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富岡製糸場を訪ねた翌日は、

軽井沢星野エリアで夫とのんびりと対話の時間をとりました。

 

私の大好きな史跡巡りをしたわけではありませんが、

なかなか楽しいエリアだったので

ちょこっとまとめておこうと思います。

 

 

<避暑地・軽井沢は明治時代から>

軽井沢といえば、避暑地・別荘地というイメージ。

避暑地としての歴史は、明治にはいってから定着したようです。

 

明治19年、カナダ人宣教師A.C.ショーが避暑のため軽井沢を訪れます。

2年後、ショーは軽井沢初の別荘を建てます。

 

明治27年に軽井沢初の西洋ホテル「亀屋ホテル」(現:万平ホテル)が開業。

※亀屋ホテルの起源は、明和元年(1764)開業の旅籠「亀屋」

 

その後続々とホテルが開業し、軽井沢は日本三大外国人避暑地に。

※残りの二つは、長野県信濃町/野尻湖 宮城県七ヶ浜町/松島

 

明治時代、開国後の日本で

外国人(商人・宣教師等)が外国人避暑地を国内に造ったのが

避暑地の始まりとされるそうです。

 

 

<浅間根腰の三宿>

じゃあ、江戸以前の軽井沢ってどうだったんだろう?

と調べてみて出てきたキーワードは「中山道」。

 

中山道は、江戸五街道の一つ。

江戸・日本橋と京都・三条大橋をつなぐ街道です。

 

日本橋から始まる中山道は、

上野(群馬)・信濃(長野)・美濃(岐阜)・近江(滋賀)

と内陸を通り抜け京都・三条大橋に至ります。

 

中山道といえば、

「文久元年(1861) 、皇女和宮が14代将軍・徳川家茂へ降嫁する時に通った街道」

とか

「文久3年(1863)、壬生浪士組が京都へ上洛する際に通った街道」

という

私的には萌える道w

 

 

江戸から18番目の軽井沢宿は、群馬から長野県への入り口となる宿場。

険しい山道をのぼる碓氷峠を超えた先にあります。

峠の頂上では、関東平野や富士山を見渡すことができたといいます。

 

この軽井沢宿が、現在の旧軽井沢銀座

旧碓氷峠は遊歩道があるようですし、軽井沢観光会館の近くが本陣と脇本陣だったようです。

 

 

19番目の沓掛宿は、現在の中軽井沢

中軽井沢駅の近くには本陣・脇本陣跡があります。

 

 

20番目の追分宿は、ガイドブックには追分・借宿エリアと表示されます。

中山道の宿場では最も標高が高く、北国街道との分岐点で、

参勤交代の大名や善行寺参詣の旅人でにぎわったといいます。

ここも本陣・脇本陣跡や、高札場跡などがあります。

 

ちなみに、21番目の小田井宿は小さな宿場でしたが、皇女和宮が本陣に立ち寄っています。

その時給仕した少女が、和宮から童子の人形を拝領したことを再現したお祭りがあり、有名なんだとか。

 

軽井沢宿、沓掛宿、追分宿の3つの宿場は「浅間根腰の三宿」と呼ばれ、

現在のいわゆる軽井沢エリアに該当します。

 

 

そうか。軽井沢は宿場町だったのか。納得。

雄大な浅間山を望みながら、実際に歩いてみるのも楽しそうです。

 

さて、ここまでまとめて書いてみたものの…

私、史跡にいってないですから (。+・`ω・´)キリッ

 

次に軽井沢を訪れたときは行きたいな~と思っているので、

その時に調べなおしたくないから、メモとしてまとめてみました!

 

 

<星野エリアの歴史>

さて、肝心の星野エリアです。

 

大正4年(1915)に星野温泉が開湯します。

草津温泉に逗留した人が仕上げ湯として利用していたといいます。

 

この温泉の掘削を明治37年に始めたのが、

軽井沢に隣接する佐久で生糸業を営んでいた星野国次

 

私たち夫婦も日本各地でお世話になることが多い、星野リゾート。

その初代経営者です。

 

大正3年に星野温泉旅館を開業したのが、星野リゾートの始まり。

 

富岡製糸場の記事で書きましたが、長野・群馬あたりは養蚕・製糸業が盛んでした。

まさかここでつながるとは思っていませんでしたがw)

 

大正10年(1921)頃になると、内村鑑三与謝野晶子北原白秋島崎藤村など、

当時の文壇を代表する文人たちがこの地に逗留します。

 

 

