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  • 01Jul
    • 旅日記:長野県軽井沢町 軽井沢星野エリアの画像

      旅日記:長野県軽井沢町 軽井沢星野エリア

      富岡製糸場を訪ねた翌日は、軽井沢星野エリアで夫とのんびりと対話の時間をとりました。私の大好きな史跡巡りをしたわけではありませんが、なかなか楽しいエリアだったのでちょこっとまとめておこうと思います。<避暑地・軽井沢は明治時代から>軽井沢といえば、避暑地・別荘地というイメージ。避暑地としての歴史は、明治にはいってから定着したようです。明治19年、カナダ人宣教師A.C.ショーが避暑のため軽井沢を訪れます。2年後、ショーは軽井沢初の別荘を建てます。明治27年に軽井沢初の西洋ホテル「亀屋ホテル」(現:万平ホテル)が開業。※亀屋ホテルの起源は、明和元年(1764)開業の旅籠「亀屋」その後続々とホテルが開業し、軽井沢は日本三大外国人避暑地に。※残りの二つは、長野県信濃町/野尻湖 宮城県七ヶ浜町/松島明治時代、開国後の日本で外国人(商人・宣教師等)が外国人避暑地を国内に造ったのが避暑地の始まりとされるそうです。<浅間根腰の三宿>じゃあ、江戸以前の軽井沢ってどうだったんだろう?と調べてみて出てきたキーワードは「中山道」。中山道は、江戸五街道の一つ。江戸・日本橋と京都・三条大橋をつなぐ街道です。日本橋から始まる中山道は、上野(群馬)・信濃(長野)・美濃(岐阜)・近江(滋賀)と内陸を通り抜け京都・三条大橋に至ります。中山道といえば、「文久元年(1861) 、皇女和宮が14代将軍・徳川家茂へ降嫁する時に通った街道」とか「文久3年(1863)、壬生浪士組が京都へ上洛する際に通った街道」という私的には萌える道w江戸から18番目の軽井沢宿は、群馬から長野県への入り口となる宿場。険しい山道をのぼる碓氷峠を超えた先にあります。峠の頂上では、関東平野や富士山を見渡すことができたといいます。この軽井沢宿が、現在の旧軽井沢銀座。旧碓氷峠は遊歩道があるようですし、軽井沢観光会館の近くが本陣と脇本陣だったようです。19番目の沓掛宿は、現在の中軽井沢。中軽井沢駅の近くには本陣・脇本陣跡があります。20番目の追分宿は、ガイドブックには追分・借宿エリアと表示されます。中山道の宿場では最も標高が高く、北国街道との分岐点で、参勤交代の大名や善行寺参詣の旅人でにぎわったといいます。ここも本陣・脇本陣跡や、高札場跡などがあります。ちなみに、21番目の小田井宿は小さな宿場でしたが、皇女和宮が本陣に立ち寄っています。その時給仕した少女が、和宮から童子の人形を拝領したことを再現したお祭りがあり、有名なんだとか。軽井沢宿、沓掛宿、追分宿の3つの宿場は「浅間根腰の三宿」と呼ばれ、現在のいわゆる軽井沢エリアに該当します。そうか。軽井沢は宿場町だったのか。納得。雄大な浅間山を望みながら、実際に歩いてみるのも楽しそうです。さて、ここまでまとめて書いてみたものの…私、史跡にいってないですから (。+・`ω・´)キリッ次に軽井沢を訪れたときは行きたいな~と思っているので、その時に調べなおしたくないから、メモとしてまとめてみました!<星野エリアの歴史>さて、肝心の星野エリアです。大正4年(1915)に星野温泉が開湯します。草津温泉に逗留した人が仕上げ湯として利用していたといいます。この温泉の掘削を明治37年に始めたのが、軽井沢に隣接する佐久で生糸業を営んでいた星野国次。私たち夫婦も日本各地でお世話になることが多い、星野リゾート。その初代経営者です。大正3年に星野温泉旅館を開業したのが、星野リゾートの始まり。(富岡製糸場の記事で書きましたが、長野・群馬あたりは養蚕・製糸業が盛んでした。まさかここでつながるとは思っていませんでしたがw)大正10年(1921)頃になると、内村鑑三、与謝野晶子、北原白秋、島崎藤村など、当時の文壇を代表する文人たちがこの地に逗留します。<現在の星野エリア>現在の星野エリアは ・軽井沢高原教会 ・石の教会 内村鑑三記念堂 ・ホテルブレストンコート ・星野温泉 ・ピッキオ(野鳥の森) ・ハルニレテラスといった施設で形成されています。偶然目に飛び込んできた「ハルニレテラス」に寄ったのがきっかけで、当初は星野リゾートだとはつゆ知らず。1日ゆったり滞在して楽しめる場所だと思いました。夫も「ここ、ええなぁ」といって満喫しておりました。食事兼打ち合わせで足を運んだので、教会があるエリアには足を踏み入れませんでしたが、次回はぜひ行きたい。▼現在の星野温泉「とんぼの湯」夫とじゃんけんして負けたので、立ち寄ることになったのですが…入浴料は大人1300円。タオルとか借りたら、一人2000円弱。立ち寄り湯としてはお高めですが、手ぶらでいけます。中は清潔感もあり、洗い場も多かったです。清掃員がずっと何かしらのお仕事をしていて、私的には高評価。女性はメイク道具さえあれば完璧。ピッキオの帰り道で、私は本当に財布しかもっていなかったので、顔を死守して入浴w▼ハルニレテラス100本以上のハルニレ(春楡)の樹と湯川が流れるテラスが広がります。雑貨屋からレストランまで20弱の店舗が軒を連ねています。散歩にちょうどいい広さです。湯川のせせらぎを聞きながら、ナガイファームのジェラートをいただきました。雰囲気、空気のすがすがしさ、せせらぎの音、味は◎。でも虫がそれなりにいますorz▼ピッキオ 野鳥の森ビジターセンターハルニレテラスから歩いて10分程。100haの国設の野鳥の森に面したビジターセンターです。ここでは様々なエコツーリズムに申し込めるようです。空飛ぶムササビウォッチングツアーのムササビが可愛すぎて、写真につられてここまで行きましたwここでは「特別天然記念物・カモシカに出会うトレッキング」が9月~10月に開催されています。他にも「たき火カフェ」とか「たんけん!はじめての森」といった子供向けトレッキングとかもありました。ビジターセンターの中にはクマやキツネのはく製(たぶん)や書籍が展示されています。センター内には「イカルカフェ」が併設されています。小さなテーブルには野鳥を観察できるよう双眼鏡がおいてあります。レジで「コーヒー1杯プリーズ」っていうと、いいことあるよって書いてあったので、注文後そっと呟いてみました。コーヒー1杯プリーズ? ←注文じゃないからね!っていう目をして不安げに呟いたそしたらイカルのクッキーをいただきましたwこのカフェの名前になっている「イカル」という鳥の鳴き声が「コーヒー1杯プリーズ」と言っているように聞こえるのです。店員さんが動画を見せてくれたのですが、ほんまやー!と、私感動!!野鳥の森にはイカルもいて、4月下旬~5月中旬、野鳥の恋の季節にはその鳴き声がよく聞こえるそうです。<白糸の滝>星野エリアの近くにある、白糸の滝にも足を運びました。有料道路を通って、無料駐車場に車をとめて、いくつかある売店の横を通って、せせらぎの音を聞きながら細道を歩くと白糸の滝に到着。高さ3m、幅70mの岩肌から地下水が流れ出ています。湯川(ハルニレテラスの横を流れていた川)の水源にあたります。キャプションによると浅間山に降った雨が地下浸透し湧き出るまでに6年ほどかかるそう。火山活動に伴う地熱の影響で、水温は11.8度。春らしい風景が広がっていて、ちょっとした寄り道にはいいマイナスイオンスポットでした。予想外に楽しかった軽井沢・星野エリア。そして、次は絶対に街道まわりを攻めようと思います( ゚∀゚ )軽井沢は 避暑地 宿場町!ちなみに赤報隊関連の史跡も近くにあるようです。え?赤報隊?なにそれ?って方は、とりあえず、るろうに剣心をお読みください。<おわり>

  • 30Jun
    • 群馬県富岡市:世界遺産「富岡製糸場」その2の画像

      群馬県富岡市:世界遺産「富岡製糸場」その2

      前回に引き続き、富岡製糸場訪問の記録です。たぶん長くなるよ~( °∀° )/前回の記事では、 ・生きてる虫の展示は遠慮したい ・新選組が切りあいで大変だった頃、日本が抱える貿易問題も大変だったんだよ ・そうだ!外貨は生糸で儲けよう!ってなことを中心にまとめました( *¯ ³¯*)♡今回は ・どうしても幕末事情を確認したくなるんだ ・フランス人は生き血がお好き? ・え、これが無料!?素晴らしきサービスとはの3本でお送りします( *¯ ³¯*)♡◇世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」<富岡製糸場に関わった人々 その1>設立指導者として製糸場の建設前から携わったのが横浜の商館で生糸の検査人をしていたフランス人のフランソワ・ポール・ブリュナです。伊藤博文や渋沢栄一がフランス公使館員や商人に相談したところ、推薦されたのがブリュナでした。(赤煉瓦物語 斎田朋雄著)ブリュナは明治3年(1870)6月に「見込み書」(製糸場設立および経営の計画書)を明治政府に提出。政府と仮契約を結び、建設地の選定にも同行します。同年11月、明治政府と正式に雇用契約を締結しました。彼はフランスから技術者を雇い入れしたり、日本人の体格に合うように改良した洋式器械を注文、取りよせなどのため明治4年(富岡製糸場の建設中)一度フランスへ帰国しています。同年、日本へ戻ってきますが、その時に契約した技術者とともに帰仏した際に結婚した18歳の妻も連れてきています。彼は1840年生まれだから、明治4年当時で31歳。外国で一人暮らしはさみしいと思ったのかな?ブリュナが家族と暮らしていたコロニアル様式の「首長館」は、現在、重要文化財となっており、中に入ることはできません。床が高く、建物の四方にベランダが回り、窓にはよろい戸がついています。ブリュナが去った後は、工女の寄宿舎や教育・娯楽の場として利用されました。wikiによると、ブリュナの年俸は9,000円。一般的な日本人職工の年俸は74円。雇われフランス人としては、横須賀製鉄所のレオンス・ヴェルニーが受け取っていた年俸10,000円に次ぐ金額。明治7年(1874)7月に大久保利通が、同年8月には伊藤博文が三条実美に契約の中途解約を進言しているそうです。ちなみに…明治前半と後半では通貨の価値も変わりますが、参考までに調べてみたら「明治時代の1円は、今の3800円ぐらいに相当する」とう記事を見つけました。明治8年12月、ブリュナは雇用契約の満了を迎え、明治9年(1876)2月、家族とともに帰仏しました。<富岡製糸場に関わった人々 その2>主要な建造物の図面を引いたのは、フランス人技術者、エドモン・オーギュスト・バスティアンでした。明治3年(1870)12月、ブリュナの要請からわずか50日で設計図を完成させます。これだけのスピードで完成できた理由は、舟工兼製図職として勤めていた木造レンガ造りの「横須賀製鉄所」の設計図を参考にしたからだといわれています。富岡製糸場が操業を開始した年である明治5年7月まで土木絵図師として月給125ドルで雇用されました。--- 横須賀製鉄所 ---慶応元年(1865)、江戸幕府はフランス人技師を招き、横須賀製鉄所を開設。(バスティアンの雇用契約日は慶応元年12月3日)その後造船所とするため拡張に着手しますが、大政奉還を迎えます。明治政府はオリエンタル・バンクから貸付を受け、ソシエテ・ジェネラルに対する旧幕府の債務を返済。横須賀製鉄所を接収し、明治4年に横須賀造船所へ改称します。なお、ソシエテ・ジェネラルは現在もあるフランスのメガバンク。慶応2年(1866)、3500万フラン(当時)の借款契約が結ばれており、江戸幕府はこの借金で軍備を増強します。返済は生糸や茶の輸出で儲けたお金を充てるため、輸出は全てソシエテ・ジェネラルを経由したといいます。一方のオリエンタル・バンクはイギリス領インド帝国にあった銀行で、香港で最初の銀行でもありました。1893年に倒産するまで日本国債を積極的に引き受けています。要は、フランスの銀行の担保からイギリスの銀行の担保に変わったわけですね。横須賀造船所はその後多くの軍艦を製造しました。第二次世界大戦後、現在も在日米軍基地となっています。-------------------<富岡製糸場に関わった人々 その3>明治政府で民部省の役人だった尾高惇忠(おがたあつただ)は政府側の責任者としてブリュナとともに富岡製糸場の設立に尽力しました。また初代場長となり、娘の勇を「第1号工女」として入場させています。文政13年(1830)に武蔵国榛沢郡下手計村に生まれ、7歳のころ神道無念流を学び、弘化4年(1847)から幕末まで自宅で尾高塾を開き、近隣の子弟に学問を教えました。ここに7歳のころから学びに来ていたのが渋沢栄一です。尾高は渋沢栄一に論語を教えた学問の師にあたります。尾高の妹、千代は渋沢栄一の妻となります(1858)から、彼は渋沢栄一の義兄にあたりますね。文久3年(1863)、尾高と渋沢栄一は高崎城を乗っ取っり武器を手に入れ、横浜を焼き討ちにした後、長州と連携して倒幕するという計画を立てますが、尾高の次弟・尾高長七郎(水戸藩士による坂下門外の変の一味として追われていた過去あり)により説得され、断念しています。この時の尾高は水戸学に感化され尊王攘夷思想を抱いていました。その後、渋沢栄一が徳川慶喜に仕えるようになると、佐幕派へと考えを変えていきます。なんと、彰義隊にも加わっていました( ̄□ ̄)!!彰義隊とは鳥羽・伏見の戦いに負け、京都から江戸へ戻った徳川慶喜が、恭順の意を示し上野・寛永寺に蟄居した時の警護等を目的に組成された部隊です。彰義隊の結成当初、頭取を務めた渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)とともに、慶応4年(1868)2月23日に尾高は上野彰義隊結成に参加しています。(※徳川慶喜が上野寛永寺に蟄居したのが2月12日)この時、尾高の末弟で渋沢栄一の養子・渋沢平九郎も彰義隊に加わっています。慶応4年(1868)4月11日に江戸城は無血開城し、慶喜は水戸へ移ります。渋沢成一郎は上野からの撤退を主張するも、彰義隊 副頭取・天野八郎との対立が発生し、彰義隊を脱退します。尾高と渋沢平九郎もこれに同行。その後、渋沢成一郎は有志で振武軍を結成し、尾高らとともに隊士を集めています。結局、上野戦争で負けた彰義隊を吸収し隊は膨れ上がりますが、飯能で新政府軍に敗戦。渋沢成一郎は秩父谷へ、尾高は伊香保へ、渋沢平九郎は故郷・下手計村を目指して逃亡。末弟・渋沢平九郎は黒山(埼玉県入間郡)にて捕縛され、自刃します。(享年22歳)同年、次弟・尾高長七郎も病気のため他界しています。渋沢成一郎は箱館へ転戦し、榎本軍に合流します。明治2年5月に榎本軍の降伏とともに、投降。江戸辰ノ口糾問所から出獄したのは明治5年でした。のちに東京株式取引所の頭取を務めたりと、実業家として活躍します。尾高はというと、無事に逃げ延びたのでしょう。明治2年(1869)12月の「備前渠取入口事件(びぜんきょとりぐちじけん)」で地元農民の先頭に立ち事件解決に関わったようです。これを縁に明治政府に招かれ、民部省へ入り、富岡製糸場の設立にかかわっていきます。ちなみにこの時、尾高惇忠は41歳。明治9年(1876)、場長の職を退きます。その後は渋沢栄一に依頼され、第一国立銀行 仙台支店支配人を務めました。<富岡製糸場に関わった人々 その4>富岡製糸場の建設は、明治政府の大蔵少輔であった伊藤博文と大蔵省租税正の渋沢栄一が担当となり、計画が進められました。伊藤博文は長州藩士。その他説明は、有名だから割愛。渋沢栄一のは幕臣。実家は豪農ですが、一橋(徳川)慶喜に仕えたことにより、慶喜が15代将軍となると幕臣となりました。大隈重信(佐賀藩士)に説得され、明治政府に仕官します。渋沢栄一は農家出身だったことから蚕桑に詳しく、富岡製糸場設置主任として尾高惇忠らと共に建設に尽力しました。操業を開始した翌年の明治6年(1873)、渋沢栄一は大蔵省を退官。その後は第一国立銀行設立をはじめ、実業界で功績を残します。<ここで、思ったことは…>フランス人指導者ブリュナは、1840年生まれ。建築図面を引いたバスティアンは、1839年生まれ。伊藤博文は1841年、渋沢栄一が1840年、尾高惇忠は1830年生まれ。詳しく取り上げなかったけど、建築資材の準備で活躍した韮塚直次郎(にらづかなおじろう)が1823年生まれです。官営製糸場設立の議を決した明治3年当時、30歳前後の男達が中心となってこの計画を進めていたのです。展示室では彼らの写真キャプションに当時の年齢が添えられていました。夫 「やっぱり30歳前半で、こういう大きな仕事をせなあかんよな。」私 「せやな。30代は20代で準備したものを成果に繋げる歳やな。」(前半っていうと私はもう過ぎ去ったからな…30代って言わせておくれ…)私にとって40代はまだ未知の世界。ならないとわからないことはたくさんあるだろうけど、一つの目安として、論語にあるように「四十にして惑わず」を目指すには、いかに30代でこれまで培ってきたものを総動員して経験を積むかが大切だと思います。夫と話しながら「夫に負けてられないな」と思ったことを忘れないように、ここに記録しておきます(`・ω・´)ゞ<官営期の工女>明治5年2月、明治政府は15歳~25歳の女性を伝習工女とする募集の通達を出します。しかし、なかなか人が集まりませんでした。理由は「生き血をとられる」から( ̄□ ̄;)!!そりゃぁ、行きたくはないなw人々がフランス人の飲むワインを血と思いこみ、「富岡製糸場へ入場すると、外国人に生き血を取られる」というデマが流れたためです。政府はこれを打ち消し、製糸場建設の意義を記した「告諭書」を何度も出しました。また初代場長・尾高惇忠は範を示すため、14歳の娘の勇を「第1号工女」として同年7月に入場させています。結果、当初7月の予定だった操業は、10月4日にずれ込みました。結局、工女は群馬以外にも、埼玉、長野、北海道、山口など全国から集まりました。彼女たちは寄宿舎で生活し、寝具や食事は支給され、毎日入浴できました。1日の平均勤務時間は7時間45分。休憩時間は体操をするように指導され、医療費は無料。日曜日は休日。繭の選別を習得してから、繰糸場でフランス人女性技師の指導のもと繰糸作業の習得に入ります。給与は能力給で、技術が優れていれば誰でも一等工女になれました。(一等>二等>三等>等外工女)明治初期にあって労働環境は先進的であったといえます。現在でいえば、国からお給料をもらっているので公務員になるのかな。女子のための寄宿工業専門学校といった色合いも強いですね。当時の様子は、工女・横田(和田)英による「富岡日記」で知ることができます。一方、明治・大正期の工女といえば、女工哀史、あぁ野麦峠のイメージがあります。製糸業が工業化していくなかで、劣悪な労働環境で長時間労働を強いられる工女たちという社会問題があったといわれています。訪問前の事前学習時に「富岡製糸場=女工哀史のイメージがあったけどなんだか違うようだ?なぜだ?」と思いネットを巡回。結果的に官営時代の富岡製糸場はホワイト企業だったということだと、個人的に理解しました。明治26年(1893)富岡製糸場は三井家(銀行部)に払い下げられ「三井富岡製糸所」となります。生産規模の拡大により、繰糸器や工女の数が増やされ、第二工場・寄宿舎が増設されました。明治35年(1902)原合名会社に譲渡され「原富岡製糸所」となります。蚕の改良を行う施設が建設されました。(明治42年 日本の生糸生産・生糸輸出量が世界一になります)昭和13年(1938)「株式会社富岡製糸所」として独立。昭和14年(1939)片倉製糸紡績株式会社(現:片倉工業株式会社/証券コード3001)と合併し「片倉富岡製糸所」に。繰糸機の大型化、自動繰糸機の導入が行われます。(昭和40年 生糸の年間生産量が最大になります)昭和62年(1987)操業を停止します。以後、片倉工業により管理・保存されていましたが、平成17年に国指定史跡となり建造物が富岡市に寄贈されました。115年間の操業のうち、官営時代は約21年。民間の経営になってからの工女の様子がわかる展示は、駆け足で見学しせいかもしれませんが、みあたりませんでした。<富岡製糸場の建築について>富岡製糸場は「木骨煉瓦造(もっこつれんがぞう)」といわれる木材で骨組みを造り、壁の仕上げに煉瓦を用いる西洋の建築方法がとられています。木の柱に、煉瓦の横幅×深さ15mm程度の欠き込みをし煉瓦を納めており、短期間で建設されたものの、柱がゆがんだり大きな割れが出なかったのは、この欠き込みのおかげかもしれないそうです。煉瓦の積み方は「フランス積み」。(他にはイギリス積み、ドイツ積み、長手積みなどの積み方があるそうな)創業時の日本にはまだ電灯がなかったため、自然光を取りいれるためのガラス窓がたくさんあります。▼東置繭所「繰糸所」には、創業当初フランスから輸入した300釜のフランス式繰糸器が設置されていました。現在は昭和62年の操業停止まで使われたニッサン製の自動繰糸機が保存されています。▼繰糸所にあるニッサン製の自動繰糸機「診療所」は当初病院といわれ、フランス人医師が治療に当たっていました。官営時代は治療費・薬代を工場が負担しています。現存するのは昭和15年に建てられた三代目の診療所。民間に払い下げられたのちも、厚生面は充実していたと考えられます。▼三代目の診療所他には…▼工女の寄宿舎(明治29年)▼民営化後の社宅(明治29年)三井期に建てられたもので、片倉経営時代は工場長や総務課長、原料課長、工務課長とその家族が住んでいました。▼行啓記念碑(昭和18年)明治6年の皇后・皇太后の行啓記念の碑<富岡製糸場を見学するなら>訪問時の事前学習時に富岡製糸場のHPをくまなく巡回。その時に見つけた「これいいやん!」をご紹介しておきます。http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/visit/guide.html1:スマホで音声ガイド解説員によるガイドツアーはなかなか面白いらしいです。以前にここを訪れていた歴友Kが、薦めてくれました。だがしかし!夫がのんびり1時間もガイドを聞いていられるはずがないと予想した私。そこで事前学習し、当日は最小の時間で巡回するつもりでした。そんな私に朗報だったのが、スマホで音声ガイドをきけるというサービス。しかも!無料!現地で音声ガイドを借りると200円。ガイドツアーも200円。スマホなら無料!!(←大切なので二度書きました)これはおすすめですよ~。家でQRコードを読み取って、ブックマークしていくとスムーズ(。+・`ω・´)キリッ2:見学補助資料のダウンロードサービス事前学習に最適。基本的な内容・建物の配置が先にインプットできるので、当日はキャプションの細かいところに目を走らせればOK(。+・`ω・´)キリッ3:小中学生向けのワークシートのダウンロードサービス生涯学習の補助資料として、ダウンロードできるようになっています。中学生向けで十分基本は押さえられるので事前学習にこれまた最適。私が学校の先生なら、活用しないなんて損!お子さんと一緒に見学されるご両親にもぜひ活用していただきたい一品です。もちろん虫と魚にしか興味を示さない夫と見学を余儀なくされたあなたにもおすすめです(。+・`ω・´)キリッ4:東置繭所内の展示にある資料一式こちらは現地で集めた資料です。読みやすい分量で、キャプションの内容をフォローしてくれています。中でも横田英の「富岡日記」の内容をまとめてくれているものが、面白かったかな。<要約>ブリュナ夫人はめっちゃ美人。ブリュナ氏と手を引きあって1日おきに繰場を歩むのが日課。毎度服装は見事だけど、皇太后と皇后が視察に来たときは目が驚いたよね~。とか寄宿舎でさ、(鬼)火みちゃったんだよね~。あれ、まじで怖くてやばかった。といった内容が書いてありました!ということで、富岡製糸場のレポートは以上です。見学される方は、事前学習していけば、その分楽しめる場所になっていると思います。何も知らずに行くと、「予想外に狭いな」という印象で終わってしまう可能性がございますのでご注意くださいw<おわり>

