「どこかへ行きたい」
と、駄々をこねる私に夫が付き合ってくれたので、
先日、軽井沢方面へ行って参りました。

 

予想外に仕事の話が進んだので
「駄々をこねてみるのもいいもんだ」
と思った次第ですw

 


私の「今年訪れたい場所リスト」にあげていた1つ
世界遺産「富岡製糸場」へも足を運んだので、
記録がてら久しぶりにブログをアップしようと思います。

 

 

◇世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
群馬県は古くから、養蚕・製糸・織物といった絹産業が盛んで

文化遺産が数多く残っているそうです。

 

そのうち

 

・富岡製糸場(富岡市)

・田島弥平旧宅(伊勢崎市)

・高山社跡(藤岡市)

・荒船風穴(下仁田ねぎで有名な下仁田町)

 

の4つを構成資産とする「富岡製糸場と絹産業遺産群」が

平成26年に世界遺産となりました。

 

今回、私が訪れたのは富岡製糸場だけですが、

絹産業について興味のある方は全部廻られる価値があると思います。

 

高速を降りて20分もかからず現地に到着。

駐車場は歩いてよければ無料のものがありますし、

近くにも有料のものがいくつかありました。

 

IMG_20170627_224325119.jpg

 

<富岡製糸場とは>

明治5年(1872)に設立された官営の模範製糸工場です。

 

明治政府により建設され、

全国から集められた工女が

フランス人から洋式の器械製糸技術を学びました。

 

西洋式の近代的な設備を整えた製糸工場のモデルとして建設され、

工女たちは技術習得後、それぞれの故郷で指導者となりました。

 

 

<製糸と生糸と絹糸>

「製糸」とは、繭から生糸をとること。

 

カイコ(桑が大好きな家畜化された昆虫)がさなぎになるときに、糸をはいて作る繭(まゆ)

この繭を煮て、繭糸を引き出し、数本をまとめて1本の生糸にします

 

…つまり中のカイコは茹でられるということorz

 

繭糸はフィブロイン(全体の70~80%)とセリシン(20~30%)という

二種類のタンパク質からできています。

 

セリシンはフィブロインの周りを囲み糊の役目を果たしているのですが、

乾燥すると固り、お湯に溶ける性質を持っています。

そのため繭を煮て、フィブロインを取り出しやすくします。

 

生糸の状態ではまだセリシンが多く残っているため、

「精練」という生糸からセリシンを取り除く作業をすることで、絹糸となります。

 

生糸は絹糸として織物にするのが昔からの活用方法ですが、

最近は食べれたり、スキンケアに使われたり、医療用の縫合糸と様々な分野で活用されています。

 

うどんにシルクってどういうことだ?

と思っていたのですが、タンパク質(アミノ酸)だからか∑(-x-;)

とここで理解ができましたw

 

さて、従来の製糸は木製の「座繰り器」により

手動で糸を巻き取るというなんとも大変な作業でした。

大量生産はできず、品質も不揃いでした。

 

IMG_20170627_224325047.jpg

 

富岡製糸場では蒸気エンジンで器械を動かし糸を巻き取る「フランス式繰糸器」を導入しました。

フランスから輸入したこの器械により、大量生産が可能になり、品質もそろうようになります。

 

IMG_20170627_224426279.jpg

 

予め時間を調べていけば、これらの実演をみることも可能です。

茹で上がったカイコも…見れますよ。

 

夫は「釣りの餌や!」といって喜々としておりましたが、

私は目を細めて遠くから眺めました。

 

ついでにこの展示の奥には「生きてるカイコ」も展示されていました。

 

夫は「歴史は知らんけど、昆虫なら話は違うで!」といって喜々としておりましたが、

やはり私は目を細めて遠くから眺めました。

 

もちろん、自分の携帯に虫の写真を残したくなかったので、写真はとっていません!

 

▼繭を一定の大きさにそろえるための飼育室みたいなの

IMG_20170627_224325135.jpg

 

▼「ぐんま黄金」の繭

天然でこの色なんだそうですよ。

IMG_20170627_224325044.jpg

 

<養蚕>

原材料であるカイコを飼育することを「養蚕」といいます。

養蚕は古代中国から始まり、日本へその技術が伝わったのは弥生時代とされます。

 

農家の屋根裏で養蚕が行われている、というイメージが私は強いです。

例えば白川郷の合掌造り

養蚕に関する展示品が多数ありました。

過去の記事はこちらから

 

富岡製糸場以外の絹産業遺産群は、養蚕に関する遺産となります。

 

・田島弥平旧宅

「清涼育」という養蚕法を大成した田島弥平の旧宅です。

近代養蚕農家建築の原型。

 

・高山社跡

高山長五郎が確立した「清温育」という養蚕法の教育普及を行った高山社発祥の地。

日本全国だけでなく海外にも技術を広めた民間の養蚕教育機関でした。

 

