日本語の起源について、DNA分析などによる科学的な日本人のルーツの考察を基にして検討を行なってきた。そして、かつて東アジアに広く分布し、春秋戦国時代に活躍した羌、秦、斉などが現在の日本人につながり、彼らは原日本語を喋っていたことを論証した。
これに対し、契丹の古文書、契丹古伝によると、古代の日本人は広く東アジアに活躍していたことが書かれており、著者の主張を裏付けている。さらに、偽書として無視されていた古史古伝を総合することにより、真の日本史が解明されると期待される。
現代中国の歴史は漢の時代に書かれた「史記」によって書き換えられ、現代日本の歴史は古事記・日本書紀によって書き換えられたと考えても良さそうだ。すなわち、中国や日本の正史とされる歴史書の方が偽史であった。要は、国の正史を制定するというのは、雑多な真の歴史を消すためにあると言えそうだ!
推測
著者の推測では、白村江の戦い(663年)に敗れて百済遺民を日本に引き取った段階で「大陸は唐の国のもの、日本列島と周辺の海のみが日本の国のもの」として、二度と「東アジアは日本のものだった」なんて主張しない約束が唐の国と日本の間であったのであろう。この当時、遣唐使が頻繁に行き来したのは、このための打ち合わせであったと考えられる。
すなわち、乙巳の変(645年)で中大兄皇子に討たれた蘇我氏こそが日本列島の地主であり、ウガヤフキアエズ王朝(海人族安曇氏)の最後であった。彼らの歴史をかつての東アジアの盟主であった天皇家の歴史に移し替えたものが記紀であった。だから、現天皇家は神武天皇以来2600年の歴史を誇るとしているが、実はそれよりもっと長い東アジア全体の歴史がある可能性がある。そして、歴史の移し替えの証拠として、乙巳の変(645年)から白村江の戦い(663年)、記紀の完成の時期(720年)までの歴史には齟齬が指摘されている(九州王朝論などを参照、参考)。
雑談1
契丹は西夏や唐の支配者の鮮卑など同族とされる。中国のことを國泰(キャセイ、Cathay)と呼ぶこともあるが、契丹のことである。
雑談2
江上波夫の騎馬民族征服王朝説の正しさが立証される(参考)。
雑談3
徐福が書いたとされる宮下文書の中の「支那震旦國皇代歴記」によると、中国の始祖は実は縄文時代の日本から移住し、彼の子孫から秦の始皇帝や日本の天照大神や神武天皇が生まれたとしている(参考)。
参考
『契丹古伝』(1986年復刻、八幡書店)は10〜13世紀、中央から東アジア にかけて帝国を築いた契丹(=遼、太祖は耶律阿保機=やりつあぼき)に伝わる謎の古文書という。日露戦争中、鴨緑江軍兵站に従軍して、偶然その写本を入手した著者・浜名寛祐氏が、帰国から20年かけて解読して、大正15年に刊行した。
わずか2980字という短編ながら、そこには草原の王朝・契丹の祖先である「東大神族(しうから)」を伝える神話と歴史が収録されていた。 東大神族は、漢民族が登場する以前から存在したユーラシア大陸の先住民。日本人の祖先もこの東大神族というから驚いた。
そして「殷は倭なり」と。 大陸最古の王朝と言われる「夏」、その夏を滅ぼしたと言われる「殷」、 また中国史では蔑称で記される「東胡」「匈奴」も、同祖・同族という。
大陸の先住民である「殷」の末裔と「漢」との対立こそ、ユーラシア大陸の古代史の真相であるというのが、この『契丹古伝』の核心部分のようだ。
日露戦争中の明治38年、鴨緑江軍の兵站経理部長として奉天郊外のラマ教寺院に駐屯中の浜名寛祐は、広部精という博識の軍人から奇妙な巻物を見せられた。もとはある古陵墓より出土した秘物であり、兵禍をおそれて移動したのちに、同寺院に厳重に保管するべく託されたものであるという。これを書写した浜名寛祐は十年の歳月をかけて研究し、日韓古語の研究からその解読に成功し、大正15年に『契丹古伝』(日韓正宗遡源)を発表した。本書はその復刻である。
『契丹古伝』は、10世紀に東丹国(契丹の分国)の耶律羽之によって撰録された漢文体の史書で、『耶馬駘記』『氏質都札』『西征頌疏』『神統志』『辰殷大記』『洲鮮記』など、幻の渤海史料によって構成されていた。そのため固有名詞の音借表記が契丹音によるべきか、渤海音によるべきか同定が困難であったが、古代日本語による解読を許容すると推定される部分もあり、古代においては東アジア全域に共通する言語圏が存在したことが想定される。
浜名によれば、『契丹古伝』はスサノオ尊と同定しうる神祖がコマカケとよばれる天の使いである鶏に乗って、聖地・白頭山に降臨したという神話を核心とし、シウカラ(東大神族)とよばれたその末裔たちが韓・満洲・日本の3大民族の祖として大陸に雄飛したことを伝える。