  • 28Jun
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      群馬県富岡市:世界遺産「富岡製糸場」その1

      「どこかへ行きたい」と、駄々をこねる私に夫が付き合ってくれたので、先日、軽井沢方面へ行って参りました。予想外に仕事の話が進んだので「駄々をこねてみるのもいいもんだ」と思った次第ですw私の「今年訪れたい場所リスト」にあげていた1つ世界遺産「富岡製糸場」へも足を運んだので、記録がてら久しぶりにブログをアップしようと思います。◇世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」群馬県は古くから、養蚕・製糸・織物といった絹産業が盛んで文化遺産が数多く残っているそうです。そのうち・富岡製糸場(富岡市)・田島弥平旧宅(伊勢崎市)・高山社跡(藤岡市)・荒船風穴(下仁田ねぎで有名な下仁田町)の4つを構成資産とする「富岡製糸場と絹産業遺産群」が平成26年に世界遺産となりました。今回、私が訪れたのは富岡製糸場だけですが、絹産業について興味のある方は全部廻られる価値があると思います。高速を降りて20分もかからず現地に到着。駐車場は歩いてよければ無料のものがありますし、近くにも有料のものがいくつかありました。<富岡製糸場とは>明治5年(1872)に設立された官営の模範製糸工場です。明治政府により建設され、全国から集められた工女がフランス人から洋式の器械製糸技術を学びました。西洋式の近代的な設備を整えた製糸工場のモデルとして建設され、工女たちは技術習得後、それぞれの故郷で指導者となりました。<製糸と生糸と絹糸>「製糸」とは、繭から生糸をとること。カイコ(桑が大好きな家畜化された昆虫)がさなぎになるときに、糸をはいて作る繭(まゆ)。この繭を煮て、繭糸を引き出し、数本をまとめて1本の生糸にします。…つまり中のカイコは茹でられるということorz繭糸はフィブロイン(全体の70~80%)とセリシン(20~30%)という二種類のタンパク質からできています。セリシンはフィブロインの周りを囲み糊の役目を果たしているのですが、乾燥すると固り、お湯に溶ける性質を持っています。そのため繭を煮て、フィブロインを取り出しやすくします。生糸の状態ではまだセリシンが多く残っているため、「精練」という生糸からセリシンを取り除く作業をすることで、絹糸となります。生糸は絹糸として織物にするのが昔からの活用方法ですが、最近は食べれたり、スキンケアに使われたり、医療用の縫合糸と様々な分野で活用されています。うどんにシルクってどういうことだ?と思っていたのですが、タンパク質(アミノ酸)だからか∑(-x-;)とここで理解ができましたwさて、従来の製糸は木製の「座繰り器」により手動で糸を巻き取るというなんとも大変な作業でした。大量生産はできず、品質も不揃いでした。富岡製糸場では蒸気エンジンで器械を動かし糸を巻き取る「フランス式繰糸器」を導入しました。フランスから輸入したこの器械により、大量生産が可能になり、品質もそろうようになります。予め時間を調べていけば、これらの実演をみることも可能です。茹で上がったカイコも…見れますよ。夫は「釣りの餌や!」といって喜々としておりましたが、私は目を細めて遠くから眺めました。ついでにこの展示の奥には「生きてるカイコ」も展示されていました。夫は「歴史は知らんけど、昆虫なら話は違うで!」といって喜々としておりましたが、やはり私は目を細めて遠くから眺めました。もちろん、自分の携帯に虫の写真を残したくなかったので、写真はとっていません!▼繭を一定の大きさにそろえるための飼育室みたいなの▼「ぐんま黄金」の繭天然でこの色なんだそうですよ。<養蚕>原材料であるカイコを飼育することを「養蚕」といいます。養蚕は古代中国から始まり、日本へその技術が伝わったのは弥生時代とされます。農家の屋根裏で養蚕が行われている、というイメージが私は強いです。例えば白川郷の合掌造り。養蚕に関する展示品が多数ありました。(過去の記事はこちらから)富岡製糸場以外の絹産業遺産群は、養蚕に関する遺産となります。・田島弥平旧宅「清涼育」という養蚕法を大成した田島弥平の旧宅です。近代養蚕農家建築の原型。・高山社跡高山長五郎が確立した「清温育」という養蚕法の教育普及を行った高山社発祥の地。日本全国だけでなく海外にも技術を広めた民間の養蚕教育機関でした。・荒船風穴夏でも内部は2℃前後の蚕種の貯蔵施設跡。電気冷蔵技術が発達した昭和10年頃まで利用されていました。従来は春1回しかできなかった養蚕が、年に複数回行えるようになったといいます。<なぜ官営の製糸工場が建設されたのか>さて、ここからが私的には本題ですw明治政府は、維新後、富国強兵の政策を進めました。「富国強兵」とは、経済を発展させ国力をつけ、軍隊を強くするということ。明治政府で主導権を握ったのは、かつての尊王攘夷派ですが、その政策は開国和親政策へと展開し、経済・武力・文化等の面で欧米列強の国をモデルに近代化を図っていきます。明治政府は、外国に喧嘩をふっかけて負けたことのある長州や薩摩が主体となった政権です。一度喧嘩して負けているからこそ、このままでは勝てない!どうやったら諸外国に国を植民地化されないか、を考えた結果の政策ですね。欧米列強に支配されないためには、国力を上げる必要があります。国力を上げるには「お金」が必要。そこで着目したのが「生糸」です。少し時はさかのぼり…慶応元年(1865)の輸出入について、みてみたいと思います。【貿易収支】 輸出 約1850万ドル 輸入 約1450万ドル ※慶応3年(1867)、輸入関税が20%から5%へ引き下げられたことにより、輸入超過へ逆転します。【輸出品の内訳】 生糸(繭・蚕卵紙含む) 84.2% 茶 10.5% その他 5.3%【輸入品の内訳】 毛織物 40.3% 綿織物 33.5% 武器・艦船 13.3% その他 12.9%【貿易相手国】 イギリス 63% アメリカ 15% ※日本に開国させたアメリカは、1861年から南北戦争中。ペリー来航が嘉永6年(1853)日米修好通商条約締結が安政5年(1858)池田屋事件や蛤御門の変が元治元年(1864)です。慶応元年(1865)は第二次長州征伐など、幕末の争乱期です。※新選組では山南敬助が切腹した年ですね。修好通商条約締結後、貿易収支は増加していきます。その中でも生糸は輸出品の中で圧倒的な割合を占めていました。京都や長州で武力争いが起こっている中、製糸業地域は、輸出増加の追い風に乗り工業制手工業的な産業が発展していきます。一方、輸出ばかりされるため国内の生糸は不足し、西陣などの織物業地域は打撃を受けます。また、イギリスからの綿織物が安価に輸入されたため、綿作・綿織物地域が衰退しました。ちなみに幕末のインフレは、この貿易における金銀の交換比率が原因とされています。では、なぜ日本はこれほど生糸の輸出ができたのか?当時ヨーロッパでは微粒子病(カイコの伝染病)が流行り、繭や生糸、カイコの卵までが不足していました。また生糸の大量輸出国であった清国が、アヘン戦争で負け、生糸の生産が大幅に減ったからともいわれています。ヨーロッパの絹織物産業は原材料不足となり、生糸やカイコの卵の需要が増加しました。日本の質の高い生糸は家内生産(座繰り器)でしたらから、生産量は限られています。質の高い生糸の買い付け競争もおき、結果粗悪品が大量に市場に出回るようになります。こういった背景のもと、品質のよい生糸を大量生産し、輸出することで外貨を稼げると判断した明治政府は、製糸工場に必要な土地・水・石炭・繭を確保できる富岡に官営の模範製糸工場を建設しました。富岡製糸場は「日本全国に器械製糸場を建設するモデル」「各地で最新の技術を教える指導者(工女)の育成」を目的とした官営模範製糸工場であり、結果的に「日本が外貨を稼ぐ手段」を増やすことにつながりました。実際に明治・大正と生糸は主要な外貨獲得源となります。明治6年(1873)6月、富岡製糸場で生産された生糸がウィーンで開催された万国博覧会で2等賞を獲得します。これにより、富岡シルクがヨーロッパで高い評価を受けることになりました。明治13年(1880)頃までの主要輸出国はヨーロッパでしたが、明治30年(1897)以降は、輸出生糸の60~70%がアメリカ向けとなります。第一次世界大戦(1914~1918)では、ヨーロッパの養蚕業は壊滅的打撃をうけます。その一方で日本の養蚕業はさらに発展を遂げました。大正8~10年(1919~1921)には、アメリカ向けの生糸輸出が95%まで達し、昭和5年(1930)には産繭額が最高になり、40 万トンに達します。ですが第二次世界大戦後、繭生産の地位を中国に明け渡し、現在では生糸輸入国(輸出最大国は中国)となってしまいました。おっと、長くなった(恒例)ので、続きは次回に!<つづく>

  • 28Apr
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      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:ジェノバで下船/イタリア・ミラノへ

      1月8日【イタリア・ジェノバ→ミラノ】ついに下船日です。船は朝9時にジェノバ港へ到着。貴重品と着替え以外は、全てパッキングして前日の夜に部屋の外へ。下船は割り当てられた順番に案内されます。部屋を空けたら、手荷物をもってラウンジで朝食をとります。下船日のラウンジは本当に激混み。なんとか場所を確保して、下船案内の順番を待ちます。下船後はジェノバからミラノへ。ミラノの半日観光後、ホテルで一泊してから、翌日帰国です。ミラノは以前陸路で来たことがあったのですが、せっかくなので解説付きの観光をツアーの方々と楽しみます。◆スカラ座(Teatro alla Scala)イタリア・オペラ界の最高峰とされ、初代の宮廷劇場以来の伝統を持つスカラ座。初代の歴史的建築物、テアトロ・ドゥカーレ(Teatro Ducale)は1776年に消失。現在の建物(Teatro alla Scala)は二代目です。サンタ・マリア・アラ・スカラ教会のあった場所に建設されたので、この名がつきました。まだ道が整備されていない時代、雨でも来やすいようにとの配慮から、エントランスは、屋根の下に馬車で直接乗り付けられるようになっています。現地ガイドさんによると、スカラ座前の広場、向かって右手、(写真だと左手側。左手の白い建物がスカラ座です。)ここから眺めるのが一番美しいんだとか。そもそも設計段階で回りに建築物があった(当時は広場がなかったらしい)ので、道路から見て一番美しく見えるように造られたのだそうです。さて、この広場はガッレリアに繋がっています。◆ヴィットリオ・エマヌエーレ2世 ガッレリアガッレリアは19世紀のショッピング・アーケードの原型とされ、石造りの伝統工法を基盤にガラスや鉄、石、そして近代の鉄骨が組み合わさった建築物です。イタリアの初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世にちなんで名づけられました。1861年にデザインされ、1865年から1877年の間に建設されました。約150年ほど前の建築物ですね。東京ディズニーランドのワールドバザールはこのガッレリアをモデルにしています。スカラ座とドゥオモをつないでいるので、ミラノ観光の際には多くの方が通っていると思います。高級ブランド店や歴史ある書店、宝石店などが並ぶこの4階建てのアーケードでは、ついついお店の中を覗きながら散策していまいがちです。ですが、建築物として眺めてみると「へぇ~」と思うことが多々あります。十字路の交わる付近、ガラス天井を見上げると、四方に、女神を主題とし、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカを表すフラスコ画があります。下を見ると、床にはイタリア各州の紋章が描かれたモザイク画。そのタイルのなかに、有名な牡牛のタイルがあります。ここのくぼみに踵をのせてくるっと1回転できると幸せになれる、と言われていています。昼間は長蛇の列ですが、夜来たときは誰もいなかったのでしっかり写真に収めることができました!ちなみに、「牡牛の青盾」は西隣のピエモンテ州の州都トリノの紋章です。今はガッレリアにも電気が通っていますが、昔はガス燈でした。現在は使われていませんが、そのガス燈が残っています。現地ガイドさんによると、このガッレリアは国(州・県だったかな?)の所有で、どの店舗も家賃を払っているそう。で、その家賃がものすごく高いらしい。具体的な数字は聞きそびれたのですが、彼いわく、とにかく高いらしい。「修繕費が結構かかるだろうけど、実質ROIは何%なんだろうな。」と思った私(´∀`)◆ミラノのドゥオモ(Duomo di Milano)ガッレリアを抜けると、そこはドゥオモ。500万人のカトリック信者がいる世界最大の司教区である「ミラノ大司教区」を統括する首都大司教の司教座聖堂です。1386年、大司教とミラノ領主により古代からあったサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の場所に礎石がおかれました。宗教改革などで中断されましたが、1813年、約500年後にミラノ公国を征服したナポレオンにより、フランスの資金で完成。1943年、第二次世界大戦でミラノも爆撃うけていますが、ドゥオモは連合国軍の判断で爆撃を逃れています。ドゥオモには135本の尖塔がありますが、そのてっぺんには一つ一つ聖人の像があります。一番高いのが金のマリア像で、昔はこれより高い位置に建物を建ててはいけないとされたそうです。聖堂の上に登ることができるエレベーターと階段があり、ドゥオモの裏手から入ることができます。エレベーターの方が少しお高め。数年前に来た時に登りましたが、セキュリティーチェックをしっかりされたことしか覚えていませんorz・・・人間は忘れる生き物ですから、仕方がない。一通り観光案内をしてもらったら、次はランチです。▼「サフランのリゾット」と「ミラノ風カツレツ」 さてお腹が満たされた私は、ここで大切なミッションを思い出しました。「サンタ・マリア・ノヴェッラに行かなきゃ!!!」旅行に出る前に行けたら買い物にいきたいなぁと思っていたのですが、クルーズ中すっかり忘れていました。ご飯を食べていたら「はっ!」と思い出したのは、奇跡的(*`▽´*)このレストランにはWi-fiがあったので、調べてみるも、「ミラノに店舗はあるけど今日はお休みだよ~残念だったね~」と教えてくれたグーグル先生。まじか。すがる気持ちで現地ガイドさんに聞いてみると、ちょっとまってねーって調べてくださって、「ラッキーガールだね!(←久しぶりにガールといわれてちょっと浮かれるw)定休日なんだけどなんとこの近くに開いているお店があったよ。」喜々として感謝の言葉を伝え、添乗員さんにここで別行動することを伝えます。夫に「開いているお店が近くにあったよ~(涙)いくからね~!(←Noという選択肢は彼にない)」と話していたら、ツアーをご一緒していた方に興味を持たれ、結局10名くらいの方を引率しながらサンタマリアノヴェッラへ行くことに。サンタマリアノヴェッラには日本語の商品リストがあるのですが、私を添乗員と間違われたのか、店員がめんどくさかったのか、ごそっとみんなの分のリストを渡されてニッコリされたのは、なんだか楽しい思い出ですwさて、サンタマリアノヴェッラとは、世界最古の薬局の1つです。1221年にフィレンツェに居を構えたドメニコ派修道士たちが、自分たちの耕す畑で薬草を栽培し、修道院内の小さな医務室で使うための薬、香油、軟膏などの調合を始めたことに由来します。1600年代、修道士たちが手掛ける薬剤の評判は外国まで広まり、1612年には一般向けの薬草店として営業を開始します。当時のトスカーナ大光からは王家御用達製造所という称号を賜っています。1700年代にはロシア・インド・中国まで評判は広がりますが、1866年、イタリア政府の教会財産没収政策のため所有権が政府へ移ります。ですが、当時の薬局長(薬局長をつとめた最後の修道士となります)の甥に譲渡が認められ、すぐにステファーニ家が薬局の名称・営業権・動産などを取り戻し、今日まで四代にわたってその経営が引き継がれています。有名なのは「王妃の水」と言われる「アックア・デッラ・レジーナ(Acqua della regina)」。16世紀、カテリーナ・ディ・メディチがフランスのアンリ2世へ嫁いだ際、その嫁入り道具の一つとして特別に研究・製造されたものです。カテリーナによりフランス・ブルボン王朝の貴婦人たちの間で大流行しました。オーデコロンの起源とも言われ、現在も「サンタ・マリア・ノヴェッラ」の香りとして生産されています。現在も本店はフィレンツェにあり、一度訪れたことがあるのですが、その建物や展示品はとても美しく、見に行く価値はあると思います。▼2年前にフィレンツェ本店を訪ねた時の写真です 日本でも銀座の他、数店舗を展開していますが、やっぱりイタリアで買いたいよね!ミラノの店舗の写真は、うっかり撮り忘れていたようです。小さな店舗でしたが、白を基調として可愛らしいお店でした。ここからはミラノをぶらーり。ショッピングタイムを楽しみます。▼かわいい文房具屋さんを見つけて覗き込んでるところを、ご一緒している方に撮影されていました(´∀`)▼高級ブランド店が立ち並ぶモンテ・ナポレオーネ通りここでなぜかいっつも迷子になるorz▼エマヌエーレ二世大通りの裏手にあったスケートリンク日本人的発想で、ついスケートリンクは屋内!って先入観が。。。子供からカップルまで楽しそうに滑っている人が多くて、楽しい気持ちになります。19時ころまで全力でショッピングを楽しんだら、ディナーへ。現地ガイドさんがオススメしてくれた、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世 ガッレリアの中にあるレストランへ。ここは日本語メニューもあります。カジュアルディナーにしては、少し高めかなと思ったのですが、ここを選んで正解でした!まず美味しい!注文したものは、どれも外れなし!そして日本語メニューもあるし、片言だけど日本語を話せるウェイターが数人いる!しかも気配りしてくれて、日本語で話しかけてくれる!!さらに、前菜、パスタ、ピザを1人前ずつ頼んだら、写真↑を見て頂くとわかる通り、セパレートして運んできてくれました!(海外のレストランは1人前が多すぎるんだ…)▼半分といっても、これで一皿分。私には十分です。 このお店、日本人のことをよくわかってるなーっと思いました。この後はタクシーにのってホテルへ。ちなみに、ミラノは比較的治安がいい街とされていますが、ガッレリア周辺には悪質なミサンガ売りがたくさんいます。食事が終わって帰路についたのは21時くらいですが、この時間帯になると、ミサンガを薔薇の造花に持ち替えて押し売りをしてきます。「彼女にプレゼントしたら喜ぶよ~」と男性のほうに近づいてきますので、ご注意ください。せめて、もう少し買いたくなるものを売ってくれればいいのにね。---------------------------------------------------------------さて、今回のクルーズ旅行では念願の「アフリカ大陸」上陸を果たした私。モロッコに半日だけ…でしたが、やったね!あと、死ぬまでに絶対行きたいのは、残すところロシアとイギリスと南極。機会があれば、アフリカのサバンナにもいつか足を運びたいですね。(友人に”虫多いけどいいの?”と言われて、ちょっと躊躇しますが・・・)新しい土地に足を踏み入れるのは、いつもわくわくします。美味しいものや、親切な現地の人に出会えれば嬉しいし、歴史や経済について目で見て肌で感じることができれば、視野が広がります。まさに「旅は人生を豊かにしてくれるもの」ですね。最後に・・・今回は、クルーズ中に出会った方々が楽しい方ばかりで、しかも添乗員さんが気の利く方で、とっても楽しい旅行となりました。ご一緒できた方々に感謝です(人´∀`*)ありがとうございました。ということで、地中海マデイラ島の旅編はこれにて終了です!!<おわり>