<現在の星野エリア>

現在の星野エリアは

 ・軽井沢高原教会

 ・石の教会 内村鑑三記念堂

 ・ホテルブレストンコート

 ・星野温泉

 ・ピッキオ(野鳥の森)

 ・ハルニレテラス

といった施設で形成されています。

 

偶然目に飛び込んできた「ハルニレテラス」に寄ったのがきっかけで、

当初は星野リゾートだとはつゆ知らず。

 

1日ゆったり滞在して楽しめる場所だと思いました。

夫も「ここ、ええなぁ」といって満喫しておりました。

 

食事兼打ち合わせで足を運んだので、教会があるエリアには足を踏み入れませんでしたが、次回はぜひ行きたい。

 

▼現在の星野温泉「とんぼの湯」

夫とじゃんけんして負けたので、立ち寄ることになったのですが…

入浴料は大人1300円。

タオルとか借りたら、一人2000円弱。

立ち寄り湯としてはお高めですが、手ぶらでいけます。

 

中は清潔感もあり、洗い場も多かったです。

清掃員がずっと何かしらのお仕事をしていて、私的には高評価。

女性はメイク道具さえあれば完璧。

ピッキオの帰り道で、私は本当に財布しかもっていなかったので、顔を死守して入浴w

 

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▼ハルニレテラス

100本以上のハルニレ(春楡)の樹と湯川が流れるテラスが広がります。

雑貨屋からレストランまで20弱の店舗が軒を連ねています。

散歩にちょうどいい広さです。

 

湯川のせせらぎを聞きながら、ナガイファームのジェラートをいただきました。

雰囲気、空気のすがすがしさ、せせらぎの音、味は◎。

でも虫がそれなりにいますorz

 

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▼ピッキオ 野鳥の森ビジターセンター

ハルニレテラスから歩いて10分程。

100haの国設の野鳥の森に面したビジターセンターです。

ここでは様々なエコツーリズムに申し込めるようです。

 

空飛ぶムササビウォッチングツアーのムササビが可愛すぎて、

写真につられてここまで行きましたw

 

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ここでは「特別天然記念物・カモシカに出会うトレッキング」が9月~10月に開催されています。

他にも「たき火カフェ」とか「たんけん!はじめての森」といった子供向けトレッキングとかもありました。

 

ビジターセンターの中にはクマやキツネのはく製(たぶん)や書籍が展示されています。

 

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センター内には「イカルカフェ」が併設されています。

小さなテーブルには野鳥を観察できるよう双眼鏡がおいてあります。

 

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レジで「コーヒー1杯プリーズ」っていうと、いいことあるよって書いてあったので、

注文後そっと呟いてみました。

 

コーヒー1杯プリーズ? ←注文じゃないからね!っていう目をして不安げに呟いた

 

そしたらイカルのクッキーをいただきましたw

 

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このカフェの名前になっている「イカル」という鳥の鳴き声が

「コーヒー1杯プリーズ」と言っているように聞こえるのです。

 

店員さんが動画を見せてくれたのですが、

ほんまやー!と、私感動!!

 

野鳥の森にはイカルもいて、

4月下旬~5月中旬、野鳥の恋の季節にはその鳴き声がよく聞こえるそうです。

 

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<白糸の滝>

星野エリアの近くにある、白糸の滝にも足を運びました。

 

有料道路を通って、

無料駐車場に車をとめて、

いくつかある売店の横を通って、

せせらぎの音を聞きながら細道を歩くと

 

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白糸の滝に到着。

 

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高さ3m、幅70mの岩肌から地下水が流れ出ています。

湯川(ハルニレテラスの横を流れていた川)の水源にあたります。

 

キャプションによると

浅間山に降った雨が地下浸透し湧き出るまでに6年ほどかかるそう。

火山活動に伴う地熱の影響で、水温は11.8度。

 

春らしい風景が広がっていて、

ちょっとした寄り道にはいいマイナスイオンスポットでした。

 

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予想外に楽しかった軽井沢・星野エリア。

そして、次は絶対に街道まわりを攻めようと思います( ゚∀゚ )

 

軽井沢は 避暑地 宿場町!

 

ちなみに赤報隊関連の史跡も近くにあるようです。

 

え?赤報隊?なにそれ?

って方は、とりあえず、るろうに剣心をお読みください。

 

<おわり>

 


テーマ:

前回に引き続き、富岡製糸場訪問の記録です。

たぶん長くなるよ~( °∀° )/


前回の記事では、

 ・生きてる虫の展示は遠慮したい

 ・新選組が切りあいで大変だった頃、日本が抱える貿易問題も大変だったんだよ

 ・そうだ!外貨は生糸で儲けよう!

