怪しげな記録が残る場所(宴の松原) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(令和5年11月23日のこと)です
華光寺を後にして、更に西へ向かいます
すると、出水通り六軒町通りが交わった角に石碑と解説板がありました

平安宮 (えん)の松原
住所・京都市上京区出水通六軒町東入

解説
平安宮 宴の松原
  平安宮中央部西寄り、豊楽院の北側にあった広場で、「縁(えん)の松原」とも記され、南北約430m、東西 約250mの広がりをもち、この説明板はその東端近くにあたる。
  呼称から宴(うたげ)の場として用いられたことが考えられるが、その事実を示す記録はない。また、平安宮の南北中心線を挟んで東側の内裏と対称の位置にあることから、天皇の代替わりに当たって内裏を建て替えるための予備の空間として用意されたという説がある。しかしながら、天長6年(829)、宴の松原南東部に密教の加持祈祷を行う真言院が設けられたものの、平安時代を通じて大規模な施設が造営されることはなかった。むしろ、『大鏡』や『今昔物語集」などの文学作品には、仁和3年(887)8 月に松の樹下で女性が鬼に殺害されたという話や、若き日の藤原道隆 (953~995)が、弟の道長と夜に競った肝試しで、右衛門陣から豊楽院へ行く途中、宴の松原あたりで聞こえてくる声に怯えて一 目散に逃げ帰ったなどのエピソードが収められている。
  この区域では、これまでに広い面積の発掘調査が実施されていないこともあり、遺跡の詳細は明らかではないが、丸太町通や六軒町通、七本松通沿いの調査では、地表から60~70cmの深さで、平安時代の整地層が見つかっている。出土遺物も多くないことから、記録のとおり平安宮内に広大な空き 地が広がっていた状況が想像できる。
(原文のまま)

図のアップ

こちらは千本通りの記事でも書いてあったように、ちょっと怖い京都の場所がここだったようです
松原の跡もないから、これしか目印が無いですけどね😅

次回でこの日のことは終わります
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