大学という斜陽産業 -189ページ目

こんな分煙、分煙じゃない

健康増進法のためか、キャンパス内でも分煙が進みつつある。建物内は禁煙、所定の場所で喫煙可、と言う訳であるが、どうもその喫煙場所が気に入らない。建物の扉のすぐ横に設置していたりする。結局、その建物に出入りするたびに、煙を浴びることになる。


近所の某スーパーも似たり寄ったりだ。エスカレーターやトイレの横のベンチが喫煙所だったりする。子供も連れて通るっていうのに、そんな場所で煙草を吸われていたら、煙だけでなく、火の方だって気になってしょうがない。


そもそも、人が多く通るそばに喫煙所を設けても、そこが周りと隔離されていない限り、分煙とは言えないと思うのだが。


キャンパス内全面禁煙案も出ているようだが、教職員にも喫煙派がいるので、まずは通りそうもないけど、嫌煙派としては少し期待している。

「学生の暗黙知」

たまには新聞ネタから。

 

日経新聞の毎週月曜日には、教育関係の記事やコラム等が掲載される。その中に、耳塚寛明・お茶の水女子大教授の「まなび再考」というコラムがある(日経NETでは読めないようです)。

 

2005年5月23日(月)に掲載された

 

壊れた「学生の暗黙知」 「学校化」する大学

 

は、思わずうなずいてしまった。出だし自体は、JR西日本の件の脱線事故にふれ、安全優先が「暗黙知」では無くなったという問題を指摘し、この「暗黙知」に関する学生の変化に続けている。そして、具体例として、こう指摘する。

 

 

 ゼミは休まない、報告者はレジュメを作成する、専門用語は調べる、重要な参考文献は漁(あさ)る。こうした、「学生の暗黙知」として教える必要のなかったことがらをひとつひとつ指示しなければならない。

(中略)

 暗黙知として意図せずとも習得されてきた「まなびの基礎」の、どこが、なぜ、壊れてしまったのだろう。

 

 

今回は、思わずうなずいてしまった。もちろん、大学によってゼミの在り方は違うだろうし、文理でも違うかもしれない。

 

偶然かもしれないが、自分の学生時代も、今勤務している大学でも、ゼミは学年を超えて合同して行っている。そこで、自然と先輩から後輩へ伝えられるものだってあるはずなのに、今の学生は、どうも縦のつながりが希薄だ。言葉や文書だけでなく、先輩の姿を見て後輩に伝えることもあるだろう。しかし、そういう感じは年々なくなっていくような印象である。

 

自分の場合がすべてではないが、学生生活でゼミが占めるウェイトは非常に大きかった。講義はさぼっても、ゼミはさぼらない。周りもそんな感じだった。でも、今はゼミも講義と同じ1コマでしかないようだ。

 

勤務先でも、厳しいと評判のゼミには毎年それなりの志望者がいる。端から見ていても本当に熱心だと思う先生も多い。だから、大学も学部も、学生を満遍なく底上げしようなんて考えないで、意欲のある学生だけをのばすことを考えればいいのに、と思うのは自分だけだろうか。大学間では、たとえば、COEなど研究面での傾斜配分方式が導入されつつある。大学内でだって、学部間だけでなく、同一学部内でも傾斜配分方式で資源を集中投入してはいけないのだろうか。

睡眠時間

別のエントリーにも書いたが、研究は体力勝負の感がある。そして、もう一つ書き忘れたことがある。勢いも大切だ。いい意味で調子に乗らなくてはならない。


でも、今はどっちも無い。非常にやばい状態である。


以前、本当に自分でも大丈夫だろうかと思うぐらい調子が良かったときは、平均睡眠時間3~4時間と、売れっ子のアイドルのような生活をしていたときがあった。2時から3時ぐらい布団に入り、6時に起きる。


でも、だんだん体力が無くなって、朝型に切り替えた。というか、未明型と言った方が正確かもしれない。9時から10時ぐらいに布団に入って、3時ぐらいに起きるのである。6時間ぐらいは眠れる。冬場はちょっとつらいが、夏は結構快適である。


