こんにちは。
1月にいったクルーズ日記をぽつりぽつりとUPしていたら、いつのまにかもう3月。
時がたつのは早いものですね。

振り返ってみると、社会人になってから
「時が経つのが早いなぁ」と思わないことがなかった気がします。
これからまだまだ早くなっていくのかしら…。

そういえば、海外にいって毎度思うことがあります。

「日本っていいなぁ~」

帰国するたびに呟いている気がw

温泉はあるし、食べ物の味は繊細で見た目も美しい。
同じ場所でも四季折々でみせる表情は違うし、楽しみ方も変わってきます。

やっぱり日本っていいなぁ。

ということで、我慢が出来ず、ちょっと北陸へ足を伸ばしてきました。

合間にお仕事もしてきましたが、そこはカットして、
今回のシリーズも旅のダイジェストをお届けします。

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<3泊4日で北陸冬景色の旅>
日程:2016年2月23日~26日(3泊4日)
行先:石川県(金沢・能登)
   富山県(五箇山・高岡・日本海側・宇奈月)
   岐阜県(白川郷)
目的:雪!温泉!美味しいもの!
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2月23日(火)
朝一、羽田を出発し小松空港へ到着。
レンタカーをかりて、世界遺産の五箇山・白川郷を目指します。

運転は夫に任せて、五箇山に到着。
と、すぐに夫は爆睡に移行しました。
前日寝てなかったですからね。
仕方あるまし。

ここは私一人でのんびり散策へ向かいます。

そもそも「日本の原風景=合掌造り」のイメージが強く、
また「合掌造りといえば白川郷」というイメージが強いかもしれません。
これもマスメディアの影響でしょう。

行きながら軽く調べている折、時間も限られていますし
「どこにいけば一番いいんだ~?」と私も悩みました。

結論からいえば、私見ですが、「両方とも」を見比べる価値があると思います。

同じ合掌造りでも五箇山と白川郷は趣が違います。

一言でまとめると…
集落の「規模が大きく」「観光化がすすんでいる」のは白川郷
「素朴な姿」を楽しみたいなら五箇山といえます。

でも一言でまとめたくないのでw
備忘録もかねて調べたことをまとめておきます。


---------面倒なら読み飛ばしてね(=゚ω゚)ノ---------

そもそも、「日本の原風景」とはいいますが、合掌造りは雪深く、交通の便が悪く、しかも土地が少ない(農業に向かない)この土地だからこそ生まれた居住形態といえます。
いいかえれば、そこかしこにあった風景ではありません。
住宅はその土地の風土や文化、産業、宗教などと大きくかかわりをもっていると思います。
合掌造りはこの土地の歴史、しいてはこの土地で生きてきた人たちの生活を教えてくれます。

五箇山地区と白川郷地区の合掌造りは、少しだけ違いがあります。

わかりやすくてよく紹介されているのは、
・五箇山の方が湿気が多く重い雪が降ることから、雪を落としやすいように、屋根が急勾配になっています。
・五箇山は正面に玄関が設けられています(妻入り)が、白川郷は入り口が屋根が大きく見える平側にあります(平入り)。

他にも細かいところを調べたら、
・土間の切り方
・柱と梁の梁り方
・屋根の葺き替えの頻度

などの違いもあるようです。

また五箇山地区と白川郷地区の歴史を少し調べてみると
・五箇山は加賀藩との結びつきが強く、養蚕・塩硝、そして罪人の流刑地としての資料がでてきます。
・白川郷は、(白山信仰を中心とする天台系密教の強い影響がある飛騨において)浄土真宗との結びつきが強く、一向一揆・鉱山、そして養蚕に関しての資料がでてきました。

ちなみにご近所ですが、 この二つの郷は支配者が違います。
wikiによると(面倒なので手短に調べました)

"江戸時代の白川郷は金森藩領浄土真宗照蓮寺領となり、のちに天領となった。
一方の五箇山は加賀藩領"です。

戦国時代以前の国境がコロコロ変わっていた時代もあったので、一概に線は引けませんが、
支配者の違いは産業や生活スタイルにそれなりに影響を与えたのではないでしょうか。

