1月7日【イタリア・チビタベッキア】
ローマ中心部から北西へ約70kmの距離にある
ティレニア海に面した港町、チビタベッキア。
「古い街(AcientTown)」という意味のチビタベッキアは、
紀元前106年に当時のローマ皇帝・トラヤヌス帝が港として街を建設したことに始まります。
現在ではサルティーニャ島・シチリア島・マルタ島・バルセロナなど
地中海の主要港と航路を結んでおり、観光の起点となっています。
第二次世界大戦で街は壊滅状態でしたが、その後再建されました。
新しい建築物は、現代様式で建てられています。
▼散策中、建物の間にひっそりとあるのを見つけました。
イタリア語のキャプションを翻訳してみると
チビタベッキア市 思い出の場所
1943年5月14日~2013年5月14日
良い戦争か悪い平和があったことがありません(ベンジャミン・フランクリン)
と書いてありました。
1943年は第二次世界大戦中、ムッソリーニがクーデターで失脚した年。
Wikiによると、チビタベッキアはナチス・ドイツの潜水艦基地となったため、
連合軍の激しい空襲を受けていたようです。
街の中には、こういった場所が複数ありました。
多くの歴史的建造物が破壊されたといわれていますが、
とはいえ「古い街」としての雰囲気も残っています。
ローマ法王ユリウス2世デッラ・ローヴェレのもと、
16世紀に建てられた港湾防衛のための「ミケランジェロ要塞」は名所の一つ。
要塞の周辺には、トラヤヌス時代の雰囲気が残っています。
この要塞はローマ帝国時代の建築物の上に建てられており、
ローマ海軍の兵営であったと考えられています。
要塞上部のマスキオ(Maschio)と呼ばれる塔は、イタリアの彫刻家・ミケランジェロが設計。
これによりミケランジェロ要塞と呼ばれているそうです。
他に散策中に見つけたのは「聖フランシスコ教会」。
もともとあった小さな教会を改修し、1610年から建設が行われました。
現在は19世紀につくられたバロック・ネオクラシック様式の外観です。
さて、チビタベッキアでは多くの方がローマ市内へ観光へ行かれます。
ローマまではバスや電車で約1時間半の距離。
船会社主催のオプショナルツアーも、ローマ行きのものが多いですね。
私たちは以前にローマを訪れたことがあったので、今回はチビタベッキアを楽しむことにしました。
・・・海もあるしねw
チビタベッキアは小さな街なので、2時間もあれば十分に回れます。
だがしかし
めっちゃ寒くてもう観光どころじゃなかったですっ!!!!!!
セーターにコート、カイロと決して薄着じゃなかったのに、もう寒すぎて寒すぎて。
夫の用事(釣り)とランチにお土産物探しで、合計3時間ほどでさっさと撤退しましたorz
上記以外の見どころとして教えてもらったのは・・・
◆チェントチェッレ大通りにある「考古学博物館」(元は税関の建物)
◆チェントチェッレ大通りにある「トラヤヌス劇場」
◆レッジーナ・マルゲリータ広場にある露天商のマーケット
◆18世紀建築の「カテドラル(大聖堂)」
そして帰国してからゆっくり資料を見返して気づいた
わたし的には見どころなのが・・・
◆「日本聖殉教者教会」(CHIESA DEI SANTI MARTIRI GIAPPONESI)
港から海沿いのガリバルディ通りを歩いて20分程先にあるこの教会は、
1597年、長崎で殉教したフランシスコ会のキリスト教徒26名を列聖しています。
第二次世界大戦後の復興に際して、
日本人・長谷川 路可(大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家)により描かれた
26殉教者をテーマにしたフレスコ画が教会内部にあります。
1587年にバテレン追放令を出した豊臣秀吉は、南蛮貿易の関係もあり
日本でのキリスト教の布教を禁止しましたが、事実上信仰は自由としていました。
1596年、スペインのサン=フェリペ号が難破、土佐へ漂着します。
この事件の後、秀吉のキリスト教への警戒感が強まり、
京都奉行・石田三成へ京都へ住むキリスト教徒の捕縛、処刑が命じられます。
1597年、三成はフランシスコ会のペテロ・バウチスタ神父ら24名のキリスト教徒を
捕縛し、長崎へ送ります。(途中で2名加わります)
長崎の西坂刑場で十字架刑により26名が殉教。
Wikiによると、秀吉の唯一のキリスト教迫害がこの「26聖人殉教」だそうです。
1858年(江戸時代)、日米修好通商条約の締結によって長い鎖国時代が終わります。
その4年後の1862年、教皇ピウス9世により26名が列聖され、
1864年、フランシスコ会修道院の聖堂を「日本聖殉教者教会」と名付けて改修・献堂しました。
◆ルイジ・カラマッタ広場(Piazza Luigi Calamatta)にある支倉常長像
1991年(平成3年)、石巻市との姉妹都市締結20周年を記念して建てられた像です。
1613年(慶長18年)仙台藩主・伊達政宗は、家康に許可を得て、
仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えに、ノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、
イスパニア(スペイン)国王とローマ教皇のもとに慶長遣欧使節団を派遣しました。
1613年10月28日、伊達政宗の家臣・支倉常長は
宣教師・ルイス・ソロテと180余人の使節団員と共に、
