日本の政教分離の独自性③(信長崖っぷちin 1570) | 平成の愚禿のプログ

日本の政教分離の独自性③(信長崖っぷちin 1570)

こんにちは、皆様いかがお過ごしでしょうか。


さて、さくさく行きますよ(笑)。


信長が「シンプルな社会」の実現を目指してそのための計画を実行に移し、その結果煽りを喰った形の旧寺社勢力(ここで旧寺社勢力とは、座や市への勝手な課税を財源としていた平安時代からの寺社勢力を指し、こういった財源に頼っていなかった浄土真宗などを始めとする鎌倉時代からの新興仏教勢力は除きます。)から恨みを買った、ということが前回までの粗筋です。


ただ彼らは「俺たちの利鞘はどうしてくれるんだ!」と露骨に本心を打ち明けるという形で文句を言うわけには行きません。後ろめたい行為をしてきたのは彼らの方なのですから。ですから彼らは「仏敵」という形で信長を批判し始めるわけです。


これに対して信長もどちらかと言うと偏屈な面もありますから、自らを「第六天魔王」と堂々と自称し、全面対決に突入します。


ただ信長が行ったことを子細に見れば、これは宗教勢力に対してだけではないのですが、彼ほど見事に「言行一致」という言葉を貫き、私情で弾圧や殺生を行ったことはない政治家は他にいない、と確信しています。また騙しといった行為で特定の教団を弾圧したりすることはしてないと思います。

仮に信長がそのような手段を弄していたら、冒頭に述べた政教分離という状態を達成することは不可能だったと思うのです。現にそういう手段を弄して宗派が分裂し、今に至るまでの何千年もの間、恨みの連鎖によって宗教抗争が続いている欧米や中東(特に、イスラム教のシーア派とスンニ派)をご覧いただければ解ると思います。


このことを明らかにするために、ちょっとここで上洛後の信長の動きをラフにスケッチします。


信長は1568年に室町幕府の15代将軍足利義昭を奉じて上洛を果たし、近畿地方の大部分を瞬く間に勢力化に納めます。信長は形上義昭の家臣で幕府を再興するという体裁をとってはいましたが、彼には実現すべき独自の政策があり、義昭を立てる気など内心さらさら有りません。そして義昭側も、「こいつは俺を道具として利用して使い捨てにする気だな」ということに気付き始めます。この点は信長が義昭の実力を侮っていた面もあるかもしれません。そしてこの油断は、信長に高くつきます。


1570年、この年は信長にとって「悪夢の年」となります。

信長は義昭の命令と称して近隣の大名に上洛と服従を呼びかけます。しかし信長のことを「成り上がり者」と蔑んで忌み嫌う越前(今の福井県)の朝倉義景はこの命令を無視します。

しかし、この朝倉の対応は信長にとって逆に思う壺。この年の4月、信長は家康等とともに3万余の軍勢を率いて琵琶湖西岸を北上し、電撃的に越前に乱入して戦備が整っていない朝倉側を大混乱に陥れます。しかしこの作戦が上手くいったのはここまで。ここから、彼の「躓き」が始まります。


信長が妹「お市の方」を嫁がせ絶大な信頼を置いていた北近河(現在の滋賀県北部)の同盟勢力、義弟の浅井長政が突然信長に反旗を翻し、織田勢と京都との補給線に割り込んで朝倉勢と挟み撃ちにする行動に出ます。これは信長にとっては誤算も誤算、大誤算。


信長は最初、この知らせを「虚報だろう」と信じようとはしませんでしたが、浅井離反の報を告げる情報は次々ともたらされてきます。


このままでは桶狭間の今川義元の役を自分が演じることになってしまう。そう悟った信長は家康と秀吉、明智光秀に殿を任せ、僅かな護衛を伴って命からがら京都に逃げ帰ります。更に京都から岐阜に戻る途中に六角氏が雇ったスナイパーに至近距離から狙撃されるも奇跡的に玉が逸れるという椿事にもでくわします。