しかし、ここ数年はそれもかなわなくなった。それは、年とともに雑務が増えたことと、大学院を担当するようになったためである。勤務先の大学院は、社会人受け入れに熱心で、開講時間帯が昼夜ともにある。そのため、9時半頃まで授業がある日が週に何日もあると、9時には眠れない。授業が終わって、一息入れてから帰宅すると11時近い。帰宅後は身体に悪いと思いつつ夜食。そして入浴。早くても12時にしか就寝できない。でも、やらなくてはいけない仕事は山積みなので、結局遅くまで起来ている日が多くなってきた。もう規則正しい生活はあきらめざるを得ないし、睡眠時間も平均して減っているような気がする。


もっと眠りたいなあ。

論文の数え方

前々から疑問に思っていたこと。


その1:論文の数え方


師匠が言葉遣いにうるさかった(自分の文章は一向に上手くならないが)。


論文を1本、2本と数えると、そんな日本語はない、と言われた。1篇、2篇と数えるべきだと教わった。


でも、就職してからと言うもの、まわりはみな「本」で数える。ネットで理系の人の話を読む限りでは、「報」と数えるケースもあるらしい。



その2:ある特定の人の書いた論文の数え方


これは業績の評価にも関係することかもしれないが、ある個人が書いた論文の数はどのように数えるべきなのだろうか。


文系の多くの場合、単著のケースが多いような感がある。この場合だと、論文1編につき1と数えて良いだろう。


ところが、理系の場合、共著の方が多いようである。その際、たとえば、2人で書いたら0.5と数えるのだろうか。


ファースト・オーサーであるか否かも関わるという意見も聞いたことがある。しかし、単純に五十音順もしくはアルファベット順で並べるのが慣例の分野もあるだろう。


このその2の疑問は、このような分野の慣例を無視した大学本部の姿勢に疑問を感じたからである。


ちょっと前の話であるが、大学の活性化のために、と言う名目で、教員の研究業績を単純に論文執筆数で比較したのである。その本来の意図は、年を取れば論文執筆数が減るということを明示して、定年を下げることにあったらしい。でも、その意図はもろくも崩れたので、それはそれで大笑いなのであるが、そのときのデータで、文理を比べたものをみて、愕然としたのである。う~ん、桁が一つ違うのである。


もちろん、そのときのデータは、共著でも1とカウントしており、年齢が上がっても、お弟子さんや研究室の若手が中心に行った論文にも共著として名前を連ねていた。その結果、大学本部としては、本来の意図が達成できなかったのであるが、そもそもそういう数え方ってありですか?


育児と研究に必要なもの

育児経験者に言わせると、育児に一番大切なものは、体力なんだそうだ。しかも、このことがたいていの育児書には書いていないらしい。技術と愛情 かという議論もあるようだが、愛情は前提のような気もする。


では、研究に一番大切なものは何だろう。もちろん、飽くなき探求心とか、問題意識とか、さらにはセンスも必要なんだろうが、育児と同じく研究にも体力が一番大切なように思う今日この頃である。


元プロレスラーの某氏のように「気合い」も大事かもしれないけど、気合いに応えられる体力が無くては意味がないと思う。

まあ、こう思うのは、加齢に従って体力が落ちてきて、昔は数夜の徹夜も平気だったのに、最近は一晩すら徹夜できなくなったからだと思う。



セパ交流戦

スポーツ系のブログではおそらくたくさん議論されているのだと思うテーマではありますが・・・。


普段それほどプロ野球をみる訳ではないのですが、昨年のプロ野球再編騒動の結果、導入されたセパ交流戦 、この仕組みがどうも納得できない。


このセパ交流戦、ペナントレースの途中に、別イベントとして行うものだと理解していた。実際、この交流戦の勝率1位のチームには賞金5,000万円が与えられる。ここまでは十分理解できる。しかし、このときの成績が、リーグ優勝にも影響し、個人成績にも影響する。どうして、セリーグのリーグ戦の成績にパリーグ(パリーグからみたら逆)との対戦成績が入るのか、やっぱり納得いかない。


まあ、熱烈なプロ野球ファンではないからいいけどね。

環境に優しい大学?

