何故、神代の日本に文字が無かったのか?? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古事記(712年)と日本書紀(720年)に書かれた日本の歴史を唯一正統なもの、すなわち正史とするにはどうしたらよいか!?

回答1: 古事記や日本書紀より古い書物は全て焼きすてる。いわゆる焚書とする。
回答2: 既に、あちこちに使用されている文字の使用を停止し、新しい文字を採用する。いわゆる神代文字を否定する。
回答3: 当時、広く喋られている普通の言葉での記述をやめて、ある特定の方言を正式な言葉とする。いわゆる上代八母音の言葉で記述する。

すなわち、日本書紀や古事記に書かれた内容のみが正しい歴史であり、その他は全て偽りとすることが可能になる。

しかし、何故、そのような操作を必要としたのであろうか?

それは日本書紀や古事記が書かれた直前に白村江の戦いの敗戦(663年)があり、百済の遺民が日本に帰化した時期であった。

推測であるが、漢字を使用していたのは東アジアの大陸で活躍していた秦の始皇帝の末裔の秦氏や百済からの遺民達の渡来人達(ハプログループ D2)であり、そして従来の日本列島の神代文字を使用していたのは旧石器時代からの山の民(いわゆる縄文人、ハプログループ D2)と海の民(海人族安曇氏、ハプログループC1)、さらに渡来系弥生人達(ハプログループO2とD2)であったのである。

従来は後者の内、海の民の海人族安曇氏の末裔の蘇我氏が日本列島の主導権を握った支配者であった。乙巳の変(645年)で蘇我入鹿が暗殺され、海の民の日本列島支配が終わり、東アジア大陸から日本列島に引き揚げて来ていた渡来人達(縄文人と同じハプログループD2)に支配権が移行し、確定したのであった。この東アジア大陸からの渡来人達がまるで土着民であったかのように見せかけるために記紀を漢字で書いたのである。

すなわち、天皇家は本来は東アジアの支配者であったが、大陸での戦いに敗れ、日本列島に渡来直後は未だ間借り人であったのであり、大家は蘇我氏であった。軒を貸したら母屋を乗っ取られたのであった。伊勢神宮に神代文字が残っているのは、元々、海の民、海人族安曇氏の神社であったからであり、それを天皇家が受け継いだのであった。元伊勢の籠神社や三種の神器の一つ草薙の剣を保管する熱田神宮の宮司が両方とも海部氏であるのも同じ理由であった。


雑談

記紀が書かれるまで、漢字は今から3600年前の殷王朝が作った甲骨文字を源流として東アジア大陸内での共通文字となったが、それ以外では神代文字が広く使われていたと考えられる。


参考

① 何故、太古日本の神代文字は、学校で教えてもらえないのか?(参考)

古来日本に住んでいた知識人で、日本に元々文字は無かったと偽った人には、古くは 斎部広成(いむべひろなり)がいます。それが『上古の世 未だ文字有らず』の記述です。

しかし、その反面、『日文伝』の「神代像字伝」のなかで、『斎部・橘両家之口伝極秘なり他見許さず』と記し、神代文字の護符を示しながら『斎卜部両家の秘符なり。その職を成すといへども、秘事を伝え難し。これ、面授口決の大事なり。能く受け、能く学び、能く慎みて、これを受けよ』と伝えています。

ここから察するに、斎部広成は、表面上は時の権力に融通をきかせて、表向きは「神代文字など存在していない」と発表しながら、一族間ではこっそり先祖伝来の神代文字をしっかり口伝していることが解ります。

その証拠に、その孫の斎部正通(いむべまさみち)は、代々伝わる神代文字「イムベ文字」を世に発表しています。

ここに一本筋ではいけない複雑な思いとストーリーを感じます。このことからも、その時代的背景や人物を理解してその心の中を察してみると、この時代の日本の神道かんながらの歴史的事実を必死に破壊しようとした当時の外国勢力の働きかけを感じます。


また、近代において神代文字の実在を抹殺した人物に山田孝雄 元皇學館学長が挙げられます。『太古、日本の王は世界を治めた!』(高橋良典著、徳間書店、1994年)のなかで著者の高橋良典さんは、次のように記しています。