さてこの難局を乗り切った信長がすべきこと。それは裏切り者の粛清です。信長が本国美濃に戻って陣容を整え、家康の援軍を得て6月に浅井の北近江に進軍します。日本中が信長に好意を抱く人、そうでない人々も含めて「固唾を呑んで」情勢を注視している訳です。ここで浅井・朝倉を迅速に叩き潰さなければ、「裏切り者一人迅速に処断できない男」という評判を受けて織田の株価は大暴落、「天下布武」に重大な支障をきたしてしまいます。


そして織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍と姉川で激突し、勝つには勝ったものの長政の首を挙げることができず負けに等しい辛勝を喫しまい、結果的に反織田勢力を勇気付ける結果となってしまいます。


これに乗じた阿波(現在の徳島県)の三好勢が、現在の大阪方面から信長領に襲い掛かってきます。これを撃退すべく信長は同方面に出陣します。しかしここで、信長にとっておそらく生涯最大の激震が襲います。


詳しいことは良くわかっていないのですが、今の大阪城がある辺りには、蓮如が物流の適地と見出した場所に、「御坊」と呼ばれる巨大な都市城塞が本願寺の本拠地として構築されていました。おそらく当時の城塞の規模日本一は小田原城ではなくこの石山御坊だった筈です。そして大量の信徒を抱えた浄土真宗本願寺は、大名数個分の巨大な財力・武力を整えた集団に成長していました。更に根来衆といった紀伊の精鋭鉄砲製造・戦闘集団も配下に納め、まさに西近畿一体に侮り難い軍事勢力として深く根を張っていたのです。


912日、この本願寺が近辺に進出していた信長勢に突然攻撃を始めたのです。本願寺決起の理由については、その時の法主:顕如が信者に蒔いた激によれば、「信長が当方の石山からの立ち退きの要求があり、要求を呑まねば滅ぼす」と脅されたとあります。


このときばかりは、おそらく信長も恐怖と絶望で目の前が真っ暗になって脚が震え、天を仰いだのではないでしょうか。


これに乗じてして一気に反織田勢力は決起します。姉川で討ち損じた浅井長政と朝倉義景連合軍が京都と南近江に進撃する勢いをみせたのです。


信長はとりあえず大阪方面の戦線を放棄し、京都と南近江に主力を集めて浅井・朝倉勢を迎え撃とうとします。京都と、本国岐阜を結ぶ南近江を奪われれば、織田家の破滅を意味します。


信長は南近江で迎撃体制を整えますが、ここで更に信長に脅威が現れます。信長の改革の煽りを喰った旧寺社勢力の代表格、比叡山延暦寺が浅井・朝倉に駐屯地を提供すると言う形で信長に宣戦布告を行ったのです。更に伊勢の本願寺勢力が本山からの指示に従って決起、信長の出身地尾張に侵入して彼の実弟に攻撃を加えます。


信長は可愛い弟を助けに行きたかった筈ですが近江から動けない。結局、信長はこの弟を見殺しにせざるをえませんでした。


四面楚歌に陥った信長は、同時多発的に発生する危機を前になすすべなく立ちすくむしかないように思えました。おそらく桶狭間以上の危機だったはずです。桶狭間の時は一か八かではありましたが、野戦で義元を奇襲するという明確な解答がありましたが、1570年の危機はそんな解答などありません。しかも時間が経てば経つほど織田勢力は破滅に向かって転落していきます。


私を含め並の人間であれば、おそらくこの辺りで心身に支障をきたして自暴自棄的な行動に走るか自殺していたかもしれません。

ちょっと話題は反れますが、昔聞いた戦争体験者の方のお話です。その方はフィリピン戦線における体験としてお話されていましたが、おそらくガダルカナルやニューギニア等の戦線でも同じだと思います。指揮系統が寸断し、情報が遮断された絶望的な極限状態に追い込まれた日本兵が最後に頼った方法。それは「占い」だったそうです。


