日本の政教分離の独自性④(信長対宗教勢力の抗争の経緯と実態の考察)
皆様いかがお過ごしでしょうか。個人的にだいぶ暑さは和らいできたように思います。日陰に入れば熱風を浴びずにすみますから。
今日で引っ張りすぎた信長の考察を纏めたいと思います。さて、続きです。
奇跡的に首と胴体が繋がった状態で、1570年の大晦日を岐阜で除夜の鐘を聴きつつ過ごせた信長。翌年から彼の巻き返しが始まります。
同時多発的な危機を経験した信長。もう二度とこんな目には遭いたくないと思うのは当然のことです。信長は昨年彼を窮地に陥れた大連合が、必ずしも一枚岩でないことに着目し、各個撃破の基本作戦を立て、まずは裏切り者浅井長政とその同盟者:朝倉義景に標的を絞り、南近江に柴田勝家や羽柴秀吉らの主力を集めて彼らの勢力の弱体化を図りはじめます。
しかし再び朝倉・浅井同盟軍が京都に迫る勢いを示し、比叡山は彼らに駐屯地を提供する形で再び信長に抵抗の姿勢を示します。
この際信長は、比叡山に何度かに渡って「基地の提供をやめて中立に戻れば、寺社領は安堵し、宗教活動の自由は保障する。しかし、敵勢力への支援を続ければ焼き払う」と通告します。
しかし信長の政策によって既得権益を奪われた彼らが「はいそうですか。」と簡単に応じる訳はありません。信長が滅んでしまった方が好都合なわけですから。それに比叡山を焼き払うなど「やれるものならやってみろ」と思っています。最澄の開山以来、日本における仏教の総合大学という権威を自他共に任じてきた彼らです。実は一度だけ信長の先輩ともいえる室町幕府将軍:足利義教から武力攻撃を受けたことがあるのですが、「信長ごときが・・・」と油断していた訳です。
しかし信長は言行を一致させる男であることは前回述べた通り。1571年9月12日、信長は比叡山に攻撃を加え、そこにいた教団関係者と関連施設のすべてを殺害し、焼き払います。
この9月12日という作戦決行日は特別な意味を持ちます。前回の記事でも申し上げたとおり、昨年のまさにこの日、本願寺が信長勢に攻撃を加えて彼を奈落の底に突き落とした日なのです。
言外に「武力をもって政治に干渉する宗教勢力の末路はこうだぞ」という本願寺含めた全宗派に対する「一罰百戒」のメッセージを込めていた事は明らかです。
さて、これで天台宗の信長に対する抵抗は止みます。唯一の拠点である比叡山を失ったことで事実上抵抗が不可能になったという面もありますが、信長の断固たる姿勢に屈したということではないでしょうか。
そして注目していただきたいのは実はここからなのですが、信長は天台宗が抵抗をやめた後、領地に禁教令を出したり、他の天台宗の寺社や信徒を攻撃、殺害したりするといったことは一切行っていないということです。
「中立に戻れば宗教活動の自由は保障する」という彼の言行は見事に一致しているのです。
次に本願寺対信長の戦争は10年の長きに及びます。
まず、本願寺と信長との戦闘勃発の経緯を振り返ってみましょう。本願寺側の言い分によれば「信長が石山本願寺を明け渡さなければ攻め滅ぼす」といったことに端を発しています。当時マスコミなどがあれば信長側も反論したかもしれませんが、そんなものはありませんし、信長も特に実情を語った資料を残していないので、上記の顕如の言い分が一級資料として定説化しています。
そして信長が本当にそのように本願寺に宣告したのであれば、これは太平洋戦争の直前に日本が突きつけられたハルノートに等しく事実上の宣戦布告です。宗教団体なりの組織であれ、個人であれ固有の正当防衛権、自衛権を持っていると思いますから、本願寺側が信長の反撃に出る行動も正当な行為として十分に頷けます。
しかし、この辺りの歴史研究を行っている神田千里氏はこれに疑問を呈します。ご見解の要旨は「信長の本願寺に対する宣告が事実ならば信長は、宣戦布告をした本願寺にいつ攻撃を受けても即応できるよう臨戦態勢をとるはずである。しかし彼が三好勢を駆逐すべく本願寺近辺に兵を進めた際、信長は本願寺に全く警戒態勢をとっておらず、その結果奇襲による打撃を蒙っている。これは『軍事の天才信長』にありうる過失だろうか。・・・」と。
そうなのです。この際の信長は本願寺が攻めて来るなど全く予想していなかったようなのです。このことは、この当時に織田陣営の幕閣の手になる「細川両家記」という資料を読んでも、本願寺が宗徒に決起を呼びかける早鐘を付いて突然攻撃を開始したとし、この奇襲を受けた織田勢の様子を「信長方仰天」と記していることからも伺えます。
おそらくですが、信長が「安土」にしたかった本当の場所は、実は今の大阪だったのではないでしょうか。というのは後に秀吉はこの地に本拠を築いていますが、唐入りも含めて秀吉の政策はおそらく生前に信長が抱いていた構想のパクリだと思うのです。こんなことをいうと秀吉ファンに叱られそうですが、彼は交渉戦術や人事では天才的でしたが信長のような独創性は殆どないと思っています。
おそらく信長は本願寺に平和的な本拠地の移譲を要請したのではないでしょうか。勿論別途、教団が必要な本拠地の提供や建造費などで相応の援助はすると持ちかけた筈です。
しかし、以前の記事で申し上げたことですが、本願寺は石山に本拠を移す前、京都の山科に本拠地を置いていたところ、日蓮宗を中心とする勢力から攻撃を受けた苦い経験があります。戦国時代の無秩序の中では、騙しあいといった手段も行われていたはずです。