  • 24Apr
    • 地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:イタリア・チビタベッキアの画像

      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:イタリア・チビタベッキア

      1月7日【イタリア・チビタベッキア】ローマ中心部から北西へ約70kmの距離にあるティレニア海に面した港町、チビタベッキア。「古い街(AcientTown)」という意味のチビタベッキアは、紀元前106年に当時のローマ皇帝・トラヤヌス帝が港として街を建設したことに始まります。現在ではサルティーニャ島・シチリア島・マルタ島・バルセロナなど地中海の主要港と航路を結んでおり、観光の起点となっています。第二次世界大戦で街は壊滅状態でしたが、その後再建されました。新しい建築物は、現代様式で建てられています。▼散策中、建物の間にひっそりとあるのを見つけました。イタリア語のキャプションを翻訳してみるとチビタベッキア市 思い出の場所1943年5月14日~2013年5月14日良い戦争か悪い平和があったことがありません(ベンジャミン・フランクリン)と書いてありました。1943年は第二次世界大戦中、ムッソリーニがクーデターで失脚した年。Wikiによると、チビタベッキアはナチス・ドイツの潜水艦基地となったため、連合軍の激しい空襲を受けていたようです。街の中には、こういった場所が複数ありました。多くの歴史的建造物が破壊されたといわれていますが、とはいえ「古い街」としての雰囲気も残っています。ローマ法王ユリウス2世デッラ・ローヴェレのもと、16世紀に建てられた港湾防衛のための「ミケランジェロ要塞」は名所の一つ。要塞の周辺には、トラヤヌス時代の雰囲気が残っています。この要塞はローマ帝国時代の建築物の上に建てられており、ローマ海軍の兵営であったと考えられています。要塞上部のマスキオ(Maschio)と呼ばれる塔は、イタリアの彫刻家・ミケランジェロが設計。これによりミケランジェロ要塞と呼ばれているそうです。他に散策中に見つけたのは「聖フランシスコ教会」。もともとあった小さな教会を改修し、1610年から建設が行われました。現在は19世紀につくられたバロック・ネオクラシック様式の外観です。さて、チビタベッキアでは多くの方がローマ市内へ観光へ行かれます。ローマまではバスや電車で約1時間半の距離。船会社主催のオプショナルツアーも、ローマ行きのものが多いですね。私たちは以前にローマを訪れたことがあったので、今回はチビタベッキアを楽しむことにしました。・・・海もあるしねwチビタベッキアは小さな街なので、2時間もあれば十分に回れます。だがしかしめっちゃ寒くてもう観光どころじゃなかったですっ!!!!!!セーターにコート、カイロと決して薄着じゃなかったのに、もう寒すぎて寒すぎて。夫の用事(釣り)とランチにお土産物探しで、合計3時間ほどでさっさと撤退しましたorz上記以外の見どころとして教えてもらったのは・・・◆チェントチェッレ大通りにある「考古学博物館」(元は税関の建物)◆チェントチェッレ大通りにある「トラヤヌス劇場」◆レッジーナ・マルゲリータ広場にある露天商のマーケット◆18世紀建築の「カテドラル(大聖堂)」そして帰国してからゆっくり資料を見返して気づいたわたし的には見どころなのが・・・◆「日本聖殉教者教会」(CHIESA DEI SANTI MARTIRI GIAPPONESI)港から海沿いのガリバルディ通りを歩いて20分程先にあるこの教会は、1597年、長崎で殉教したフランシスコ会のキリスト教徒26名を列聖しています。第二次世界大戦後の復興に際して、日本人・長谷川 路可(大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家)により描かれた26殉教者をテーマにしたフレスコ画が教会内部にあります。1587年にバテレン追放令を出した豊臣秀吉は、南蛮貿易の関係もあり日本でのキリスト教の布教を禁止しましたが、事実上信仰は自由としていました。1596年、スペインのサン=フェリペ号が難破、土佐へ漂着します。この事件の後、秀吉のキリスト教への警戒感が強まり、京都奉行・石田三成へ京都へ住むキリスト教徒の捕縛、処刑が命じられます。1597年、三成はフランシスコ会のペテロ・バウチスタ神父ら24名のキリスト教徒を捕縛し、長崎へ送ります。(途中で2名加わります)長崎の西坂刑場で十字架刑により26名が殉教。Wikiによると、秀吉の唯一のキリスト教迫害がこの「26聖人殉教」だそうです。1858年(江戸時代)、日米修好通商条約の締結によって長い鎖国時代が終わります。その4年後の1862年、教皇ピウス9世により26名が列聖され、1864年、フランシスコ会修道院の聖堂を「日本聖殉教者教会」と名付けて改修・献堂しました。◆ルイジ・カラマッタ広場(Piazza Luigi Calamatta)にある支倉常長像1991年(平成3年)、石巻市との姉妹都市締結20周年を記念して建てられた像です。1613年(慶長18年)仙台藩主・伊達政宗は、家康に許可を得て、仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えに、ノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王とローマ教皇のもとに慶長遣欧使節団を派遣しました。1613年10月28日、伊達政宗の家臣・支倉常長は宣教師・ルイス・ソロテと180余人の使節団員と共に、仙台藩内で建造されたガレオン船「サン・ファン・バウティスタ」で石巻を出航します。なおこの造船には、江戸幕府から派遣された船大工も参加しています。スペイン人・ビスカイノと幕府船手奉行の指導のもと、「東藩史稿」によると大工800人、鍛冶600人、雑役3000人の人手を使い、約45日で建造されました。使節団は太平洋を渡り、メキシコを経由して、1615年1月30日、マドリードでイスパニア(スペイン)国王フェリペ3世に謁見します。1615年10月18日、チビタベッキアへ上陸。1615年11月3日、ヴァチカン宮殿でローマ教皇パウロ5世と謁見します。メキシコからフィリピン・マニラを経由して、1620年9月22日頃、支倉常長は帰国。結局この使節団の通商交渉は失敗し、さらに帰国すれば日本は幕府により禁教令がでていました。2年後、52歳で支倉常長は亡くなっています。ちなみに・・・1582年(天正10年)の「天正遣欧少年使節」はキリシタン大名によるキリスト教の本山詣の意味が強かったですが、この「慶長遣欧使節団」は外交交渉でした。交渉は失敗に終わってはいますが、1871年(明治4年)に欧米視察のため派遣された「岩倉使節団」は正使:岩倉具視(公家)副使:木戸孝允(桂小五郎/長州)・伊藤博文(長州)・大久保利通(薩摩)他250年以上前に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行い、ローマまで来ていたこと。また支倉常長らが残した事跡を知り、大いに勇気づけられたといいます。フラスコ画や像は近代のものですが、これらにどのようなストーリーがあってそこにあるのかを想像すると、歴史好きにはタマラナイのです。あぁ、行きたかった。なんで・・・資料に書いてあったのに・・・チビタベッキアにいた時に気づかなかったんだろう!?日本に帰ってきてから、私は気づくんだろうかぁぁぁぁ(つД`)ノチビタベッキアは地中海クルーズでは起点となりやすい港だし、きっとまた行くから、、、大丈夫・°・(ノД`)・°・この日、朝10時に下船した私たちは、ターミナルからでている無料のシャトルバスで街へ向かいました。バスを降りたところにあるエクスカーションで、添乗員さんにサポートしてもらいつつ、釣場を案内してもらおうと思ったら。「港の近くは釣り禁止。お勧めの釣り場はタクシーで1時間以上いった、古城のほとりでトラウト。」と言われ、しかもたっかい!ローマ行く方が安かったんじゃなかろうか?という値段。海で釣りたいという夫の希望はかなえられず、エクスカーションは断念です。結局、銃を持った軍人さん?が警備をしているバスターミナルからとりあえず徒歩で中心地を目指してブラブラ歩き出します。すると、途中で釣具屋発見!「釣り場情報があるかもしれない( °∀° )喜」と夫は店内へ。だがしかし、英語が通じない。どうしたものか思案。ふと思い出して、取り出したるは・・・「イタリア語で”近くに釣り場はありませんか?”と書かれたメモ」これ、添乗員さんが「英語が通じないかもしれないので、イタリア語がわかるクルーに書いてもらいました。もしよければどうぞ。」ってくれたもの。これほど添乗員さんに感謝した日はないっ(*゚∀゚人゚∀゚*)♪これをポシェットに入れていた私はえらいっ(人´∀`*).とはいえ、ジェスチャーと雰囲気で「あっちの方にある」ということだけしかわからないwでも諦めない夫は、とりあえず「あっち」の海沿いに歩いて釣り場を探しだします。で、無事に釣りしてよさそうな場所を見つけたんです。ただし、極寒。海風でさらにダメージ増。たぶん20分程で引き上げました。釣り好きの忍耐力をもってしても耐えられない寒さ(・∀・)このあとは、お土産物屋とランチを食べれそうなところを探しつつ、町の中を散策。一応ついでにと思いカテドラルを目指して歩いてのですが、気づいたら袋小路に迷い込んでしまいました。「寒いしもういい!温かいもの食べたい!」で、見つけたレストランがこちら。バスターミナルの近くで、中はかわいかったです。とにかくイタリアらしくて温かいものを注文します。▼ピザを頼んだらこれが出てきました。途中まで「前菜かな~」って思ってましたw伝わていなかったのか、これがこのレストランのピザなのかは今だ不明。結構美味しかったから、よし。▼トマトソースのパスタをたのんだら、チーズとトマトのタリアテッレが来ました。味が結構濃い目でしたが、まぁ美味しかったからよし。▼船内のコーヒーに飽き飽きしていたので、このコーヒーはひときわ美味しく感じました。結局13時頃には、船内へ。船の最終出航は19時でしたから、暖かかったらもっと満喫できたのかな。さて、明日は下船日です。私「夜は荷詰めで忙しい( ´_ゝ`)ノ」夫「夜はカジノで忙しい。(。+・`ω・´)キリッ」←おいということで、別行動。日付が変わって、ずいぶんたってから「全部コイン使ってきた~」と部屋に戻ってきました。よけてた利益は既に私が現金化していたので、収支はプラス着地。(カジノのキャッシャーはカジノがオープンしている時間帯だけなのが一般的。うっかりコインを現金化せずに下船することにならないようご注意ください。)そう、クルーズ中の私は通称「預けたら二度と出金できない銀行」。カジノでも「天引き」と「資金管理」は大切です(´∀`)<つづく>

  • 23Apr
    • 地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:終日航海・船内イベントのビンゴ大会の画像

      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:終日航海・船内イベントのビンゴ大会

      1月6日【スペイン・マラガ→イタリア・チビタベッキア】終日航海日。この日は船内イベントのビンゴ大会へ参加。添乗員さんが、わからないことがあればフォローしてくれるとのことで、それならば英語が苦手な私たちでも大丈夫!ってことで、日本人の方々と一緒に楽しんできました。指定の時間にタイガーバーへ。ビンゴカードを販売しているクルーに声をかけます。1シートに、3つのビンゴカード。1枚でたしか20$くらい。3シートのまとめ買いなら、40$。どうせ二人でするし、ってことで割安さにおされて3シートを購入しましたが、二人で9つのビンゴカードをチェックするのは、結構骨が折れましたwなお、賞金は40番目の数字までにビンゴが出たら25,000$41~44番目の数字までにビンゴが出たら10,000$それ以降は…500$ちなみに、この時のルールは、2列そろったら「ビンゴ」。2列ってなかなか揃わないヨ(・∀・)MSCの地中海航路ってこともあって、数字を読み上げる方は、英語、イタリア語、フランス語、スペイン語あたりで数字を繰り返しいってくれます。が、聴きそびれても、スクリーンに表示されるから大丈夫!ただ眼が悪いかたは、メガネ持参をお勧めします。数字が小さくて見えずらいよ。30分くらいで、ビンゴ!の方が出て終了( ゚д゚)ノシ私たちは皆さんでワイワイできたので「楽しかったね~」と解散したのですが、肩をがっくり落としながら散会していく欧米の方々がなんだか印象的でした。手軽に少額で一攫千金!っていうのは、国を問わずみんな好きなんだなぁ。娯楽と割り切ればそんなに凹まずにすむのに…と思ったのを覚えています。明日は最後の寄港地、チビタベッキアです。どんな街かな~?<つづく>

  • 17Apr
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      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:スペイン・マラガ

      1月5日【スペイン・マラガ】船は7:00にマラガに到着。最終乗船時間は13:30と早めです。今日はオプショナルツアーの「マラガ半日観光(4時間)」に申込済。集合時間は8:45ですが、今日は釣りをする時間はなさそうです。マラガはスペイン南部にある6番目に大きい都市です。コスタ・デル・ソルの中心として、世界中から環境客があつまるビーチリゾート。コスタ・デル・ソルは、東のアルメリアからスペイン最南端のタリファまでの約300キロに及ぶ海岸線で、 「太陽の海岸」を意味するスペインを代表するリゾート地です。マラガは紀元前フェニキア人によって街が建設されました。ローマ、イスラムと長い歴史の中で多くの民族の支配を受け続けたところです。1487年、スペインのレコンキスタ(国土回復運動)により、イベリア半島に最後まで残ったイスラム勢力のグラナダ王国からスペイン領へとなりました。また、マラガはピカソの生家がある街として有名です。この日のツアーは「ピカソ美術館」を中心にマラガの市中散策コース。時間があれば、マラガからグラナダまで移動して「アルハンブラ宮殿」を見ることも可能だったのですが…。▼船のバルコニーよりマラガ方面を望むいつもより早くおきたら、朝焼けがみれました♪▼港からマラガ市内方面下船して、まず向かったのは「ヒブラルファロ城(Castillo De Gbralfaro)」。14世紀、イスラム教に支配されていた時代にユースフ1世により建てられました。バスで丘の上を目指します。観光バスもたくさんきていて、人は多かったです。市内で一番眺めのよい場所で、地中海が一望でき、MSCマニフィカの停泊している港もよく見えます。下の方には円形のマラゲータ闘技場もばっちり見えました。写真におさめたら、街へもどります。マラガ市内にはオレンジのような実を付けた街路樹がいっぱいでした。バスを降り、徒歩で「ピカソの生家」へ向かいます。▼メルセー広場ピカソの生家前にある広場です。ここにはピカソと並んで写真をとれるベンチが!この公園でとれた、この旅で一番お気に入りの写真。仲いいなぁ(*゚∀゚人゚∀゚*)▼ピカソの生家メルセー広場から見た「ピカソの生家」です。ピカソは14歳までここで家族と暮らしました。 ここから徒歩で「ピカソ美術館」へ。この美術館の建物は、スペインの国の文化財に指定されている「旧ブエナビスタ伯爵邸(Palacio de Buenavista)」。常時204点のピカソ作品が展示されています。世界中に3つしかないパブロ・ピカソの作品のみを扱う美術館の1つ。作品の大半はピカソ家の人々から寄付されたものです。目玉となるような代表作品はありませんが、ここでしか見ることができない貴重な作品を展示しています。音声解説に日本語があり、展示室も多すぎず、見やすい美術館でした。1時間程しか館内での時間がとれなかったので、すべての音声解説を聞くことはできませんでしたが、ピカソ好きなら(英語がわからなくても)結構楽しめると思います。▼美術館入口▼白を基調とした館内▼中庭▼チケット続いてマラガ市内の散策へ。少し歩くと「アルカサバ(Alcazaba)」が見えてきます。アルカサバは、ローマ人が築いた要塞の上に、イスラム式の要塞が築かれたもの。要塞を登って行った上にあるイスラム式庭園が美しいそうです。アルカサバの足元、グラウンドレベル(街と同じ高さのところ)には古代ローマの円形劇場があります。▼美人猫が優雅に円形劇場内を散歩していました( ´艸`)▼路上でハープの演奏をされている方がいました。円形劇場前だと絵になりますね。▼円形劇場(Teatro Romano)の入口続いて「大聖堂(カテドラル)」です。16世紀のスペインルネッサンス建築。二つあるべき塔の1つが欠けているため「マンキータ(片腕さん)」と呼ばれています。17世紀の貴重な聖歌隊席があり、完成までに200年を要したそうです。時間があれば中も見学したかった。 さて、ここからは自由行動の時間が1時間程。夫の提案で、「船の食事にも飽きてきたし、ランチタイムなので(魚釣りもできないし)美味しいものを食べに行こう!そうだ!パエリア食べてない!!」ということになりました。パエリア食べるなら、時間がかかるから急いでお店探さなきゃ~!ってことでちょっとウロウロして、よさげなカフェレストランへ。▼同じお店で食事をしていたツアー参加者の方に注文したら多すぎたからと生ハムを分けていただきました♪▼サングリアこれも美味しかった~♪▼カラマリ(イカ)フライのカラマリが出てくると思ってたから、ちょっと残念。そして結構なボリューム。▼念願のパエリア!!注文してから30分程でテーブルへ。絶対夜に喉がかわくな・・・ってくらい味がとても濃かったです。が、とっても美味しかった~!時間との闘いでしたが、注文して良かった!!お腹がいっぱいになったら、ちょっとだけ街の中を散策しつつ、最後はダッシュで集合場所へ。船は昼過ぎには出航。マラガ滞在は短かったですが、美味しいものがいっぱいあって幸せでした。▼バルコニーからマラガを望む▼望遠で撮影丘の上は、たぶん朝訪れたヒブラルファロ城かな。この日のメインダイニングは、ちょっといつもと違うメニュー。▼テーブルセットもいつもよりちょっとだけ豪華▼今日のメニュー▼デザートの行進、再来wそして、やっぱり行進していないデザートを頼んでいた私wいいんだ・・・。クリームたっぷりで、カロリー高そうだったしな(´□`。)<つづく>

  • 12Apr
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      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:モロッコ・タンジェ

