兵隊・抑留記(89) 仲間の名を刺青に
抑留後期 - その10
ソ聯・ナホトカ港から帰還船に乗船する際、一切の書き物の所持を許されず、 戦友の戦没月日等については記憶に頼る外なかったのである。8名の中4名の 死没月日が異なるのも止むを得まい。
I隊には、仲間の名前と戦没月日を両腕に刺青して帰還・復員した者もいる。
★ A
支那戦線で 鶏をさばくのが上手であった。
★ O
記憶では一番最初の犠牲者だと思っていたのだが‥‥。
★ T、F、F
この3名については とくに印象に残るものがない。困ったものだ。現在 Tの遺族の方とは文通がある。
★ N
1945年7月、既に制空権は敵にあった、支那戦線・《ダイボンヨウ》において軍橋の保守・警備の任に当たっていた頃のことである。勤務の合間を見て部落の土塀外にある広場で演習中、突然、敵機来襲・爆撃を受けた時のことである。全員、林の中の塹壕に待避した。ところが点呼したところ一名不足。彼(N)は遅れて土塀の近くに居る出はないか。敵機は迫っている。“伏せろ”爆音と爆弾の破裂で、声は届いたかどうか、彼の付近は爆裂の土煙で見えない。しまった、やられたか。ところが、しばらくして、土煙の薄れる中、むくむくと立ち上がる“彼”を発見。ほっとしたァ。
もう一つ 復員後 手紙で死没年月日など知らせたことがある。ところが遺族の方から 年月日が違う 命日があっちだこっちだと迷惑だとの お叱りを受けてしまった。多分、先に復員した者が、彼の消息をお知らせしていたのだろう。復員時、書き物は一切、持参出来なかったことは先に書いた。致し方ない。
★ O
彼が死んだとの知らせがありA(第◎内務班 班付上等兵)と第3兵舎(バラック)に駆け付けたとき、彼の遺体は二段寝台の上にあった。なけなしの巻タバコを燃して線香の代わりとし、彼の霊を弔った。
★ M
彼は第◎内務班先任の班付上等兵である。教育中、初年兵からは〔バカタレM〕の異名を頂戴していたようだ。彼は、いい加減の“俺”をカバーし“憎まれ役”を引き受けてくれたのだろう。当時の“俺”にはなくてはならない存在であった。
“Mが落磐でやられた”“中央病院に収容された”と聞いてから4~5日は過ぎていたと思う。炭坑勤務の合間、“彼”を見舞う。
落磐のため背骨を強く押し潰されたのか、下半身が麻痺し、腰から下の感覚がない始末。“彼”は炭坑から出てきたままの姿で襟首から顔など真っ黒のままだった。病院には日本人医者も居る筈だが、一体“何診てるんだ”とんでもない病院ではある。こんなところで“病気”などしていられるか。と、つくづく思う。
早速、看護室からタオルと洗面器を借り、湯で彼を拭いてやった。どちらの手だったか握ったままで、骨折しているのか手指が痺れて動かないという。静かに手指を広げたら中の皮膚が白くふやけており、発酵しているのか、お酒の匂いがした。
彼は頭がしっかりしており、付近を通る人、廊下での話し声等に神経が集中し、“自分の噂ではないか”“自分は治らないのだろうか”と、ピリピリしているのが痛い程分かる。
辛い見舞いであった。
その後、暫くしてチタ方面の病院へ転送され、死亡したと聞く。 無念、祈る冥福。
つづく
兵隊・抑留記(88) 第◎内務斑の戦没者
抑留後期 - その9
天 津 教 育 隊 第 ◎ 内 務 班 の こ と
第◎内務班編成時(1944年11月)の人名表
(以上 班長以下30名)
表中7名については入ソ・抑留されたかどうか分からない。
隣班のH伍長(編成時)は新京(長春)までは一緒だった記憶はあるが敗戦後は、どうなったか不明である。
重ねて記す
俺の内務班中 シベリア地区戦没者は8名である
内訳 栄養失調5 発疹チフス1 下利1 落磐1
東京4 千葉2 埼玉1 愛知1
合掌
上記の死没年月日と“俺の記憶”とが異なっているのがこの4名である