---------調査結果 兼 備忘録はここまで(=゚ω゚)ノ---------


◇富山県南砺市/五箇山 菅沼合掌造り集落
1995年、五箇山相倉白河郷萩町とともに世界遺産に登録された菅沼集落。
ここは現在9戸の合掌造り家屋が残っています。
山間を流れる庄川のわずかな河岸段丘にあり、日常生活も営まれています。

この菅沼集落にある合掌造り家屋は
・江戸時代末期(19世紀前期~中期)のもの…2棟、
・明治時代のもの…6棟、
・大正14年(1925)に建てられたもの…1棟
となっています。

大体200~300年が寿命だと資料館の方が教えてくれました。
これから先は現存するものを守っていくしかないとも。

菅沼集落は五箇山インターを降りてすぐのところにあります。
集落へは車の乗り入れができないため、駐車場(協力金500円)に車をとめて散策開始です。
もちろんゴミも持ち帰りが基本スタイルです。



集落へは駐車場からエレベーターで地下へ。


 
地下道は「五箇山合掌の里」と「菅沼合掌造り集落」を結んでいます。



エレベーターを降りたら、集落方面へ地下道を抜けます。
地下道を抜けたら、目の前には庄川が流れていました。



少し歩くとすぐ集落です。



小さな集落ですから、ぷらっと10分も歩いたら一周できてしまいます。

だが、しかし!

私の目的は散策だけではありません。

「五箇山民俗館」
「塩硝(えんしょう)の館」

この二つの資料館!!

先に五箇山民俗館に行って、両方とも見学できるチケット(二館で300円)を購入します。
チケットを売ってくれる受付の方が、簡単な説明もしてくれました。

◆五箇山民俗館


中にはかつて養蚕や紙漉きなどに用いた道具が展示されています。
家屋自体もその建築様式や間取りなど、見ていて面白かったです。
(注:歴女視点ですが)


1)養蚕について
合掌造りといえば、屋根裏で行われた養蚕業でしょう。
地形も気候も厳しいこの地区では、住むには狭い屋根裏空間を作業場として養蚕業を営んでいました。

五箇山では
4月下旬から5月にかけての春蚕(はるこ)、
7月から8月上旬の初秋蚕(なつこ)、
9月までの晩秋蚕(あきこ)
3回の養蚕が行われていました。

カイコを掃きたててから蔟(まぶし)に上げるまでが約1か月、
(つまりカイコにせっせと餌をあげて、サナギにさせる=繭をつくらせるまで1カ月)
蔟から繭をかきとって出荷するまでを加えると、回で40日は要したようです。


2)五箇山和紙について
冬の間は養蚕が行えません。
そこで夏の間に楮を栽培し、冬は紙漉きをしていました。

天正十三年(1585年)頃、生糸とともに年貢として納められてた記述、
また加賀藩二代藩主、前田利長に贈られたという記述が残っているようです。
五箇山和紙は、塩硝とともに、他に流出されないよう藩の指定生産物でもありました。

正倉院文書に記述が残る「越中国和紙」。
いつからあったかはわかりませんが、古くから受け継がれてきた五箇山和紙は「越中和紙」と総称され、国の伝統工芸品に指定されています。

もちろんお土産でも買えますよ♪


3)籠の渡し
加賀藩は五箇山を軍事塩硝の生産地、また重罪人の流刑地としていました。

そのため、他藩の隠密や他国の者が入りこまないよう、
籠の渡しのみを庄川を越す乗り物としました。

籠の渡しとは、川の両岸に縄を張り渡し、籠をつけ、それに乗って川を渡るもの

絶壁を川風に揺られて渡る・・・
タイムスリップしても五箇山には行きたくありませんね(;°皿°)