古代中国の尭・舜・殷はこのシウカラ系の国家であったが、「海漠象変」と表現される天変地異とともにシウカラ族は没落し、西族(漢民族)によって中原を追われる。
『契丹古伝』によれば、のちに東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。また『契丹古伝』は、本州と九州がかつては陸続きであったが人工的に開削されて海峡となったことや、ゴビ砂漠にはニレワタとよばれる幻の湖があったことなど、超古代の地形の変遷についても特異な伝承を伝える。
さらに満洲にオロチ族とよばれる呪術をよくする異民族がいたことを伝えるが、これは『上津文』に登場するオルシ族ではないかと思われる。また鳥人・熊襲族が沖縄・南韓へ侵入したという記述や、匈奴・扶余・高句麗などの騎馬民族国家の成立、倭国と古韓国との交流、馬韓にあった邪馬台国の伝説など、環日本海文明の存在を伝えるきわめて貴重な伝承の宝庫として、今後の再評価が大いに待たれる異色の超古代文献である。
なお、スサノオが大陸を経綸した霊的消息については「霊界物語」にも伝えられ、王仁三郎の入蒙問題とも関連して注目されるところである。
倭人のルーツと辰国の歴史を解明するために耶律羽之が撰録した【契丹古伝】は大変貴重であると思います。
従来の古史古伝【宮下文書】【上記】【竹内文書】【秀真】【先代旧事本紀】と【契丹古伝】を照合すればオリエント~シルクロード~朝鮮~日本への東夷諸族の歴史がほぼ解明できることを考えれば専門家によって再研究していただきたいと願わずにいられません。時が経てば、これらの資料はさらに散逸し、手がかりの地名も変更され、史実は空をつかむように消えてしまうでしょう。
では、【契丹古伝】とは、どのようなものでしょう。
【契丹古伝】は、10世紀に東丹国(契丹の分国)の耶律羽之によって撰録された漢文体の史書で、『耶馬駘記』『氏質都札』『西征頌疏』『神統志』『辰殷大記』『洲鮮記』など、幻の渤海史料によって構成されていました。そのため固有名詞の音借表記が契丹音によるべきか、渤海音によるべきか同定が困難でしたが、古代日本語による解読を許容すると推定される部分もあり、古代においては東アジア全域に共通する言語圏が存在したことが想定されます。
この【契丹古伝】が世に出た経緯はと云いますと。
日露戦争中の明治38年、鴨緑江軍の兵站経理部長として奉天郊外のラマ教寺院に駐屯中の浜名寛祐は、広部精という博識の軍人から奇妙な巻物を見せられました。もとはある古陵墓より出土した秘物であり、兵禍をおそれて移動したのちに、同寺院に厳重に保管するべく託されたものであるといいます。
これを書写した浜名寛祐は十年の歳月をかけて研究し、日韓古語の研究からその解読に成功し、大正15年に【契丹古伝】(日韓正宗遡源)を発表しました。浜名は漢学者の家に生まれたこともあり、漢文には堪能でしたが、この難解な古巻には句読点さえつけることができないまま数年が経過しましたが、たまたま【魏志東夷伝】を読み、馬韓の古語と上代日本語に共通の語彙があることを発見、それを緒として【契丹古伝】の解読を試み、大正十五年、その結果を『日韓正宗溯源』と題して世に問いました。
【契丹古伝】はスサノオ尊と同定しうる神祖がコマカケとよばれる天の使いである鶏に乗って、聖地・白頭山に降臨したという神話を核心とし、シウカラ(東大神族)とよばれたその末裔たちが、韓・満洲・日本の3大民族の祖として大陸に雄飛したことを伝えます。
後に東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔だったといいます。
④ 契丹(wikiより)
契丹(きったん、キタン、キタイ、拼音: Qìdān)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。
⑥ 中国大陸の新石器時代は縄文文化だった(参考)
12000年前頃から始まった日本の縄文時代は、日本列島が大陸から分離してもなお海を越えて自由に東アジア全域と交流していた。
現在の漢民族のルーツの周が中原に侵入する紀元前1000年頃以前の中国大陸(新石器時代、紀元前7500から1500年前)には、縄文人達の同族のほか、河姆渡文化(呉・越系の稲作農民)、そして沿岸部の漁労民が居住していた。
そして、以下の新石器時代の遺跡から縄文土器が出土している。
中国大陸内の縄文遺跡、北から興隆窪文化、紅山文化、河姆渡文化の遺跡
⑦ 契丹古伝の原文と読み下し(参考)
⑧ 日本語の起源