先日、経営会議のため、栃木県佐野市で合宿をしてしてきました。

 

朝から夜中まで打合せ。
ご飯を食べながらも打合せ。

 

・・・夜半過ぎ。

 

私 「何かご褒美が欲しい。」←やつれぎみ

夫 「・・・。」

私 「何かご褒美が欲しいんだっ。」

夫 「・・・買い物でもいくか?」

私 「違う!そんなんじゃないんだ!
   そうだ!!史跡に行きたい(ダンッ)←机をたたく音


断じて、夜中だからちょっとおかしくなっていたわけではない。
モノより史跡。

これ、歴女の常識。


ということで翌日、経営会議をほぼ終えた後、1時間だけご褒美をいただけたのです♪


今回ご褒美で訪ねたのは、
合宿をしていた場所から車で30分もかからない場所にあった「足利学校」。

 

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◇日本最古の学校「足利学校」

足利学校は日本最古の総合大学といわれ、

「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定されています。

 

下野国足利郡(現在の栃木県足利市)にあった荘園(足利荘)にあり、
中世以前に起源を持ち、明治5年に廃校となりました。

 

ちなみに、足利市は室町幕府に天下人となった足利氏の発祥地です。
織物業でも有名な土地ですね。

 


<足利学校の創建>

創建については、諸説あります。
簡単に備忘録もかねて、整理しておきます↓

 

1)奈良時代の国学の遺制(現在も残っている昔の制度のこと)説

創設時期が最も古いのがこの説です。

伝承によると、足利学校は当初下野国の国学であったとされます。


国学とは「奈良・平安時代に国ごとに設けられ、郡司や地方豪族子弟のために役人の養成を行った学校」のこと。
これに対して中央には官僚育成機関である「大学寮」がおかれました。

 


2)平安時代の小野篁説

「鎌倉大草紙」(室町時代の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物)
「下毛埜州学校来由記(しもつけやしゅうがっこうらいゆうき)」による
天長9年(832)に小野篁(おののたかむら)が創建したという説です。

 

ただし彼が下野国と関係があったという裏付けはないようですね。

 

小野篁は平安時代前期の公卿で、文人です。
百人一首の「わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人(あま)の釣り舟」は彼が詠んだ歌。


遣唐使として唐に渡ろうとしますが、1回目は難破。
2回目は壊れた船に乗せられそうになって喧嘩→嵯峨天皇に隠岐へ流されます。
上記の歌はこの隠岐へ流されたときに、京の宮廷の人へ送った歌と言われています。

 

小野篁といえば、井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説。


以前友人Kと、京都東山の六道珍皇寺へ足を運び、

地獄に通じると言われる井戸と篁作と伝わる閻魔大王像を見に行ったことがあります。

 

▼六道珍皇寺

閻魔大王像と小野篁像がおさめられています

 

篁が地獄へ降りるために使った井戸

 

  

 

▼足利学校の孔子廟の小野篁像

江戸時代の像ですが、この木造の制作にあたり、

小野篁の子孫が足利学校に寄付をした記録が残っています。

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3)鎌倉時代の足利義兼説
「鑁阿寺(ばんなじ)文書」による
建久年間(1190~1199)に足利義兼(あしかが よしかね)が創建したという説です。

 

鑁阿寺は建久7年(1196)に足利義兼が創建したと伝えられるお寺。

足利義兼は平安時代末期から鎌倉時代前期の武将で、鎌倉幕府の御家人です。

 

源氏の流れをくむ足利氏の第二代当主。
※父・源(足利)義康が下野国足利荘を相続し、それ以来足利姓を名乗りました。

 

妻に北条時子(源頼朝の妻・北条政子の妹)、
彼の子孫に室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏がいます。

 

 

4)明確なのは室町時代中期以後

創建について今だ諸説ありますが、はっきりしているのはこの時代から。

永享11年(1439)、関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が学校を再興したところからです。

 

 

・「関東管領(かんとうかんれい)とは
室町幕府が鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職。
鎌倉公方の下部組織ですが、任命権等は将軍にありました。


鎌倉公方消滅後は、実質的に鎌倉府を運営し、上杉氏の世襲となっていきます。
永禄4年(1561)に上杉謙信が継ぎますが、天正7年(1579)謙信の死後消滅します。

 

 

・「鎌倉公方(かまくらくぼう)とは
足利尊氏が関東を統治するため、次男・基氏を派遣します。
これが鎌倉府の始まり。
鎌倉府の長官が鎌倉公方であり、基氏の子孫が代々受け継ぎました。

 