籠の渡しは南北朝時代(1332年~)からかけられていたと思われ、
蓮如上人が乗って渡る絵図があるそうです。

宝暦14年(1764年)の調書によると、五箇山山中では計13か所にかけられていました。
しかしこれは藩ではなく、百姓が自前で架け渡していたそうです。



 この資料館、二階まで登れるのですが、階段がとにかく急です。
足元が不安な方は登らないでください、と注意書きも書いてありました。
(でも籠をみたかったら、登らねばなりません)

スリッパは脱いで上がりましょう。
慎重に上り下りしないと落ちます、私なら。(断言)

続いて、「塩硝の館」へ。
受付はいないので、五箇山民俗館の方が併せて案内してくれます。

◆塩硝の館


ここでは塩硝について知ることができます。

4)塩硝について
塩硝(えんしょう)とは、簡単にいうと火薬の原料です。

加賀藩の支配下にあった五箇山では、
養蚕業、紙漉きに並んで重要な産業の1つでもありました。

ちなみに、
「五箇山御用留」川合文書によると、享保19年(1734)の稼ぎ高は
生糸56.6%、紙18.9%、灰汁塩硝 10.3%
だったそうです。

んー、今どきはネットで論文も調べられて便利(*´Д`)


白川郷でも塩硝は作られていましたが、白川郷は天領、つまり主に幕府へおさめていました。
とはいえ、文久(1861)~慶応(1865)年間に加賀藩が買い上げた記録もあるようです。
(時代背景を考えると、火薬がめっちゃ入用になってくる時ですね)
ちなみに作り方は五箇山のものと同じ、カイコのウンチを活用しています。


一方、五箇山は加賀藩が、塩硝を製造していた場所です。

加賀藩は幕府に隠れてこっそり作っていたという見解もあります。
五箇山などの製造地の資料はあるものの、城下の金沢には資料がほとんど見受けられないこと。
(幕府に見つけられたら困るもんね)
煙硝を「塩」硝と表記していることなどからも、そのように考えられているようです。

一方で、寛文8年(1668)には他国へ出回っている記述もあるようです。
(でなければ、加賀の煙硝が一番いいなんて記録が残ってるわけがないですよね?)

しかし天保11年(1839)以降は加賀藩が全て買い上げています。
(異国船対策ですね)


五箇山の塩硝は、カイコのウンチを活用して作ります。
養蚕業が盛んだったことも、塩硝づくりが浸透した理由の一つでしょう。

①炉裏の横に長さ2間、幅3尺、深さ1間の穴を掘り、そこに草とか土とか蚕の糞とかをまぜていれる。
②1年ごとにかき混ぜつつ、5年寝かせる。
③掘り起こした「塩硝土」に水をいれてかき回して、濾す。
④できた水溶液を煮詰める。
簡単にいうと、こんな感じで作られていました。

多くの他藩が「古い家の縁の下に偶然出来るもので製造する」のに対し、
加賀藩では「計画的、人為的に製造」していたことがわかっています。

塩硝が運ばれるルートはいくつかあったようですが、
当時は秘密裏に運ばれていたようですね。
まぁ、当然といえば当然。

安く輸入されるようになる明治初期まで、五箇山では塩硝が作り続けられました

◆全国の塩硝生産地

  
まさか五箇山でこんなにお勉強できるとは思わず・・・
今回の旅で一番歴女心がワクワクした時間だったかと思います(笑)

私が一番知的好奇心を掻き立てられる幕末。
あの時代必須だったのが、火薬。
もちろん全ての塩硝が火薬の材料になったわけではないでしょうが、
(それ以外の使用方法もあります)
黒船来航から禁門の変、そして戊辰戦争と、火薬弾薬に使われる塩硝は当時必要不可欠なものだったでしょう。
この五箇山もあの怒涛の時代に絡まっていたんだろうなぁ・・・

と、文献を漁ったわけではありませんが、思うに至りました。


調べたことをまとめていたら、なんだか長くなってしまいました。
「ダイジェストでお届け」とかしょっぱな言ってたくせにorz

ということで、続きは次回!

<つづく>