前回に引き続き「斎藤一忌」の模様をお届けします。

 

2016年9月24日【会津若松】
◇第13回 会津新選組まつり「斎藤一忌」

 

14:20頃から、阿弥陀寺本堂にて「記念対談」が行われました。


私と友人Kはすでに墓参していたので、焼香の列には並ばず、大急ぎで本堂へ。
おかげで最前列、一番前の席を確保できました。


やったー(*´Д`)

 

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14:20頃、対談開始。


演題は『「斎藤一」没後101年目のポートレート』

ご子孫の藤田太郎氏と、会津新選組の佐藤局長による対談形式で行われました。

 

藤田太郎氏(埼玉県)は、斎藤一の長男の長男の長男。
つまり、一さんのひ孫にあたります。

 

当初は藤田太郎氏、お一人での講演予定でしたが
「斎藤一が無口だったと伝わっているように、私も口下手なもので…」

ということで、対談形式になったとのことw

 

この日は斎藤一のご子孫として、藤田太郎氏ともう一人女性が来られていました。


お二人とも長身というわけではありませんでしたが、

物静かで控えめな雰囲気でありながら、なんだか凛とした空気をお持ちでした。


講演内容は大きく分けると、
1)斎藤一の略歴と名前の変遷について
2)斎藤一のご子孫の写真から考察する、斎藤一の若いころの顔について

3)藤田家と会津藩主(九代)松平容保との関係性について
の3点に要約できるかと思います。

 

 

<斎藤一の略歴と名前の変遷について>

藤田太郎氏が話してくださったことを踏まえたうえで、

私の知識を総動員して略歴をまとめておきます。

 

近藤・土方・沖田と比較して、斎藤一の名が世に知られるようになったのは最近のことです。

昭和初期のころは、新選組と言えば近藤でしたし、その後は土方・沖田がもてはやされていました。


したがって斎藤一については「謎の多い男」というより

ただ近藤・土方・沖田らと比較して、史実の研究が進んでいないだけというのが現状です。

 

ですから、文学作品の中の斎藤一像が優先され、その事実がわかっていないこともあります。

 

例えば、よく言われる斎藤一の「左利き」説

それを証明する証拠は、現在のとろこありません。

 

当時の文化風習から考えるとまず考えられないことなので、

時代考証をされている方や歴史家の方の多くは否定寄りの回答をされています。

それは文学作品の中だけのことだと。

 

今回の講演会の質疑応答でも、左利きについて太郎氏に質問されている方がいらっしゃいました。

 

ご子孫としては「左利きを証明するものはない。ただし、右利きだったことを証明するものもない。」と答えられていました。

 

当然といえば当然な気もします。

「私は右利きです」とわざわざ文書等に記すことは、そうそうないですよね。

斎藤一の残した手紙とかの研究が進めば、筆跡とかから何かわかるのかもしれませんが・・・。

 

ということで、今回の太郎氏の斎藤一の略歴解説は、

私としては何点か新しく知ることがあり興味深かったです。

 

<斎藤一略歴>
天保15年、江戸生まれ
一さんは、元明石藩士・山口右助の次男として生まれます。

 

太郎氏によると、右助は千石知行の旗本・鈴木重備家に入り、後に用人となりました。

 

また藤田家には、次男ですが「一」という名をつけた理由として、

1月1日生まれだったからと伝わっているそうです。

ただ、本当に1月1日だったかどうかは確証がないとのことでした。

 

 

18歳の時、旗本を斬ったことを理由に江戸にいられず、

京都にいる父・右助の知人を頼り寄寓

 

永倉新八の手記「浪士文久報国記事」によると、

試衛館へはこの事件以前に出入りしています。

 

この頃に山口一から、斎藤一へ改名。

 

 

京で浪士組(後の新選組)に加入。
在京時代の斎藤一は、新選組三番組長としての役職が一番有名ですね。

 

伊東甲子太郎率いる御陵衛士への密偵(といわれている)のため、一時新選組を離脱。
慶応3年3月10日の油小路の変(甲子太郎暗殺)の後、新選組へ復帰。

 

在京時代、斎藤一から山口次郎(二郎)へ改名。

 

一説には、普通は隊の規則により新選組を離隊することはできないため、

油小路の変後に別人として再入隊するための改名だったといわれています。

 

太郎氏のお話によると、慶応3年12月7日の天満屋事件の頃の改名だとのことでした。

 

 

鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いを経て、流山→会津戦争へ。
近藤勇亡き後、土方歳三が負傷している間、隊長として新選組を率い会津で戦っています。

 

なお、一番組長・沖田総司は江戸で労咳の治療→没、

二番組長・永倉新八は既に新選組を離脱→別の隊で会津戦争に参加していました。

山南敬助や井上源三郎、藤堂平助は京で死亡、原田左之助は永倉とともに離脱→行方不明。

 