ってなことを中心にまとめました( *¯ ³¯*)♡


今回は

 ・どうしても幕末事情を確認したくなるんだ

 ・フランス人は生き血がお好き?

 ・え、これが無料!?素晴らしきサービスとは

の3本でお送りします( *¯ ³¯*)♡

 

 

◇世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」

 

<富岡製糸場に関わった人々 その1>

設立指導者として製糸場の建設前から携わったのが

横浜の商館で生糸の検査人をしていた

フランス人フランソワ・ポール・ブリュナです。


伊藤博文渋沢栄一がフランス公使館員や商人に相談したところ、

推薦されたのがブリュナでした。(赤煉瓦物語 斎田朋雄著)


ブリュナは明治3年(1870)6月に「見込み書」(製糸場設立および経営の計画書)を明治政府に提出。

政府と仮契約を結び、建設地の選定にも同行します。

同年11月、明治政府と正式に雇用契約を締結しました。


彼はフランスから技術者を雇い入れしたり、

日本人の体格に合うように改良した洋式器械を注文、取りよせなどのため

明治4年(富岡製糸場の建設中)一度フランスへ帰国しています。

 

同年、日本へ戻ってきますが、その時に契約した技術者とともに

帰仏した際に結婚した18歳の妻も連れてきています。


彼は1840年生まれだから、明治4年当時で31歳。

外国で一人暮らしはさみしいと思ったのかな?

 

ブリュナが家族と暮らしていたコロニアル様式の「首長館」は、

現在、重要文化財となっており、中に入ることはできません。


床が高く、建物の四方にベランダが回り、窓にはよろい戸がついています。

ブリュナが去った後は、工女の寄宿舎や教育・娯楽の場として利用されました。

 

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wikiによると、ブリュナの年俸は9,000円。

一般的な日本人職工の年俸は74円。


雇われフランス人としては、

横須賀製鉄所のレオンス・ヴェルニーが受け取っていた年俸10,000円に次ぐ金額。


明治7年(1874)7月に大久保利通が、同年8月には伊藤博文

三条実美に契約の中途解約を進言しているそうです。


ちなみに…

明治前半と後半では通貨の価値も変わりますが、参考までに調べてみたら

「明治時代の1円は、今の3800円ぐらいに相当する」

とう記事を見つけました。

 

明治8年12月、ブリュナは雇用契約の満了を迎え、

明治9年(1876)2月、家族とともに帰仏しました。

 

 

<富岡製糸場に関わった人々 その2>

主要な建造物の図面を引いたのは、

フランス人技術者、エドモン・オーギュスト・バスティアンでした。


明治3年(1870)12月、ブリュナの要請からわずか50日で設計図を完成させます。


これだけのスピードで完成できた理由は、舟工兼製図職として勤めていた木造レンガ造りの「横須賀製鉄所」の設計図を参考にしたからだといわれています。


富岡製糸場が操業を開始した年である明治5年7月まで

土木絵図師として月給125ドルで雇用されました。


--- 横須賀製鉄所 ---

慶応元年(1865)、江戸幕府フランス人技師を招き、横須賀製鉄所を開設

(バスティアンの雇用契約日は慶応元年12月3日)

その後造船所とするため拡張に着手しますが、大政奉還を迎えます。


明治政府オリエンタル・バンクから貸付を受け、

ソシエテ・ジェネラルに対する旧幕府の債務を返済。

横須賀製鉄所を接収し、明治4年に横須賀造船所へ改称します。


なお、ソシエテ・ジェネラルは現在もあるフランスのメガバンク

慶応2年(1866)、3500万フラン(当時)の借款契約が結ばれており、

江戸幕府はこの借金で軍備を増強します。

返済は生糸や茶の輸出で儲けたお金を充てるため、

輸出は全てソシエテ・ジェネラルを経由したといいます。


一方のオリエンタル・バンクはイギリス領インド帝国にあった銀行で、

香港で最初の銀行でもありました。

1893年に倒産するまで日本国債を積極的に引き受けています。

 

要は、フランスの銀行の担保からイギリスの銀行の担保に変わったわけですね。


横須賀造船所はその後多くの軍艦を製造しました。

第二次世界大戦後、現在も在日米軍基地となっています。

-------------------

 