仙台藩内で建造されたガレオン船「サン・ファン・バウティスタ」で石巻を出航します。
なおこの造船には、江戸幕府から派遣された船大工も参加しています。
スペイン人・ビスカイノと幕府船手奉行の指導のもと、「東藩史稿」によると
大工800人、鍛冶600人、雑役3000人の人手を使い、約45日で建造されました。
使節団は太平洋を渡り、メキシコを経由して、
1615年1月30日、マドリードでイスパニア(スペイン)国王フェリペ3世に謁見します。
1615年10月18日、チビタベッキアへ上陸。
1615年11月3日、ヴァチカン宮殿でローマ教皇パウロ5世と謁見します。
メキシコからフィリピン・マニラを経由して、
1620年9月22日頃、支倉常長は帰国。
結局この使節団の通商交渉は失敗し、
さらに帰国すれば日本は幕府により禁教令がでていました。
2年後、52歳で支倉常長は亡くなっています。
ちなみに・・・
1582年(天正10年)の「天正遣欧少年使節」は
キリシタン大名によるキリスト教の本山詣の意味が強かったですが、
この「慶長遣欧使節団」は外交交渉でした。
交渉は失敗に終わってはいますが、
1871年(明治4年)に欧米視察のため派遣された「岩倉使節団」は
正使:岩倉具視(公家)
副使:木戸孝允(桂小五郎/長州)・伊藤博文(長州)・大久保利通(薩摩)他
250年以上前に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行い、ローマまで来ていたこと。
また支倉常長らが残した事跡を知り、大いに勇気づけられたといいます。
フラスコ画や像は近代のものですが、
これらにどのようなストーリーがあってそこにあるのかを想像すると、
歴史好きにはタマラナイのです。
あぁ、行きたかった。
なんで・・・
資料に書いてあったのに・・・
チビタベッキアにいた時に気づかなかったんだろう!?
日本に帰ってきてから、私は気づくんだろうかぁぁぁぁ(つД`)ノ
チビタベッキアは地中海クルーズでは起点となりやすい港だし、
きっとまた行くから、、、大丈夫・°・(ノД`)・°・
この日、朝10時に下船した私たちは、
ターミナルからでている無料のシャトルバスで街へ向かいました。
バスを降りたところにあるエクスカーションで、
添乗員さんにサポートしてもらいつつ、
釣場を案内してもらおうと思ったら。
「港の近くは釣り禁止。
お勧めの釣り場はタクシーで1時間以上いった、古城のほとりでトラウト。」
と言われ、しかもたっかい!
ローマ行く方が安かったんじゃなかろうか?という値段。
海で釣りたいという夫の希望はかなえられず、エクスカーションは断念です。
結局、銃を持った軍人さん?が警備をしているバスターミナルから
とりあえず徒歩で中心地を目指してブラブラ歩き出します。
すると、途中で釣具屋発見!
「釣り場情報があるかもしれない( °∀° )喜」と夫は店内へ。
だがしかし、英語が通じない。
どうしたものか思案。
ふと思い出して、取り出したるは・・・
「イタリア語で”近くに釣り場はありませんか?”と書かれたメモ」
これ、添乗員さんが
「英語が通じないかもしれないので、イタリア語がわかるクルーに書いてもらいました。
もしよければどうぞ。」ってくれたもの。
これほど添乗員さんに感謝した日はないっ(*゚∀゚人゚∀゚*)♪
これをポシェットに入れていた私はえらいっ(人´∀`*).
とはいえ、ジェスチャーと雰囲気で「あっちの方にある」ということだけしかわからないw
でも諦めない夫は、とりあえず「あっち」の海沿いに歩いて釣り場を探しだします。
で、無事に釣りしてよさそうな場所を見つけたんです。
ただし、極寒。
海風でさらにダメージ増。
たぶん20分程で引き上げました。
釣り好きの忍耐力をもってしても耐えられない寒さ(・∀・)
このあとは、お土産物屋とランチを食べれそうなところを探しつつ、町の中を散策。
一応ついでにと思いカテドラルを目指して歩いてのですが、
気づいたら袋小路に迷い込んでしまいました。
「寒いしもういい!温かいもの食べたい!」
で、見つけたレストランがこちら。
バスターミナルの近くで、中はかわいかったです。
とにかくイタリアらしくて温かいものを注文します。
▼ピザを頼んだらこれが出てきました。
途中まで「前菜かな~」って思ってましたw
伝わていなかったのか、これがこのレストランのピザなのかは今だ不明。
結構美味しかったから、よし。
▼トマトソースのパスタをたのんだら、チーズとトマトのタリアテッレが来ました。
味が結構濃い目でしたが、まぁ美味しかったからよし。
▼船内のコーヒーに飽き飽きしていたので、このコーヒーはひときわ美味しく感じました。
結局13時頃には、船内へ。
船の最終出航は19時でしたから、暖かかったらもっと満喫できたのかな。
さて、明日は下船日です。
私「夜は荷詰めで忙しい( ´_ゝ`)ノ」
夫「夜はカジノで忙しい。(。+・`ω・´)キリッ」←おい
ということで、別行動。
日付が変わって、ずいぶんたってから
「全部コイン使ってきた~」と部屋に戻ってきました。
よけてた利益は既に私が現金化していたので、収支はプラス着地。
(カジノのキャッシャーはカジノがオープンしている時間帯だけなのが一般的。
うっかりコインを現金化せずに下船することにならないようご注意ください。)
そう、クルーズ中の私は通称「預けたら二度と出金できない銀行」。
カジノでも「天引き」と「資金管理」は大切です(´∀`)
<つづく>