大学という斜陽産業 -188ページ目

大学からの電話

昨日は、講義がなかったので、自宅で講義の準備を中心に仕事をしていた。


そこで、電話がなった。


自分「はい、○○です。」


相手「△△学部の××です。お休みのところ、すみません。・・・・・」


毎度のことであるが、お休みじゃないんだけどなあ。中には大学に行かない=休み、という行動原理の人もいるかもしれないけど。


じゃあ、大学にきている人が仕事をしているかっていうと、他の教員と雑談して、食事して、煙草吸って、研究室で居眠りして、ていう感じで時間を過ごしている人だっているぞ。まさにお休み状態じゃないか。


まあ、雑談の中からヒントを得ることもあるので、雑談自体を否定はしないけど。

不健康自慢

先日、職場での定期健康診断の結果が出た。


皆、なぜか不健康さを自慢しあう。やれ、γGTPが高いとか、中性脂肪が多いだの。終いには「要再検査」とか、「要精密検査」まで。健康に気遣う暇が無い程忙しいんだ、だから偉い(仕事をちゃんとやっている?)とでもいうのだろうか。


自分は、「要経過観察」でした。残念ながら(?)、自慢できるほどのものではありませんでした。

本をどうにかしたい

もう、この職業、特に文系の悲しい性なのか、ついつい本を買ってしまう。先日も書いたが、いただいた本もまだ読んでいないって言うのに、どんどん積ん読状態が加速しています。読んだ本も捨てられない質だし。


まあ、師匠の教えも、「何がなんでも本は買いなさい。」 師匠の教えを守っているのはこれぐらいか。


しかし、本当に収納場所がなくなって、困っている。たまにテレビでいろんな家の紹介をしているコーナーとかをみると、どうしてあんなに物が無いの?と思っている。


以前、学会の重鎮の先生が書庫用に3DKぐらいの部屋を借りているという話を聞いたことがあるが、そんなことは経済的にもとても無理。せめてレンタル倉庫とかコンテナでも借りようかと真剣に思案中。

肩こりをどうにかしたい

どうもネタ切れのようで、無理矢理何か書いています。


論文も無理矢理でもいいから書きたいです(笑)。締切をすぎている原稿もあるし・・・。


さてさて、講義の準備も文献を読んでPCで資料を作成、研究も文献を読んでPCで論文作成、と非常に運動不足の日々に加え、同じような姿勢をとり続けているせいか、肩こりがひどいです。これをどうにかしたい。


で、気になっているのが「ゆる体操」。いろんなところで「いいよ」と聞くので、自分もやってみましたが、うまくできずにいます。ネットで調べてやっているのですが、そのようなせこい考え方がいけないのでしょうか。本やビデオでも買おうかなあと思い悩む日々です。


献本

職業柄かどうかはわからないが、毎日DMも含めていろいろな郵便物が届く。


そして今日もまた、その中に書籍小包が。また誰かが研究書かテキストを出版したようだ。


そこでいつも悩むのは、お礼状を出すに当たって、どれだけ目を通すかということだ。


こちらが送った場合、これから読ませていただくという人もいるが、内容に踏み込んだコメントを添えてくれる人もいる。しかも、そのいずれものパターンであっても、数日の間に礼状が届くのだ。前者の場合なら納得できる。まあ、後者の場合も、ざっと読んだだけかもしれないが、さすが研究者、結構ポイントを突いてくるよなあ、と思うことが多い。


自分も前者を目指していたが、どうも本を読むペースが遅くなったみたいで、コメントを添えようと思ったらすぐにお礼状を出せない。そんな本が何冊もたまることもある。今も机にそんな本が数冊。


さて、今日はこれから抱えている原稿を書くべきか、明日の講義の準備をすべきか、これらの本を読むべきか、いっそのこと寝てしまおうか。

新聞の一面に載る方法

今日もまた、くだらないネタですが・・・。


昔、将来大物になる例えとして、「新聞の一面に載る」などと言ったものだが、それに対して、「そんなの簡単だよ。大事件を起こせばいいんだから」というあまり洒落にならないジョークがありましたが、とある日の同僚の会話。


A「そういえばB先生、昨日の日経の一面に先生の出ていましたね。」


(自分:???昨日、B先生の記事が何か出ていたか。なにか凄い研究でもしてたっけ?)