<富岡製糸場に関わった人々 その3>

明治政府で民部省の役人だった尾高惇忠(おがたあつただ)
政府側の責任者としてブリュナとともに富岡製糸場の設立に尽力しました。

また初代場長となり、娘の勇を「第1号工女」として入場させています。


文政13年(1830)に武蔵国榛沢郡下手計村に生まれ、

7歳のころ神道無念流を学び、

弘化4年(1847)から幕末まで自宅で尾高塾を開き、近隣の子弟に学問を教えました。

 

ここに7歳のころから学びに来ていたのが渋沢栄一です。

尾高は渋沢栄一に論語を教えた学問の師にあたります。


尾高の妹、千代は渋沢栄一の妻となります(1858)から、彼は渋沢栄一の義兄にあたりますね。


文久3年(1863)、尾高と渋沢栄一は高崎城を乗っ取っり武器を手に入れ、

横浜を焼き討ちにした後、長州と連携して倒幕するという計画を立てますが、

尾高の次弟・尾高長七郎(水戸藩士による坂下門外の変の一味として追われていた過去あり)

により説得され、断念しています。

 

この時の尾高は水戸学に感化され尊王攘夷思想を抱いていました。

 

その後、渋沢栄一が徳川慶喜に仕えるようになると、佐幕派へと考えを変えていきます。

なんと、彰義隊にも加わっていました( ̄□ ̄)!!

 

彰義隊とは鳥羽・伏見の戦いに負け、京都から江戸へ戻った徳川慶喜が、

恭順の意を示し上野・寛永寺に蟄居した時の警護等を目的に組成された部隊です。


彰義隊の結成当初、頭取を務めた渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)とともに、

慶応4年(1868)2月23日に尾高は上野彰義隊結成に参加しています。

(※徳川慶喜が上野寛永寺に蟄居したのが2月12日)

この時、尾高の末弟で渋沢栄一の養子・渋沢平九郎も彰義隊に加わっています。


慶応4年(1868)4月11日に江戸城は無血開城し、慶喜は水戸へ移ります。

渋沢成一郎は上野からの撤退を主張するも、

彰義隊 副頭取・天野八郎との対立が発生し、彰義隊を脱退します。

尾高と渋沢平九郎もこれに同行。


その後、渋沢成一郎は有志で振武軍を結成し、尾高らとともに隊士を集めています。

結局、上野戦争で負けた彰義隊を吸収し隊は膨れ上がりますが、飯能で新政府軍に敗戦。


渋沢成一郎は秩父谷へ、尾高は伊香保へ、渋沢平九郎は故郷・下手計村を目指して逃亡。


末弟・渋沢平九郎は黒山(埼玉県入間郡)にて捕縛され、自刃します。(享年22歳)

同年、次弟・尾高長七郎も病気のため他界しています。

 

渋沢成一郎箱館へ転戦し、榎本軍に合流します。

明治2年5月に榎本軍の降伏とともに、投降。

江戸辰ノ口糾問所から出獄したのは明治5年でした。

のちに東京株式取引所の頭取を務めたりと、実業家として活躍します。

 

尾高はというと、無事に逃げ延びたのでしょう。

明治2年(1869)12月の「備前渠取入口事件(びぜんきょとりぐちじけん)」で

地元農民の先頭に立ち事件解決に関わったようです。

 

これを縁に明治政府に招かれ、民部省へ入り、富岡製糸場の設立にかかわっていきます。

ちなみにこの時、尾高惇忠は41歳。

 

明治9年(1876)、場長の職を退きます。

その後は渋沢栄一に依頼され、第一国立銀行 仙台支店支配人を務めました。

 

 

<富岡製糸場に関わった人々 その4>

富岡製糸場の建設は、

明治政府の大蔵少輔であった伊藤博文

大蔵省租税正の渋沢栄一が担当となり、計画が進められました。

 

伊藤博文は長州藩士

その他説明は、有名だから割愛。

 

渋沢栄一のは幕臣

実家は豪農ですが、一橋(徳川)慶喜に仕えたことにより、

慶喜が15代将軍となると幕臣となりました。

大隈重信(佐賀藩士)に説得され、明治政府に仕官します。

 

渋沢栄一は農家出身だったことから蚕桑に詳しく、

富岡製糸場設置主任として尾高惇忠らと共に建設に尽力しました。

 

操業を開始した翌年の明治6年(1873)、渋沢栄一は大蔵省を退官。

その後は第一国立銀行設立をはじめ、実業界で功績を残します。

 

 

<ここで、思ったことは…>

フランス人指導者ブリュナは、1840年生まれ。

建築図面を引いたバスティアンは、1839年生まれ。

伊藤博文は1841年、渋沢栄一が1840年、尾高惇忠は1830年生まれ。

詳しく取り上げなかったけど、建築資材の準備で活躍した韮塚直次郎(にらづかなおじろう)が1823年生まれです。

 