初年兵教育は1944年(昭和19)12月、聯隊編成時の北洋営(天津・ 北站駅付近)で行われた。
教育隊は〔3ヶ小隊、小隊は3ヶ内務班(隊全体で9ヶ内務班)〕編成である。期間は1944年11月~45年3月である。俺はその中の一内務班長であった。
班は、班長1、班付上等兵2、初年兵27、計30名で構成されていた。このことは前にも触れた。
1期(基礎)教育を終了した初年兵を夫々の中隊に配属させるため、天津を 出発、南下。河南省・鄭州において第2中隊(I中隊)と合流。しかし、第1中隊と第3中隊は 鄭州より更に南下し作戦中とのこと、暫時、第2中隊指 揮下に入った。鄭州より許昌を経て南陽付近まで南下したが、その後少し北上、《ダイボンヨウ》において軍橋の保守・警備等を経て、更に北上、鄭州に集結したのが1945年(昭和20)7月下旬であった。
8月1日転進命令を受けて鄭州を出発、8月9日に山海関を通過(同日ソ聯はソ満国境を突破、満洲国へ攻め入る)8月15日新京(長春)において敗戦。 この間、原隊より離れたものとして、甲種幹部候補生(士官候補生)とか・鄭州・黒河などで別れた者が居たとしても、少なくとも23名は入ソしたことになる。
◎班のソ聯での戦没者は、8名(約3分の1)を数える。何としても無念。只々冥福を祈るのみ。
つづく
兵隊・抑留記(87) 厠でびっくり
抑留後期 - その8
第2中隊(隊長・T中尉)から転出し、炭坑勤務になった“俺”は入坑兵舎に移っていたのである。この入坑兵舎は収容所の衛門の近くで、広さは、2中隊兵舎の3分の1位だったと記憶する。厠はKが射殺された時の厠を使用していた。
まだ尾籠(びろう)な話が続くが、日本兵は、用を足した後、紙などで処理する。ところが適当な紙がないのである。炭坑内でダイナマイトの包み紙(湿気防止のため蝋引されている)を拾いよく揉んで蝋を落として使用したが、それでも滑って気持ちのいいものではない。 ところが、衛兵所の近くにある関係でソ聯兵もよくこの厠を使うので彼らを見ていると、用が済むと紙など使わずスッと立ち上がる。実に見事である。鶯か馬か、彼らの食事だってそんなに変わってはいない筈だが、兎に角便利にできている。
あるとき、厠が混んでいた。空いている場所はないかと、こちらを向いて砲列を敷いている中を奥へ進んだら、あれっ、砲列の間に一人“ツルリンコン”の奴がいる。髪は短く軍服着用だが正しく女性である。こんなところで“ツルリンコン”に対面するとは--。びっくりしたな、モー。
後で分かったことだが、北満の開拓団にいた彼女と夫は、ソ聯の侵攻を避け、逃避中、夫は土匪(どひ)に殺され、彼女のみ姿を変えて逃走中であったが、たまたま満洲を北上中の抑留列車に拾われたとのことだ。勤務は収容所内の中央病院、千葉県出身、先に帰還したと聞くが、その後の詳細は分からない。
つづく
兵隊・抑留記(86) あっぱれ雲古隊長
抑留後期 - その7
収容所で一番汚い仕事といえば、『雲古・小便』の始末であろう。 厠の便槽を一杯にした『雲古』と厠の外の『小便』槽(二米角深さ50Cm位)の氷塊を鉄棒で突き崩し、荷車で収容所外の谷間に捨てる作業だ。
この『雲古隊長』がK少尉である。
この『雲古』、使用毎に凍りつき鋭角に盛り上がりながら成長する。兎に角始末が悪い。益々成長すると今にも尻に突き刺さるような恐怖感を伴う。
さて、凍結した『雲古・小便』を突き崩すとき、どうしてもこの黄色い氷の飛沫を受けてしまう。作業後、衣服をよく払って宿舎に帰るが、払い残したものが暖かい室内で溶け染み着く。とにかく臭うのである。
ところが『雲古隊長』は平然そのものであった。
朝、衛門の寒暖計はマイナス20数度であり珍しく暖かく感じた日である。