      1月3日【終日航海 カナリア諸島・テネリフェ→モロッコ・タンジェ】 この日は終日航海日。スパでエステにいって。添乗員さん主催のパーティーにいって。あとはのんびりパソコンに向かって船酔いする一日でした。1月4日【モロッコ・タンジェ】 船は朝の7:00に入港。今日は10:00に添乗員さんが町まで案内してくれるとのことで、そこへ参加。散策後、残りの時間は恒例の釣りタイムの予定です。モロッコは「マグレブ(日の沈むところ)」とも呼ばれ、ヨーロッパ、アフリカ、アラブをつなぐ交易の十字路として重要な役割を果たしてきた国です。地域によって異なる文化を持つそうで、北はスペインカラーが強く、大西洋沿岸はポルトガル色、砂漠は遊牧民文化、南はサハリアン&ブラックアメリカ。風土・気候も表情豊かで、海沿いのリゾートから、モロッコに横たわるアトラス山脈のスキーリゾート、南部に広がるサハラ砂漠等々。ヨーロッパとの地理的・歴史的な関係で、イスラム諸国の中でもソフトイスラムといわれ、比較的安定している国とされています。とはいえ、念の為女性は肌の露出をさけ、スカーフを携帯しておくとよいでしょう。あとカメラを没収されることもあるので、軍人、地元の方、宗教施設などの写真撮影は気を付けてとのこと。モロッコは先史時代にベルベル人が現れたことに由来しますが、私たちが訪れたタンジェ(タンジールともいう)を含む沿岸部は、フェニキア人によって設けられた交易拠点が起源となっています。モロッコもローマ帝国をはじめ、様々な国や文化に征服された歴史があります。詳しくはWikiを見ましょう(←まとめるの諦めましたw)タンジェはジブラルタル海峡に面した港湾都市です。1920年から1950年代まで、神秘的であり、かつ免税の場所として冒険家・富裕層・著名人に人気の町でした。1960年にタンジェがスペインからモロッコに返還されてからはそうではなくなったようですが、現在は再度観光業が盛んになり、多くの船が行き来しています。現地通貨はディルハム。大きなお店ではユーロ、ドルも使えます。スーク(マーケット)で買い物をする時は値段交渉を頑張りましょう。添乗員さん曰く「意外と吹っかけてきます」。あとアジアと同じく食事や水(氷)には気を付けてください。屋台などの食べ物は不衛生な場合があるので、場所を選ぶこと。まぁ、町をあるけば…「うん、船に戻ってからご飯食べよ」っておもいます。さて、10:00に集合場所へいったら添乗員さんより「下見に一度下船してきましたが…絶対迷います。よければ友人の知り合いの現地ガイドがいるのですが、雇いませんか?」とうことで、一人5ドルくらいだったのでお願いしました。結論、現地ガイド雇ってよかった!本当に迷宮でした。あれ、夫と二人で散策してたら、船に戻れる自信が全くない( ゚∀゚; )▼今回散策したタンジェの旧市街地MAPこの旅で実は結構楽しみにしていたモロッコ。つ、ついに初アフリカ大陸上陸~(灬ºωº灬)▼港湾内送迎バスとかなくて、港の外まで結構歩きました。▼旧市街(MEDINA)▼現地ガイドのとっても陽気なおじさんと合流して旧市街の中へ小さな商店や露店が並んでいる場所です。マーケットは現地の人たちの生活がわかって楽しいです。見た事ないものとか、あんまりみたくないものとか、色々並んでいました。釣り具をもった人を発見した夫。「あ!あそこに釣具屋がある~」とテンションが一気にあがりますw(それまでは低かったのにw)こちらは貝。もはや海産物でもテンションが上がる夫w路地の横に目をやると…大量に積み上げられた鶏(まだ、生きてます)。アップにしてみましょう。おとなしく積み上げられていますね。このあと売られて、買われて、しめられるのかな…。こちらは…ペットショップ…じゃないよな~?食べれそうな鳥がいっぱいだもんなぁ。卵要員かなぁ。至るところで鳥が売られていて、鳥が苦手な方は「ひえ~」っておっしゃってました。アップにするともはや路上で放し飼いw▼たぶんPETIT SOCCOあたり▼近くにあるモスク(Grand Mosque)入口は左が男性用、右が女性用。 ここまでも結構入り組んだ道でしたが、ここから迷宮へ。場所によっては結構な狭さの道。空も狭いよ。似たような壁が続いているし、もう自分がどこにいるのかわかりません(-"-;A ▼迷宮(旧市街)の中にある商店。入口は狭いですが、奥行きがあって入ると意外に広い場合も。さて、モロッコのお土産として有名なもののひとつが革製品。バブーシェは革製の室内履きです。カラフルでデザインも様々なバブーシェが至るところで売られています。日本の雑貨屋さんでもたまに見かけますよね。続いて、有名なのがタジン鍋。タジン料理は、円錐形の独特な形をした蓋の土鍋でつくる蒸し煮込み料理。蒸気の抜ける穴がなく、蒸し料理やシチューを作ります。民族衣装も結構人気のようです。他には・銀細工・ミントティーポットもオススメのお土産なんだとか。連れて行ってもらったお土産物屋さんにたくさんありましたが、なんかぐっとくるデザインがなくて・・・。モロッコにはかわいい雑貨が多いと聞いていたので楽しみにしていたのですが、私の好みではなかったようです。トルコの時は「あれもほしい~これもほしい~」ってなったんだけどなぁ。最後にモロッコといえば、アルガンオイル。アフリカ・サハラ砂漠の北西、モロッコの南西部にしか生育しないアルガンツリーの実の種子から抽出されるオイルです。収穫が厳しく制限されているうえ、100㎏のアルガンの実から1ℓ程度しか採取できない希少なオイル。現在は成分の解析が進むにつれ、美容オイルとして注目されていますが、昔から現地の人は民間療法として用いていました。現地ガイドの方が薬局に連れて行ってくれて、そこで薬剤師免許を持った方からアルガンオイル関連商品を購入。その時に説明してくれた内容によると、「アルガンオイルは痛み止めの効果があって、マッサージに使うといいんだよ。もちろん髪やお肌にもいいよ~」とのこと。このお店を出てから、少し自由行動の時間。集合場所の近くに魚を手でさばいている屋台がありました。ビデオを片手に近寄っていく夫w釣れてないからね。お魚見たらうれしいよねwwこの屋台がある広場を中心に散策…しようとか思ったけど、迷う~(´ε`;)少し行ったらすぐ分岐。そしてまた分岐。もう戻れる気がしないから、この近くでウロウロw続いてランチへ。食事は結構不安だったのですが、予想外にきれいなレストランに連れて行ってもらいました。▼レストラン外観(写真ぼやけますが…)▼案内されたのは2階注文してから料理がくるまで結構時間がかかったので、レストランの屋上へ案内してもらい、写真撮影。▼港がみえる方角▼たぶんカスバ(KASBAH/要塞)広場レストランはこの真向いにありました。▼いっぱい歩いてきた迷宮(旧市街)上から見ても道はわからないなorz▼窓の形が独特ランチのメニューは・・・▼まずはオリーブがモリモリきて▼チキンパイ見た目は美味しそうなんだけど・・・シナモンがかかってて、ちょっと甘め。▼中はこんな感じ▼メインのタジン夫が「ラムのタジン」で私が「チキンのタジン」です。▼デザートのなんかすっごい甘い練り菓子と甘いお茶全体的に結構甘さが際立つお料理でした。もう一度食べたいか?って聞かれると、まぁ十分かなって答えるかな。食事が結構時間がかかり、夫の釣りタイムが残りわずかに。食後は現地ガイドさんとわかれて、ダッシュで海へ。振り返りもせず、私をおいてズンズン歩いていく夫(●・̆⍛・̆●)とりあえず海に到着。ボラが跳ねてるし何かいるんじゃないかってことで、竿をだします。私は暇だから、周辺の写真撮影。写真左の建物が「ホテル・コンチネンタル」。行きに「ここでは結構有名なホテルだよ」って解説してくれていたところな気がする。釣れないので、港へ移動。20分近く歩いて、船の後方へ。結構大きな魚影はあるし、あとは竿を出すだけ~!ってところでパトロールカーが来て止められます∑(-x-;)釣り禁止看板は出てないんだけど、ダメだって~。「せっかくここまで来たのに。もう時間ないし。魚影もあったのに・・・。」とへこみながら、帰船する夫。背中に哀愁が漂います(´・ω・`)さて、この日のメインダイニング(ディナー)ではちょっとしたイベントが。ローマ帝国風?兵隊衣装の方を先頭にスイーツの行進。英語ワカラナイから、何のイベントだったかのは不明(;´▽`A``この日のスイーツは、結構美味しかったらしいです。私は行進していないスイーツを頼んでいましたorz英語力あればなぁ・・・。<つづく>

  • 07Apr
    • 地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:カナリア諸島・テネリフェの画像

      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:カナリア諸島・テネリフェ

      1月2日 【カナリア諸島・テネリフェ】 前日に引き続き、今日も島!船は9:00に港に到着です。この日は9:30からの「テイデ国立公園のオプショナルツアー(6時間)」に申込済み。出航は17:30の予定なので、ツアーから戻ってきたら、夫の釣りタイムの予定です。テネリフェはスペイン領・カナリア諸島最大の島。昨日訪れたポルトガル領・マデイラ島とカナリア諸島は、ヨーロッパとアフリカの間に飛石のように並んでいます。カナリア諸島は、大航海時代には船の基地として栄えました。現在は「大西洋のハワイ」「常春の楽園」と呼ばれ、年間750万人の観光客が訪れる亜熱帯のリゾート地です。地中火山の爆発により生まれた7つの島から構成されるカナリア諸島は「幸運の島」と言われてきたそうです。一説によると、かつて水中に沈んだ伝説の「アトランティス大陸の一部」と推定されています。(プラトーの説明によると、ヘラクレスの柱を超えた西の大洋にあるとされ、それはジブラルタル海峡を超えた大西洋上にあたると・・・)カナリア諸島には、15世紀までヨーロッパ最古の石器文化を営む「グァンチェ」と呼ばれた原住民がいました。放射性炭素の調査から、彼らは紀元前2~1世紀にカナリア諸島へやってきたといわれています。グァンチェは洞窟で暮らし、古代エジプト人のように死体をミイラにしていました。ヨーロッパ人がこの島に入った時、彼らは船を持っていなかったと伝わっています。グァンチェは金髪碧眼長身の民族で、ベルベル語の一種であるグアンチェ語を話していたと言われていますが、彼らは文字を用いておらず、シルボという口笛による会話でとおーーーーくの人とコミュニケーションをとったといいます。カナリア諸島のラ・ゴメラ島では現在もシルボが残っており、2009年ユネスコの無形文化遺産に登録されました。彼らはアトランティスの生き残りだったのか?方角を失った金髪のヴァイキングだったのか?今だミステリアスな島として、パワースポットやUFO愛好家が多く訪れる島でもあるといいます。ヨーロッパ人に征服される前、ローマ時代からカナリア諸島の存在は知られ、紀元前1世紀ころのローマの記録では、島にたくさんの野生犬がいたことからローマ人が「カノラム=犬の島」と名付けたことがカナリアの名前の由来と言われています。カナリアが沢山いるから…とか安易に思っていましたが違いましたw小鳥のカナリアは、この島原産の鳥が改良されたもので、島の名前にちなんで名付けられましたそうです。鳥のほうが後だったΣ(=°ω°=;ノ)ノ1496年、100年近くかけた戦いの末にスペインのカスティージャ王国にカナリア諸島は征服されます。これ以降スペイン領となり、コロンブスなどがアメリカ大陸へ横断するための重要な中継地として発展しました。 テネリフェ島北部にある世界遺産の街「サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナ(La Laguna)」はカナリア諸島最古の都市で、この頃建築された王宮や教会、貴族の邸宅が残っています。新大陸での町づくりを意識して作られたスペインによる最初の城壁に囲まれない非要塞都市で、ペルーやメキシコなどスペイン人が入植した中南米の都市のモデルになったとされます。今回のツアーで近くを通りましたが・・・世界遺産だったという認識がなかったため、横目でスルーっと流してしまいました。激しく後悔(´Д`υ)なお、コロンブスは南アメリカへ行く前に5回カナリア諸島に来ており、カナリア諸島のグラン・カナリア島にはコロンブスの家(といっても当時の統治者がコロンブスを泊めた家)があります。カナリア諸島が15世紀にヨーロッパ人に征服されて以来、グァンチェの混血は進みました。しかし、現在のカナリア諸島に住む人々にはその血統が残っています。この日のツアーの現地ガイドさんも金髪長身、そしてたぶん碧眼(←そんな雰囲気だった)のイケメンさんでした。…目の色までチェックしなかったーorz今回の南ヨーロッパの旅行中、コロンブスは英雄のように各地に記録が残っていました。一方ガイドさんは「グァンチェとコロンブスの戦いは、キリスト教改宗の戦いでした」と言われていたのが、記憶に残っています。ブラジル産の砂糖が安く売られるようになるまで、16世紀のカナリア諸島は「砂糖の島」(サトウキビ産地)でした。その後17世紀にはモルヴァシア・ワイン(マデイラワインに似てるそうです)が最も重要な品となり、19世紀には絹やコチニール(虫からとる深紅の染料)、バナナ、タバコが経済を支え、現在は観光業がその主役となっています。ガイドさんによると「若者のほとんどが観光業へ就職を希望している」そう。一方でその他の産業を支える人材が少ないとのこと。その他にもスペインの金塊輸送船を探していた英国のネルソン提督のお話や、ナポレオン戦争中の通商破棄からスペインの関税の歴史、スペイン市民戦争を起こしたサンフランシスコ・フランコのお話など、ネタは沢山ありましたが、調べ出すと大変なことになるので…このあたりで島の歴史紹介は終わりにしますwさて、私たちが上陸したテネリフェは火山活動によってできた島で、海底からの高さは7500m。世界で三番目に高い火山島です。面積は2,036K㎡、東京都とほぼ同じ大きさです。島内には2つの世界遺産(一つは前述のラ・ラグーナ、もう一つは後述のテイデ山)と、標高2,000m、広さ18900haの火山地形が広がるテイデ国立公園があり、島の中心にはスペイン最高峰のテイデ山(3,718m/富士山とほぼ同じ高さ)がそびえ、島の約半分が保護地区に指定される自然豊かな島です。東京都の中に、海と山、歴史ある古い町並みや避暑地であるモダンなビーチリゾートもあると思うと…魅力的な多様性のある島だなぁと思います。▼港からの風景▼結構近代的な街並みです▼島内は高速道路でつながり便利そうですテイデへ向かう途中、イケメン現地ガイドさんが「美味しいコーヒーがあるんだ。寄り道しないかい?」ってことで、とあるカフェに連れて行ってくれました。彼は仕事の前に必ずここに来るそうです。・・・今日飲み忘れたから、寄り道したんじゃ。なんてツアー参加者の方と笑い話をしながらカフェへ。▼カフェ「EL CEDRO」▼店内▼いっつも思うけど海外のケーキってすっごい色してますよね・・・で、こちらがお目当てのコーヒーなのですが…めちゃうまーーーー!!!こちらは「バラキート」というテネリフェだけにあるコーヒーだそうです。お好みで(っていっても現地の人はほぼ入れてた) レモンの皮が浸かったリキュール(コーヒーの上に写っているやつ)を入れます。何もいれずにそのまま一口。飽きたところで、リキュール追加。どっちも美味しかったです。レシピを聞いてメモしたのですが、メモがどっかいってしまった・・・。たしか、コンデンスミルクとシナモン、珈琲、牛乳などが入っていたはず!これは本当においしかった。テネリフェに行かれる方にはぜひとも飲んでいただきたい一品です。コーヒー休憩の後は、一路テイデ国立公園を目指します。この途中でイケメンガイドさんが一番最初に書いた説明を色々としてくれました。情報量が多いから一生懸命メモをとってたら、車に酔ったよね~(-"-;A国立公園に入ってからは、カナリア諸島の植物についても色々と説明してくれていましたが…記憶に残っていない!!メモも残っていない!!(多分酔っててそれどころじゃなかった)▼テイデ国立公園の展望台(解説板)▼テイデ国立公園の展望台よりこの写真、左手前は国立公園の森林。中央奥がテイデ山。右側が街から海にかけての風景なのですが。。。風が強い日はサハラ砂漠の砂が飛んでくるそうで、海がもやっとしか見えません。街の中にいたら、結構砂を吸っているんじゃ( ゚∀゚; )…と思いました。ここからさらに車はテイデ山を目指します。▼徐々に緑がなくなってきて…▼砂地が増えて・・・▼火山地帯へ▼テイデ山の地層途中で車を下してもらって岩石を観察。これも説明してもらったけど・・・歴史じゃないから忘れました(灬ºωº灬)エヘこの時にとった写真↓。奥のほうに人がいるのですが…そんなに離れている感じはしないのに、人が小さいから結構距離があるんですよね。岩と砂と空しかないから、遠近感がおかしくなる場所でした。で、車窓をからずっと外をみていて…外を歩いてみて・・・思ったんですよ。FF15を丁度プレイしてたし。「ここ、ラバティオ火山じゃないかー!!」って。FF15をプレイしていない夫にはこの感動が伝わらなかったのが、残念で仕方ない。なお、イケメンガイドさんによると…「現在噴火しそうな火山はカナリア諸島に15あるけど、このテイデ山はそのうちの1つなんだよね。テネリフェ島それ自体が地球で第三位の規模を持つ火山なんだ。しかも歴史的に噴火を繰り返していて、人口密集地も近いから、国際火山学地球内部化学会によって、テイデ山は将来起こりうる自然災害に備えるための緊密な研究が要請される特定16火山(Decade Volcanoes) のひとつに指定されているんだよ。今日噴火してもおかしくないんだよね~。」っていってました。・・・それは困る( ̄□ ̄;)テイデ山の山頂へはロープウェイでのぼり、最後は徒歩だそうです。私たちは山頂まではいかず、ロープウェイの近くにある国営ホテルまでいき、ランチと観光タイムをとりました。▼右端中央がロープウェイの小屋そこからよーーーく見ると山頂へつなががるロープウェイがあります。テイデ山を望む奇石のある展望台で下車。ちょっとお散歩してから、ホテルへ向かいます。▼テイデ山(解説板)▼展望台この時、夫はちょっと体調を崩していたしので、一人でウロウロ。とりあえず(足の指を骨折してたけど)根性でここを登ってみる。だって一生に一回しかこないだろうし・・・(´ε`;)途中から石段がなくなって、帰れるか不安になり…。たいして登ってないけど、ヨチヨチ下山w途中で撮影した写真ですが、中央左寄りにある建物がホテル。そこからこの展望台までの道は、ずらーーーっと車が止まっています。岩山を登るので必死だったのですが、岩山の右側にはテイデ山がありました。降りてから気づきましたw散策後、ホテルのレストランでテネリフェの名物をいただきます。メニューは「うさぎとジャガイモ」。山の中のメニュー感(´∀`)▼ホテル入口▼内装もかわいかったです▼前菜▼メインのうさぎ夫は美味しいと言っていましたが・・・そもそも野性味あふれる味が苦手な私にはちょっと厳しかったデス。▼ジャガイモカナリア諸島の有名な料理の一つ。ミニジャガイモに塩やモホソースをシンプルに付けたもの。これは美味しかったです!!うさぎを食べずに、こればっかり食べてましたw食後はホテルのショップでお買い物。テネリフェのお土産は・火山石で作られたアクセサリー・バナナが有名だそうです。添乗員さんの船内新聞のお土産紹介欄には『「いやというほどバナナ」バナナを揚げた料理などもあるので食べてみましょう』と記述があるくらい、バナナ押しでしたwテイデ山を堪能したら、街へ戻ります。夕方は結構渋滞で時間が押したため、街中で下車するのはあきらめて港へ。港に到着した夫 「あと30分ある!」はい。ですよね。釣りですよねwということで船の近くの港で釣り。当たりはあるものの、魚があがることはなく。時間終了~。がっくりきている夫を連れて、帰船。最後に(主に釣りで)力を振り絞ったせいか・・・夫の体調が悪化したので夕飯は昨日に引き続き有料のアジアンレストランへ。やっぱりお米は胃にやさしい。夜はしっかり休んで、翌日に備えます。<つづく>