・荒船風穴

夏でも内部は2℃前後の蚕種の貯蔵施設跡。

電気冷蔵技術が発達した昭和10年頃まで利用されていました。

従来は春1回しかできなかった養蚕が、年に複数回行えるようになったといいます。

 

 

<なぜ官営の製糸工場が建設されたのか>

さて、ここからが私的には本題ですw

 

明治政府は、維新後、富国強兵の政策を進めました。

「富国強兵」とは、経済を発展させ国力をつけ、軍隊を強くするということ。

 

明治政府で主導権を握ったのは、かつての尊王攘夷派ですが、

その政策は開国和親政策へと展開し、経済・武力・文化等の面で欧米列強の国をモデルに近代化を図っていきます。

 

明治政府は、外国に喧嘩をふっかけて負けたことのある長州や薩摩が主体となった政権です。

一度喧嘩して負けているからこそ、このままでは勝てない!どうやったら諸外国に国を植民地化されないか、を考えた結果の政策ですね。

 

欧米列強に支配されないためには、国力を上げる必要があります。

国力を上げるには「お金」が必要。

そこで着目したのが「生糸」です。

 

 

少し時はさかのぼり…

慶応元年(1865)の輸出入について、みてみたいと思います。

 

【貿易収支】

 輸出 約1850万ドル

 輸入 約1450万ドル

 ※慶応3年(1867)、輸入関税が20%から5%へ引き下げられたことにより、輸入超過へ逆転します。

 

【輸出品の内訳】

 生糸(繭・蚕卵紙含む) 84.2%

 茶 10.5%

 その他 5.3%

 

【輸入品の内訳】

 毛織物 40.3%

 綿織物 33.5%

 武器・艦船 13.3%

 その他 12.9%

 

【貿易相手国】

 イギリス 63%

 アメリカ 15%

 ※日本に開国させたアメリカは、1861年から南北戦争中。

 

ペリー来航が嘉永6年(1853)

日米修好通商条約締結が安政5年(1858)

池田屋事件や蛤御門の変が元治元年(1864)です。

 

慶応元年(1865)は第二次長州征伐など、幕末の争乱期です。

※新選組では山南敬助が切腹した年ですね。

 

修好通商条約締結後、貿易収支は増加していきます。

その中でも生糸は輸出品の中で圧倒的な割合を占めていました。

 

京都や長州で武力争いが起こっている中、

製糸業地域は、輸出増加の追い風に乗り工業制手工業的な産業が発展していきます。

一方、輸出ばかりされるため国内の生糸は不足し、西陣などの織物業地域は打撃を受けます

また、イギリスからの綿織物が安価に輸入されたため、綿作・綿織物地域が衰退しました。

 

ちなみに幕末のインフレは、この貿易における金銀の交換比率が原因とされています。

 

では、なぜ日本はこれほど生糸の輸出ができたのか?

 

当時ヨーロッパでは微粒子病(カイコの伝染病)が流行り、

繭や生糸、カイコの卵までが不足していました。

 

また生糸の大量輸出国であった清国が、アヘン戦争で負け、

生糸の生産が大幅に減ったからともいわれています。

 

ヨーロッパの絹織物産業は原材料不足となり、

生糸やカイコの卵の需要が増加しました。

 

日本の質の高い生糸は家内生産(座繰り器)でしたらから、生産量は限られています。

質の高い生糸の買い付け競争もおき、結果粗悪品が大量に市場に出回るようになります。

 

こういった背景のもと、品質のよい生糸を大量生産し、輸出することで外貨を稼げると判断した明治政府は、製糸工場に必要な土地・水・石炭・繭を確保できる富岡に官営の模範製糸工場を建設しました。

 

富岡製糸場は

「日本全国に器械製糸場を建設するモデル」

「各地で最新の技術を教える指導者(工女)の育成」

を目的とした官営模範製糸工場であり、

結果的に「日本が外貨を稼ぐ手段」を増やすことにつながりました。

 

実際に明治・大正と生糸は主要な外貨獲得源となります。

 

明治6年(1873)6月、富岡製糸場で生産された生糸が

ウィーンで開催された万国博覧会で2等賞を獲得します。

これにより、富岡シルクがヨーロッパで高い評価を受けることになりました。

 

明治13年(1880)頃までの主要輸出国はヨーロッパでしたが、

明治30年(1897)以降は、輸出生糸の60~70%がアメリカ向けとなります。

 

第一次世界大戦(1914~1918)では、ヨーロッパの養蚕業は壊滅的打撃をうけます。

その一方で日本の養蚕業はさらに発展を遂げました。

大正8~10年(1919~1921)には、アメリカ向けの生糸輸出が95%まで達し、

昭和5年(1930)には産繭額が最高になり、40 万トンに達します。

 

ですが第二次世界大戦後、繭生産の地位を中国に明け渡し、

現在では生糸輸入国(輸出最大国は中国)となってしまいました。

 

 

おっと、長くなった(恒例)ので、続きは次回に!

 

<つづく>