六代将軍・足利義教と関東管領・上杉憲実VS鎌倉公方・足利持氏(永享の乱)の衝突後、
鎌倉公方 持氏の子・成氏が継ぎますが、拠点を下総古河にもとめました。(古河公方)

 


上杉憲実は「儒学」の五つの経典のうち四経
「尚書正義(しょうしょせいぎ)
「礼記正義(らいきせいぎ)
「毛詩注疏(もうしちゅうそ)
「春秋左傳注疏(しゅんじゅうさでんちゅうそ)」や、
「宋版唐書」などの書籍を教科書として寄進します。

 

これらは中国宋代のもので当時から大変貴重な書籍でした。
現在は国宝に指定されているものもあります。


またこれらの書籍には、上杉憲実の筆跡で

「足利学校公用」「此書不許出学校閫外(学校外持ち出し禁止)」などと記されています。

 

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さらに「庠主(学長・校長)制度」を設けました。
鎌倉五山派の禅僧で易学の権威であった快元(かいげん)を招き、初代庠主(しょうしゅ)とします。
その後、代々の庠主は禅僧が務めました。

 

また学則では
「野州足利学校置五経疏本条目」に学校で学ぶ心構えと書籍の管理規則を定め
「学規(がっき)三条」に学問の範囲と学務についての規定を掲げています。


学規三条では
「足利学校で学ぶべき学問の内容や規則を守らない学生の在校を許さない」
「就学に不熱心な学生の在学を許さない」
「学生は入学に際して僧侶の身分となる」

という校則が定められていました。

 

上杉憲実は鎌倉公方と将軍の板挟みにあったり(永享の乱)と何かと戦乱が絶えない時代の人です。


その一方、儒教の影響を強く受けている人物と伝わっており、足利学校の再興だけでなく、金沢文庫(鎌倉時代中期に北条実時が設けた武家の私設図書館)の再興にも力を入れるなど、戦乱にもかかわらず教育方面にも力を注いでいました。

 

また憲実の子、憲忠(のりただ)は五経のうち残りの易経「周易注疏(しゅうえきちゅうそ)」を、
子孫の憲房(のりふさ)も貴重な書籍を寄進しており、学校の基礎を固めていきます。

 

 

<最盛期の足利学校>
天文年間(1532~1555)には「学徒三千」と言われるほどになり、最盛期を迎えました。

 

スペイン・ポルトガルを中心とした欧州諸国が
資源やキリスト教の布教を目的に東洋に進出してきた大航海時代。
日本にも多くのキリスト教宣教師が訪れています。

 

宣教師達は足利学校のことを手紙や本に取り上げており、

当時の様子をうかがい知ることができます。

 

1)イエズス会宣教師「フランシスコ=ザビエル」により
「日本で一番大きくて有名な関東の大学」と紹介される

 

ザビエルは1549年8月15日(天文18年7月22日)に中国のジャンク船で鹿児島に来航。
その約3か月後、天文18年10月16日(1549年11月5日)に、インドのゴアのイエズス会員宛の手紙を鹿児島で綴っています。

 

「都の大学の外に、尚、有名な大学が5つあって、

その中の4つは、都からほど近いところにあるという。


それは、高野、根来寺、比叡山、近江である。
どの学校も凡そ3500人以上の学生を擁しているという。


しかし日本に於いて、最も有名で、最も大きいのは、坂東(関東)であって、
都を去ること、最も遠く、学生の数も遥かに多いという。」

(展示のキャプションより)

 

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なお、キャプションには記載されていませんでしたが
この手紙の前半では京都に大きな大学が一つあり、

5つの学院が付属しているとも記載してあります。


これは京都五山官寺(禅宗)である

天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺と考えられます。

 

「高野」は高野山金剛峰寺(真言宗)
「根来寺」は和歌山県北部にある真言宗のお寺
「比叡山」は延暦寺(天台宗)を指し、
「近江(現滋賀県)」は、錦織寺(浄土真宗)または園城寺(天台宗)と考えられています。

 

この時代の高野山、比叡山、根来寺、園城寺は

織田信長・豊臣秀吉と関係(因縁)の深いお寺ですね。

 

私の脳内では
紀州根来といわれたら、「BASARA」の聖と那智コンビが出てくるし、
比叡山といわれたら、最近は「信長のシェフ」が出てきますw←

 

ザビエルが紹介している学校は、「坂東(=足利学校)」以外は全て関西にあります。
サビエルは来日して鹿児島で見聞きしたことを綴っていると考えられますが、
足利学校は寺院ではないにも関わらず、九州の南端、鹿児島でも知られるくらいの規模の学校だったということでしょう。

