日本の政教分離の独自性⑥(信長と安土宗論~顛末) | 平成の愚禿のプログ

日本の政教分離の独自性⑥(信長と安土宗論~顛末)

宗論の内容に立ち入る前に、その理解に必要と思われる仏教、特に大乗仏教についてのアウトラインを若干申し上げたいと思います。


そうしておかないと、宗論がどのように推移して、どのイニングのどんな決定打でその勝敗が決まったのか、多くの一般の方々にはおそらく解らなくなってしまうとおもわれるからです。


大乗仏教では、お釈迦様が菩提樹の下で解脱を果たしてから、死去(「涅槃にはいる」といいます)の間の40年間に、様々な教えを説いたとしています。仏教が広まるにつれて、それまで口頭伝承であったお釈迦様の教えが経典化され、更に、その後新しく発見された、とされる経典なども含めれば、その数は極めて膨大になります。


その全てを纏めて「一切教」などと称します。


そして、これは仏教の最大の特徴なのですが、その他の代表的な世界の宗教、例えば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった宗教と異なり、唯一無二の経典(旧約・新約聖書・新新約聖書ともいうべきコーラン)というものが決まっていないのです。


そこで、その後の仏教徒によって、その数ある経典の中で、どれを自分たちの信仰のよりどころとするか、あるいは重要性のランク付けをするか、優劣の判断を行うことになってきます。これが仏教でいわれる「教相判釈(きょうそう-はんじゃく)」略して「教判」と呼ばれる判断です。


こういったことは、先に述べた他の宗教では起り得ません。例えばキリスト教の中のあるプロテスタント達が宗派を立ち上げ、その開祖の述べたことを教えに取り込んだとします。しかし、それはあくまで聖書に次ぐ教えとしての位置づけが与えられ、聖書の教えや記述と矛盾しない範囲で、二次経典としての役割が与えられるだけです。

ですから、仮に「キリスト教団」を名乗っていても、聖書に上位するような教祖の教えを奉じている団体があれば、もはやそれは「キリスト教」ではありません。おそらくキリスト教徒の人々から見れば、聖書を冒涜するインチキ宗教ということになってしまう筈です。


そして、大乗仏教ではお釈迦様が40年間に説いた教えを記した一切教を、それが説かれた時期や、教えの内容に従って「五時八教」という形に分類しています。大まかに言えば、以下の通り。

  1. 華厳時
    • 期間 - 21日間(一説に31日間とも)
    • 経典 - 華厳経(大方廣仏華厳経)
  2. 阿含時
    • 期間 - 12年間
    • 経典 - 増一、長、中、雑、小の阿含経、法句経などの南伝大蔵経
  3. 方等時
  4. 般若時
  5. 法華涅槃時
    • 期間 - 8年間(うち涅槃経は一日一夜)
    • 経典 - 法華経28品を中心とする法華三部経 、涅槃経

※転記元:ウェキペディアフリー百科事典


大乗仏教でお釈迦様が説いたとされる膨大な「一切教」を読んだ上で、どれが一番優れているかという教判をおこない。その結果によって宗派が分かれてきます。

例えば浄土信仰を掲げる浄土宗,浄土真宗,時宗といった宗派では阿弥陀教他の「浄土三部教」を重要と考えて奉じます。


また、最澄が伝来させた天台宗は、中国の天台宗開祖智顗 (ちぎ)の教えに従って法華経を最上位の経典としつつも、他の経典もそれについで疎かにできない・・・という立場です。これは、日本に広く仏教を伝えようとした最澄の意思によるものだと思いますが、本来の天台宗からすればすこし不徹底です。

これを、法華経のみを唯一の経典とし、その他の経典に一切の価値をみとめない・・・どころか排斥する、という、ある意味本来の天台宗の教えへの回帰を主張したのが日蓮宗です。

その日蓮宗が掲げる法華経のココロが「妙」という一字で表されます。


遠回りが過ぎました。


ようやく話は安土宗論に戻りますが、この「妙」を巡る議論のイニングで、安土宗論の勝敗が決するのです。


この宗論の発端は、浄土宗の霊誉玉念 (れいよぎょくねん)が安土城下で一般庶民に説法を行っていたところに、日蓮宗の若手が「折伏」をしかけたことに端を発します。

これに対して玉念が「お前らのような若造では話にならん。師匠を呼べ。」と応じ、この紛争を聞きつけた信長が、宗論を主催することになりました。


ちなみにこの安土宗論、会場は浄土宗の寺院で行われ日蓮宗側の観客の入場は許されず、千人以上の浄土宗信徒と信長が差し向けた判者と立会人以外は、全て浄土宗徒という、日蓮宗側からいわせれば「籠の中の鳥」ともいうべき完全アウェーの異様な雰囲気の中で行われたのは事実です。


