「学生の暗黙知」
たまには新聞ネタから。
日経新聞の毎週月曜日には、教育関係の記事やコラム等が掲載される。その中に、耳塚寛明・お茶の水女子大教授の「まなび再考」というコラムがある(日経NETでは読めないようです)。
2005年5月23日(月)に掲載された
壊れた「学生の暗黙知」 「学校化」する大学
は、思わずうなずいてしまった。出だし自体は、JR西日本の件の脱線事故にふれ、安全優先が「暗黙知」では無くなったという問題を指摘し、この「暗黙知」に関する学生の変化に続けている。そして、具体例として、こう指摘する。
ゼミは休まない、報告者はレジュメを作成する、専門用語は調べる、重要な参考文献は漁(あさ)る。こうした、「学生の暗黙知」として教える必要のなかったことがらをひとつひとつ指示しなければならない。
(中略)
暗黙知として意図せずとも習得されてきた「まなびの基礎」の、どこが、なぜ、壊れてしまったのだろう。
今回は、思わずうなずいてしまった。もちろん、大学によってゼミの在り方は違うだろうし、文理でも違うかもしれない。
偶然かもしれないが、自分の学生時代も、今勤務している大学でも、ゼミは学年を超えて合同して行っている。そこで、自然と先輩から後輩へ伝えられるものだってあるはずなのに、今の学生は、どうも縦のつながりが希薄だ。言葉や文書だけでなく、先輩の姿を見て後輩に伝えることもあるだろう。しかし、そういう感じは年々なくなっていくような印象である。
自分の場合がすべてではないが、学生生活でゼミが占めるウェイトは非常に大きかった。講義はさぼっても、ゼミはさぼらない。周りもそんな感じだった。でも、今はゼミも講義と同じ1コマでしかないようだ。
勤務先でも、厳しいと評判のゼミには毎年それなりの志望者がいる。端から見ていても本当に熱心だと思う先生も多い。だから、大学も学部も、学生を満遍なく底上げしようなんて考えないで、意欲のある学生だけをのばすことを考えればいいのに、と思うのは自分だけだろうか。大学間では、たとえば、COEなど研究面での傾斜配分方式が導入されつつある。大学内でだって、学部間だけでなく、同一学部内でも傾斜配分方式で資源を集中投入してはいけないのだろうか。