  • 19Feb
    • 地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:マデイラ島の画像

      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:マデイラ島

      1月1日 【マデイラ島・フンシャル】いやー、昨日の花火は本当によかったね。と思い返しながら起床。カーテンを開けて、昨日の美しかった島を・・・見たら、なんだか普通でしかもお天気はどんより。ちょっと魔法からさめたような気分になりましたwさて、気を取り直して。今日はマデイラ島へ上陸します。マデイラ諸島は北大西洋上のマカロネシアに位置するポルトガル領の諸島です。諸島内で一番大きな島が「マデイラ島」。大きさは奄美大島とほぼ同じです。マデイラはポルトガル語で「木」を意味します。その名の通り木々に覆われ、世界遺産であるラウリシルヴァ(照葉樹林原生林)に代表される豊かな自然が残る場所です。年間平均気温が20℃前後と温暖な気候で、南国情緒あふれるマデイラ島は別名、大西洋の真珠と呼ばれています。なんて解説を読んでたから、「やっほぃ、南国だ~!」と思ってコートを持たずに上陸!(セーターは着用!)そしたら、結構寒くて((((;゚Д゚))))どれくらい寒かったって?犬がこうやって丸まってしまうくらいですよ。船が到着したフンシャルは、マデイラ島の首都。フェンネル(ウイキョウ)が豊富に生息していることから「フンシャル」と名付けられました。ここはサッカー選手のクリスティアーノ・ロナウド氏の出身地としても有名です。ツアー参加者の方の中には「サッカー好きの孫にロナウドグッズを買ってきてってお願いされた」と言って、美術館(資料館?)に行かれる方もいらっしゃいました。▼下船口にてロナウドがお出迎え港からフンシャルまでは徒歩20分程。私たちは事前にツアーを申し込んでいたので、バスに乗って港を出発します。最初に向かったのはフンシャル郊外の町・モンテ。標高2000フィートのところにある町で・・・寒かったです。ここには15世紀末に建てられた「聖母教会」があります。内部にはオーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)最後の皇帝・カール1世のお墓があります。カール1世については、そんなに詳しくなかったので…帰国してから調べてみました↓1914年(大正3年)のサラエボ事件。第一次世界大戦が開戦したきっかけとして、歴史の授業で習ったことと思います。バルカン半島の都市・サラエボで、オーストリアの帝位継承者(皇太子)であるフランツ・フェルディナント夫妻が、セルビアの青年により暗殺されました。これにより、フランツ・フェルディナントの甥であるカール1世が帝位継承順位1位となります。詳細は省きますが、彼ら二人とも帝位継承者からは比較的遠い存在でした。特に幼いころのカールはお鉢がまわってくるとは思わなかった。それが色々偶然が重なり、皇太子になり、さらに・・・第一次世界大戦中に皇位を継ぐことになります。1919年に第一次世界大戦は終戦。降伏後、カール1世は国事不関与は認めるも、王権神授説にもとづき国王退位は明確に否定します。しかし色々あって、国王として再び迎えられることはなく、1921年、結局カール1世はマデイラ島へ流されることになりました。マデイラ島へ来たカール1世家族は、リッツホテルへ滞在。翌年、モンテへ移り、そこで亡くなります。36歳の若さでした。財産も没収されており、妻・ツィタの日記によると、このころには非常に貧しい状況だったといいます。カールの死後は長男オットーがその立場を継ぎます。1961年に帝位請求権の放棄を宣言するまでは、父カールと同様の態度を取ったそうです。またカールの妻・ツィタは1982年、国外追放以来63年ぶりにオーストリアへの入国をはたし、1989年、96歳で亡くなりました。カールの心臓はツィタの心臓と一緒にあるそうです。しかし心臓以外はまだ帰国を果たせていません。▼聖母教会▼教会入口のタイル歴史的な価値のあるものだそうです。説明してもらったけど忘れたので、キャプションの写真も一緒にUPしておきます。  ▼教会内部▼カール1世の棺▼祭壇▼教会入口部分私と夫との温度差を感じて頂ける一枚です。(もはや解説も聞いていない夫w)▼教会横のカール1世の像▼聖母教会横の広場この島では絵になる犬と猫に出会うことが多かったですさて、このモンテの名物といえば「ドボガン」です。ドボガンとは、急な坂道(アスファルト)を、おじさんが操る不安感の残る木製そりでドビューンと下るというもの。もちろんブレーキはありません。操作する人の技術により、スピード調整されます。お正月でお休みでしたが、営業していればぜひ乗ってみたかった。▼壁に立てかけられているのが、ドボガン(木製そり)です続いて訪れたのは「ボタニカルガーデン」。植物園です。マデイラは自然豊かな島であり、気候が温暖なこともり、世界各地の植物が持ち込まれ自生しているそうです。歴史は好きだけど、理科系は不得手なもので・・・。ガイドさんのお話を聞きながら、「へーー、ほぉーー」と言っていた私ですが、内容は全て忘れてしまいましたorz▼ボタニカルガーデンの案内板▼ボタニカルガーデンの中  この植物園で一番の思い出は・・・ニャンコ。空気をよめるニャンコがいたんですよ。もはや植物そっちのけで、猫の撮影会を開始w▼ふいっと現れて・・・▼ポーズをとる▼人に囲まれてもポーズ継続w植物園を後にしたら、さらにバスにのって移動。バナナ畑を横目に、バスは坂道をのぼっていきます。到着したのは「ジラン岬」。ジラン岬は580mの高さがあり、ヨーロッパで一番高く、世界でも二番目に高い岬です。展望台がありますが、その足元はシースルーor鉄格子。高所恐怖症の私は、下をみたらア・・・アウトでした。展望台のすぐ近くには軽食をとれるところと、お土産物屋さんがあります。寒くてたまらんので、岬をさっさと後にして出発時間まで店内で過ごします。その後フンシャル市内でバスを下ろして貰います。夫「釣りをしたい。」私「散策したい。」・・・。「お土産物は?」「買いたい!」ということで、ナティビティー(クリスマスに飾るキリストの生誕の様子を再現したもの)がまだいっぱいあり、陽気な音楽のかかる町中を歩きます。▼ナティビティー▼フンシャル市内マデイラの名産品は・マデイラワイン・コルク製品・バナナ(ポルトガルにのみ出荷)ポルトガルの民芸品もおいているので、お買い物は楽しい街でした。釣り釣りうるさい夫に「カテドラルだけ~。お願い、カテドラルだけ~~。」と懇願し、移動。フンシャル市内の見どころの一つ、カテドラル(大聖堂)。1514年に建てられた、マヌエル様式のカテドラルでポルトガルが海外に建設した最初のものです。▼カテドラル▼カテドラルの時計台ここからは夫タイム。海岸沿いを歩きます。海側へ出て、船がみえるヨットハーバーへ。風はビュービュー吹いてますが、カテドラルにも付き合ってもらったし、気合で我慢。乗船時間もあるし、釣れないので、船に向かって移動を開始。港の近くになにやら城塞みたいな場所(風はビュービュー)を発見。入口にはまたもや猫。夫「こんなところで釣れるわけがない。・・・けど、竿を出してる絵が欲しい!」そこでもう一度竿を出すも・・・。夫「つれへ―ーーーん!わかってたけど、つれへーーーん!!」嘆く夫を横に、せっかくだからと城塞?のようなところを散策。ここにも絵になる猫がいっぱい。人になれてて、写真をとっても逃げません。まぁまぁ、明日も島だからさ。きっと大丈夫だよ。明日は風が収まっているといいねぇ。この日の夕飯はお正月なので、有料のアジアンレストランへ。エスニック料理やお寿司が出てきました。すっごく「機械でカパッ」って感じの握り寿司。オアシス(カリブ海クルーズ)のジャパニーズレストラン(と名乗っていたまったく日本料理じゃないレストラン)に比べれば、美味しかったです。・・・お寿司の写真は撮り忘れたので、シューマイの写真をのっけときますネ(。+・`ω・´)キリッ<つづく>

  • 12Feb
    • 地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:マデイラ島のニューイヤー花火の画像

      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:マデイラ島のニューイヤー花火

      ※日本に帰国して、やっと落ち着いて筆をとれたので・・・クルーズ旅行の続きをUPします!12月31日 【バルセロナ→フンシャル】この日は終日航海日。船は大西洋を航海し、夜にはフンシャル・マデイラ島に到着します。昼はゆったり仕事をしながら過ごして、夜はカウントダウンからのニューイヤーパーティーです。さてこの日のランチタイムは、旅行会社企画のランチ会。レストランに行ったら、なんと「緑のたぬき」がヽ(*'0'*)ツ添乗員さんがツアー参加者全員分の緑のたぬきを日本から運んで来てくれたそうです。ありがたや~ヾ(@°▽°@)ノまさか年越しそばを食べれるとは思っていなかったので、とてもうれしかったです。日本のカップ麺って、なんて美味しいんでしょうねー!そうそう、海外の方には珍しいものに見えたようで…ウェイターが交代で見学しに来ていましたwディナーはいつものメインダイニングで。でも、料理はCarlo Cracco氏監修の特別コースです。いつもよりは美味しいディナーでした(^~^)カウントダウンまでは時間があるので、写真をとってもらったり、カジノにいったり・・・以前にも書いたことがあるかと思いますが、夜になると船内の色々なところでプロのカメラマンが写真撮影をしてくれます。最初は恥ずかしくて仕方なかったのですが…三回目のクルーズともなると・・・ねぇ。外国特有のポーズもだんだん恥ずかしくなくなってきますwたっくさん撮影してもらって、最終日に気に入ったものをまとめ買い!(まとめて買うと安くなるののです)いい写真があればいいね~ってことで今回はバッシャバッシャ撮ってもらいました。で、今回は気に入った写真があったので、写真だけでなくデータも併せて購入してきました。ということで、ホームページ等のプロフィール写真が変わりましたヨ!▼この日のドレスコードは「赤と白」のインフォーマルさて、日本からのあけおめメールに「まだこっちは明けてない!」なんていいながら返信をしていたらカウントダウンの時間です。船はフンシャル・マデイラ島に入港済み。シャンパン片手に、コートを着込んで、船上へ。今回のクルーズの一番の楽しみ。「マデイラ島のニューイヤー花火」のお時間です!マデイラ諸島は、大西洋にあるポルトガル領のリゾート地。ヨーロッパでは風光明媚なリゾート地として、高い人気を誇ります。このマデイラ島であがるニューイヤー花火を見るために、世界各地からクルーズ船や観光客がこの時期には集まります。23:40頃に上の方のデッキに移動して、場所を確保。目の前にはマデイラ島。船は乗客が花火を楽しめるよう、少しずつ旋回します。それを計算して、船尾の方へ。海上にはクルーズ船が何隻も漂っていました。いやー。本当に良かったです。日本では見れない花火だと思いました。▼23:45頃の船から見たマデイラ島まだ夜景がきれいで、集まっているクルーズ船もライトが点いています。▼23:50頃からぽつぽつと花火が上がり始めます。島の色々なところからあがるので、これだけでも結構キレイ!▼ニューイヤー!島内40か所ほど&海上数か所から花火があがります!クルーズ船は船上のライトを暗くして、各船がリズムよく汽笛を鳴らします♪本当に圧巻ヽ(*´Д`*)ノマデイラの花火は、船上から島全体を眺めるのが一番の贅沢だと思いました。日本でこんなに一気に花火をあげるのは・・・無理な気がします(゜д゜;)天気が悪ければ花火はあがらないし、航海が順調でなければ間に合わなかったし、無事に今回の旅で見れて本当に良かったぁぁぁ!!!さて、花火の後はニューイヤーパーティーで船内は盛り上がります。▼デッキでは、歌って踊って大騒ぎ▼プールサイドには氷と野菜のアート作品▼お菓子の町までありましたガイドさんや、ツアーの方々と一通り騒いだら…満足して就寝です。<つづく>

  • 07Jan
    • 地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:終日航海・MSCマニフィカの船内の画像

      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:終日航海・MSCマニフィカの船内

      12月30日【バルセロナ→フンシャル】バルセロナを出た船は、マデイラ諸島・フンシャルを目指して航海を進めます。▼今回のニューイヤークルーズの航路▼今日の海夜にはジブラルタル海峡に入り、二時間ほどで船は海峡を抜けます。ジブラルタル海峡は、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を隔てる海峡です。大西洋と地中海を繋げる出入り口として、軍事上・海洋交通上重要な位置を占めてきました。ヘラクレスのコラムでは、世界の端と考えられていた場所だそうです。海峡を越え、大西洋に出ると船は結構揺れました。酔い止め必須(;´Д`)今日は終日航海。ドレスコードはガラ(フォーマル)。お昼はゆったりのんびり仕事をして、夕方からはドレスアップしてディナーへ。ショーの後は、カジノに行き就寝。今回私たちが乗っている船は「MSC マニフィカ」。イタリアのカジュアル船(船籍はパナマ)です。MSCは300年以上の歴史を持つ、現在世界で二番目に大きな船会社。450隻もの船が世界中を航海しています。1675年、創業者アポンテ一家がイタリア・ソレントで海運業を始めたのがMSCの起源です。後にMSCクルーズを創設。現在、非上場企業としては世界最大のクルーズ会社に成長しました。マニフィカは前回乗ったノールダムと同じくらいの規模です。総トン数:95,128トン乗客定員:約2500名乗務員数:約1000名ショーや客室、カジノはこれまで乗った船に比べれば少し見劣りします。レストランサービスもノールダムに比べると、やはり残念。そして、メインレストランの食後の珈琲が、まさかの有料。が、料理は美味しめです。特にピザが!!やはりイタリア船だからでしょうか。毎回船の食事が日本人の口に合わなくて、途中でつらくなってしまうのですが、今回は料理は比較的良かったです。あとは休憩時間はあるものの、12のバーのうち、どこかで必ず生演奏がずっーと行われています。ダンス教室も多くて、音楽が好き!踊るのが好き!って方には楽しいと思います。ヨーロッパでは第二位に人気を誇るクルーズラインがMSCだそうです。が、日本のサービスを期待して乗るとうーーーんと思ってしまうかもしれません。フォーマルも堅苦しくないカジュアル船ですし、気楽に陽気に楽しみたい方向けの船かと思います。▼レセプション前のラウンジ▼ショップ▼プール▼シアターこの日のショーの前には各セクションの責任者やキャプテンが紹介されました。マイクをもっている方がキャプテン(船長)です。希望者はキャプテンと写真を撮ることも可能です。私たちは撮りませんでしたが、撮影された方のお話では、製本されたキャプテンとの写真が25ユーロだったそうです。お高い・・・。明日は夜にマデイラ島に到着し、ニューイヤーを迎える予定です。マデイラ島の花火が楽しみっ(*´▽`*)<つづく>

  • 03Jan
    • 地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:バルセロナ・サグラダファミリアの画像

      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:バルセロナ・サグラダファミリア

      12月29日【ジェノバ→バルセロナ】寝ている間に、船はスペイン・バルセロナへ。11:00頃港に到着。天気は晴れ。今回は3時間半の「バルセロナ観光ツアー」を事前に申し込んでいたので、12:00すぎに船を降ります。港に迎えに来てくれていた日本人ガイドの宮本さんに案内され、バスに乗り込み市街地へ。宮本さんのお話はとっても上手で、バルセロナ観光はとても楽しいものになりました。バルセロナはスペイン最大の港湾都市。市街地までは港からバスで15分程です。備忘録をかねて・・・ガイドさんのお話で印象に残ったことをまとめておきます。スペイン人は結構のんびりした生活のようです。朝は出社時間より少し遅れて、出社。食事は一日5回。会社について少しゆっくりしたら、ブランチへ。ランチタイム(シエスタ)はゆったり2時間。夕方にも食事をとります。退社時間は20時ですが、15分前には退社準備。21時くらいからディナー。だから夜遅くでも小さな子供達は親と一緒にバルにいます。親がそのように育ったので、夜遅くに子供を連れてバルにいるのは当然なんだそう。私的には、スペイン人はイタリア人よりお休みの多いゆったりしたイメージになりましたw現在のスペインの失業率は25%。4人に1人、職がない状態です。移民の受け入れをしているものの、国民でさえ職がない状態のため、移民はなおさらのこと。したがって泥棒さんになるのだそう。とにかくスリに気を付けてください。と何度も言われました。サグラダファミリア近くの不動産は、区画整理されています。土地は四角形の四隅を切り落としたような形(ハ角形)になっており、ビルとビルの間には隙間がありません。居住区は2階から。1階は商業施設が入っています。カサ・ミラを見学した時に教えてもらったのですが、昔は二階が一番高級な部屋でした。階段しかない時代、二階に豊かな人が住み、お金がない人程上層階になったそうです。そのため二階の装飾が一番豪華になっています。また現在、日よけはエリアごとに色が決められています。私たちが通った道では、緑色のエリアだったようで、マンションのベランダには緑の日よけがいっぱいでした。最後に、スペインといえば、パエリア。サグラダファミリアの近くで、夫が「パエリア安いでっ!食べたいっ!」と言ったのをガイドさんがひろってくれて教えてくれました。パエリアは一人前20~30ユーロ。観光地の近くにある10ユーロ前後のパエリアは全て「チン」だそうです。パエリアは安いものではないので、ちゃんとしたものを食べたければそれなりのお値段のところに行かれることをオススメされました。▼コロンブスの塔コロンブスが指さすのはアメリカ大陸!港から一番近い目印です。▼サグラダ・ファミリア(聖家族教会)1882年、初代建築家フランシスコ・デ・パウラ・デル・ピリヤールによりこのプロジェクトの礎石が置かれました。1883年からアントニ・ガウディが引き継ぎ、1926年に事故で亡くなるまで力を注いだ大作です。現在もガウディが準備した模型に従って建築が続けられています。サグラダファミリアといえば、100年たっても完成しない…といわれていますが、現在2026年(ガウディ没後100年)を目指して建設中。サグラダファミリアは、2010年11月7日に教皇ベネディクト16世によりバシリカ(大聖堂)として祝別され、公開された神聖な礼拝所となりました。そのため現在はサグラダファミリアの前にバスで乗り付けることはできなくなったそうです。サグラダファミリアから少し離れた公園から撮影したものです。ここからだと生誕のファサードの上部もきれいに写真に収めることができます。鳩は平和の象徴ペリカンは慈愛の象徴▼生誕のファサード生前のガウディが手がけた門で、世界遺産に登録されています。(サグラダファミリア全体が、世界遺産に登録されているわけではありません)生誕のファサードは、3つの門とその上に立つ4本の塔で構成されています。生誕のファサードの中央の門は、イエス誕生の様子を表しています。中央に聖母マリアとイエス・キリスト。左側に東方三賢者。イエスの上には三賢者がイエスがいる場所の目印にした☆があり、そこから光が降り注いでいます。この☆が、クリスマスツリーの一番上の☆の由来です。上部には祝福する天使。これは日本人・外尾悦郎氏による彫刻。外尾氏がご息女とその学友をモデルにされているため、その表情が日本人だと言われています。生誕のファサードには、他にも見どころが。説明に聞きほれて、うっかり写真は撮り忘れましたorzカメレオンの彫刻→カメレオンは変化を表す動物。サグラダファミリアは時代とともに変化していく教会だということを示唆しているそうです。陸ガメと海ガメの彫刻→柱の足元には亀の彫刻があります。カメレオンと反対で、亀は変わらざる不変のものを意味しています。バルセロナの海側にいるのが、海ガメ。山側にいるのが、陸ガメ。さらに亀の口には穴があいていて、雨どいの役割も果たしています。現在は水で足元が濡れて危ないということで、水が流れてこないようにされているとのこと。▼礼拝所イエスは本物の人間を型取りして作られています。 ▼内陣全て外からの光で、この美しい空間が出来上がっています。ここは本当にきれい!!私たちは昼すぎにここを訪れましたが、外からの光で、内陣に向かって左側は赤とオレンジ色の空間、右側は青と緑の空間となっていました。▼受難のファサードイエスの受難と死、そして復活を表しています。ここのイエス・キリストは生誕のファサードとまったく違う雰囲気です。「イエスは教会に殺された」ということを表したかった彫刻家は、イエスが十字架に磔にされるのではなく、十字架が教会に刺さっているという意匠を施しています。門の左側には、ユダの接吻と裏切り。その左下には4×4の数字の書かれた石板があります。これは縦横斜めどれを足しても33(イエスの亡くなった歳)になります。▼地下礼拝堂ここにはガウディのお墓があります。ミサの時間しか開かないようですが、その様子は礼拝所の左右の小窓から覗けます。ガウディは貧しい家の出身です。また幼少の頃より自然に囲まれ育ちました。それゆえ「自然」と「信仰」を重要視した建築家です。彼は生涯をかけてこのサグラダファミリアの建築に携わりました。特に晩年は清貧と祈りに明け暮れました。彼は食べるもの以外の残りのお金はすべてこの教会の建築費にあて、それでも足りない資金を集めるため募金活動に精をだしたそうです。着るものもボロボロで、周りの人からは止められることもあったそうです。しかし犠牲なしには何の進歩も得られないとの確固たる思いで資金を集めサグラダファミリアの建築に明け暮れました。1926年6月7日、ガウディは路面電車に轢かれます。着ているものもボロボロだったため、身元不明として聖十字架病院に運び込まれました。その3日後、ガウディは息を引き取りました。サグラダファミリアの建築に携わってから、43年間。彼の熱意と信仰の深さを感じる話です。礼拝所に向かって左手側から撮影礼拝所に向かって右手側から撮影このほかにも資料館や当時の作業員の子供達のための学校、ギフトショップがあり、さらに予約をすればエレベーターで上層部へも行けます。今回は残念ながら登ることができませんでしたが、近くで見て、その空間に入ってみて、サグラダファミリアの美しさを体感しました。ほんと、行ってよかった(。-`ω-)b▼カサ・バトリョ(バトリョ邸)ガウディのモデルニスモ建築。当時「石切り場」といわれ、馬鹿にされていたそうです。クリスマスのデコレーション中でした。▼カサ・ミラ(ミラ邸)こちらは車窓からだけだったのですが、やはりクリスマスデコレーション中。竜の伝説をモチーフにしたというカサ・ミラ。ですがデコられていたため、その雰囲気はまったくわからずwガイドさんからは「youtube」で見てくださいと薦められました(; ・`д・´)▼グラシア通りブランドショップが立ち並ぶ通りです。カサ・ミラ、カサ・バトリョもこの通りに面しています。▼モンジュイックの丘ここからはバルセロナ市内を一望できます。私たちが乗っている船もばっちり。こうやってみるとそれなりの大きさです。バルセロナって高層ビルはそれほど多くないのですね。サグラダファミリアの存在感を感じました。観光を終え、港についたら乗船です。ポイントしか回りませんでしたが、結構満足。この日もディナーをメインダイニングでとって、夜はゆっくりショーをみて、就寝。明日は終日航海です。<つづく>

