外ゼミなんていうのもやったことがあった。
最近はどうなんだろう。
で、今の勤務先というと、ここでも桜があることはある。最近は暖かくなってきたので、昼時、お弁当を広げている学生はいるようだが、さすがに、お酒を飲む者はいないようである。
天気が良かったら、今度のゼミは花見(もう葉桜かな?)を兼ねて屋外でやってみようかな。でも、最近いろいろと本部がうるさいので、どっかで文句を言われるかもしれないかな。
言ったもん勝ち
講義もはじまった。結局3月末から4月頭にかけては何をしていたんだろう、と思う。もちろん、仕事をしているのだが、いわゆる教育と研究の両立は無理だった。強いて言うならば、教育関係に忙殺されたと言って良いだろう。
先日も書き込んだように、新入生向けの泊まりがけのオリエン。数年前、このような方法を導入するにあたっては、教授会でかなりの議論が行われた。代表的な意見は、「これからは学生のケアをきちんとしなければならない。特に、最初が肝心だ」という賛成論。「大学生なんだから自分でできるでしょ」的な反対論。
これらの議論を経て実施するようになったのだが、毎年その実施計画が教授会に諮られるたびに、相も変わらず同じような反対論を展開する輩がいる。それだけなら良い(本当は無駄な時間となるので良くないのだが)。そのような人は、なぜか引率からはずれるのだ。中には、引率者になっているのに、ぶっちぎる強者までいる。
たしかに、そのような人が引率しても、そもそもやる気がないので、そのオリエンの目指す効果が得られないかもしれない。しかし、結局嫌なことは言ったもん勝ちで避けられる。そんな風潮がまだ勤務先の大学には残っているような気がする。会社だったら業務命令違反なので懲戒できそうだが、そんなこともない。やっぱり不思議です。
わたしはだあれ?
講義が始まりました。広いキャンパスに、大学祭以外では学生の数が最も多く見られる時期でしょうか。その数も段々減って、GWも過ぎれば、半減とはいわないものの、3割減ぐらいにはなりそうです。
個人的に面白い出来事を。
新入生に立て続けに「私はどこに行けばいいのですか?」と聞かれました。「○○という教室はどう行けばいいのですか?」ではありません。流石に、「私はあなたを知らないので、わかりません」とも言えないので、「学部は?」「授業は何?」「教室は?」と聞いて、ようやく彼(彼女)らが行きたい先を把握して、「この建物の何階ですよ」とか「そこの先の高い建物ですよ」と教えてあげました。
でも、中には授業名がなんとなく分かる(例えば、英語といわれても、1,2,3,4・・・とありますし、クラスによっても違う)だけで、教室が分からない者もいて(時間割表ぐらい持ってこないのかなあ、最近は)、結局事務に行くように指示したりしました。
また、大学にもよるのでしょうが、勤務先の場合、教室がいくつかの建物に分かれていて、表示が、「建物の番号-教室番号」の組み合わせになっていて、後者の教室番号だけを言われても分からない訳です。ガイダンスで、この辺の見方も徹底していないのか、本人が聞いていなかったか・・・。
確かに初めてのキャンパスでとまどっていることは分かりますが、もう少し質問の仕方があるだろうに、とおもいますが。それともそんなことから教えるべきなのでしょうか。
ガイダンスその2
ガイダンスもようやく終わりました。
新入生向けには、泊まり込みのオリエンテーションと、大学でのガイダンスと、計4日。結構しんどいです。年とったせいかなあ、と思ったりもして。
しかし、年々ガイダンス等に力を入れているように思われるのだけれども、新入生の理解度は???のようです。担当者の説明が悪いのか、それとも新入生の理解力が低いのか。
いったい、どれくらい新入生ガイダンスを実施すればよいのでしょうか。確かに分厚い冊子を渡されて、「詳しくはこちらに書いてありますから、良く読んでおいて下さい」と言われても、今の学生だと読まないだろうと思うし。
新任者との挨拶
新年度に入り(なんか、毎日同じような出だしだなあ)、大学でも新たな人を迎え入れることになる。そこで毎年不思議に思うことがある。それは、新たに着任した人とはどのように最初の挨拶を交わすべきなのか、ということである。
普通に考えれば、新任者の方から「この4月に着任した○○です。よろしく。」ぐらいの挨拶があって良いと思う。
もちろん大学院出たての若い人は自から挨拶していると思う(自分の場合もそうだったし)。しかし、他の大学から移ってきたり、他の業界(企業など)から転職してきた場合で、いわゆる年配の人の場合、このような考え方が通用しない、というのがここ数年の感覚である。
専門分野が同じ場合は、直接間接に知っている場合があるので、目下の方が挨拶に行くことはあるかもしれない。しかし、分野が違えば、特に何の関係もないのがこの業界の不思議なところ。私学の場合、特に文系の場合、教授、助教授、講師という職位は、会社で言う上司・部下の関係とは無関係である。職務の範囲に多少の違いはあるかもしれないが、多くの私学の場合、教授も助教授も教授会では等しく一票の議決権があるし、ある意味対等であったりする。だからどっちが偉いとか偉くないとかは職位だけでは決められないし、他業界から来た人の場合、年上だけれども職位的には下になることもある。
まあ、いわゆる国立からの天下り的人事の場合、こちらからお願いしてきてもらっているので、こちらから挨拶に行くのも致し方ないだろうけど。
別に言い訳をするわけではないが、個人的には目上の人は立てているつもりである。
また非常に個人的なことだが、自分は童顔である。だからなめられているのかなあ、と思ったりすることもある。男も一定の年齢になれば顔に責任を持てといったものだが、こればっかりはどうしようもない。
さて、実はまだ今年の新任の方とは会っていない。明日(実質今日)、初顔合わせとなる。果たしてどうなることやら。
ガイダンス
新年度が始まり、在学生のガイダンスは一応終わった。別に教務の担当ではないのだが、個別に相談に来る(ごく少数の、しかもほとんどはゼミ生である)学生への対応はまだ続くだろう。
そして、入学式を終え、新入生へのガイダンスが行われる。しかし、これがまた厄介である。もちろん、初めて大学というシステムに触れるので、例えば、時間割を自分で決めたりということに不慣れである、というようなことは、個人的には全然問題ではないと思う。問題は、やはり至れり尽くせりの配慮である。自分の学生時代を思い起こせば、よけいなお世話、という感もしないではない。
いったい何をするのかというと、「友達作り」を手伝ってあげるのである。そこまでしてあげる必要が本当にあるの?と毎年思う。自分の勤務先だけではないが、ガイダンスを泊まりで行う大学もあるだろう。自分の勤務先では、この泊まりがけのガイダンスの主要な目的の1つが、この友達作りなのである。
確かに、高校であれば、大抵の都道府県では学校区というのがあって、ある程度限定された地域から進学してくるので、生徒同士に接点がある。しかし、大学ともなると、大学によっては日本全国から進学してくるし、高校のように固定したクラスもないので、友達を作るきっかけが少なくなっているというのである。そして友達ができないと、大学に来ても楽しくないので、だんだん大学に来なくなり・・・、という筋書きが背景にあるらしい。
こんなお膳立てをしてあげたって、友達を作れる人は作れるし、作れない人は作れないと思うのだが。友達がいたってドロップアウトする人はすると思うのだが。
こんな風に考える自分が時代遅れなのかなあ、と最近つくづく考えさせられる。