官営製糸場設立の議を決した明治3年当時、

30歳前後の男達が中心となってこの計画を進めていたのです。

 

展示室では彼らの写真キャプションに当時の年齢が添えられていました。

 

夫 「やっぱり30歳前半で、こういう大きな仕事をせなあかんよな。」

私 「せやな。30代は20代で準備したものを成果に繋げる歳やな。」

(前半っていうと私はもう過ぎ去ったからな…30代って言わせておくれ…)

 

私にとって40代はまだ未知の世界。

ならないとわからないことはたくさんあるだろうけど、

一つの目安として、論語にあるように「四十にして惑わず」を目指すには、

いかに30代でこれまで培ってきたものを総動員して経験を積むかが大切だと思います。

 

夫と話しながら「夫に負けてられないな」と思ったことを忘れないように、ここに記録しておきます(`・ω・´)ゞ

 

 

<官営期の工女>

明治5年2月、明治政府は15歳~25歳の女性を伝習工女とする募集の通達を出します。

しかし、なかなか人が集まりませんでした。


理由は「生き血をとられる」から( ̄□ ̄;)!!

そりゃぁ、行きたくはないなw


人々がフランス人の飲むワインを血と思いこみ、

「富岡製糸場へ入場すると、外国人に生き血を取られる」

というデマが流れたためです。

 

政府はこれを打ち消し、製糸場建設の意義を記した「告諭書」を何度も出しました。


また初代場長・尾高惇忠は範を示すため、

14歳の娘の勇「第1号工女」として同年7月に入場させています。

 

結果、当初7月の予定だった操業は、10月4日にずれ込みました。

 


結局、工女は群馬以外にも、埼玉、長野、北海道、山口など全国から集まりました。


彼女たちは寄宿舎で生活し、寝具や食事は支給され、毎日入浴できました。

1日の平均勤務時間は7時間45分

休憩時間は体操をするように指導され、医療費は無料

日曜日は休日


繭の選別を習得してから、

繰糸場でフランス人女性技師の指導のもと繰糸作業の習得に入ります。

給与は能力給で、技術が優れていれば誰でも一等工女になれました。

(一等>二等>三等>等外工女)


明治初期にあって労働環境は先進的であったといえます。

 

現在でいえば、国からお給料をもらっているので公務員になるのかな。

女子のための寄宿工業専門学校といった色合いも強いですね。


当時の様子は、工女・横田(和田)英による「富岡日記」で知ることができます。

 


一方、明治・大正期の工女といえば、女工哀史あぁ野麦峠のイメージがあります。

製糸業が工業化していくなかで、劣悪な労働環境で長時間労働を強いられる工女たちという社会問題があったといわれています。

 

訪問前の事前学習時に

「富岡製糸場=女工哀史のイメージがあったけどなんだか違うようだ?なぜだ?」

と思いネットを巡回。

 

結果的に官営時代の富岡製糸場はホワイト企業だったということだと、個人的に理解しました。

 

 

明治26年(1893)

富岡製糸場は三井家(銀行部)に払い下げられ「三井富岡製糸所」となります。

生産規模の拡大により、繰糸器や工女の数が増やされ、第二工場・寄宿舎が増設されました。

 

明治35年(1902)

原合名会社に譲渡され「原富岡製糸所」となります。

蚕の改良を行う施設が建設されました。

(明治42年 日本の生糸生産・生糸輸出量が世界一になります)

 

昭和13年(1938)

「株式会社富岡製糸所」として独立。

 

昭和14年(1939)

片倉製糸紡績株式会社(現:片倉工業株式会社/証券コード3001)と合併し「片倉富岡製糸所」に。

繰糸機の大型化、自動繰糸機の導入が行われます。

(昭和40年 生糸の年間生産量が最大になります)

 

昭和62年(1987)

操業を停止します。

以後、片倉工業により管理・保存されていましたが、

平成17年に国指定史跡となり建造物が富岡市に寄贈されました。

 

115年間の操業のうち、官営時代は約21年。

民間の経営になってからの工女の様子がわかる展示は、駆け足で見学しせいかもしれませんが、みあたりませんでした。

 

 

<富岡製糸場の建築について>

富岡製糸場は「木骨煉瓦造(もっこつれんがぞう)といわれる

木材で骨組みを造り、壁の仕上げに煉瓦を用いる西洋の建築方法がとられています。


木の柱に、煉瓦の横幅×深さ15mm程度の欠き込みをし煉瓦を納めており、

短期間で建設されたものの、柱がゆがんだり大きな割れが出なかったのは、

この欠き込みのおかげかもしれないそうです。


煉瓦の積み方は「フランス積み」

(他にはイギリス積み、ドイツ積み、長手積みなどの積み方があるそうな)

