中国大陸の新石器時代は縄文文化だった! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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著者は、12000年前頃から始まった日本の縄文時代は内陸の狩猟採集民の縄文人(D2)と漁労民の海人族安曇氏(C1)によると想定しており(参考)、日本列島が大陸から分離しても彼らは海を越えて自由に東アジア全域と交流していた。

現在の漢民族(主にO3系統)のルーツの周が中原に侵入する紀元前1000年頃以前の中国大陸(新石器時代、紀元前7500から1500年前)には、秦の同族のルーツ(D系統、縄文人と同族)のほか、河姆渡文化(O2系統、呉・越系の稲作農民)、そして沿岸部の漁労民(C1)が居住していた(後の日本列島と同じ民族構成、参考)。

すなわち、中国大陸の新石器時代は日本列島の縄文人達の同族が居住して、自由に交流し、縄文文化にあった(参考)。以下の新石器時代の遺跡から縄文土器が出土している。

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北から興隆窪文化、紅山文化、河姆渡文化の遺跡

・【興隆窪文化】は中華人民共和国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて紀元前6200年頃-紀元前5400年頃に存在した新石器時代の文化。

・【紅山文化】は中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)に存在した新石器時代の文化。 

・【河姆渡文化】は中華人民共和国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。(呉・越系弥生人(O2b、O2a)の祖先か!)


参考

中国大陸から出土した縄文土器に関係する研究論文を探していたら、面白い発表を見つけました(参考)

「環日本海文化圏の構想」・・・1999年度 日本海学講座(安田 喜憲・国際日本文化センター教授)


これを、世界地図片手に読むと、とても興味深い事柄が浮かび上がってきます。

この論文の趣旨は以下引用のとおり。

【かつてこの辺一帯(遼寧省から内モンゴルにかけて)に紅山文化という文化が繁栄したのです。その紅山文化のルーツは8000年も前にさかのぼります。7800年前にはそこで竜が生まれています。竜です。それが5000年前の気候変動、5000年前に気候が寒冷化しました。寒冷化したことによって、一部は日本に来たのです。

そして日本の縄文時代中期の文化の発展を刺激した。それで一部は、南の方に逃げていったのです。そしてそこで長江文明の発展を刺激したのです。この紅山文化の影響を受けて、長江文明が繁栄したのです】

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(玉竜。紅山文化の出土品)

この論文の中で安田教授は、紅山文化の担い手である民族がどこから来たのかには触れていません。しかし私は、これら中国大陸で最も古い文化(紅山文化、河姆渡文化、興隆窪文化)が、縄文人の移住地であり、縄文文化を継承しているとの見解を持っています。

そこでまず、これら遺蹟の位置関係を理解するために、世界地図とコンパスをご用意ください。そして以下の諸文化を大雑把に理解し、これらの遺蹟を地図上にマップします。

査海遺跡・・・【興隆窪文化】は中華人民共和国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて紀元前6200年頃-紀元前5400年頃に存在した新石器時代。紅山文化に先行する遼河流域の文明(遼河文明)のひとつとされる。

興隆窪文化は、ヒスイなどの玉製品(ケツ状耳飾)の出土する文化としては中国最古のものであり、なおかつ龍の出現する文化としても中国最古のものである。また興隆窪文化の遺跡からは平底円筒状の、比較的低い温度で焼いた土器(陶器)が出土する。類似する平底円筒型土器が朝鮮半島北部からアムール川流域、ロシア沿海地方にかけての広範囲で紀元前6千年紀頃から紀元前2千年紀ごろまでの間に発見されているほか、同様の土器が縄文時代の日本の東北地方・北海道からも発見されている。

(興隆窪文化の場所)
http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2.htm

紅山後遺跡・・・【紅山文化】は中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃[1])に存在した新石器時代の文化。紅山文化の名は、内モンゴル自治区の赤峰市で発見された紅山後遺跡に由来する。

(赤峰市の場所)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B3%B0%E5%B8%82

河姆渡遺跡・・・【河姆渡文化】は中華人民共和国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた。余姚市の河姆渡村の河姆渡遺跡から発見されたことから、河姆渡文化とよばれる。河姆渡遺跡は1973年に発見され、1973年から74年と1977年から78年の2回にわたり発掘作業が行われた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。これは世界でも最古の稲栽培の例である。

(浙江省寧波の位置)
http://searchina.ne.jp/map/index.cgi?fromcity=0571&tocity=0574 

次に・・・縄文人の黒曜石の流通ルートから、縄文人の最長移動距離をコンパスではかります。(といってもその交流ルートは、海を越えて北はサハリンから南は沖縄までとかなり長いので、ここでは分かりやすく日本列島の長さをその半径とします)

それから・・・九州最南端・大隈半島あたりを中心にして地図に円を描いてみてください。

そうなんですね。これら中国最古の文化圏や遺蹟はすべて、縄文人の活動範囲に含まれているということなんです。

さらに驚くことには、沖縄を含み南に長く伸びた南西諸島の先にある台湾だけでなく、かってのスンダランドの北端であるルソン島まで、この円内にあると言う事実。


参照・・・【スンダランド (Sundaland) とは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷河期に形成した広大な沖積平野である。現在ではタイランド湾から南シナ海へかけての海底に没しており、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たる。氷河期に、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であった】

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しかし・・・「日本列島は陸続きじゃないか、海と単純に比較は出来ないよ」と思われる方もいるでしょう。

そこで・・・今度は、腰岳(佐賀県)産の黒曜石が出土している南西諸島に目を向けます。九州・五島列島を中心に西表島までを半径にして円を描いて見てください。

どうでした?・・・中国最古のこれら遺蹟は、ほぼ円周内に含まれますよね。

(紅山文化が位置する内モンゴル自治区東南部といえば、ずいぶん内陸部のように感じますが実際には、渤海に面した興隆窪文化のすぐそばであり、これらの文化は一つとみて差し支えありません)