平安時代以前に日本固有の古代文字があった、漢字や仮名以外の文字が依然として存在した、という結論は、これまで日本の古代史について書かれてきた何万という書物の基礎を揺るがし、日本古代史の根本的な書きかえを迫る、ゆゆしい結論だ。

このことを重視した神宮皇學館☆こうがくかん☆の元学長・山田孝雄博士(故人)は、私のような研究者がこの問題に立ち入ることを封じるために、早速、一九五三年の『芸林』誌上で「所謂☆いわゆる☆神代文字の論」(二月・四月・六月号)を発表し、先手を打った。

彼はまず、これらの奉納文を"調査"した結果、「その紙質、墨色を見るに明治の初年頃を下るものであろうが、それを上ることのないのは明らかである」として、それらは書写年代が新しいから偽作物だと断定している。

彼の論法に従えば、江戸時代の初めに名古屋の真福寺で見つかった『古事記』の写本も、奈良時代の原本そのものではないからニセモノだということになる。

奉納文の紙質や墨色がたとえ明治初年のものだとしても、そこに書かれた内容が原本と同じであれば、千古不易の価値をもつ道理がまったく無視されることになる。

また彼は、「これらは何を基にして写したのかも分からぬ。とにかくこれらは神宮教院で製したもので……」と述べ、まるで伊勢神宮の神宮教院がこれらの奉納文を贋作☆がんさく☆したかのような書き方をしている。

しかし、神宮教院といえば、それは明治五年に維新政府の政令によって設置された大教院をさしている(神宮司庁発行『神宮百年史』参照)。大教院の教主は、皇族の久邇宮☆くにのみや☆朝彦親王殿下だ。そのような権威ある神宮教院が、国民を煽☆だま☆すために、わざわざ時代も書体も変えて、九九点にのぼる煩雑きわまりない大かかりな贋作作業を実行した、などということが本当にありうるだろうか。

山田博士の論文は、過去千数百年にわたって日本の伝統と文化遺産を守り続けてきた伊勢神宮が、あたかも私たちを顔すためにこれらの奉納文をでっちあげたかもしれない、という憶測を生みだすもので、このような人物が神宮文庫の館長を兼任していたこと自体が信じられないくらいだ。

その後の日本の歴史学界は右のような山田博士の結論を踏襲して、相変わらず古代の日本には漢字以外の文字がなかったことを国民に教育し続けている。

そして伊勢神宮の奉納文が伝世の写本であることを口実に、日本古代文字の存在を否定し続けているが、はたしてそのような確信は、いつまで揺るがずにもちこたえられるだろうか。


これまでのところ、日本の古代史学者の大部分は、平安時代以前の遺跡から出土した遺物にこれらの奉納文の文字と同じ古代文字が見つからないところから、山田博士の見解をうのみにしているが、もしも、その気になって古墳から出土した鏡の文字を調べてみれば、そこには明らかに漢字や仮名と異なった文字、さきの奉納文に使われた文字が刻まれていることがわかるだろう。


日本の古代文字は「見つかっていない」のではなく、「見つけようとしない」から、これまで存在しないことになっていたのだ。



また、『異端から学ぶ古代史』(沢田洋太郎著、彩流社、1994年)には、神代文字否定論者の見解とさらにその反論がまとめられています。


こうした「神代文字」というものは、ほんとうに太古の日本列島で用いられていたのであろうか? この問に対しては、国文学者は「問題外である」と真っ向から否定している。


その理由として、これらの「神代文字」はすべて五十音図に即していることがあげらている。それというのは、一九〇九年、橋本進吉博士が『万葉集』や『古事記』の文字使用法を調べたところ、当時はイ・エ・オの発音には甲乙の二種があり上代日本語の母音は八個でありキ・ケ・コ(ゴ)・ソ・(ゾ)・ト(ド)・ノ・ヒ・ミ・モ・ヨ・ロの表記は甲・乙二様に厳格に区別されていたということを発見したからである。


このことは、七・八世紀の日本語には、五十音ではなく八十七音あったことを意味しており、そういう区別がされていない「神代文字」は発音の習慣が五母音に変わった平安時代以後に偽造されたものであるというわけである。


