日本の政教分離の独自性① | 平成の愚禿のプログ

日本の政教分離の独自性①

みなさま、いつも私なんかのブログにお立ち寄りくださり有難うございます(地面に穴掘って頭を入れて土下座しつつ感謝します。)


さて前回は、ケネディ大統領の選挙戦当時の演説を題材に、アメリカの政教分離や信教の自由について思うところを述べさせて頂きました。


ところで、元々の・・・(といったら語弊がるかもしれませんが、本家の)政教分離と、日本の政教分離について、最近私は根本的な相違があることに気付いてしまいました。


いや、ひっとしたら他の方が述べられている見解を、それを見聞きしたことを忘却して、勝手に私のオリジナルだと勘違いしているのかもしれません。また、私が勝手に一人で「発見した」と感動しているだけで、実は世間ではあたりまえのことかもしれません。

つまり何を申し上げたいかといいますと、これから私が申し上げることが他人様のご意見をパクっているとしても、それは故意のパクリではない・・・ということです。


欧米での政教分離というのは、カトリックなりプロテスタントなりの教会や宗派が主体。この主体が政治や外交を支配、ないしは干渉してくる、という歴史に基づいて、この宗教団体による政治への干渉を防止する、というのがココロだと思います。


そして日本。少なくとも戦国時代末期以降の歴史を踏まえて考えて見ます。すると、現行憲法では欧米のそれと同じような政教分離が謡われてはいますが、実態を見れば、宗教団体が主体となって国家に関与する、というよりは、国家が主体となって特定の宗教団体を利用するという歴史的経緯が有り、これを防止するということがココロになっているのではないか、と考えるのです。


と申し上げますのも、以下のような歴史的経緯を踏まえた上でのことです。この歴史的経緯については、諸氏の見解や教えに頼っています。当たり前ですが・・・。


上記の卑見に「何だこやつは!藪からぼうに!!」と疑念をもたれる諸兄、ご尤もです。ただ、先ずは、とりあえず私の考察を最後までお読み戴いた上で、御助言,ご批判、ご叱責を賜れればありがたく存じます。


日本人は、これは私も含めてですが、外国で宗教の宗旨なりを巡って殺し合いなどをしているのをメディアなど通じてみていますと、「馬鹿だなぁ~。宗教くらいのことで殺しあうなんて・・・。違いを認めて共存すればいいじゃない。」と感じるのが一般的なのではないでしょうか。


太古の昔から、我が国ではそのような宗教的寛容性に溢れた国だったのでしょうか。

私は違うと思います。少なくとも戦国時代までは。


ここで説明のための便宜上、例として日蓮宗を挙げて考えて見たいと思います。

日蓮宗の開祖、日蓮はその有名な「四箇格言」で「念仏は無限地獄に堕ちるような悪行だぞ」と、浄土宗、浄土真宗、時宗といった宗派、その他の宗派を激しく攻撃します。


日蓮の教えを非常にすごく大雑把に言えば「一天四海皆帰妙法」つまり「この世のすべての人々が法華経に帰依するような状態」を目指し、「不惜身命」の決意、つまり「命や身の危険を顧みず」、他宗徒を「折伏」つまり「日蓮宗に改宗するよう説得する」、ということにあると思います。


そして、これは個人的には日蓮自身の真意からは乖離しているのではないか、と思うのですが、日蓮宗の中には「折伏」の手段として暴力を行使しても構わない、と考える人々や宗派もでてきます。


こうした考え方、特に「暴力」を使うとことすら容認されるといった考え方は、おそらく大多数の日蓮宗信者の方々も含め、現代の日本人がついていけない教えなのではないでしょうか。


しかし考えてみると、こういった日蓮宗の根本的な考え方の方が世界スタンダードの中ではより宗教らしい宗教であり、「暴力」といった方法もある意味世界中でまかり通ってきたことなのです。


実際に日蓮宗をはじめ、その他の宗派も僧兵という私営の軍隊を持ち、場合によっては武力行使という形で違う宗派同士が争っていたのが以前の日本です。


上記に引き続く形で、もうひとつ浄土真宗を例に挙げさせてください。親鸞が開いたこの宗派は、蓮如という親鸞の子孫の活躍によって爆発的に信者を集めます。


蓮如は非常に精力的で熱心な人物であったらしく、個人的に崇拝こそしていませんが、とても尊敬している人物です。彼は浄土信仰を一般に広めるために、その教えを解り易く一枚の紙に書いた「御文」というものを大量に書いて頒布し、「講」と称する勉強会を開催して身分のわけ隔てなく参加を認め、わかり易い形で人々に教えを説いて周りました。


その結果教団は組織として巨大化します。そしてこれも蓮如の本意ではなかったと思いますが、次第に武装化を進めて領主へ減税を求めたり、場合によっては加賀の一向一揆のように領主を駆逐したりして本願寺王国とも言うべき状態を作り出します。


これは別に浄土真宗を問わず、教団といったものの特性の一つかもしれません。蓮如が主催した「講」のような場で出会った人々の間に強力なネットワークが構築されます。そしてこのネットワークは人生の中で最も重要な「信仰」を基礎とした絆であるため、会社等といった組織体よりも繋がりは強いのです。家族と同等、あるいはそれ以上かもしれません。


当然、そこで交わされた会話の秘密は絶対に保持されます。また、色々な地方や階層の人が入り乱れますから、例えば重い課税に苦しむ地方の領民は、他の比較的軽い負担の住民の話を聞いたりして、不満を抱くわけです。

そして、「それなら同じ門徒としてほっておけない」とメンバー全員が一緒になってその領主に文句を言ったり批判をしたりし始めます。


今日の中国では法輪講という宗教団体への政府による規制・弾圧が報じられます。私は法輪講という教団の実態について何も知らないのですが、上述した浄土真宗での「講」と同じようなイメージを感じ、昔日本の領主が抱いたであろう同じ不安・恐怖が、中国当局をしてそのようになさしめているのかもしれません。


そして宗教の間でも武力衝突が頻繁に起きています。


1532年に起こった日蓮宗勢力による山科本願寺焼き討ち事件や、その4年後、こんどは天台宗延暦寺が日蓮宗を攻撃した天文法華の乱といった大規模な軍事衝突が起きるわけです。


諸説ありますが、双方ともサン・バルデミー事件と同様女子供を問わず、数万人単位で被害者が出ています。これは立派な宗教戦争です。


つまり、我が国も一定の時期までは、今のパレスチナや他の宗教対立が勃発している世界とあまり変わりが無かったと言えると思います。


しかしある時点から今日にいたるまで魔法がかかったように、それまでの事態が嘘幻の如く、我が国においては宗教勢力が軍備を保持したり、政治に介入したり、経済に介入したりする状態が、突然ぱったりと止みます。


そのきっかけとは、私が敬愛して止まない千年に一人の天才。織田信長の登場です。


ここまで読んでくださって本当に本当に有難うございます。

続きは次回とさせて頂きます。