  • 30Dec
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      地中海・マデイラ島・カナリア諸島を巡るニューイヤークルーズ:イタリア・ジェノバから出航

      こんにちは。園原夫婦です。2016年ももう終わりますね。2017年も園原夫婦をよろしくお願いいたします。さて、年末年始はまた1年ぶりにクルーズの旅へ出ています。今回からしばらくはその様子をお届けしたいと思います。1回目は世界最大級(当時)の船「オアシス・オブ・ザ・シーズ」で西カリブ海クルーズへ行っていました。2回目は船のグレードを上げて「ノールダム」で南太平洋をめぐりました。今回はイタリア船 MSC「マニフィカ」です。地中海からマデイラ島・カナリア諸島を巡っていきます。クルーズは一度行くとはまる、とよく言われますが、私たちも類にもれずはまってしまっています。前回のクルーズは海だらけで、釣り好きの夫にはまさに「天国」でした。今回はイタリア、スペイン・ポルトガル・モロッコと、歴史のある国々です。…ということは、私にとっての「天国」のはずっ(*´Д`)とはいえ、夫は入港する度に「この港は竿を出せるのか」「釣り人はいないか」と気にしていますが。(もちろん釣り竿は携行済みw)それでは、15日間のニューイヤークルーズへ出発です。----------------------<旅の概要>日程:2016年12月27日~2017年1月10日行先:地中海・マデイラ島・カナリア諸島(イタリア・スペイン・ポルトガル・モロッコ)乗船:MSC「マニフィカ(Magnifica)」----------------------2016年12月27日【日本→ミラノ】羽田空港より出国。今回はビジネスなので出発まではラウンジでのんびり。家族に年末年始の挨拶の電話をいれてから、飛び立ちます。今回はドイツ・フランクフルトを経由して、イタリア・ミラノへ。この季節のフランクフルトはなかなかの冷え込みでした。ミラノもマイナス2度くらいと聞いていましたが、なんと私たちが到着した日は20度( ゚Д゚)ラッキーだったのかもしれませんが、シドニーの時といい…地球が心配。日本を出発して24時間後、ミラノのホテルへ到着。トランジェントが長かったorz12月28日【ミラノ→ジェノバ】朝食をとってから、ミラノを出発。ツアー専用バスでジェノバへ向かいます。昨日は温かったミラノですが、今日は寒い。マイナスに戻ったそうで…。ジェノバへ向かう道すがら、ガイドの方がミラノやジェノバについて話してくださいました。以下、ガイドさんのお話をメモしておきますφ(..)ミラノはエコの街。そのため、街中にはレンタサイクルとカーシェアがたくさんあるそうです。あとは、縦列駐車が多い。日本人的には「むりやー」と思う狭い縦列駐車をしていますが、イタリア人にとっては生まれた時からある当然の風景だそうで、みんなうまく駐車をするそうです。イタリア人じゃなくてよかった。私にはムリ(; ・`д・´)ミラノはもともと平野に広がる城塞都市。高低差がなくフラットな道が続くのがミラノです。ただ一部は坂道になっています。それは近代化の中で、取り壊した城塞を道に敷き詰めた名残なんだとか。また昔は町中に運河が走っていました。衛生上の問題等もあり、現在はその多くが埋め立てられています。だから夏には蚊が多いそう。イタリア人は陽気で適当なんて話をよく聞きますが、現地に住む日本人から見たら働き者だそうです。朝はスーパーが8時くらいには開いていて、日本に里帰りすると「日本人は朝が遅い」と感じるとか。日本は核家族化が進んでいますが、こちらは大家族構成。祖父母が子供の面倒を見て、両親は働くというのが通常スタイル。自営業が多く、女性も一家を支えるために働いています。イタリアの学校は、一歩外に出れば親の責任ということで、忙しい両親にかわり、祖父母が子供達の学校の送り迎えをします。学校教育は進級が厳しいらしく、学年があがる度に生徒が減っていきます。大学は全国統一の試験があり、それに合格すれば希望の大学へ。ただし大学への進学率は低く、大卒といえばエリート。勉強に才能がある人間はその道へ、その才能がない人は他の自分の才能を生かす道を、という考えのもとだそうです。そのためイタリアの大学の学術レベルは高く、ランキングでは東大より上位にイタリアの大学が入っています。とはいえ大卒のエリートで、月給1300~1500ユーロというから、日本より安い。社会保障関係費で40%くらいを持って行かれ、北欧についで高いのではと言われていました。医療はかかりつけの家庭医がおり、その人に診てもらうのは無料。そこで処方箋をもらって薬局へ行くか、専門医を紹介してもらいます。救急医も基本は無料。家庭医は予約が必要なため、手軽にすぐ見てもらえる救急に風邪などの方も来られて現場が大変になったこともあり、今は簡単な病気で救急にかかったらお金がかかるように。でも重大な病気の場合は、従来どおり無料。一方食費は高い。イタリアは外食は高くつくため、自営業者はランチを家に食べに帰ります。(さすがに大都市圏のサラリーマンはそうはいかないようです)女性にとっては三食準備するのは当然だそうで…。大変ですね。ただランチで2000円から3000円はかかると言われると、納得です。女性は二週間に一度、市に行って大量に食材を仕入れます。野菜や肉は日本よりかなりお安い。鶏の丸焼き1匹が5ユーロ( ゚Д゚)!ですが、ミラノは海に面していないこともあり、海鮮は贅沢品。お魚は一匹20~30ユーロ( ゚Д゚)!!魚が食卓に並ぶ日は、贅沢な日なんだそうです。▼ミラノの中心街こんなお話を聞きながら、2時間ほどでジェノバへ到着。ミラノ~ジェノバはこの季節、霧が深く風景が見れないことが多いそうです。ですが、この日は晴天。牧歌的な風景を楽しむことができました。ジェノバは12~13世紀に全盛期を迎えた、イタリア最大の港湾都市です。ジェノバがあるリグーリア州では、ジェノベーゼ(バジリコと松の実のソース)が有名。またジェノバはクリストファー・コロンブスが生まれた街。彼はジェノバの商人の息子として地中海商船の業務に従事し、のちにスペイン女王の後援を得て航海をすることになります。ミラノは侵略が繰り返され、移住者も多いため、土地に根付いた人というのは少ないそうです。だからなのか、「ミラノ人は~~」みたいなことはあまり聞かないそう。一方ジェノバは土着の人が多く、外国人の出入りが多い港であり、かつ商人の町であるため「ジェノバの人は用心深いケチな人」といわれているそうです。ドライバーさんがジェノバの方で、ご自身でそうおっしゃってましたw日本でいえば、堺の商人みなたいな感じでしょうか?この日は出航手続きがあるため、ジェノバの街を楽しむことはできず残念。海岸沿いの急な崖に町が開発されており、アマルフィ的な綺麗な風景(←行ったことはないけどもw)が広がっていました。バスは崖沿いをくねくね走るため…酔いましたがねorz▼港に到着12:00頃には港へ。ポーターにスーツケースを預けて、私たちは乗船手続きです。乗船前の写真を撮影したら、手荷物検査を受けて、いざ船へ。さすがに三度目ともなると慣れたものですな(。-`ω-)言葉がわからなくても、雰囲気で乗り切れるw乗船したら船内でランチをすませ、日本人ガイドの乗船説明会へ参加。マニフィカには日本人ガイドが乗船しています。今回の航路では日本人の乗船客が通常より多いのかもしれません。これまでの船では日本人ガイドが常に乗船していたわけではないので、今回は安心感が半端ない!船内新聞もレストランメニューも日本語が充実しています。その後、国際海上安全法により義務付けられた避難訓練へ。これは全員参加必須です。マニフィカでは客室に備え付けられた救命胴衣を持って、定められたアッセンブリーステーション(緊急時避難場所)へ集合します。緊急時のシグナル(7回の短い警笛と1回の長い警笛)を聞いたら、集合。とはいえ、初めてオアシスに乗船した時にのんびり向かっていたら、せかされた経験があったので…二回目以降、私たちは早め早めにアッセンブリーステーションへ向かっています。▼避難訓練の風景そしてこの日まさかの奇跡がおきましたw船が出航するシーンは華やかで感動的、、、なはず。添乗員さんも「絶対にデッキに出て、見てくださいね~」って豪語していました。それが、避難訓練が終わってすぐ客室に救命胴衣を持って帰ってきたら船が動いてたwwwえ、あれ?出航シーンって大切な式では( ゚Д゚)なんでこっそり出航してるのーーー。ってことで、今回も客室のバルコニーから港を眺めることに。(1回目2回目は夫が出航時に爆睡だったので、やっぱり客室から眺めてましたw)▼バルコニーからみたジェノバの町▼上の客室の方がパンをあげていたので、バルコニーに鳥の群れが!スーツケースを受け取って荷ほどきをしていたら、もう18:30。ディナータイムです。今回もディナーはメインダイニングにてツアー参加者の日本人の方々と会食です。ここで色々な方のお話を聞けるので、私としては楽しみな時間。ディナーの後はショーへ。さすがに疲れがピークで、ショーの最中から私はウトウト。22:30頃には、ベッドの中で爆睡。やはり乗船一日目はぐったりしてしまいます(´-ω-`)明日はスペインだ~!<つづく>

  • 01Oct
    • 新選組巡察録:斎藤一忌レポート その2(斎藤一ご子孫・藤田五郎氏の記念対談)/会津エリアの画像

      新選組巡察録:斎藤一忌レポート その2(斎藤一ご子孫・藤田五郎氏の記念対談)/会津エリア

      前回に引き続き「斎藤一忌」の模様をお届けします。2016年9月24日【会津若松】◇第13回 会津新選組まつり「斎藤一忌」14:20頃から、阿弥陀寺本堂にて「記念対談」が行われました。私と友人Kはすでに墓参していたので、焼香の列には並ばず、大急ぎで本堂へ。おかげで最前列、一番前の席を確保できました。やったー(*´Д`)14:20頃、対談開始。演題は『「斎藤一」没後101年目のポートレート』。ご子孫の藤田太郎氏と、会津新選組の佐藤局長による対談形式で行われました。藤田太郎氏(埼玉県)は、斎藤一の長男の長男の長男。つまり、一さんのひ孫にあたります。当初は藤田太郎氏、お一人での講演予定でしたが「斎藤一が無口だったと伝わっているように、私も口下手なもので…」ということで、対談形式になったとのことwこの日は斎藤一のご子孫として、藤田太郎氏ともう一人女性が来られていました。お二人とも長身というわけではありませんでしたが、物静かで控えめな雰囲気でありながら、なんだか凛とした空気をお持ちでした。講演内容は大きく分けると、1)斎藤一の略歴と名前の変遷について2)斎藤一のご子孫の写真から考察する、斎藤一の若いころの顔について3)藤田家と会津藩主(九代)松平容保との関係性についての3点に要約できるかと思います。<斎藤一の略歴と名前の変遷について>藤田太郎氏が話してくださったことを踏まえたうえで、私の知識を総動員して略歴をまとめておきます。近藤・土方・沖田と比較して、斎藤一の名が世に知られるようになったのは最近のことです。昭和初期のころは、新選組と言えば近藤でしたし、その後は土方・沖田がもてはやされていました。したがって斎藤一については「謎の多い男」というよりただ近藤・土方・沖田らと比較して、史実の研究が進んでいないだけというのが現状です。ですから、文学作品の中の斎藤一像が優先され、その事実がわかっていないこともあります。例えば、よく言われる斎藤一の「左利き」説。それを証明する証拠は、現在のとろこありません。当時の文化風習から考えるとまず考えられないことなので、時代考証をされている方や歴史家の方の多くは否定寄りの回答をされています。それは文学作品の中だけのことだと。今回の講演会の質疑応答でも、左利きについて太郎氏に質問されている方がいらっしゃいました。ご子孫としては「左利きを証明するものはない。ただし、右利きだったことを証明するものもない。」と答えられていました。当然といえば当然な気もします。「私は右利きです」とわざわざ文書等に記すことは、そうそうないですよね。斎藤一の残した手紙とかの研究が進めば、筆跡とかから何かわかるのかもしれませんが・・・。ということで、今回の太郎氏の斎藤一の略歴解説は、私としては何点か新しく知ることがあり興味深かったです。<斎藤一略歴>天保15年、江戸生まれ。一さんは、元明石藩士・山口右助の次男として生まれます。太郎氏によると、右助は千石知行の旗本・鈴木重備家に入り、後に用人となりました。また藤田家には、次男ですが「一」という名をつけた理由として、1月1日生まれだったからと伝わっているそうです。ただ、本当に1月1日だったかどうかは確証がないとのことでした。18歳の時、旗本を斬ったことを理由に江戸にいられず、京都にいる父・右助の知人を頼り寄寓。永倉新八の手記「浪士文久報国記事」によると、試衛館へはこの事件以前に出入りしています。この頃に山口一から、斎藤一へ改名。京で浪士組(後の新選組)に加入。在京時代の斎藤一は、新選組三番組長としての役職が一番有名ですね。伊東甲子太郎率いる御陵衛士への密偵(といわれている)のため、一時新選組を離脱。慶応3年3月10日の油小路の変(甲子太郎暗殺)の後、新選組へ復帰。在京時代、斎藤一から山口次郎(二郎)へ改名。一説には、普通は隊の規則により新選組を離隊することはできないため、油小路の変後に別人として再入隊するための改名だったといわれています。太郎氏のお話によると、慶応3年12月7日の天満屋事件の頃の改名だとのことでした。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いを経て、流山→会津戦争へ。近藤勇亡き後、土方歳三が負傷している間、隊長として新選組を率い会津で戦っています。なお、一番組長・沖田総司は江戸で労咳の治療→没、二番組長・永倉新八は既に新選組を離脱→別の隊で会津戦争に参加していました。山南敬助や井上源三郎、藤堂平助は京で死亡、原田左之助は永倉とともに離脱→行方不明。ですから、試衛館組の幹部で会津戦争に新選組(←正確にいうとちょっと違うけど、説明がややこいのでカット)として参加しているのは、土方歳三と一さんだけになります。会津戦争の後半、母成峠、猪苗代の戦いで大敗後、1か月に及ぶ鶴ヶ城での籠城戦に入ります。この時、土方歳三は再起をかけて仙台へ向かいます。しかし、一さんは数名の新選組隊士と会津へ残りました。一さんの最後の激戦地・如来堂では西軍(新政府軍)300名を相手に13名で戦ったといいます。もともと新選組は会津藩(松平容保)お預かりの京都の警察組織でした。会津藩とは在京時代から縁が深く、会津藩が降伏した後、一さんは会津藩と命運をともにします。この頃、山口次郎(二郎)から一瀬伝八へ改名したと言われます。降伏後に西軍に新選組とばれないための改名であるとか、会津藩へ属するための改名などの説がありますね。なお、この改名については太郎氏は触れておられませんでした。謹慎後、会津藩の斗南への移封と共に、他の会津藩士と共に斗南へ移住。明治3年4月から、士族総数4千戸のうち2,800戸、移住者17,000人が陸路と海路にわかれての大移動をしています。明治7年3月17日、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と結婚。なお太郎氏によると、時尾さんは戸籍上では「トキヲ」と表示されているそうです。ちなみに時尾さんの写真はこれまで一枚も世にでていませんでした。が、今年一さんとその家族の写真が公開されたことで、初めて時尾さんの顔も世に知られることとなりました。二人の結婚では、元会津藩主・松平容保が上仲人、元会津藩家老の佐川官兵衛(薩長からは鬼の官兵衛といわれる程の武勇の持ち主で、籠城戦では城にはいらず最後まで外で戦った方です。)、山川浩(後に津田梅子らと渡米、帰国後鹿鳴館の花と言われた大川捨松の兄です。)、倉沢平治右衛門(時尾さんは養女として倉沢家に入っています。斗南では「五戸の中ノ沢番外地5」に住所があり、中ノ沢塾を開設し若者の教育に勤められた方です。斗南時代の一さんは彼と同居していました。数年前の史跡巡りで、この場所に大雨台風の中、めっちゃ迷いながらもたどり着きました。犬に吠えられながら…。ご子孫ではないもののこの土地を守ってらっしゃる方がいて、雨の中傘をもってきてくださり、お話することができました。私にとってはちょっと思い出深い場所です。)が下仲人を務めています。最後の名、藤田五郎に改名したのはこの頃だと言われています。藤田は時尾の母方の姓だと伝わっていますが、一方で結婚前の明治5年の斗南の戸籍に藤田五郎の名があることから、(結婚後ではなく)斗南に移住してから改名したともされます。また太郎氏のお話によると、藤田五郎の名は松平容保公から賜ったとも伝わっているそうです。後に江戸へ行き、警視庁へ入隊。警視隊として、西南戦争へも参加しています。退職後、東京高等師範学校(現・筑波大学)の守衛、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を務めます。一さんは、没後会津の地に骨を埋めるよう言い残したと伝わっています。その為藤田家の墓所は、会津七日町の東軍(旧幕府軍)墓地の一角にあります。(名前の変遷はややこしいので、ここからは斎藤一で統一して記載します)<斎藤一のご子孫の写真から考察する、斎藤一の若いころの顔について>斎藤一には三人の子がいました。太郎氏を含む簡単な系図は↓の通りです。太郎氏によると、三男・龍雄は生まれる前から会津藩番頭・沼澤家へ養子に出すことが決まっていたといいます。▼鶴ヶ城近くにある沼澤家屋敷跡▼解説板に三男・龍雄についての記載もありました。今年公開された斎藤一の晩年の写真を含む「藤田家関係写真」は、全部で7点。現在は福島県立博物館に寄託されています。(そのうち原本4点と写真パネル(複製)1点が2016年9月30日まで常設展で展示されていました。)これまで斎藤一の写真(顔)として伝わるものには↓の3点がありました。これは太郎氏の父・藤田實の写真を基に描かれた想像上の藤田五郎です。太郎氏曰く「ネット上では祖父・勉がモデルといわれているが、本当は父・實がモデルです」とのこと。次に、西南戦争から横浜港に凱旋した別働第三旅団(警視隊の一部で明治10年と推定)の写真。太郎氏曰く「藤田家の代々の顔(骨格)と似ていない。子孫の目から見ると斎藤一とは思えない。」とのこと。最後に、斎藤一の次男・藤田剛と浅羽ゆきの結婚式記念(大正2年9月28日東京赤坂 八百勘にて)の写真。これは裏書があり、「藤田五郎」の名が記載されています。太郎氏曰く「本物です」とのこと。またここには斎藤一の長男・勉(36歳)も写っており、二人の骨格が似ていることが見て取れるとのことでした。太郎氏曰く「藤田家の特徴は頭がとがっていること」なんだそうです。ぺたっとした平たい頭じゃないってことらしいです。これらを提示されたあと、長男・藤田勉の78歳から36歳の写真5枚と、32歳の写真(今年公開された写真の一枚)を並べて見せてくださいました。今年公開された写真の中に、若いころの斎藤一の写真はありません。ですが、「長男・勉の顔の変遷をみてもらうと、若いころの斎藤一を十分に想像できるのではないでしょうか。」とおっしゃっていました。余談ですが、長男・勉(太郎氏にとっては祖父)の75歳、78歳の写真は眉毛が元総理大臣の村山氏のように仙人のようになっています。太郎氏は「祖父に聞いたら70歳を超えてから、急に伸びてきたといっていました」と言われていました。確かに今年公開された若いころの写真は仙人眉ではない!また長男・勉(32歳)と妻・みどり(22歳)の結婚写真(今年公開された写真の一枚)では、こんなお話も聞かせていただきました。晩年、時尾さんは自宅に女子高等師範学校の生徒を下宿させ、寮監を務めていました。生徒の家族といえど男子禁制だった等々、非常に厳しかったと伝わっているそうです。そんな中、時尾さんが女子高等師範学校の下宿生だったみどりさんを非常に気に入って、勉さんの嫁にと懇願。写真を見るとわかりますが、みどりさんはかなりの美女。さらには富裕層のご息女だったらしく、家柄も違い、簡単には嫁に来てもらえなかったようです。が、なんやかんやと嫁入り決定したとのこと。対談では「会津の女性は強いですね~」と盛り上がっていましたw<藤田家と会津藩主(九代)松平容保との関係性について>最後に紹介してくださいったのが、藤田家に伝わる松平容保の歌が書いてある紙(←なんていうのか忘れましたorz)二通。藤田家と容保公の縁の深さを伝えるものとして、藤田家に伝わっているものです。写真とともに、読み下し文を太郎氏が紹介してくださいました。「ふみならて よまるるものは みつふたつ 窓ににほへる 梅のはやさき」「波よせる川の なかすに いる田鶴の 千歳の影は 流れざりけり」ということで・・・質疑応答含め、1時間程の講演は以上で終了。ずっと体育座りだったから、ちょっとしんどかった。ですが、気が付いたら1時間たっていました。最前列で藤田太郎氏の顔を見ながら話を聞いていたら、「一さんの話し方もこんな感じだったのかな~」とちょいと妄想してしまいましたヨ。<福島県立博物館 ポイント展示・斎藤一の肖像写真>この後、福島県立博物館へ移動。常設展(270円)で、展示を見てきました。以前、佐渡の旅編でも訪れているので、幕末期の展示以外はざーーーと見て、ポイント展示へ。(会期:2016年9月14日~9月30日)写真原本での公開は4点。1)斎藤一肖像写真(新聞記事で取り上げられた写真です)  →撮影時期・場所不明2)藤田勉(長男)・藤田剛(次男)兄弟写真  →明治41年撮影・撮影情報「東京本郷富阪上 阿部」3)藤田勉(長男)・みどり結婚写真  →明治41年撮影・撮影情報「Y.Hasegawa Tokyo,Japan」4)藤田素子写真(斎藤一の初孫、生後百日)  →明治43年撮影・撮影情報「金上製 岩代若松氏七日町」写真パネル(複製)での公開は1点。1)斎藤一家族写真(斎藤一・妻 時尾・長男 勉・次男 剛) (これも新聞記事で取り上げられた写真です)  →明治30年撮影・撮影情報「写真師 中黒実 東京本郷四丁目)ほんとこの時期に会津にきてよかった~(*ノωノ)展示も見れて、ご子孫のお話を聞けて、本当によかった~(*ノωノ)で、この記事を書いていたら友人Kから丁度ラインがきて、「当日の記事の写真に綾さん写ってるヨ」と。なんですってー∑(゚Д゚)・・・・よかった、変な顔してなかった。これなら、いい。あ、友人Kもばっちり顔出ているじゃないかw<おわり>※敬称は見やすさを優先して省略させていただきました。