今日、大学も環境問題は避けて通れない問題らしく、ISOの認証を受けるところまである。


勤務先でも、環境に配慮しなければならないなどともっともらしいことを言って、コピー用紙の消費量などを細かくチェックするようになってきた。素直に経費節減といわないところが毎度我が勤務先らしい。


上からのお達しであるから、教員も講義資料は両面印刷が基本、教授会の配付資料も、両面コピー、裏面コピーと現場は努力を重ねている(と思う)。しかし、先日出席した大学全体の会議。なんと片面コピーのオンパレード。なんだい、これは。お偉いさんは経費節減させる方で、自らはしなくてよいらしい。さすが、学校法人の経営陣。教養教育が重要ということでカリキュラムにまで口をだすぐらいだから、「 まず隗よりはじめよ」という言葉ぐらい本当によく知っているらしい。


そういえば、環境なんたらとかいう科目を担当している某教授。たった1階の上り下りでもエレベーターやエスカレーターを使っている。環境に優しいなあ、みんな。


自分はといえば、PCのつけっぱなしで電気を、自動車通勤なのでガソリンを無駄に消費して暮らしています。

GW後のキャンパス

今年のGWの終わりが5月5日なのか、8日なのかはわからないが、勤務先は暦通り講義が行われている。


自分の学生時代と、少なくとも数年前までのキャンパスは、GWを境に若干学生が少なくなったものだ。しかし、ここ数年、学生の講義の出席率はあまり変わらないような感がある。なぜだろうか。少なくとも自分は講義では出席を取らないので、出席点を理由に講義に出てくる必然性はない。


そして先日教授会で報告された学生の単位取得状況によると、単位取得率は年々悪化している。そう、講義に出ているのに単位は取得できていないのである。講義への出席率と単位の取得が絶対的に相関関係があるとは言えないが、結構複雑な気持ちである。もちろん、教える側にだって問題は山積みかもしれないが、・・・(以下、自粛)。


大学のことを本当に考えているの誰だ?

大げさなタイトルを付けましたが、はっきり言って愚痴です。


以前にも書いたが、今、勤務先では新しい学部だか大学院を新設する動きが本格化している。どうして人はトップに立つと、何かを作りたがるのだろう。


それはともかく、少子化が本格化し、おそらくどこの大学でも、「大学改革」等の旗が振られ、いろいろと改革を進めているのだろう。とはいっても、少子化のことはかなり以前からわかっていたのに、なかなかその対策をしていなかったツケがまわったにすぎない感はあるが。


勤務先では、その一環で、やたら「戦略 」という言葉が振りかざされているが、現実に出てきている内容は、小手先の見直しにすぎない。理事レベルではそうは言うものの、官僚組織で硬直化した事務は、やたら前例を踏襲して何もやりたがらないし、仕事が増えることを嫌って、本当に手助けをしてくれない。新しいことをしようとしても予算はつけないくせに、責任はどうするんだ等と難癖はつけてくる。しかし、一応頭脳労働者である我々は(とはいっても実は自分は傍観者だったりすることが多いのだが・・・)何らかの知恵を絞って、それなりの成果を上げると、いいところだけ持って行ったりする。


そんな現状があるにもかかわらず、明日はまたその会議で、おそらく午後はすべてつぶれてしまう。


単年度主義の弊害

この週末は、研究会に出席するために某所に1泊で行ってきた。


この研究会は、科研費による共同研究プロジェクトによるものであり、共同研究者として参加している。このプロジェクトは今年が最終年度なので、研究もラスト・スパートに入ってきている。


関係者にとっては周知のことではあるが、このような複数年にわたる研究プロジェクトであっても、基本的には予算は単年度主義である。したがって、今年度の予算が下りてくるのは6月ぐらいなので、この時期は基本的に研究にかかる経費を立て替えなければならない。


文系の場合、実験用機器を購入することもないので、一度にそんなに大きな支出をすることはあまりないけれども(海外の学会の参加等の旅費かなあ、大きい支出といえば)、やはり不便なことこの上ない。


もちろん、研究経過によっては支給を打ち切る場合もあるので、経過報告書を提出させて、それによって継続の可否を判断する時間が必要なのかもしれないが、もう少しこの単年度による予算はどうにかならないだろうか。


さて、明日から夏休みまではしばらくまとまった休みがないので、ぼちぼちと与えられた課題をこなしていくことにしよう。