これ・・・ちょっと驚きませんか?(私はこの事実に気づいたとき、アッと思いました)

スンダランドの海洋民族と関係のある縄文人にとって、黄海や渤海、さらに東シナ海や日本海などは庭のようなものなんです。韓国の仁川辺りを中継地にすれば、紅山文化の地・遼寧省にある遼東半島などは目と鼻の先です。

漢民族とは違う系統のこれら文化は、内陸部ではなく海にごく近い場所に位置しています。


そしてこれらの全て文化に共通するのは・・・遺蹟の出土品(漆や耳飾や土器など)から分かるように、それらよりはるかに古い歴史をもつ縄文文化と深い関わりがあるということです。

【今では、日本由来の文化だとされる漆の年代は、垣ノ島B遺蹟(北海道南茅部町)出土の漆製品(腕輪など)では、中国最古の漆製品(河姆渡遺跡)よりさらに古く、6500年前、一説には9000年前とも言われている。】



この安田教授の見解によれば、この査海遺跡から出土した土器は、非常に中期の縄文土器と似ているということ。

【そこから出た土器がこれです。これは7000年ほど前の土器です。7800年前といわれていますが、この土器は、ぱっと見たら、私も土器はあまり詳しくないですが、縄文時代の土器と同じです。

これは青森県の三内丸山遺跡の円筒土器、それと形が非常によく似ています。あの縄文時代中期の三内丸山遺跡は、円筒土器という土器を使うのです。その円筒形の土器と形もよく似ています。

そして材質もそっくりなのです。私たち知らない人間が見たら、これは縄文土器と言いたくなるようなものが、この遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、紅山文化の時代に作られています】

また「雲南省の土器ですが、日本の弥生の土器とほとんど同じです。土器もそっくりなのです」と書かれているように、中国大陸では日本の土器、またはその影響を強く受けた土器が、かなり出土していると見て間違いありません。



さて本題・・・約7000年前に紅山文化を築き、縄文土器とよく似た土器で暮らしていた民族は、一体どこから来たのでしょう?

日本の最古の縄文式土器は1万6500年前で、ここで出土した土器の年代はおよそ7000年。その時差には約9500年の開きがあります。

また石器時代の日本と中国では、出土品や遺蹟の数から見ても、明らかに日本列島の方が断然多くまた文化的な差があります。

突如として倭人と同じ土器を作る異民族が、中国に出現するなどありえない話です。これはどう考えても中国文明より古い文化や歴史を持つ縄文人が、紅山文化の地に移住してその基礎を築いたということに他なりません。

もし、その民族が大陸内部からやってきたとしたら、そのルーツとなる縄文土器とは違った、個性のある土器など確たる痕跡が当然、内陸部にあってしかるべきです。しかし、そのような遺蹟は見つかっていません。

であるならば、約7千年前に突如として中国沿岸に現れたこの民族は、海から来たとしか考えられません。


安田教授は、この民族が中期縄文時代に大挙して日本に移住してきたと仮説を述べていますが、日本列島でシナ大陸から持ち込まれたと考えられる特徴を持った土器は発掘されていません。(縄文土器の系統は詳細に分析がされています)

朝鮮半島に渡った縄文土器が、一世代二世代のうちに変容している事実からしても、査海遺跡で出土した中期縄文土器とそっくりな土器から判明する事実は、この遺蹟に絶えず縄文人が移住し、かつ交流していたということの証左なのです。そして生活出土品に民族の差が見られないとすれば、どう考えてもこれは縄文人の移住地としか考えられないのです。

せいぜい、川を渡るイカダぐらいしか作れない内陸部の人々が、大した航海技術もなく、また外洋を航海できる船も持たず日本列島に来れるはずがありません。

(ちなみに・・・私は、後出しジャンケンのような捏造や改ざんも平然と行う、中国の年代測定など初めから信用していません。従って、査海遺跡のケツ状耳飾や玉の年代が7800年前という測定結果やほとんど出土例のない1万8000年前だと言われている中国最古の土器などは捏造だとさえ思っています。おそらくは皇紀を真似て作られた中国4千年という偽史のように、日本のそれら出土品の年代測定をもとに、かさ上げした測定値でしょう。なにせ事故を起こした高速列車でさえ、すぐに埋めて証拠を隠蔽しようとする国ですから・・・)


中国最古といえるこれら文化より、はるかに長い歴史をもつ縄文文化が、紅山文化や河姆渡文化の形成に強い影響を与えないはずはありません。(この漢民族とは異なる系統の民族には、間違いなく倭人の血が流れていることでしょう)

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(河姆渡文化)

これらの縄文人と深い関わりのある文化は、確実に中国沿岸から、川を遡り内陸部へと浸透していったはずです。それは後に栄える黄河文明(漢民族の文化)にも当然影響をあたえたことでしょう。そして安田教授の論文(龍の文化)にも関係すると思われる、古代中国の文献に記された中国大陸の倭や越人の文身との関係も実に興味深いものを感じます。


追記・・・倭人は、このように朝鮮半島にほとんど人が住んでいない時期から、中国大陸と直接交流していたのです。この事実をもってしても、古朝鮮が日本に文化を伝えたというのが、誤りであることが分かります。だからこそ、朝鮮半島南部は倭人の勢力が大きく、百済も新羅も倭国を大国だとあがめ朝貢していたのです。

参考・・・旧石器時代の遺蹟数、日本列島5000箇所に対して朝鮮半島はたったの50箇所。(朝鮮半島では新石器時代と呼べるものがないほど短い。従って朝鮮の石器時代とはそのほとんどが旧石器時代である)