日本の政教分離の独自性②(信長の革命) | 平成の愚禿のプログ

日本の政教分離の独自性②(信長の革命)

皆さんいかがお過ごしでしょうか。残暑はまだまだ続きそうですね。

また、台風が接近中。この週末、私は徳島県の阿南の海岸に赴いたのですが、激しい波が押し寄せ、まさに「砕けて、割れて、裂けて、散るかも」という雄大な景色を目の当たりにしてまいりました。予想進路の範囲にお住まいの方はくれぐれもご注意、警戒願います。

ただ、その土地その土地の稲刈りや秋祭り準備の風景などをみると、「秋、近し。」


閑話休題。


さて前回の記事で私は、日本における政教分離という概念は、国が主体となって宗教を利用するという形での政教融合を問題にしている点において、欧米のように宗教団体が主体となって政治や経済に介入しようとする政教融合を回避しようとするそれと、根本的に異なるのではないか、と申し上げました。


その上で、戦国時代以前における我が国の宗教の状態が昔から現在に続く欧米・中東のそれとあまりことならなかった、ということをラフにスケッチし、最後にこの状況を根本的に変えた人物を示唆しました。


ではその人物、織田信長は、一体どんな社会の構築を計画し、どのようにその計画を実行したのでしょうか。


実は信長、「政教分離」という点を前面に打ち出して何かを実施した、ということはあまりないと思います。


彼は「天下布武」つまり「武力を持って日本を改革する」という標語を掲げて、具体的には楽市・楽座の創設、関所の廃止などの政策を実施した。昔学校で教科書などからはそのように習った記憶があります。


しかし楽市・楽座の創設、関所の廃止なる政策によって、信長が当時のどんな状況を念頭において、そこからどんな問題点を見出し、どのように変えようとしたものなのか、学校で受けた授業だけでは殆ど解らない、と言ってしまえば学校の先生方に失礼に当たるかもしれませんが・・・。


この辺りの事情を多くの専門家の皆様の共著による歴史概説書や、以前、日本経済新聞に連載された津本陽氏の信長一代記「下天は夢か」、「逆説の日本史」の著者:井沢元彦氏、本願寺史研究の神田千里博士などの研究成果を基礎にして、私なりにラフにスケッチしてみたいと思います。


信長が目指した社会、それを「シンプルな社会」と一応定義していみます。そうして、そうでない信長以前の社会を「様々な既得権益が絡み合った複雑な社会」と一応呼んでみます。


信長以前の社会。そこでは一部の例外を除く宗教勢力がその宗旨の違いや信者の獲得を狙い競い合っていました。これが「話し合い」「議論」による競争なら、それは健全で「シンプル」なもの、といえるでしょう。しかし、必ずしもそうでなかったという事情は前回申し上げたとおりです。


そして宗教は教団と言う組織を基礎として活動し、拡大を目指す、という性質がありますから、これは組織体の宿命なのかもしれませんが、時間が経てば腐敗も起こり、既得権益のようなものも出てきます。


偉大な宗教家である最澄や空海といった人々によって創設された天台宗,真言宗といった教団もまた例外ではありません。


こういった平安時代以前から存在する教団は、例えば、職人さんが物を製造する時に、「座」という教団傘下の同業者組合への参加を強制し、その製造に莫大な製造・販売許可料を徴収するということをやっていました。


教団側の言い分はこうです。「こういった技術は元々自分たちが中国から苦労して持ち帰ったり、それを基に創意工夫をして創り上げたりしたたものだから、ただという訳にはいかない。それ相応の実施料を戴く・・・。」とこうなります。


確かに天才空海や最澄、そのほか多くのお坊さんによって日本の技術が進歩したことは確かですが、彼らはそれを一般庶民のために持ち帰ったわけで、当初はそれを基にいつまでも金をせびるような志は全くなかった筈なのですが・・・。


また、市などは、人が集まる場所、当時で言えば門前町などで開かれるのですが、そこから娑婆代を戴く、といったことまでやり始めます。


また、これは寺社勢力に限られないのですが、当時の公道には、その近辺の寺社領主が勝手に「関所」を作っていました。その役割は、治安維持などではなく、専ら通行料の徴収です。


そして寺社勢力も僧兵という名のプロの傭兵による私営の軍隊を持っています。つまり、一般庶民がこれに反感を覚えて勝手に物を作ったり売ったりしようとしても実力行使を受け、不可能だということです。


こういう状況下で経済はどうなってしまうでしょう。製造や物流、小売が滞り、結果的に物凄いインフレになってしまいます。それはそうですよね。すべての製品が上記の過程をへる間に無秩序にコストがかかってしまう結果、その総額が末端の商品の値段に上乗せされて、べらぼうな高値になってしまうのです。その結果、一般庶民には生活必需品の入手すら困難になって、国民全体が困窮してしまう。一部の胡坐を掻いたまま利鞘を貪っている既得権益集団を除いて・・・。


これが、「うつけ」といわれた若き日の信長が野山を駆け巡りながら目撃したであろう「様々な既得権益が絡み合った複雑な社会」の不健全な有様です。


信長による楽市・楽座、関所の撤廃のココロは、つまりこういうことです。

「今まで国民の皆さんが支払ってきた製造実施料、商売の娑婆代、通行料は今後一切支払う必要はありません。その代わり、為政者である私にその10分の1位のお金を納税してくださるだけで結構です。そうしていただければ、その財源を使って、そういう金を巻き上げる輩から皆さんを守り、かつ、道路の整備といった必要なインフラ整備などを行います。」


「天下布武」のスローガンの元で、彼はこういうマニュフェストを掲げて上洛し、実際にそれを実行し始めます。実際に料金などを巻き上げようとする輩が庶民に危害を加えようとすれば、彼のことですから場合によっては信長自ら刀押っ取って現場にかけつけ、そのような輩の首を問答無用で刎ねるわけるわけです。


それによって、一般庶民にとっては、今まで手に入らなかった生活必需品が容易に手に入るようになり、かつ大幅な減税政策を享受したわけですから、必然的に生活は潤い、大喜びだったはずです。


しかも、信長は商業や物流と言った面でこれまで寺社勢力の「聖域」だった分野に割り込んで、そこに適正な課税を行うことによって、大幅な税収増に恵まれます。その結果、政策を実施するための軍備増強やインフラ整備のための財源を得ることになりました。生粋の「護民官」信長の面目躍如です。


改革は順調に進むかに見えました。

しかし、これまでの既得権益を奪われた人々は面白いはずはありません。そこで彼を「仏敵」などといって非難し始めます。


彼が行った政策は決して宗教団体を標的としたものではなく、宗教弾圧の意図もなかったのですが、結果的に煽りを喰ったのが平安時代からの旧寺社勢力だった以上、彼と「比叡山」を始めとした宗教勢力との衝突は宿命付けられたものだったのかもしれません。


続きは次回といたします(・・・ここまで引っ張る必要あんのか?などとおっしゃらないで下さいね。)