また、これは顕如から信者宛の檄文にも載っていることですが、信長が上洛した際に宮中や二条城の建設、洛中のインフラ再建のために信長から命令に近い多額の資金提供要請を受け、それに応じた背景もあります。
そこで顕如は、信長からの本拠地移譲の要請を「退去命令=宣戦布告」と勘違いしていたのではないでしょうか。
信長と本願寺の争いは先に述べたように10年の長きにわたり、その間5回の休戦を挟んでいます。このうち2回目の和睦は織田勢力の圧迫に耐えかねた本願寺側からの要望が働いていたことは、和睦の印に顕如から信長に名物茶碗が寄贈されていることからも裏打ちされます。
しかし、その後朝倉家を倒して織田勢力圏に組み入れられた越前の国で本願寺一揆が起り、信長の代官領主を殺して織田勢力を駆逐してしまいます。そしてこれに対応して本山が現地の暴走を追認し、司令官を現地に派遣するという行動に出ます。
これに激怒して行った信長の対応が、藤沢周平さんなど多くの「信長嫌い」の方々が挙げる本願寺勢力を、女子供を問わず虐殺した例の「根切り」です。
ただです。織田・本願寺抗争の経緯を客観的かつ慎重に見れば、実は織田・本願寺の和睦→本願寺側からの協定違反という構図の繰り返しであったことに気付きます。仮に両者の抗争の発端が顕如の誤解に基づくとすれば、信長側から本願寺側に先制攻撃を加えたことは一度もないことになります。
そして宗教一揆の特性から、信者は女子供を問わず武器を取ります。しかも「進めば極楽往生、引けば無限地獄」ということを信じているわけですから、並みの大名の軍隊よりも戦意は断然旺盛なのです。
読者の方にはスポーツ、特に格闘技などを行っている方もいらっしゃると思います。また、子供の頃の友達との喧嘩を思い出してみてください。
プロレスであればスリーカウント、ボクシングであればテンカウントを聞くか採点で勝敗が決し、その後はノーサイド。子供の喧嘩もどちらかが泣くか、「すみません。僕が負けました」と言われればそこで終わり。それ以上、相手に危害を加えるということは無いし、無かった筈です。
しかしです。もし、「すみません」と負けを認めた相手に背中を向けた途端、後から殴りかかられたら、しかもそれが一度ならず何回も繰り返されたら、皆さんはどうしますか。
こう考えると当時の信長の気持ちをお察しいただくことが可能かもしれません。つまり、相手が足腰立たなくなるまで徹底的に叩きのめす以外、他に選択肢があるでしょうか。
これを「ある」といえる人のみが、信長を批判できる。私はそう考えています。
更にこれも、延暦寺焼き討ちの後と同じく重要な点ですが、顕如が信長の真意を見抜き、天皇の仲介で石山本願寺を明け渡して最終和睦し、一切の抵抗を止めて中立に戻った後、信長は浄土真宗の宗教活動の自由を弾圧するといった行為を一切行っていないのです。
歴史上の人物なりを評価する際に、何をやったかだけではなく、何をやらなかったか、も判断材料に加えるべきだと考えます。
そしてもし信長が、特定宗教の宗旨や思想を忌み嫌う弾圧者であったならば、粛清は彼が健在である限り止まない筈です。ナチのホロコーストしかり、ポルポトの粛清しかり、です。共産主義を含めた宗教上の「狂信」に基づくジェノサイドとはそういうものなのです。しかもその行為を「自分たちは正しい」と確信して絶対に止めないところが「宗教上の狂信」の特徴であり、恐ろしさだと思うのです。
そうでなくても、前回で述べた1570年に信長が蒙った悪夢を思い出して下さい。このとき彼は、可愛い実弟や、森可成といった子飼いの部下を数多く失っています。そしてこの誘因に比叡山や本願寺の攻撃があったのは紛れもない事実です。
こういう場合、織田家の中には戦死者遺族会のようなものもあった筈です。部下や親類の中には粛清続行を信長に進言した者も少なからずいたかもしれません。
仮に信長が高い自己抑制の精神をもたず、私情に駆られて人を殺す人間だったら、天台宗や浄土真宗の信者を皆殺しにしていたのではないでしょうか。私のようなモラルが人並みの人間が信長の立場になって想像していても、そういう復讐の誘惑に勝てなかったかもしれない、と感じたりします。
しかし彼はそれをせず、強力な独裁権を行使してそれを部下にもさせていないのです。
因みに、義弟の浅井長政の頭蓋骨を金箔の杯にした件は信長の残虐性を表しているのではないか、とおっしゃる方もいます。しかし、時は戦国時代です。裏切り者は必罰しなければ軍事組織内に示しがつきません。今でも通常の国の軍隊で敵前逃亡や外国の軍隊への加担などは極刑です。「義弟なのに・・・」ではなく、全幅の信頼を置いていた「義弟だからこそ」ああしなければならなかった、私はそう思っています。
とにもかくにも未だに日本以外の世界中で続いている、「宗教」を巡る復讐の連鎖が、我が国では織田信長という天才の、涙ぐましいばかりの強靭なモラルタフネスによって、ピタリと止まって根絶されてしまったのです。皆さん、これって驚くべき事実ではないでしょうか。
次回、信長の宗教政策を見て、その鍵を解く上で重要と思われるもう一つの事例、「安土宗論」に若干触れた上で、本題のまとめを行いたいと思います。