B「ああ、あれね。前のが古くなったから、改訂したんだよ。」


そう、新しいテキストの広告が出ていたという、全然おもしろくもない落ちでした。


でも、確かに新聞の一面に載ったことには違いない。研究で一面を飾ることは絶対と言っていいほどない自分も、この手を目指すことを誓ったのです(笑)。

オフィス・アワー導入を巡る議論

今の勤務先では、現在、週2コマ分のオフィス・アワーが義務づけられている。同業の方には説明不要と思うが、これは、学生からの質問に応対するために、研究室などに確実に居る時間であって、勤務時間ではない。


大学によってはアポイントメントを要求する場合もあるようだが、勤務先はアポなしを前提としたものである。

学生への教育を重視しようと言うことで導入していた訳だが、導入するまでには結構すったもんだがあった。


全体的に週に2コマ分は多いという意見が多数を占めていた。あとは、アポなしに対する反対意見も多かった。その際、アメリカの場合、アポなしは少なく、人気教授の場合、アポなしじゃあえない場合もあるが普通だ、なんてことも言われていたが、アメリカのやり方が常に正しい訳ではないと思うので、あまり説得力はないように思う。


その他の意見としては、理系の側からは、基本的にはいつも研究室にいるので、こんな時間帯をわざわざ設ける必要もない、という主張が多かった。


文系の人でも、基本的に研究室で仕事をしている人は、同様の主張をしていた。


おもしろいのは、元々、担当する講義のノルマがあり、それ以外に2コマも拘束することになるので、これをノルマに入れろ、もしくは増担手当を出せ、という主張である。自分は講義のない日は自宅派なので、心情的にはこちらに賛成したかったのですが(笑)、教育重視という昨今の流れを思うと、さすがにおおっぴらに賛成できませんでした。

こんな講義をしてみたい?(2)

余談ですが、ジャンルを変更してみました。


下のエントリーのように、さすがに、一回も講義をしないのはまずいので、これぐらいではどうでしょう。


学生が予習をしているのを前提として、開始時点から、


「さあ、今日の分で質問ありますか?」


と入り、質問があれば応えるという形です。もちろん、質問が一つもなければ、


「じゃあ、皆さん理解できている訳ですね。では、今日はこれで終わります。」


と、帰ってしまう訳です。え、こっちが本来の目的でないかって?いえいえ、そんなことはありません。一方通行の講義をやめたいだけなんです。


予習をしっかりやってきているという前提自体非現実的ですけどね。自分の学生時代を振り返っても予習はしていなかったし。でも、自分の担当している講義の一部では、せめてもの試みで、質問や意見等を平常点に組み入れています。でも、授業評価アンケートによると、「自分が言おうと思っていた質問を先にされたので、発言できなかった(から、不公平なやり方だからやめて欲しい)」という不満もあって、なかなかうまくいきません。


大学院ぐらいでは実現できないかなあ。

こんな講義をしてみたい?(1)

ちょっとねた切れ気味なので、夢物語を。


昔、大学関連のネットニュースで読んだ話なので、信憑性は定かではありませんが、こういう講義があったとのこと。


その大学では有名らしく、その先生は、毎回最初の講義でこういう発言をするのだそうです。


「単位はあげますから、講義にこないでください。」


皆、この名言(?)を聞きたいらしく、教室はあふれんばかりの人、人、人。


で、本当に講義はしないで、単位を出すそうです。


本当に夢のようなお話。

講義のネット配信に著作権の壁?

つい先日、大阪大学、京都大学、慶應義塾大学、東京工業大学、東京大学、早稲田大学が日本オープンコースウエア(OCW)連絡会(http://www.jocw.jp/ )を設立し、講義情報をインターネット上で無料で公開し始めたとのニュースがあった。これに関するエントリーは色々なブログで取り上げられているが、昨日、日経で読んだニュースには今まで気にもしなかったことが書いてあった。



講師が他人が書いた教科書を使って行った講義を配信すると著作権侵害に当たる可能性があるといわれている。


「『講義』の配信前 内容確認可能に」日本経済新聞2005年5月25日より(このエントリー執筆時点では、ネットでこの記事を読めなかった。)


専門家にとっては当たり前なのかもしれないけれど、これは本当に意外。こんなところで著作権侵害が生じるとは。通常の講義は関係なく、あくまでも、ネット等で配信した場合なのだろうけど。こう考えると、放送大学のテキストがすべてオリジナルであるのも納得できる。使用した教科書の執筆者に許可を得ればよいのかもしれないけれど、著作権料を支払わなければならないなら、無料で公開できなくなるしなあ。


ちょっと話はずれるかもしれないが、大学教員が書籍等を書いた場合、アメリカでは、印税も大学に召し上げられるケースもあるらしい。論文執筆時の盗用、剽窃はもってのほかだが、これからはもっと著作権などを意識しなければならないのだろう。同僚が、市販の問題集をコピーして小テスト等に利用しているケースをよく見る。このようなケースも著作権侵害だろうな、とは思っていた。そして、これまではある意味大目にみられていたのかもしれないが、これからはそうはいかなくなるのだろう。