 

創業時の日本にはまだ電灯がなかったため、

自然光を取りいれるためのガラス窓がたくさんあります。


▼東置繭所

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「繰糸所」には、創業当初フランスから輸入した300釜のフランス式繰糸器が設置されていました。

現在は昭和62年の操業停止まで使われたニッサン製の自動繰糸機が保存されています。

 

▼繰糸所にあるニッサン製の自動繰糸機

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「診療所」は当初病院といわれ、フランス人医師が治療に当たっていました。

官営時代は治療費・薬代を工場が負担しています。

現存するのは昭和15年に建てられた三代目の診療所。

民間に払い下げられたのちも、厚生面は充実していたと考えられます。

 

▼三代目の診療所

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他には…


▼工女の寄宿舎(明治29年)

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▼民営化後の社宅(明治29年)

三井期に建てられたもので、片倉経営時代は工場長や総務課長、原料課長、工務課長とその家族が住んでいました。

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▼行啓記念碑(昭和18年)

明治6年の皇后・皇太后の行啓記念の碑

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<富岡製糸場を見学するなら>

訪問時の事前学習時に富岡製糸場のHPをくまなく巡回。

その時に見つけた「これいいやん!」をご紹介しておきます。

 

http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/visit/guide.html

 

1:スマホで音声ガイド

解説員によるガイドツアーはなかなか面白いらしいです。

以前にここを訪れていた歴友Kが、薦めてくれました。

 

だがしかし!

夫がのんびり1時間もガイドを聞いていられるはずがないと予想した私。

そこで事前学習し、当日は最小の時間で巡回するつもりでした。

 

そんな私に朗報だったのが、スマホで音声ガイドをきけるというサービス

しかも!無料

 

現地で音声ガイドを借りると200円。

ガイドツアーも200円。

スマホなら無料!!(←大切なので二度書きました)

 

これはおすすめですよ~。

家でQRコードを読み取って、ブックマークしていくとスムーズ(。+・`ω・´)キリッ

 

 

2:見学補助資料のダウンロードサービス

事前学習に最適。

基本的な内容・建物の配置が先にインプットできるので、

当日はキャプションの細かいところに目を走らせればOK(。+・`ω・´)キリッ

 

 

3:小中学生向けのワークシートのダウンロードサービス

生涯学習の補助資料として、ダウンロードできるようになっています。

中学生向けで十分基本は押さえられるので事前学習にこれまた最適。

 

私が学校の先生なら、活用しないなんて損!

お子さんと一緒に見学されるご両親にもぜひ活用していただきたい一品です。

 

もちろん虫と魚にしか興味を示さない夫と

見学を余儀なくされたあなたにもおすすめです(。+・`ω・´)キリッ

 

4:東置繭所内の展示にある資料一式

こちらは現地で集めた資料です。

 

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読みやすい分量で、キャプションの内容をフォローしてくれています。

中でも横田英の「富岡日記」の内容をまとめてくれているものが、面白かったかな。

 

<要約>

ブリュナ夫人はめっちゃ美人。

ブリュナ氏と手を引きあって1日おきに繰場を歩むのが日課。

毎度服装は見事だけど、皇太后と皇后が視察に来たときは目が驚いたよね~。

 

とか

 

寄宿舎でさ、(鬼)火みちゃったんだよね~。

あれ、まじで怖くてやばかった。

 

といった内容が書いてありました!

 

 

ということで、富岡製糸場のレポートは以上です。

 

見学される方は、事前学習していけば、その分楽しめる場所になっていると思います。

何も知らずに行くと、「予想外に狭いな」という印象で終わってしまう可能性がございますのでご注意くださいw

 

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<おわり>


テーマ:

「どこかへ行きたい」
と、駄々をこねる私に夫が付き合ってくれたので、
先日、軽井沢方面へ行って参りました。

 

予想外に仕事の話が進んだので
「駄々をこねてみるのもいいもんだ」
と思った次第ですw

 


私の「今年訪れたい場所リスト」にあげていた1つ
世界遺産「富岡製糸場」へも足を運んだので、
記録がてら久しぶりにブログをアップしようと思います。

 

 

◇世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
群馬県は古くから、養蚕・製糸・織物といった絹産業が盛んで

文化遺産が数多く残っているそうです。

 