ですから、試衛館組の幹部で会津戦争に新選組(←正確にいうとちょっと違うけど、説明がややこいのでカット)として参加しているのは、土方歳三と一さんだけになります。

 

会津戦争の後半、母成峠、猪苗代の戦いで大敗後、

1か月に及ぶ鶴ヶ城での籠城戦に入ります。

 

この時、土方歳三は再起をかけて仙台へ向かいます。
しかし、一さんは数名の新選組隊士と会津へ残りました。

 

一さんの最後の激戦地・如来堂では

西軍(新政府軍)300名を相手に13名で戦ったといいます。

 

もともと新選組は会津藩(松平容保)お預かりの京都の警察組織でした。
会津藩とは在京時代から縁が深く、会津藩が降伏した後、一さんは会津藩と命運をともにします。

 

この頃、山口次郎(二郎)から一瀬伝八へ改名したと言われます。

 

降伏後に西軍に新選組とばれないための改名であるとか、

会津藩へ属するための改名などの説がありますね。
なお、この改名については太郎氏は触れておられませんでした。

 

 

謹慎後、会津藩の斗南への移封と共に、他の会津藩士と共に斗南へ移住

明治3年4月から、士族総数4千戸のうち2,800戸、移住者17,000人が陸路と海路にわかれての大移動をしています。

 

明治7年3月17日、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と結婚

 

なお太郎氏によると、時尾さんは戸籍上では「トキヲ」と表示されているそうです。


ちなみに時尾さんの写真はこれまで一枚も世にでていませんでした。
が、今年一さんとその家族の写真が公開されたことで、

初めて時尾さんの顔も世に知られることとなりました。

 

二人の結婚では、元会津藩主・松平容保が上仲人、

元会津藩家老の佐川官兵衛(薩長からは鬼の官兵衛といわれる程の武勇の持ち主で、籠城戦では城にはいらず最後まで外で戦った方です。)山川浩(後に津田梅子らと渡米、帰国後鹿鳴館の花と言われた大川捨松の兄です。)倉沢平治右衛門(時尾さんは養女として倉沢家に入っています。斗南では「五戸の中ノ沢番外地5」に住所があり、中ノ沢塾を開設し若者の教育に勤められた方です。斗南時代の一さんは彼と同居していました。数年前の史跡巡りで、この場所に大雨台風の中、めっちゃ迷いながらもたどり着きました。犬に吠えられながら…。ご子孫ではないもののこの土地を守ってらっしゃる方がいて、雨の中傘をもってきてくださり、お話することができました。私にとってはちょっと思い出深い場所です。)が下仲人を務めています。

 

最後の名、藤田五郎に改名したのはこの頃だと言われています。

 

藤田は時尾の母方の姓だと伝わっていますが、一方で結婚前の明治5年の斗南の戸籍に藤田五郎の名があることから、(結婚後ではなく)斗南に移住してから改名したともされます。


また太郎氏のお話によると、藤田五郎の名は松平容保公から賜ったとも伝わっているそうです。

 

 

後に江戸へ行き、警視庁へ入隊。
警視隊として、西南戦争へも参加しています。

 

退職後、東京高等師範学校(現・筑波大学)の守衛、

東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を務めます。

 

一さんは、没後会津の地に骨を埋めるよう言い残したと伝わっています。
その為藤田家の墓所は、会津七日町の東軍(旧幕府軍)墓地の一角にあります。

 

(名前の変遷はややこしいので、ここからは斎藤一で統一して記載します)

 


<斎藤一のご子孫の写真から考察する、斎藤一の若いころの顔について>

斎藤一には三人の子がいました。
太郎氏を含む簡単な系図は↓の通りです。

 

 


太郎氏によると、三男・龍雄は生まれる前から会津藩番頭・沼澤家へ養子に出すことが決まっていたといいます。

 

▼鶴ヶ城近くにある沼澤家屋敷跡

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▼解説板に三男・龍雄についての記載もありました。

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今年公開された斎藤一の晩年の写真を含む「藤田家関係写真」は、全部で7点。

現在は福島県立博物館に寄託されています。

(そのうち原本4点と写真パネル(複製)1点が2016年9月30日まで常設展で展示されていました。)

 

これまで斎藤一の写真(顔)として伝わるものには↓の3点がありました。

 


これは太郎氏の父・藤田實の写真を基に描かれた想像上の藤田五郎です。
太郎氏曰く「ネット上では祖父・勉がモデルといわれているが、本当は父・實がモデルです」とのこと。

 


次に、西南戦争から横浜港に凱旋した別働第三旅団(警視隊の一部で明治10年と推定)の写真
太郎氏曰く「藤田家の代々の顔(骨格)と似ていない。子孫の目から見ると斎藤一とは思えない。」とのこと。

 


