皆様こんにちは、いつも私のブログにお立ち寄りくださり本当に本当に有難うございます。
先日、日本人の世界観・死生観について考えるための伏線をはる意味で、キリスト教と仏教のそれについて、先人から教わって私なりに理解した積もりになっているところの知識と、若干の卑見を加えたものを説明させて頂きました。
そして、こういう仮説を立てました。日本教徒の世界観・死生観は、キリスト教よりは、仏教にずっと近い。でも、仏教そのものではない・・・のではないか。
聖徳太子は17条の憲法の中で、朝廷に仕える公務員の道徳律として、「和をもって貴しとせよ」を冒頭にもってきました。
そして第二条が「篤く三法(仏教)を敬え」。三に曰く「詔を受けたら必ず謹みて承れ」と。
加えて末尾の17条で曰く「夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし」と。これ一条の詳細版でしょう。
皆様ご存知の通り、聖徳太子は極めて教養の高い人物でした。おそらく日本語のみならず、朝鮮語や中国語、更にはサンスクリット語なども少なくとも読み書きはできたはずです。高句麗(当時、朝鮮半島北部から中国東北地方南部を領有していた朝鮮族王朝)から来た偉いお坊さんをブレーン兼家庭教師につけていましたから。
そして篤い仏教徒でもありました。それは、法隆寺などといったお寺を建立するのみならず、出家僧でもないのに「三教義疏」というお経の解説書を作ったくらいです。
何が申し上げたいかと言うと、日本以外の事情や価値観、つまり、仏教や儒教の価値観にもそれなりに精通していたであろう、ということです。
人間というのは、個人であれ集団であれ、自分自身のことはなかなか解らないものだと思います。自分自身の正体を把握する方法の一つとして、自分とは異なる個人や集団のそれと比較する、というやり方があると思います。
聖徳太子という人物は、そういう方法を通じた自己把握、つまり、日本人把握を試みることができた人物である可能性があると思います。
普通、規範と言うのは、起草者が重要だと考える条文から順番に並べるものです。合衆国修正第1条は表現の自由だったと思います。日本国憲法は「天皇」の章から始まるので、「あれ?」と思われるかもしれませんが、これは日本人自ら改正を行ったように見せるように、明治憲法の体裁を踏襲するようGHQが指示した結果だと聞きいたことがあります。
そして、聖徳太子が第一条に持ってきたのが「和」です。更に最終の17条で再び「和」のココロについて念を押します。
聖徳太子は篤い仏教徒でしたから、個人的には一番最初に持ってきたかった徳目は、ひょっとしたら仏教だったのかもしれません。
詔、つまり天皇の命令の重要性は三番目ですから、絶対王政を最優先に考えていたわけでもなさそうです。
そして「和」の正体は、憲法に書いてあるように話し合うことのようです。
この「和」なる徳目は、儒教でも重要な徳目とはされていません。「逆説の日本史」シリーズの著者:井沢元彦氏によれば、最高の徳目の「孝」よりずっと下の「礼」を達成する手段の一つに「和」が出てくるに過ぎないそうです。
先日ご紹介した、「猿の王様」の法話の例から察するに、仏教では話し合いよりも、法に基づく「知恵」を重んずるようです。
キリスト教を含めた一神教の世界ではどうでしょう。明らかに創造主からの命令が最優先事項です。
言い換えれば、日本以外の諸外国では「話し合い」や更には「多数決」では破り得ない高次の規範が存在している、ということです。
しかしながらです。当時の日本人気質は、キリスト教はさておき、こういった諸外国の例にある程度精通していたであろう聖徳太子をして、それらと比較考慮した上で、「和」を最優先徳目に持ってこさせている訳です。
こういう日本人の特質を、井沢氏や、評論家の山本七平氏は「話し合い至上主義」と呼びます。
諸外国では、「話し合い」や「多数決」はあくまで問題解決の一手段とされるのみです。
山本七平氏は次のように説明します。
「・・・『多数決の結果が正しいとは限らない』という意見自体が多数決の本質への無知を物語っている。多数決は弁証法的な解決が可能な問題に限って機能しうる解決手段の一つに過ぎない・・・」(「空気の研究」~引用は不正確です。)
しかし聖徳太子は説きます。「とにかく話し合え、そうすれば道理に叶う・・・」と。
「道理」?
辞書をひきましょう。
どうり【道理】①物事のそうあるべきすじみち。ことわり。②人の行うべき正しい道。道義。(「広辞苑」(第六版[岩波書店])
なんとなく解ったような解らないような。
そして、日本人の「話し合い」は厳密な意味での『多数決』でない場合がある可能性すらあります。ここからは諸先人の意見を頼りにしつつも、私の憶測になります。
日本人を支配するのは「空気」である。と喝破したのは山本七平氏。山本氏は、多数決の議論さえその場の空気に支配される可能性があることを指摘します。日本では、会議室での表決結果とその後の飲み屋での本音とを足して二で割ったら本当の正しい多数決の結果が得られるのではないか・・・と(前掲書)。「あの場ではああ言わざるを得なかった。」「部長があそこまで言うととても反対できる空気じゃなかったよな」等など。
社会学者:小室直樹氏はこの「空気様」の支配の特徴を「その場の空気に呑まれて『内心では反対のまま』賛成票を投ずる」状態と説明します。その具体例として引かれるのが戦前の日独伊三国同盟締結前の枢密院の議事録。枢密院と言えば当時天皇の最高諮問機関、その全メンバーが「ドイツとアライアンスなんざ結んだ日には対米開戦不可避」と大反対。しかし「バスに乗り遅れるな」という世論におされて全メンバー「反対のまま」賛成。
そのような空気を乱す行為に対しては「空気を読め!」と批判が飛びます。もそっとわかりやすく言い換えれば「和を乱すな!」ではないでしょうか。
日本でいう「話し合い」とは厳密な「多数決」のほかに、「なんとなく皆が納得しているような有様」というような結論までが含まれるのではないかと感じます。
決して無原則なのではないとは思います。上記の意味での「話し合い」至上主義が不文律の最高法規として存在するのです。
そしてそれが「猿の王様」の法話などの外来思想や宗教の内容すら、その「日本人ならばなんとなく皆が納得しているような有様」に沿うように容赦なく改変を始めるのです。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
英語訳は追って作成します。