そのうち

 

・富岡製糸場(富岡市)

・田島弥平旧宅(伊勢崎市)

・高山社跡(藤岡市)

・荒船風穴(下仁田ねぎで有名な下仁田町)

 

の4つを構成資産とする「富岡製糸場と絹産業遺産群」が

平成26年に世界遺産となりました。

 

今回、私が訪れたのは富岡製糸場だけですが、

絹産業について興味のある方は全部廻られる価値があると思います。

 

高速を降りて20分もかからず現地に到着。

駐車場は歩いてよければ無料のものがありますし、

近くにも有料のものがいくつかありました。

 

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<富岡製糸場とは>

明治5年(1872)に設立された官営の模範製糸工場です。

 

明治政府により建設され、

全国から集められた工女が

フランス人から洋式の器械製糸技術を学びました。

 

西洋式の近代的な設備を整えた製糸工場のモデルとして建設され、

工女たちは技術習得後、それぞれの故郷で指導者となりました。

 

 

<製糸と生糸と絹糸>

「製糸」とは、繭から生糸をとること。

 

カイコ(桑が大好きな家畜化された昆虫)がさなぎになるときに、糸をはいて作る繭(まゆ)

この繭を煮て、繭糸を引き出し、数本をまとめて1本の生糸にします

 

…つまり中のカイコは茹でられるということorz

 

繭糸はフィブロイン(全体の70~80%)とセリシン(20~30%)という

二種類のタンパク質からできています。

 

セリシンはフィブロインの周りを囲み糊の役目を果たしているのですが、

乾燥すると固り、お湯に溶ける性質を持っています。

そのため繭を煮て、フィブロインを取り出しやすくします。

 

生糸の状態ではまだセリシンが多く残っているため、

「精練」という生糸からセリシンを取り除く作業をすることで、絹糸となります。

 

生糸は絹糸として織物にするのが昔からの活用方法ですが、

最近は食べれたり、スキンケアに使われたり、医療用の縫合糸と様々な分野で活用されています。

 

うどんにシルクってどういうことだ?

と思っていたのですが、タンパク質(アミノ酸)だからか∑(-x-;)

とここで理解ができましたw

 

さて、従来の製糸は木製の「座繰り器」により

手動で糸を巻き取るというなんとも大変な作業でした。

大量生産はできず、品質も不揃いでした。

 

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富岡製糸場では蒸気エンジンで器械を動かし糸を巻き取る「フランス式繰糸器」を導入しました。

フランスから輸入したこの器械により、大量生産が可能になり、品質もそろうようになります。

 

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予め時間を調べていけば、これらの実演をみることも可能です。

茹で上がったカイコも…見れますよ。

 

夫は「釣りの餌や!」といって喜々としておりましたが、

私は目を細めて遠くから眺めました。

 

ついでにこの展示の奥には「生きてるカイコ」も展示されていました。

 

夫は「歴史は知らんけど、昆虫なら話は違うで!」といって喜々としておりましたが、

やはり私は目を細めて遠くから眺めました。

 

もちろん、自分の携帯に虫の写真を残したくなかったので、写真はとっていません!

 

▼繭を一定の大きさにそろえるための飼育室みたいなの

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▼「ぐんま黄金」の繭

天然でこの色なんだそうですよ。

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<養蚕>

原材料であるカイコを飼育することを「養蚕」といいます。

養蚕は古代中国から始まり、日本へその技術が伝わったのは弥生時代とされます。

 

農家の屋根裏で養蚕が行われている、というイメージが私は強いです。

例えば白川郷の合掌造り

養蚕に関する展示品が多数ありました。

過去の記事はこちらから

 

富岡製糸場以外の絹産業遺産群は、養蚕に関する遺産となります。

 

・田島弥平旧宅

「清涼育」という養蚕法を大成した田島弥平の旧宅です。

近代養蚕農家建築の原型。

 

・高山社跡

高山長五郎が確立した「清温育」という養蚕法の教育普及を行った高山社発祥の地。

日本全国だけでなく海外にも技術を広めた民間の養蚕教育機関でした。

 

・荒船風穴

夏でも内部は2℃前後の蚕種の貯蔵施設跡。

電気冷蔵技術が発達した昭和10年頃まで利用されていました。

従来は春1回しかできなかった養蚕が、年に複数回行えるようになったといいます。

 

 

<なぜ官営の製糸工場が建設されたのか>

さて、ここからが私的には本題ですw

 

明治政府は、維新後、富国強兵の政策を進めました。

「富国強兵」とは、経済を発展させ国力をつけ、軍隊を強くするということ。

 