前回転記掲載した安土問答議事録(「信長公記」:大田牛一編著)をご覧下さい。


浄土宗、浄土真宗、時宗といった宗派では、教判の結果先に述べた五時八教における「浄土三部教」以外の経典を軽視ないし無視します。


日蓮宗は法華経のみを経典として奉じ、法華教「捨てます。」ちなみに法華経は上記まとめをご覧になってわかるように、お釈迦様が最晩年に説いたお経ですから、それ以前の膨大な経典を「捨てる」ことになります。


その意味でお互いに自らの最高経典に忠実な原理主義的側面を持っています。


しかしながら、ここは重要なポイントですが、浄土三部教以外にも阿弥陀如来の教えは法華経を始めとする他の経典にも出てきますし、逆に法華経で書かれている「妙」の精神に近い教えは法華経以前の経典にも出てきます。ここから両者に論理矛盾なども生じてくる可能性が出てくるわけです。


そこで、宗論はそういった矛盾を突きあう形で進行して行きます。


「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」と言われますが・・・。私たち一般人には、徒に難解で不毛とも思える議論が丁々発止と展開されるわけです。


そして宗論で決定打となる、浄土側の貞安が放った質問。

「釈尊が四十余年の修行を以って以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。」


戦前の日蓮宗学派の第一人者でありカリスマ:田中智学は、この質問をして回答不能な質問を放った「いかさま」と主張します。


「こんな事は全く話にならない、それこそ御釈迦様でも気がつかない事だ。知って居るのは、世界中に唯一人、劫初(こうしょ=この世の初め)以来何億万年にも誰一人、その唯の一人しか知るものは無い、それは大雲院開山教蓮社退魯大和尚聖誉貞安上人唯一人である。『経文』にも『論文』にも『釈義』にも、かつて登録されない珍妙怪奇の『造り名目(つくりみょうもく)』を以て、相手を煙に捲かうといふのは、モー法義論談の分域を通り越して、残るところは貞安の人格問題だ」(雑誌『毒鼓・殉教号』67頁、獅子王文庫発行)


つまり、方座第四の「妙」などという概念は、浄土宗側が作り上げた創作であって全く意味不明。誰も説明できない謎の概念を投げかけて、日蓮宗側が答えに詰まったところを、浄土宗側とその観客、そして浄土宗とつるんだ判者と立会人が「満座一同どっと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取」った訳です。

この袈裟を剥ぎ取るという行為は、宗論で負けた以上、袈裟をつける資格がないという含意を持ち、勝敗が決した証となります。


当時の状況と田中智学の分析を併せ読むと、浄土宗側と信長の卑劣は明らか。


しかし・・・です。

田中智学は碩学であるが故に浄土宗側の質問の意図を強いて解釈し、「“方座第四の『妙』”といふのは、追究したら恐らく『方等会座四教並説中第四円教所談の妙』というつもりであらう」(前掲書68頁)と敷衍します。


博学であるが故の研究心と説明意欲の高さが招いた「蛇足」というのはこういうことをいうのかもしれません。皆さんお解りでしょうか。


田中智学のこの分析によれば、浄土宗側の質問は意味不明という論旨とは矛盾し、田中自身が述べるように、説明可能な概念となってしまします。

この田中の「やっちまった」的な「蛇足」を、同時代における浄土宗派の仏教学者:林彦明が冷静に突いて定説の誤りを喝破しているのです。


説明可能な概念を説明できなかったのみならず、知らなかった訳ですから話になりません。

少なくとも田中が言うように「その妙は『方等会座四教並説中第四円教所談の妙』を言いたいのだろうが、それは未だ方便の段階で説かれたものだから真の妙とは言えない。」などといった、何かしらの反論を判者も期待し、浄土宗側も予想していた筈なのです。


それが予期に反して全くなされなかったからこそ、一切教に通じた判者や浄土宗側は意外な顛末に「どっと笑」つたのでしょう。


これで日蓮宗の負けが決したのです。


この結果、日蓮宗側は信長に、強引な「折伏」への謝罪と今後の自粛を誓う詫び証文を出し、信者の町人集も多額の罰金を課せられ、これに応じます。


敬白 起請文(きしょうもん)の事

  1. 今度(このたび)近江の浄厳院に於いて浄土宗と宗論を致し、法花宗が負け申すに付いて、京都の坊主普伝、並びに塩屋伝介が仰せ付けられ候事。
  2. 向後他宗に対し一切法難(非難)致し可からざる之事(今後は、他宗に対し決して非難は致しません)。
  3. 法花一分之儀立て置かる可き之旨、忝く存じ奉り候(法華宗に寛大な御処置を賜りまして、誠に有り難い想いです)。私共法華宗の僧はいったん宗門を離れ、改めて御許可を得てから前職に就かせて戴きます。

天正七年五月二十七日   法花宗

上様、浄土宗様


信長の「八百長疑惑」に対する潔白は証明されたと信じます。


次回、(感動の?)最終回とさせていただきます。