 

 

なお、寺院=学校?と思われる方もいらっしゃると思います。

 

奈良平安時代は、律令制のもと整備された大学寮や国学があり官僚が育成されていました。

江戸時代は、藩校や学問所や寺子屋が普及します。

幕末になると後世に名を残す私塾も増えますね。

 

この間、武士による戦乱が繰り返される世で

高等教育を担当していたのは、寺院が中心だったとされます。

(個人の学問所など小さい教育機関は多数あったようです)

 

そのなかで「足利学校」や、鎌倉時代の「金沢文庫」はちょっと毛色が異なります。

足利学校は、僧侶の育成機関としての色合いが強いですが、その本質はお寺ではありません。

現代で例えるなら、使用料のかかる先生付の貴重な文献がそろう図書館って感じでしょうか?

 

 

・イエズス会士「ルイス・フロイス」により
「全日本でただ一つの大学」と紹介

 

ルイス・フロイスは信長や秀吉らとの繋がりもあり、
戦国時代の貴重な資料である「日本史 (Historia de Iapam)」を記した人です。

 

その「日本史」の中で足利学校が取り上げられています。

 

「彼ら学生は(略)問答形式で学習する。
さらに彼らは占星術や医学のことも幾分かは学ぶ。
ところでこれらの学問に関して言えば、全日本でただ一つの大学であり公開学校と称すべきものが、関東地方、下野国の足利と呼ばれる所にある。」

(展示のキャプションより)

 

また「日本史」の中で
「最も重要な足利の大学でキリスト教を広めることができれば、日本人のキリスト教への改宗は簡単になるだろう」
とも述べています。

 

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このように海外にも紹介された最盛期の足利学校。

この時代に学長を勤めたのは、第七代庠主・玉崗瑞璵九華。
天文19年(1550)に就任します。


北条氏康・氏政父子に「周易」と「三略」の講義を行い、金沢文庫蔵本「文選」を与えられたと伝わる方です。

 

彼が書き写した自筆本は多方面にわたりました。

その中には関東管領・上杉憲実が定めた教授科目にはない「兵学」や「医学」が含まれていました。
戦乱の世の要求に応えた活動が、足利学校の隆盛を招いたといえます。

 

▼字降松

学生が読めない文字を紙に書いて孔子廟前の松の枝に括りつけておくと、

第七代庠主・九華がフリ仮名や注釈を付けてくれていたというエピソードを伝える松です。

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ちなみに彼に師事した「天海」は後に徳川家康に信任され、寛永2年(1625)上野寛永寺を創建します。
寛永寺といえば、幕末の上野戦争・彰義隊
まさかのこんなところでつながった(。-`ω-)

 


<近世の足利学校>
天正18年(1590)豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした結果、

足利学校は庇護者を失うことになり、学校領を一時没収されます。

 

第九代庠主・閑室元佶三要は、秀吉の甥・豊臣秀次に働きかけ百石地の寄進を受けます。

が、秀次は学校の典籍・什物を京都へ移そうとします。


そこで、三要は後北条氏にかわり関東を治めた徳川家康に接近。

家康の力をかり、それらの散逸をくいとめ、足利への返還を実現しました。

 

以後、彼は家康からの信任が厚くなります。

 

政策顧問として「詩経」を講じ、書籍を出版し、伏見や駿府の円光寺の開山となりました。
関ヶ原の合戦では陣中で盛んに易を立て、戦に役立てました。
江戸幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されています。

 

この結びつきが強かったことから、幕府より百石の朱印地(江戸時代将軍によって年貢・課役を免除された寺社領地と寺社所持地)を賜り、庠主は幕府の任命制となっていました。

 

また三要が年筮(ねんぜい)を家康・秀忠に献上したのをきっかけに、
江戸時代における足利学校の最も重要な仕事は「徳川幕府へ年筮を献上すること」となりました。
※年筮とは一年間の吉凶を占ったものです。

 

こうして幕末まで幕府による保護を受けていきます。
なお、足利学校には家康と三代・家光から十一代・家斉までの位牌が安置されています。
それだけ結びつきが強かったということなのでしょうか。

 

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幕末になると、教学活動や経済面においても衰退の一途をたどります。

 

明治元年(1868)足利藩校・求道館(ぐどうかん)の管理下に入り、
明治5年(1872)廃藩置県後に廃校となりましたが、市民に守られてきました。

平成2年(1990)に江戸時代中期の姿に復元され、現在の史跡となっています。

 

<つづく>