最後に、斎藤一の次男・藤田剛と浅羽ゆきの結婚式記念(大正2年9月28日東京赤坂 八百勘にて)の写真
これは裏書があり、「藤田五郎」の名が記載されています。


太郎氏曰く「本物です」とのこと。

またここには斎藤一の長男・勉(36歳)も写っており、二人の骨格が似ていることが見て取れるとのことでした。


太郎氏曰く「藤田家の特徴は頭がとがっていること」なんだそうです。
ぺたっとした平たい頭じゃないってことらしいです。

 

 

これらを提示されたあと、
長男・藤田勉の78歳から36歳の写真5枚と、32歳の写真(今年公開された写真の一枚)を並べて見せてくださいました。

 

今年公開された写真の中に、若いころの斎藤一の写真はありません。
ですが、「長男・勉の顔の変遷をみてもらうと、若いころの斎藤一を十分に想像できるのではないでしょうか。」とおっしゃっていました。

 

 

余談ですが、長男・勉(太郎氏にとっては祖父)の75歳、78歳の写真は

眉毛が元総理大臣の村山氏のように仙人のようになっています。

 

太郎氏は「祖父に聞いたら70歳を超えてから、急に伸びてきたといっていました」と言われていました。

 

確かに今年公開された若いころの写真は仙人眉ではない!

 

 

また長男・勉(32歳)と妻・みどり(22歳)の結婚写真(今年公開された写真の一枚)では、

こんなお話も聞かせていただきました。

 

晩年、時尾さんは自宅に女子高等師範学校の生徒を下宿させ、寮監を務めていました。
生徒の家族といえど男子禁制だった等々、非常に厳しかったと伝わっているそうです。

 

そんな中、時尾さんが女子高等師範学校の下宿生だったみどりさんを非常に気に入って、勉さんの嫁にと懇願。


写真を見るとわかりますが、みどりさんはかなりの美女。
さらには富裕層のご息女だったらしく、家柄も違い、

簡単には嫁に来てもらえなかったようです。

が、なんやかんやと嫁入り決定したとのこと。

 

対談では「会津の女性は強いですね~」と盛り上がっていましたw

 

 

<藤田家と会津藩主(九代)松平容保との関係性について>

最後に紹介してくださいったのが、

藤田家に伝わる松平容保の歌が書いてある紙(←なんていうのか忘れましたorz)二通。


藤田家と容保公の縁の深さを伝えるものとして、藤田家に伝わっているものです。

写真とともに、読み下し文を太郎氏が紹介してくださいました。

 

「ふみならて よまるるものは みつふたつ 窓ににほへる 梅のはやさき」

 

「波よせる川の なかすに いる田鶴の 千歳の影は 流れざりけり」

 

 

ということで・・・

質疑応答含め、1時間程の講演は以上で終了。

ずっと体育座りだったから、ちょっとしんどかった。

ですが、気が付いたら1時間たっていました。

 

最前列で藤田太郎氏の顔を見ながら話を聞いていたら、

「一さんの話し方もこんな感じだったのかな~」とちょいと妄想してしまいましたヨ。

 

 

<福島県立博物館 ポイント展示・斎藤一の肖像写真>

この後、福島県立博物館へ移動。

常設展(270円)で、展示を見てきました。

 

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以前、佐渡の旅編でも訪れているので、

幕末期の展示以外はざーーーと見て、ポイント展示へ。

(会期:2016年9月14日~9月30日)

 

写真原本での公開は4点。

 

1)斎藤一肖像写真(新聞記事で取り上げられた写真です)

  →撮影時期・場所不明

 

2)藤田勉(長男)・藤田剛(次男)兄弟写真

  →明治41年撮影・撮影情報「東京本郷富阪上 阿部」

 

3)藤田勉(長男)・みどり結婚写真

  →明治41年撮影・撮影情報「Y.Hasegawa Tokyo,Japan」

 

4)藤田素子写真(斎藤一の初孫、生後百日)

  →明治43年撮影・撮影情報「金上製 岩代若松氏七日町」

 

 

写真パネル(複製)での公開は1点。

 

1)斎藤一家族写真(斎藤一・妻 時尾・長男 勉・次男 剛)

 (これも新聞記事で取り上げられた写真です)

  →明治30年撮影・撮影情報「写真師 中黒実 東京本郷四丁目)

 

 

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ほんとこの時期に会津にきてよかった~(*ノωノ)

展示も見れて、ご子孫のお話を聞けて、本当によかった~(*ノωノ)

 

 

で、この記事を書いていたら友人Kから丁度ラインがきて、

「当日の記事の写真に綾さん写ってるヨ」と。

 

なんですってー∑(゚Д゚)

 

・・・・よかった、変な顔してなかった。

これなら、いい。

 

あ、友人Kもばっちり顔出ているじゃないかw

 

<おわり>

 

※敬称は見やすさを優先して省略させていただきました。