  • 29Sep
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      新選組巡察録:斎藤一忌レポート その1(秋月登之助墓所・日新館童子行列等)/会津エリア

      久しぶりの新選組にまつわる記事のUPです。ほんとーーーーーーにずっと行きたかった「斎藤一忌」に、やっとお伺いすることができました!!ので、今回も歴史愛を爆発させてwレポートをまとめておこうと思います。2016年9月24日【会津若松】◇第13回 会津新選組まつり「斎藤一忌」会津まつりの協賛行事として開催される、このイベント。このために半年前から宿を予約。(会津まつりと日程が一緒なので激混みなんです)当日は友人Kとともに全力で参加してきました。<興徳寺>会津まつりのメインイベントである「会津藩公行列」の前日にあたる9/24(土)は「日新館童子行列・鼓笛隊パレード」が午前中に行われました。パレードが通るのは市内の中央通り~神明通り~鶴ヶ城にかけて。パレードが神明通りに来るまでの間、神明通りから入ってすぐのところにある「蒲生氏郷の墓所」とその周辺を訪問。蒲生氏郷は葦名氏、伊達政宗についで会津領主となった人。豊臣秀吉により奥羽の押さえとして封じられます。この地を「若松」と名付け、後世戊辰戦争の舞台ともなる「鶴ヶ城」を築いたキリシタン大名。ちなみに妻は信長の息女・冬姫。▼興徳寺(蒲生氏郷の墓所)入口▼蒲生氏郷といえば、「燕尾形兜(えんびなりかぶと)」見る度にドロンジョ様を連想しますw▼左側にうつっているのは、氏郷の辞世の句の歌碑▼五輪塔(お墓)御霊屋は戊辰戦争の兵火で焼失しました。ここまでは普通のテンションで見学。と、そこで偶然、境内に会津藩主(九代)松平容保の歌碑を発見。さらにさらに、こんな案内を発見!!!戊辰戦争時、焼け落ちる前は老中・板倉勝静と桑名藩主・松平定敬の宿舎だったとのこと。さらに、土方歳三も往来しているとの案内。また幕府直轄の衝峰隊により、宇都宮城攻防戦における戦死者の追悼慰霊法要(600名参列)が行われたとも。知らなかった~。立ち寄ってよかった~。さらに案内板に記されていた「秋月登之助」の墓所を目指します。秋月登之助は、大鳥圭介率いる伝習隊の第一大隊の隊長です。宇都宮城攻防戦では、土方歳三が彼の参謀を務めていました。実戦経験や年齢からいえば歳三の方が上官になりそうですが、会津藩士であった秋月を立てたと伝わっています。なお、二人とも宇都宮城の戦いで負傷しています。興徳寺の門から出て右手に直進したところに墓所があります。猫がお出迎えしてくれました。うろついてみるものですね。いやー、また一つ詳しくなった!<日新館童子行列・鼓笛隊パレード>そうこうしている間に、音が聞こえてきたので神明通りに戻り、パレードを立ち見。沿道には人出がありますが、場所取りをしなくてもまぁそれなりに見れました。▼日新館童子行列小学6年生の子たちです。袴にワラジ姿の女の子は、腰に刀、肩に銃を抱えています。男の子は洋装、ワラジ、刀に銃に、肩には会津藩の袖章。こちらの女の子たちは薙刀部隊でした。▼鼓笛隊パレード近隣の小学生たちが学校ごとに行進していきます。私も友人Kも元吹奏楽部のためか?意外と見ていて(聞いていて)飽きなかったです。▼東京ディズニーリゾートスペシャルパレードな、なんと今年はミッキーたちがこのパレードに参加していました。ミッキーにドナルドにダッフィーまで。地元の小さな子供から大人までものすっごい興奮ぎみで中学生くらいの子が「会津でミッキーに会えるなんて~!!!」と騒いでいるのをみて微笑ましかったです。沿道は一気に人でごった返しましたwこの車ごと、舞浜から来たのかな。すごいな。パレードダンサーを勤めていたのは、会津の子たちでしたよ~。せっかくなのでミッキー達を遠巻きに眺めてから…「斎藤一忌」が行われる七日町の阿弥陀寺まで競歩のごとく歩く!開始は13:00。ミッキーが神明通りを通過したのは12:00を過ぎていました。普通に歩いたら、神明通りから阿弥陀寺までは女性の足で20分程でしょうか。何時くらいから人が集まるのかわかりませんでしたが、「半年前から予定してたんだから、いい場所で見たい!」↑とはいえミッキーもスルーできなかった私wという思いでとにかく歩く!歩く!走る!(昼ごはん抜き)汗だくになりながら、12:20頃には阿弥陀寺に到着。参加者ぽい方はまだ10名程しかいない!!やったー(*´Д`)<斎藤一忌>まずは境内にある東軍墓地や藤田家のお墓、本堂へお参り。▼本堂には会津と新選組の旗が翻っていました。▼藤田家墓所の周りは設営が完了されていました。準備完了で、最前列を確保。流石に、二つしかないベンチは早く来られていた方がゲットされていました。混みだしたのは12:40くらいから。参列者の方もそろいだして、ろうそくに火が灯りました。13:00、予定通りに開始です。新聞記事によると、境内には200人程の方が集まっていたみたいです。が、最前列!私の視界を遮る者はいないっ!!まずは、関係者の方の挨拶です。ご子孫をはじめ、会津若松市の市長さんや七日町の関係者、日本全国の新選組にまつわる団体の方の代表の方々が来られていました。齋藤一(藤田五郎)の直系ご子孫である藤田太郎氏の挨拶もありました。続いて、阿弥陀寺のご住職による読経と参列している関係者の焼香。墓前には今年見つかった斎藤一の晩年の写真がありました。最後に「無外流居合奉納」です。無外流は斎藤一が習得していた流派の一つと言われています。演武奉納は厳かな雰囲気の中、行われました。披露してくださったのは、↓の二組と宗家です。14:10、予定より少し時間が押していましたが、これで「斎藤一忌」が終了です。この後、一般の参加者もお焼香できる時間となりました。引き続き、阿弥陀寺本堂にて「記念対談」が行われます。対談の模様は、ながーくなるので次回に!<つづく>

  • 02Sep
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      栃木県足利市:日本最古の学校 足利学校の教育(儒学について)

      「モノより史跡」ってことで、頑張ったご褒美に訪れた「足利学校」。今回は、足利学校の「教育システム」を整理しておきます。◇「足利学校」の教育システム<先生と生徒>一般的に私たちがイメージする先生については、記述を見つけることはできませんでした。一方、庠主(学長)については資料が残っています。庠主(しょうしゅ)は、学問のトップレベルにあった学問僧が任命されていました。(前回の記事で書きましたが)庠主制度は足利学校を再興した関東管領・上杉憲実により定められ、江戸時代には幕府の任命制となりました。▼歴代庠主の墓所▼書院(庠主の接客の場)学生は全国から集まり、中には沖縄出身の人もいたという記録もあるそうです。学生の大半は僧侶でしたが、僧侶以外の俗人には僧侶の学徒名がつけられていました。慶長7年(1602)に就任した第十代庠主・寒松(かんしょう)の頃からは、僧籍を持っていないと入学できなくなります。その為、僧籍のない人は寺で借りて、学校を出ると返していたようです。なお入試はありませんが、入学できるかどうかは庠主が決めていたようですね。寺の本山の紹介状を持って来た学徒もいました。<学費>入学金はあった模様。束脩(そくしゅう)という弟子入りするときにお礼として納める金品として、反物等を持参していたようです。当時としては、かなり高価なものだったそうです。しかし学生が学費を払ったという記録はなく、逆に学校側が食事と宿舎を提供していたという記録があります。入学さえできれば、金銭面は万事OKな感じですねw▼衆寮(学生寮)<授業内容>基本、自学自習です。関東管領・上杉憲実の寄進した書籍をはじめとし、足利学校には他に類をみない良い教科書がそろっていました。その教科書(中国の古い本)を書き写して勉強していました。在学期間は、長い人では10年以上、短い人では 1日(←短すぎw)だったようです。自分が納得するまで学んだら卒業しました。教科は、孔子の教えに基づく「儒学」が中心です。儒学とは、仁・義・礼・智や楽を重んじる中国古来の政治、道徳の学です。紀元前、中国春秋時代の学者である孔子によって体系化されました。その教えは「論語」にまとめられています。▼足利学校にはたくさんの孔子像がありますまた足利学校では創設以来、易学(えきがく)を重視していました。易学とは、超簡単に言うと、占いの事。江戸時代には、1年の運勢をこの易で占い(これを「年筮」といいます)、幕府へ献上していました。戦国期である、第七代庠主・九華の頃には、兵学(兵法戦略)や医学も学んでいました。▼孔子の教え「中庸」を学ぶ「宥座之器(ゆうざのき)」で、ここで思ったんですよ。儒教ってそもそも何よ?なんで足利学校は儒教を教えることを選んだのよ?と・・・。はい、またドツボにはまりました。っと、ややこしい話をする前に!足利学校の写真を先にのせておきます♪▼入徳門(足利学校に入る最初の門)▼学校門▼孔子廟▼南庭園▼方丈・庫裏・書院この建物の中に展示があります。▼北庭園▼旧足利学校遺蹟図書館▼裏門◇儒教と道教と仏教ここで儒学・儒教とその関連知識について調べたことを、備忘録をかねて初心者がでっきるだけ簡単にまとめておきます。中国では「儒教・道教・仏教」が、日本でいう「神道と仏教」のように、対立や融合をしながら展開していきます。1)仏教釈迦が説いた教え。輪廻転生を説き、現世の苦しみから解脱すること目的とする。2)道教中国土着の信仰。不老長生を説き、福(一族繁栄)祿(財宝)寿(長寿)といった現世利益を目的とする。健康で長生きして、現世を幸せに生きよう。その為には蓄財も推奨する。また現世利益を実現するためには、自己の努力が重要。という感じで、仏教が「来世」なのに対し「現世」、儒教が「社会」なのに対し「個人」にフォーカスを当てています。また不老長生(不老不死・神仙思想=つまり仙人)の探求の中で医療や健康法を追求した結果、「煉丹術(神丹などの神秘的な薬(=丹薬)を製造する方法)」や「気功」「太極」「陰陽」「八卦」「風水」「占術」といったものが生まれてきます。私が子供の頃に流行った「キョンシー」も道教思想から生まれているとのこと。あと、ネットで煉丹術を調べてたら、鋼の錬金術師ネタに遭遇することが多かったwまだ道教を代表する道家といえば、老子と荘子(老荘思想)。老荘思想のキーワードは「道(たお)」と「無為自然」。「道」という、人智を超えた計り知れないもの・宇宙の原理原則を説き、知や欲を働かせる「人為」を無くし、「無為」で「道」に従い生きることを説いています。社会秩序とかに捕らわれず、個人が道を学び得て、あるがままに生きなさい。それが結果として、社会もよくするよ。という感じ。3)儒教(儒学)中国には「原始儒教思想」ともいうべき考え方はありましたが、それを宗教的思想として作り上げたのが孔子です。招魂再生を説き、死については無抵抗であるものの、祖先崇拝と結びつき、子孫が祖先を祭祀すれば現世に再生できるとします。儒学の基本は「五常」。仁:人を思いやること義:私利私欲に囚われずに、己のなすべきことをなすこと礼:仁を具体的な行動として表したもの、後には特に人間の上下関係で守るべきこと智:学問に励むこと信:ウソをつかないこと、約束を守ること、誠実であることこの五常を養うことで、自身と関わり合う五倫(父子、夫婦、朋友、長幼、君臣)との関係性を良好に保つことを教わります経典(=教科書)は六経「易・書・詩・礼・楽・春秋」。ここから五経「詩・書・春秋・礼・楽」や七経、四書(論語・孟子・大学・中庸)と発展していくようです。ちなみに、二宮金次郎が薪を背負い歩きながら読んでいる本。あれは「四書五経」のひとつである「大学」です。さて、儒教は道教と同じく「現世」を重視していますが、道教は「個人」なのに対し、儒教が「社会性」をこそ問題とします。宗教というよりは、道徳に近いと認識されています。そして為政者にとって国を統治するのに使いやすい思想とも言われます。◇儒学と朱子学と陽明学日本には元来、八百万の神がいたとされ、「神道」(アニミズム)が土着の宗教でした。そこに古代、仏教・儒教・道教が輸入されます。いつ日本にもたらされたのか?は、諸説ありはっきりとはしていません。個人的な見解によるまとめですが↓1)「仏教」が輸入された結果後にキリスト教が入ってきた時のように、(世界規模でみれば小規模ながらも)宗教戦争や弾圧といった対立を繰り返しながらも、神道と融合していきます。(神仏習合)仏教伝来後、聖徳太子の時代の蘇我(仏教押し)VS物部(神道押し)の争いは、日本の代表的な宗教戦争と捉えられています。なんやかんやと共存(神仏習合)していきますが、神と仏どっちがえらいのか?はもめ続けます。中世の本地垂迹説(神は仏の化身とする/仏が上位)と神本仏迹説(仏は神の化身とする/神が上位)の変遷はその歴史。明治には、神と仏を切り分けようってので、廃仏毀釈や神仏分離が行われました。2)「道教」や「儒教」が輸入された結果道教や儒教は宗教として輸入されたというより神道と融合されながら政治・学問に組み込まれていったという印象です。・古代日本の政治や学問は、中国をお手本にしていました。儒教を基礎とした政治の枠組み(科挙など)や道教を基礎に発展した医学などの学問が輸入され、活用されたのです。清明神社の時に書いたような「陰陽寮」は道教の流れをくんでいましたし、律令制における官僚育成機関「大学寮」では儒教が教授されていました。・鎌倉時代には儒学(儒教)から発展した「朱子学」が南宋からもたらされます。鎌倉時代から室町時代への移行期(建武の新政)に登場する後醍醐天皇や楠木正成らも朱子学の影響をうけていたと言われています。が、宗教的観点からすると、儒教は仏教ほどは定着しませんでした。律令制の崩壊とともに禅宗寺院で研究が続けられる程度となります。足利学校ではこの時代に儒学の研究を続けているのです。・儒学、こと朱子学が日本で最盛期を迎えるのは江戸時代。家康から四代にわたり仕え、江戸幕府の基礎を作った儒学者・林羅山を中心として幕府は朱子学をもって国家統治を進めていきます。その林羅山、承応2年(1653)に足利学校を訪ねています。後に尊王攘夷思想へとつながる水戸藩の「水戸学」は、当初水戸光圀の大日本史編纂のために集まった学者が中心で、林羅山の流れをくむ朱子学者が中心でした。・幕末にかけては、儒学から生まれ、朱子学を真っ向から否定した「陽明学」が流行りはじめます。前述の水戸光圀は寛文5年(1665)、亡命中の明の遺臣・朱舜推を招聘します。朱舜推は陽明学の実学派でした。水戸学は多岐にわたる学問を網羅していましたが、そこに陽明学も追加されたわけです。シンプルに言うと、江戸幕府を支えた朱子学に対し、幕末かけて幕府と対立した人物が好んだとされるのが陽明学。水戸学の思想は、過激な尊王攘夷思想へ繋がり、倒幕を推し進める要因になります。陽明学を好んだ者として、大塩平八郎や西郷隆盛の名はよく出てきます。吉田松陰も陽明学を学んでいたとされます。その吉田松陰は嘉永5年(1852)、彼の私塾・松下村塾で学んだ高杉晋作は万延元年(1860)に足利学校を訪ねています。・幕末に、幕府(朱子学押し)VS討幕派(陽明学押し)となりますが、朱子学も陽明学もその基礎は儒学です。「朱子学」は、11世紀に南宋の儒学者・朱子(朱熹)により体系化された儒教。上下の秩序・大義名分を重んじ「礼」(礼節)を尊ぶ思想です。「陽明学」は、明代の儒学者・王陽明がおこした儒教の一派。「礼」という形式的なものに対し「孝」(愛敬)を掲げています。自由な心から生まれる心の正しさを尊重し、自らの責任で行動・実行することを尊びます。この人間関係に対する考え方の違いの外に朱子学の「先知後行」と陽明学の「知行合一」も代表的な違い。「先知後行」は学問は学問、行動は行動、と割り切った二元論、「知行合一」は学問と行動は一体の連続したものという一元論です。朱子学は理論重視なのに対し、陽明学は理論を行動に移すことを重視している感じでしょうか。・陽明学は明治~大正にかけて隆盛を極めます。廃校した明治以降にはなりますが、東郷平八郎、大隈重信、渋沢栄一、井上馨、新渡戸稲造といた名のよく知れた方々も足利学校を訪ねてこられています。▼東郷平八郎手植えの月桂樹結論に至る前に力尽きそうなのですがw(頑張れ、私)この儒学や仏教の歴史と足利学校の歴史を重ねてみると、推論できることはいくつかあると思います。足利学校が創建されたころ何を教えていたかは不明ですから、そこはカット。儒教を教科に定めたのは、再興した上杉憲実。彼はまさに主従の関係で板挟み(永享の乱)になった人であり、儒学にその解決を求めたのかもしれません。古代律令制の頃より、統治者の教養であった儒学。しかし律令制の衰退・武士の台頭を背景に儒学を教える教育システムが衰退。その中で足利学校は統治者へ教育を施せる人材を生み出し、また易学、医学、兵法などの最先端教育を取り入れることで、戦国時代には使える人材を生み出す、とても有名な教育機関になったのかもしれません。江戸時代になれば朱子学を中心とした教育機関が幕府におかれ、平和な時代には易学や兵法はあまり重要視されず、衰退の一途をたどっていきます。でも昔から儒学を教えていて書籍も充実しているし!ってことで、後の儒学者たちは足を運んでいるのかもしれません。網羅的に調査したわけではないので、あくまで私の推論ですが(。-`ω-)◇日本遺産・近代日本の教育遺産群最後に近代日本の教育遺産群として足利学校とともに日本遺産に指定されている学校を記述しておきます。ちなみに足利学校は「日本最古の総合大学」って銘打ってるけど、なんか違う気がするんだよな~。・世界最古の庶民のための公立学校「閑谷学校」(岡山県備前市)江戸時代前期、寛文10年(1670)に岡山藩主・池田光政によって創建。武士だけでなく庶民も学べました。池田光政が陽明学者・熊沢蕃山から学んだ儒教教育が基礎になっています。学校の経済基盤として学田を持たせ、藩主が変わっても永続できるようにと図りました。幼少のころの大鳥圭介はここで学んでいます。・日本最大規模の私塾「咸宜園」(大分県日田市)江戸時代後期の儒学者・廣瀬淡窓が豊後・日田に開いた日本最大規模の私塾。入学にあたり、学歴・年齢・身分は問いませんでした。毎月成績評価を行い公表する「月旦評」など特色ある教育と、「善」にこだわった淡窓の思想が特色です。幕末の長州藩士・大村益次郎や日本の最初期の写真家・上野彦馬(彼の写真館では、現在私たちがよく目にする高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文・坂本竜馬ら幕末志士の写真が撮影されました)といった人がここで学んでいます。・日本最大規模の藩校「弘道館」(茨城県水戸市)天保12年(1841)水戸藩第9代藩主・徳川斉昭により創設。当時は国内最大規模の藩校でした。儒学だけでなく、武芸、医学、薬学、天文学、蘭学、兵学など実用的な科目も教え、総合大学ともいえます。徳川斉昭の子で15代将軍・徳川慶喜もここで学んでいました。慶応3年(1867)の大政奉還の後、謹慎した至善堂(しぜんどう)が今も残っています。---------------------------------------史跡 足利学校参観料:一般420円 高校生210円住所:栃木県足利市昌平町2338HP:http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/---------------------------------------