これはまさにそういう現場を体験し、奇跡的に生還してきた方の壮絶な記憶ですから、笑うことなどできません。人間というのは、何かのきっかけでモラールを喪失してしまうと、おそらそうなってしまうものかもしれません。


しかし信長は天才です。あくまで現実から目を逸らさずより現実的で具体的な論理思考を放棄しない強靭なモラルタフネスを兼ね備えていました。因みに彼は、本能寺の変で死を悟った時も、その後の情勢を予測して自らの遺体を「処理」し光秀に渡しませんでした。この結果、「信長はまだ生きているかもしれない」という臆測がいかに光秀に不利に、秀吉に有利に働いたか・・・(実際秀吉は、近畿に戻る途中で「信長公ご健在」という内容の手紙を、細川や筒井、その他去就を決めかねている周辺勢力に大量にばら撒きます)。


私は、上記の動き全てを裏で操っていたのは、足利義昭だったと思っています。TVドラマなどでは馬鹿殿のように描かれることが多い彼ですが、実は武将としてかなり有能です。将軍に相応しいプライドも持ち合わせていました。


私たちは、とかく歴史を後から振り返ってその善悪を判断しがちです。


でも当時の常識からすれば、征夷大将軍である義昭は今の合衆国大統領、内閣総理大臣。


これに対して信長は守護代の家臣の家柄ですから地方公務員クラスです。その信長が義昭を操り、気に入らない命令は取り消して勝手なことをやり始めます。このようなある意味異常な状態に正当な怒りを感じた将軍から、この逆賊を倒せと呼びかけられたら、みなさんはどちらについていくでしょう。


ですから信長と、義昭およびこれに従った長政や本願寺などの勢力のどちらが正義でどちらが悪だった、と簡単に割り切れる問題ではないと思うのです。ただ、悲しいのは時代が求めていたのは、結果的に室町幕府の再興ではなかったというだけです。


さて戦況だけから見てこれを将棋に例えれば、信長は「投了」どころか頭金を打たれたといって差し支えないような窮地に追い込まれました。義昭の心願成就は目前です。


ところが信長は将棋のルールを変えてしまうか、あるいは対戦相手や立会人の目を盗んで将棋版を逆にするような方法でこの危機を脱します。


一連の危機の首謀者と目される義昭は未だ京都の二条城にいて信長の庇護下にあります。信長はこの義昭を通じて敵対勢力と休戦を斡旋させる、という奇策に出て、事もあろうに義昭はこの信長の要請に応じてしまいます。


何故、義昭がこの斡旋に応じたのか。これによって彼は信長を抹殺する千載一遇のチャンスを逸してしまう訳ですから謎です。おそらくですが信長は義昭に「兄上である義輝様を謀殺した三好や松永久秀に天下を取らせてもよいのですか」などと持ちかけたのかもしれません。更に信長に建てて貰った二条城の暮らしごこちも良かったのかもしれません。とにかく彼はこの要請に応じてしまいます。

大義名分を失った反信長勢力も休戦要請に応じます。


よく、交渉や外交で手持ちの「カードを切る」という表現がありますが、この真骨頂ではないでしょうか。


このとき信長は朝倉義景に「今後の国政は貴殿にお任せします」と勝者の股の下を潜って媚びへつらう負け犬ような態度を示し、内心の怒りは心深くに隠しています。


何故そんなことが察せられるかと言えば、後で朝倉義景,浅井長政らの頭蓋骨から「ドクロ杯」を作って正月の祝の席の酒の肴にするという形でこの怒りが大爆発するからです。井沢元彦氏曰く「こういう人物が実は一番怖い」。


こうして彼にとっては「大厄」とも言える1570年が終わり、無事翌年の正月を迎えます。


次回、もう少しだけ信長の動向をスケッチした上で、彼が成し遂げた政教分離の本題に戻ります。


ここまで読んでくださって有難うございました。