明治政府で主導権を握ったのは、かつての尊王攘夷派ですが、

その政策は開国和親政策へと展開し、経済・武力・文化等の面で欧米列強の国をモデルに近代化を図っていきます。

 

明治政府は、外国に喧嘩をふっかけて負けたことのある長州や薩摩が主体となった政権です。

一度喧嘩して負けているからこそ、このままでは勝てない!どうやったら諸外国に国を植民地化されないか、を考えた結果の政策ですね。

 

欧米列強に支配されないためには、国力を上げる必要があります。

国力を上げるには「お金」が必要。

そこで着目したのが「生糸」です。

 

 

少し時はさかのぼり…

慶応元年(1865)の輸出入について、みてみたいと思います。

 

【貿易収支】

 輸出 約1850万ドル

 輸入 約1450万ドル

 ※慶応3年(1867)、輸入関税が20%から5%へ引き下げられたことにより、輸入超過へ逆転します。

 

【輸出品の内訳】

 生糸(繭・蚕卵紙含む) 84.2%

 茶 10.5%

 その他 5.3%

 

【輸入品の内訳】

 毛織物 40.3%

 綿織物 33.5%

 武器・艦船 13.3%

 その他 12.9%

 

【貿易相手国】

 イギリス 63%

 アメリカ 15%

 ※日本に開国させたアメリカは、1861年から南北戦争中。

 

ペリー来航が嘉永6年(1853)

日米修好通商条約締結が安政5年(1858)

池田屋事件や蛤御門の変が元治元年(1864)です。

 

慶応元年(1865)は第二次長州征伐など、幕末の争乱期です。

※新選組では山南敬助が切腹した年ですね。

 

修好通商条約締結後、貿易収支は増加していきます。

その中でも生糸は輸出品の中で圧倒的な割合を占めていました。

 

京都や長州で武力争いが起こっている中、

製糸業地域は、輸出増加の追い風に乗り工業制手工業的な産業が発展していきます。

一方、輸出ばかりされるため国内の生糸は不足し、西陣などの織物業地域は打撃を受けます

また、イギリスからの綿織物が安価に輸入されたため、綿作・綿織物地域が衰退しました。

 

ちなみに幕末のインフレは、この貿易における金銀の交換比率が原因とされています。

 

では、なぜ日本はこれほど生糸の輸出ができたのか?

 

当時ヨーロッパでは微粒子病(カイコの伝染病)が流行り、

繭や生糸、カイコの卵までが不足していました。

 

また生糸の大量輸出国であった清国が、アヘン戦争で負け、

生糸の生産が大幅に減ったからともいわれています。

 

ヨーロッパの絹織物産業は原材料不足となり、

生糸やカイコの卵の需要が増加しました。

 

日本の質の高い生糸は家内生産(座繰り器)でしたらから、生産量は限られています。

質の高い生糸の買い付け競争もおき、結果粗悪品が大量に市場に出回るようになります。

 

こういった背景のもと、品質のよい生糸を大量生産し、輸出することで外貨を稼げると判断した明治政府は、製糸工場に必要な土地・水・石炭・繭を確保できる富岡に官営の模範製糸工場を建設しました。

 

富岡製糸場は

「日本全国に器械製糸場を建設するモデル」

「各地で最新の技術を教える指導者(工女)の育成」

を目的とした官営模範製糸工場であり、

結果的に「日本が外貨を稼ぐ手段」を増やすことにつながりました。

 

実際に明治・大正と生糸は主要な外貨獲得源となります。

 

明治6年(1873)6月、富岡製糸場で生産された生糸が

ウィーンで開催された万国博覧会で2等賞を獲得します。

これにより、富岡シルクがヨーロッパで高い評価を受けることになりました。

 

明治13年(1880)頃までの主要輸出国はヨーロッパでしたが、

明治30年(1897)以降は、輸出生糸の60~70%がアメリカ向けとなります。

 

第一次世界大戦(1914~1918)では、ヨーロッパの養蚕業は壊滅的打撃をうけます。

その一方で日本の養蚕業はさらに発展を遂げました。

大正8~10年(1919~1921)には、アメリカ向けの生糸輸出が95%まで達し、

昭和5年(1930)には産繭額が最高になり、40 万トンに達します。

 

ですが第二次世界大戦後、繭生産の地位を中国に明け渡し、

現在では生糸輸入国(輸出最大国は中国)となってしまいました。

 

 

おっと、長くなった(恒例)ので、続きは次回に!

 

<つづく>

 

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