  • 28Aug
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      栃木県足利市:日本最古の学校 足利学校(日本遺産)の歴史

      先日、経営会議のため、栃木県佐野市で合宿をしてしてきました。朝から夜中まで打合せ。 ご飯を食べながらも打合せ。・・・夜半過ぎ。私 「何かご褒美が欲しい。」←やつれぎみ夫 「・・・。」私 「何かご褒美が欲しいんだっ。」夫 「・・・買い物でもいくか?」私 「違う!そんなんじゃないんだ!    そうだ!!史跡に行きたい(ダンッ)←机をたたく音」 断じて、夜中だからちょっとおかしくなっていたわけではない。 モノより史跡。これ、歴女の常識。 ということで翌日、経営会議をほぼ終えた後、1時間だけご褒美をいただけたのです♪ 今回ご褒美で訪ねたのは、 合宿をしていた場所から車で30分もかからない場所にあった「足利学校」。 ◇日本最古の学校「足利学校」足利学校は日本最古の総合大学といわれ、「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定されています。下野国足利郡(現在の栃木県足利市)にあった荘園(足利荘)にあり、 中世以前に起源を持ち、明治5年に廃校となりました。ちなみに、足利市は室町幕府に天下人となった足利氏の発祥地です。 織物業でも有名な土地ですね。 <足利学校の創建>創建については、諸説あります。 簡単に備忘録もかねて、整理しておきます↓1)奈良時代の国学の遺制(現在も残っている昔の制度のこと)説創設時期が最も古いのがこの説です。伝承によると、足利学校は当初下野国の国学であったとされます。 国学とは「奈良・平安時代に国ごとに設けられ、郡司や地方豪族子弟のために役人の養成を行った学校」のこと。 これに対して中央には官僚育成機関である「大学寮」がおかれました。 2)平安時代の小野篁説「鎌倉大草紙」(室町時代の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物)や 「下毛埜州学校来由記(しもつけやしゅうがっこうらいゆうき)」による 天長9年(832)に小野篁(おののたかむら)が創建したという説です。ただし彼が下野国と関係があったという裏付けはないようですね。小野篁は平安時代前期の公卿で、文人です。 百人一首の「わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人(あま)の釣り舟」は彼が詠んだ歌。 遣唐使として唐に渡ろうとしますが、1回目は難破。 2回目は壊れた船に乗せられそうになって喧嘩→嵯峨天皇に隠岐へ流されます。 上記の歌はこの隠岐へ流されたときに、京の宮廷の人へ送った歌と言われています。小野篁といえば、井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説。 以前友人Kと、京都東山の六道珍皇寺へ足を運び、地獄に通じると言われる井戸と篁作と伝わる閻魔大王像を見に行ったことがあります。▼六道珍皇寺閻魔大王像と小野篁像がおさめられています篁が地獄へ降りるために使った井戸  ▼足利学校の孔子廟の小野篁像江戸時代の像ですが、この木造の制作にあたり、小野篁の子孫が足利学校に寄付をした記録が残っています。 3)鎌倉時代の足利義兼説 「鑁阿寺(ばんなじ)文書」による 建久年間(1190~1199)に足利義兼(あしかが よしかね)が創建したという説です。鑁阿寺は建久7年(1196)に足利義兼が創建したと伝えられるお寺。足利義兼は平安時代末期から鎌倉時代前期の武将で、鎌倉幕府の御家人です。源氏の流れをくむ足利氏の第二代当主。 ※父・源(足利)義康が下野国足利荘を相続し、それ以来足利姓を名乗りました。妻に北条時子(源頼朝の妻・北条政子の妹)、 彼の子孫に室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏がいます。4)明確なのは室町時代中期以後創建について今だ諸説ありますが、はっきりしているのはこの時代から。永享11年(1439)、関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が学校を再興したところからです。・「関東管領(かんとうかんれい)」とは 室町幕府が鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職。 鎌倉公方の下部組織ですが、任命権等は将軍にありました。 鎌倉公方消滅後は、実質的に鎌倉府を運営し、上杉氏の世襲となっていきます。 永禄4年(1561)に上杉謙信が継ぎますが、天正7年(1579)謙信の死後消滅します。・「鎌倉公方(かまくらくぼう)」とは 足利尊氏が関東を統治するため、次男・基氏を派遣します。 これが鎌倉府の始まり。 鎌倉府の長官が鎌倉公方であり、基氏の子孫が代々受け継ぎました。六代将軍・足利義教と関東管領・上杉憲実VS鎌倉公方・足利持氏(永享の乱)の衝突後、 鎌倉公方 持氏の子・成氏が継ぎますが、拠点を下総古河にもとめました。(古河公方) 上杉憲実は「儒学」の五つの経典のうち四経 「尚書正義(しょうしょせいぎ)」 「礼記正義(らいきせいぎ)」 「毛詩注疏(もうしちゅうそ)」 「春秋左傳注疏(しゅんじゅうさでんちゅうそ)」や、 「宋版唐書」などの書籍を教科書として寄進します。これらは中国宋代のもので当時から大変貴重な書籍でした。 現在は国宝に指定されているものもあります。 またこれらの書籍には、上杉憲実の筆跡で「足利学校公用」「此書不許出学校閫外(学校外持ち出し禁止)」などと記されています。さらに「庠主(学長・校長)制度」を設けました。 鎌倉五山派の禅僧で易学の権威であった快元(かいげん)を招き、初代庠主(しょうしゅ)とします。 その後、代々の庠主は禅僧が務めました。また学則では 「野州足利学校置五経疏本条目」に学校で学ぶ心構えと書籍の管理規則を定め、 「学規(がっき)三条」に学問の範囲と学務についての規定を掲げています。 学規三条では 「足利学校で学ぶべき学問の内容や規則を守らない学生の在校を許さない」 「就学に不熱心な学生の在学を許さない」 「学生は入学に際して僧侶の身分となる」 という校則が定められていました。上杉憲実は鎌倉公方と将軍の板挟みにあったり(永享の乱)と何かと戦乱が絶えない時代の人です。 その一方、儒教の影響を強く受けている人物と伝わっており、足利学校の再興だけでなく、金沢文庫(鎌倉時代中期に北条実時が設けた武家の私設図書館)の再興にも力を入れるなど、戦乱にもかかわらず教育方面にも力を注いでいました。また憲実の子、憲忠(のりただ)は五経のうち残りの易経「周易注疏(しゅうえきちゅうそ)」を、 子孫の憲房(のりふさ)も貴重な書籍を寄進しており、学校の基礎を固めていきます。<最盛期の足利学校> 天文年間(1532~1555)には「学徒三千」と言われるほどになり、最盛期を迎えました。スペイン・ポルトガルを中心とした欧州諸国が 資源やキリスト教の布教を目的に東洋に進出してきた大航海時代。 日本にも多くのキリスト教宣教師が訪れています。宣教師達は足利学校のことを手紙や本に取り上げており、当時の様子をうかがい知ることができます。1)イエズス会宣教師「フランシスコ=ザビエル」により 「日本で一番大きくて有名な関東の大学」と紹介されるザビエルは1549年8月15日(天文18年7月22日)に中国のジャンク船で鹿児島に来航。 その約3か月後、天文18年10月16日(1549年11月5日)に、インドのゴアのイエズス会員宛の手紙を鹿児島で綴っています。「都の大学の外に、尚、有名な大学が5つあって、その中の4つは、都からほど近いところにあるという。 それは、高野、根来寺、比叡山、近江である。 どの学校も凡そ3500人以上の学生を擁しているという。 しかし日本に於いて、最も有名で、最も大きいのは、坂東(関東)であって、 都を去ること、最も遠く、学生の数も遥かに多いという。」 (展示のキャプションより)なお、キャプションには記載されていませんでしたが この手紙の前半では京都に大きな大学が一つあり、5つの学院が付属しているとも記載してあります。 これは京都五山官寺(禅宗)である天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺と考えられます。「高野」は高野山金剛峰寺(真言宗) 「根来寺」は和歌山県北部にある真言宗のお寺 「比叡山」は延暦寺(天台宗)を指し、 「近江(現滋賀県)」は、錦織寺(浄土真宗)または園城寺(天台宗)と考えられています。この時代の高野山、比叡山、根来寺、園城寺は織田信長・豊臣秀吉と関係(因縁)の深いお寺ですね。私の脳内では 紀州根来といわれたら、「BASARA」の聖と那智コンビが出てくるし、 比叡山といわれたら、最近は「信長のシェフ」が出てきますw←ザビエルが紹介している学校は、「坂東(=足利学校)」以外は全て関西にあります。 サビエルは来日して鹿児島で見聞きしたことを綴っていると考えられますが、 足利学校は寺院ではないにも関わらず、九州の南端、鹿児島でも知られるくらいの規模の学校だったということでしょう。なお、寺院=学校?と思われる方もいらっしゃると思います。奈良平安時代は、律令制のもと整備された大学寮や国学があり官僚が育成されていました。江戸時代は、藩校や学問所や寺子屋が普及します。幕末になると後世に名を残す私塾も増えますね。この間、武士による戦乱が繰り返される世で高等教育を担当していたのは、寺院が中心だったとされます。(個人の学問所など小さい教育機関は多数あったようです)そのなかで「足利学校」や、鎌倉時代の「金沢文庫」はちょっと毛色が異なります。足利学校は、僧侶の育成機関としての色合いが強いですが、その本質はお寺ではありません。現代で例えるなら、使用料のかかる先生付の貴重な文献がそろう図書館って感じでしょうか?・イエズス会士「ルイス・フロイス」により 「全日本でただ一つの大学」と紹介ルイス・フロイスは信長や秀吉らとの繋がりもあり、 戦国時代の貴重な資料である「日本史 (Historia de Iapam)」を記した人です。その「日本史」の中で足利学校が取り上げられています。「彼ら学生は(略)問答形式で学習する。 さらに彼らは占星術や医学のことも幾分かは学ぶ。 ところでこれらの学問に関して言えば、全日本でただ一つの大学であり公開学校と称すべきものが、関東地方、下野国の足利と呼ばれる所にある。」(展示のキャプションより)また「日本史」の中で 「最も重要な足利の大学でキリスト教を広めることができれば、日本人のキリスト教への改宗は簡単になるだろう」 とも述べています。このように海外にも紹介された最盛期の足利学校。この時代に学長を勤めたのは、第七代庠主・玉崗瑞璵九華。 天文19年(1550)に就任します。 北条氏康・氏政父子に「周易」と「三略」の講義を行い、金沢文庫蔵本「文選」を与えられたと伝わる方です。彼が書き写した自筆本は多方面にわたりました。その中には関東管領・上杉憲実が定めた教授科目にはない「兵学」や「医学」が含まれていました。 戦乱の世の要求に応えた活動が、足利学校の隆盛を招いたといえます。▼字降松学生が読めない文字を紙に書いて孔子廟前の松の枝に括りつけておくと、第七代庠主・九華がフリ仮名や注釈を付けてくれていたというエピソードを伝える松です。ちなみに彼に師事した「天海」は後に徳川家康に信任され、寛永2年(1625)上野寛永寺を創建します。 寛永寺といえば、幕末の上野戦争・彰義隊。 まさかのこんなところでつながった(。-`ω-) <近世の足利学校> 天正18年(1590)豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした結果、足利学校は庇護者を失うことになり、学校領を一時没収されます。第九代庠主・閑室元佶三要は、秀吉の甥・豊臣秀次に働きかけ百石地の寄進を受けます。が、秀次は学校の典籍・什物を京都へ移そうとします。 そこで、三要は後北条氏にかわり関東を治めた徳川家康に接近。家康の力をかり、それらの散逸をくいとめ、足利への返還を実現しました。以後、彼は家康からの信任が厚くなります。政策顧問として「詩経」を講じ、書籍を出版し、伏見や駿府の円光寺の開山となりました。 関ヶ原の合戦では陣中で盛んに易を立て、戦に役立てました。 江戸幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されています。この結びつきが強かったことから、幕府より百石の朱印地(江戸時代将軍によって年貢・課役を免除された寺社領地と寺社所持地)を賜り、庠主は幕府の任命制となっていました。また三要が年筮(ねんぜい)を家康・秀忠に献上したのをきっかけに、 江戸時代における足利学校の最も重要な仕事は「徳川幕府へ年筮を献上すること」となりました。 ※年筮とは一年間の吉凶を占ったものです。こうして幕末まで幕府による保護を受けていきます。 なお、足利学校には家康と三代・家光から十一代・家斉までの位牌が安置されています。 それだけ結びつきが強かったということなのでしょうか。 幕末になると、教学活動や経済面においても衰退の一途をたどります。明治元年(1868)足利藩校・求道館(ぐどうかん)の管理下に入り、 明治5年(1872)廃藩置県後に廃校となりましたが、市民に守られてきました。平成2年(1990)に江戸時代中期の姿に復元され、現在の史跡となっています。<つづく>

    • 目次2:史跡巡り編~総まとめ~

      ~史跡巡り編~>>>はじめに歴史のパズルを組み立てる>>>新選組巡察録6)石田寺・新選組のふるさと歴史館 企画展/日野エリア5)石田散薬製造体験(土方歳三資料館)/日野エリア4)新選組のふるさと歴史館/日野エリア3)石田寺(土方歳三墓所)・とうかん森/日野エリア2)土方歳三資料館/日野エリア1)高幡不動尊金剛寺(土方歳三菩提寺)/日野エリア>>>神社仏閣7)京都府京都市:晴明神社6)京都府京都市:貴船神社 その25)京都府京都市:貴船神社 その14)京都府京都市:貴船の川床、鴨川の納涼床3)三重県伊勢市:伊勢神宮 内宮(皇大神宮)2)愛知県名古屋市:熱田神宮1)千葉県成田市:成田山新勝寺>>>その他遺産2)栃木県足利市:日本最古の学校 足利学校の教育(儒学について)1)栃木県足利市:日本最古の学校 足利学校(日本遺産)の歴史<2016.8.29更新>

  • 14Aug
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      京都府京都市:晴明神社

      今回とりあげるのは「晴明神社」。陰陽師でとっても有名な安倍晴明を祀っている神社です。先月京都に行った折、近くを通ったので参拝してきました。陰陽道に関わる文学作品は非常に多く、陰陽師・安倍晴明について知ってはいます。むしろ日本人で知らない人はいるんだろうか?五芒星とか式神とか、なんだかそれだけでかっこいいですよネ?←だがしかし!歴史研究家達にどのように研修されているのかは、全く知らない(´-ω-`)この記事を書くにあたり陰陽道や安倍晴明について調べてみようかと思ったけど、色々な立場からの色々な意見が乱立し、中にはフィクションかどうかもわからなくて。・・・あきらめました。なので「晴明神社」によって発表されている内容に肉付けをして、まとめておきます。◇晴明神社ご祭神は「安倍晴明御霊神」。晴明本人ですね。晴明神社によると、安倍晴明(920-1005)は孝元天皇の皇子・大彦命のご落胤。孝元天皇は「欠史八代」といわれる天皇のお一人。「欠史八代」とは古事記・日本書紀において系譜は存在するものの、その実績が記されていない、つまり記紀で出番のなかった天皇達。現在も、後世になって創作された説・実在した説があります。天文暦学の道を極め、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条天皇と6代にわたり仕えたといいます。ちなみに孝元天皇は8代目(紀元前214~158)、朱雀天皇は61代目(930~946)。(在位情報は宮内庁の天皇系図より)なんか「人間」としては、ちょっと無理がある気がするけど。まぁ、神の系譜ってことなのでしょう。<安倍晴明のお仕事>お仕事は天文陰陽博士。「陰陽寮」という、律令国家における政治の中心である八省の一つ・中務省に属する部署で占い・天文・暦・時を専門とするお仕事に従事していました。陰陽寮のトップは陰陽頭(今でいう大臣)。陰陽助(大臣補佐)などの下に専門職である陰陽博士・天文博士・暦博士・漏刻博士らが各1名、陰陽師が6名。その下に修習生や実務部隊がいたようです。▽専門職のざっくりとしたお仕事内容・陰陽博士・陰陽師  占星術や易により物事の吉凶を判断したり、土地の相を判断・天文博士  天体現象から未来に起こるであろう災害を予測に密かに天皇に教える・暦博士  暦の作成・漏刻博士  水時計による時報の発令ちなみにwikiによると明治3年(1870)に陰陽寮は解体され、天文暦道の権限は文部省の天文暦道局に移されました。大宝律令などの律令国家制度が整えられた時代からあったということは、700年頃から約1000以上にわたって陰陽寮は存在したという事(。-`ω-)すっごいなー、知らなかったー。ちなみに江戸幕府には「天文方」といわれる天体運行や暦の研究機関がありました。幕末には天文暦道以外にも測量、地誌、洋書翻訳なども取り仕切った部署です。律令国家時代の天文や暦はなんだか神秘的なイメージがありますが、国家をおさめ、戦争に勝利するためには天文や測量はとても重要な部署ですからね。晴明の出世は決して早くなかったとされますが、晩年に天文博士に任じられます。今でいえば、公務員・官僚といえますね。寛弘2年(1005)9月26日、85歳で亡くなります。寛弘4年(1007)に一条天皇の命で、晴明の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。<晴明神社のご利益>ご利益は「魔除け」「厄除け」です。晴明がご祭神ですから、そのまんまですね。晴明神社では五芒星を「晴明桔梗印」といい、晴明により創られた陰陽道に用いられる祈祷呪符のひとつとしています。この晴明桔梗印(五芒星)や陰陽の対極図、桃などをあしらったお守りが多く、結構可愛らしいですよ。▽晴明神社のお守り・お札類に使用されているざっくりとした「祈祷呪符」の説明・五芒星  ☆型のマーク。  万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるとする五行説に基づく。・対極図  言葉で表すのが難しいマーク。←ググってください  森羅万象の総ては互いに対立する「陰」と「陽」の気から成り立っている  とする陰陽説に基づく。・桃  桃太郎伝説にあるように、昔から魔をよける果実とされています。現在の晴明神社は氏子を中心とした整備・改修がすすみ、とってもきれいです。歴史を感じる~っていうより、文学作品を再現したみたいなきれいさ、があります。▽一の鳥居額には神社名ではなく、晴明桔梗印が掲げられています。▽一條戻橋晴明は十二神将を式神(陰陽師が使役する鬼神)とし自宅においていたといいます。一説によると、奥さんが式神の顔を怖がったので(まぁ、鬼だしなぁ)一條戻橋の下に封じ込め、必要に応じて召喚しました。…式神は顔が怖いって理由で、屋根のある場所を追い出されたのねwん、あれ?奥さんも式神がみえる人だったのかな?一條戻橋は他にも伝説や処刑の話が沢山伝えられています。境内には大正10年から平成7年まで使用されていたものが移築・再現されています。ちなみにこちらが現在の一條戻橋。橋の下は整備されていて通れます。▽晴明井晴明が念力で湧き出させたという井戸。千利休がこの水を使ったとも伝わっています。 ▽桔梗晴明が使用した五芒星のことを、桔梗印と呼んでいます。それにちなんで境内には桔梗が植えられています。▽厄除桃陰陽道では桃は魔除け・厄除けの果実。使用方法「厄をこの桃に撫で付けて落とします」▽二の鳥居▽千利休屋敷跡石碑二の鳥居の左側にあります。千利休の邸宅がこの辺りにあったと伝えられています。▽本殿明治38年に建てられたもの。右に写っている楠はご神木で樹齢およそ300年と伝わっています。参拝者に撫でられまくって、表面はツルツルです。▽御朱印最後に御朱印をご紹介しておきましょう。昨今の御朱印ブーム。「御朱印の本来の意味を分かっているのか!スタンプラリーじゃないぞ!」と神社仏閣からはその理解を参拝者に求める声が上がっていますね。※御朱印は本来、納経の証としていただくものです。そんな中、この晴明神社の社務所では御朱印をお願いしに行くとこう言われました。「スタンプですけれど、よいですか?」と。「え?」って一瞬固まりましたが、お願いした以上頂いて参りました。参拝客も多く、また手順を簡略化したかったのかもしれませんが…。なんか納得いかない。---------------------------------------晴明神社住所:京都市上京区晴明町806(堀川通一条上ル)HP:http://www.seimeijinja.jp/---------------------------------------