この説を説く人たちは、日本語はもともとウラル・アルタイ系の言語であり、かつては「母音調和」という法則に従っていたと考えている。


しかし、この主張は、近年、若手の研究家によってあまり説得力のないものであると論じられるようになっている。それというのは、『万葉集』や『古事記』を書いた人は、ウラル・アルタイ系の発音の癖を有する百済系の渡来者から漢字を学び、文字の使い分けの法則を守っていたのに対して、列島住民はもとより、当時でも圧倒的多数の者は、五母音による五十音式の発音をしていたのであり、甲・乙二類の表記分けとは無縁の生活をしていたとするのが当たっているというのである。


つまり九世紀以後の日本語が何の抵抗もなく急速に五十音に変化していることは、一時は大陸の影響を受けていた上代日本語が、本来の五母音に収斂されていったのであると考えたほうが理解しやすいというのである。


したがって、「神代文字」の存在を一笑に付して否定するための根拠は失われたことになる。それと同時に「古史・古伝」についても頭から偽造された文書として拒絶して済ますわけにはいかなくなってくる。



② 伊勢神宮に奉納された神代文字(参考)



伊勢神宮に現存する奉納文は、これまで確認されたものだけで99点あります。

 
その大部分は藤原鎌足や稗田阿礼、和気清麻呂、菅原道真、平将門、源義経、木曽義仲、後醍醐天皇といった歴史上名高い人物で占められていて、また「古事記」をまとめた太安麻呂や「日本書紀」の編集者・舎人親王なども名を連ねています。

これらの奉納文は、奈良時代から江戸時代中期にかけておよそ1000年年間にまたがり、それぞれの時代に伊勢神宮へ参拝した著名な指導者たちが、さまざまな思いをこめて納めた大変貴重なものです。

漢字が使われていた時代にどうしてわざわざわかりにくい神代文字を使用したのか不思議に思われるところだが、宮司によると、太古日本の神々は外来の宗教と外来の文字を嫌われたので、神前への奉納文は神々の好まれる神代文字で書かれるのが慣例だったという。


③ 日本のペトログラフ(参考)、、、岩に刻まれた神代文字


④ 日本語の起源(参考)


⑤ アフリカから真っ先に出てきた現生人類は日本人だった(参考)


⑥ 日本列島の外を含む日本の歴史が記述された契丹古伝(参考)、支那震旦國皇代暦記(参考)


⑦ 神代文字が書かれた銅鏡

円盤の真ん中の文字が神代文字の阿比留文字で書かれています。ネットなどで阿比留文字の五十音表があったので、試しに音を確認してみたら、「ウミサチヤマサチノミコト」と読めました(ヤフー知恵袋より)。


⑧ 記紀に対抗して、天皇家以外の豪族、すなわち蘇我氏や海部氏などと同族の尾張氏、そして物部氏を中心とした先代旧事本紀が書かれたと考えられる。

wikiによると、『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)とも言われている。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。「天孫本紀」に尾張氏と物部氏の系譜を詳しく記述し、物部氏に関わる事柄を多く載せている。蘇我馬子などによる序文を持つ。大同年間以後、延喜書紀講筵以前の平安時代初期に成立したとされる。江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証されたことから、本文は研究資料として用いられている。


⑨ 江上波夫の騎馬民族征服王朝説(参考)


10 漢字・漢文は元々、真名・真名文と呼ばれていた。しかし、仏教経典の漢訳で発達した後、漢字・漢文と呼ばれるようになった。また、日本語文を記述する漢字仮名交じり文も最初期から存在したと考えられる(参考)


11 秦の始皇帝の末裔の秦氏(ハプログループD2)は大阪平野(難波宮)に居住して、漢字を使った万葉仮名の木簡を使っていた(参考)、、、この当時、乙巳の変(645年)の直前まで蘇我氏と皇極天皇(後の斉明天皇)は飛鳥の地に居住して政治を行っていた。


2006年10月12日(木)、大阪市教育委員会と同市文化財協会は、同市中央区の難波宮(なにわのみや)跡で、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」と万葉仮名で和歌を書いた木簡(左上写真)が出土した、と発表しました。発見場所は難波宮の南西隅で、宮を造営(完成652年)するため埋められた谷。

水分が多いため木簡が残ったらしい。埋め立て用の土などと一緒に放り込まれており、一緒に出た土器の年代などと合わせ、640-650年と推定された。



12 縄文時代から日本には文字があった(参考)



13 日本文字の起源