秦の始皇帝が中国大陸に初めての統一帝国を樹立する前の多くの国々が互いに争いあっていた春秋戦国時代の一時点、春秋時代、紀元前500年での漢民族のルーツ周と同族グループと、秦の同族のグループ、そして、その他の西域の異民族にグループ分けすることが出来た。その他の西域の異民族も羌族が主に広範囲に活動していた。
すなわち、漢民族のルーツの周の同族の国々は黄河流域(中原)に存在しているが、これを取り囲むように秦の同族の国々が存在したことを示唆する。そして西域の異民族の羌族も実は秦と同族であったので、中国大陸全体から見れば秦の同族が全体を占め、漢民族のルーツの周は黄河流域の限られた地域(中原)に侵入して定着・存在したことになる。
周の時代以降、中華思想で夷狄とみなされた民族とは秦と同族、すなわち原日本人達であった。
紀元前500年頃、ピンクが秦と同族のグループの活動範囲、青が黄河流域(中原)に侵入した漢民族のルーツの周と同族の範囲
要は、古代、中国大陸は日本人のルーツの秦人と同族が生活していたところに、後から紀元前1066年頃、漢民族のルーツの周と同族が中原に侵入して来たことになる。春秋戦国時代の戦乱の歴史も侵入して来た周の暴政が原因であった。漢民族の中原での歴史は3000年以上、遡ることは出来なかった。
参考
① 紀元前500年頃の中国大陸の国々
・漢民族の祖、周の同姓(同族)の国は黄河流域の晋、曹、魯、燕、鄭
・秦の同姓(同族)の国はその他の地域の斉、衛、宋、楚、呉、越、巴、蜀、羌族(西域の異民族)
説2(参考)、周の同姓は黄河流域のピンク色の地域、水色と緑色の地域は秦と同姓
② 漢民族のルーツ(wikiより)
中国の歴史で漢以前の歴史を以下に示す。漢民族国家の明らかなスタートを漢とすると、秦に一時倒される前は周に遡る。その周は殷を倒して成立し、その殷ははらにその前の夏を倒して成立している。
この伝説上の国の殷や夏は漢民族の直接の祖先では無く、途中から侵入して来たインベーダーの周が直接の祖先だったと考えられる。
(中国の歴史の漢以前、wikiより)
周王朝(BC 1066~BC 256〜の創立者である周武王が商王朝(殷王朝ともいわれる。BC 16世紀~BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った後中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜をちなんで「華族」と称した。
③ 秦の始皇帝が中国を統一するまで、原日本語を喋った民族は中国大陸を広く活動していた(参考)
④ 羌族や秦はヤマトと同族だった(参考)
⑤-1 周が黄河流域の中原に侵入・定着して発展したのが漢民族の歴史(参考)
漢民族は、いま確実に知られているかぎりでは、西暦前10世紀ごろ、おそらく西北方の中央アジアから、下図に示すように、「中原地方」といわれる、大陸の中心部に入ってきた周(しゅう)という部族が黄河流域に定着し、徐々に周辺の諸部族を同化してゆく過程のなかで、できあがってきたものである。
⑤-2 周王朝の歴史(コトバンクより)
中国古代の王朝 (前 1050頃~256) 。伝説上の祖を后稷 (こうしょく) という。もともと陝西または山西の奥にいた部族とみられるが,古公亶父 (ここうたんぽ) のとき,犬戎 (けんじゅう) の圧迫で渭水盆地にのぞむ岐山のふもとに移り,子の季歴から西伯昌 (→文王) ,武王の3代で体制を整備し,武王が殷を滅ぼし前 11世紀に建国した。都は鎬京 (こうけい。陝西省西安付近) 。2代成王が東都らく邑 (らくゆう。河南省洛陽付近) を建設。3代康王にかけ天下は安定した。 10代 厲王 (れいおう) の失政により,一時王統が絶え,11代宣王が中興した。 12代幽王は褒じ (ほうじ) への愛におぼれて暴政を行い,戎狄の侵入を受け殺され,13代平王がらく邑に遷都した (前 770) 。それ以前を西周 (前 1050~770) ,以後を東周 (前 770~256) と呼ぶ。東周期は春秋・戦国時代で,王の実権はなくなり,37代赧王 (たんおう) のとき,秦の昭王に滅ぼされた (前 256) 。
周は陝西省の渭水盆地を本拠地とする(注:渭水盆地は関中(カンチュウ)とも呼ばれ、中国古代の政治的中心であり、西周の鎬京(コウケイ)、秦の咸陽(カンヨウ)、前漢・唐の長安などの都はすべてこの地に営まれた)。前14世紀頃から殷に服属する有力な邑の一つであったが、化外の民であったであろう。
周はその伝承から考えると、おそらくもと西北の牧畜族(騎馬民族のような少数民族)。かれらは姜嫄(キョウゲン)の感生帝説話のような祖神の物語をもっていたが、神話の体系をもっていない。文化的にも後進のものであった。
⑥ 四夷(しい)あるいは夷狄(いてき)(wikiより)
古代中国で中華に対して四方に居住していた異民族に対する総称(蔑称)である。
古代中国において、異民族の支配を含め、中国大陸を制した朝廷が自らのことを「中国」、「中華」と呼んだ。また、中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない周辺民族を東夷、北狄、西戎、南蛮と呼び、「四夷」あるいは「夷狄」(いてき)と総称した。