入坑するため正門付近に集まっていた“俺”は、珍しく『雲古隊長・K少尉』と顔を合わせ挨拶を交わした。外套の中は少尉の襟章をきちんと付けた将校服だがヨレヨレれだ。顔は筋になった垢で如何にも汚い。
「顔、汚れていますよ」
「お、丁度いい、水をくれ」素早く水筒の水を口に含むと、水筒を“俺”に返してから、口の水を両手に受けぐるぐるっと顔を撫ぜるや、煮染めたような手拭いで顔を拭き「これでいいかい」。これは並みの将校じゃできない。
つづく
兵隊・抑留記(85) 墓標もない戦友たち
抑留後期 - その6
収容所の敷地は南が高く北にゆるく下がった高原地帯にあった。南の柵外に一本、松(落葉松?)が少し傾いた状態で生えている。そこの周辺が日本人墓地である。零下35度を超える気温に曝された地面は、鶴嘴(ツルハシ)も円匙(シャベル)も受け付けない。ボタ山(採炭の際出る石炭以外の石屑)から、石炭を拾ってきて、人の形に4~50cm位積み上げ、夕方火を付ける。この火はチョロチョロ夜を通してみえるのである。翌日、円匙で掘るが2~30Cm位しか掘れないのである。自然の抵抗は強力である。
この僅かばかりの窪みに死体を置き、雪をかき集めて覆ったのである。
1945年初冬に亡くなった戦友には「陸軍上等兵○△」「陸軍伍長◇□」の木の墓標が立てられたが、厳冬に入ってから亡くなった多くの戦友達には墓標はない。
厳冬に入り、連日多くの死亡者(発疹チフス・栄養失調)を数えることとなったため、急遽、英霊安置所(テントを張り)を収容所内の南西隅に設置した。そこが遺体(死体)の一時保管所(安置所ではない)であった。
ソ聯側の指導により、人間の尊厳を無視された遺体(否、一個の物体→死体)は丸裸(スッポンポン)にされ、肘や膝が曲がったままの姿で、整えられることもなく、地面に無造作に放り出された格好で、一晩置かれたのである。
これは、三途(さんず)の川のほとりの奪衣婆(だつえば)を彷彿させる地獄図である。
荷車への積み込みには、荷台にカチンカチンに凍った死体を頭・足を交互に縄でくくり、「一本松」まで運搬する。
この作業は炭坑勤務の合間に駆り出され何回か従事した。
“俺”は、英霊の一番多かった日を、13人と、記憶している。
無残 祈る冥福
“俺”はこんなところで、死んでたまるか、死ぬものかと、つくづく思う毎日であった。
つづく
兵隊・抑留記(84) 軍医に怒り心頭
抑留後期 - その5
ブカチャチャの抑留生活中で、敗戦の年の暮〔1945年(昭和20)〕から翌年の春まで、栄養失調・発疹チフスで多くの戦友を失った最悪の期間である。
ソ聯側は、人権を無視し、居住環境改善とか、栄養補給とか、労働軽減などの処置を取らず、何をしたか。
それは、労働力の確保するための身体検査(健康検査ではない)を実施し、抑留者全員(将校を除く)を丸裸にし、ソ聯・女医(俗称メダマ)の前に一人ひとり立たせたのである。椅子に腰かけている「メダマ」の鼻先に男根がある。全身の肉のつき具合を見る。「マワレミギ」尻をつまんで、判定。
「アジン」(一のこと・炭坑行き)。粗末な紙に名前と判定結果が書き込まれる。
「ドヮー」(二のこと・屋外勤務)。
「トリー」(三のこと・軽作業)。
「ジストロフィ一・二・三」(栄養失調数字の多いほど重症である)。
この身体検査には日本側としてTo軍医が立ち会っていた。
“俺”の前に重度の栄養失調者が居る。顔はむくんでいるので一寸見には判らないが、丸裸にすると判る。後ろから見ると、肉のない尻は皮が骨に張り付き肛門がハッキリみえるではないか。これにはビックリした。
尚、こんな場所で、このような重症者の身体検査を実施するとは--。
こんな処遇に対し、To軍医は何をしているんだろう。こんなことでは助かる命も助かるわけがない。怒り心頭である。
つづく
兵隊・抑留記(83) K氏の銃殺事件真相(3)
抑留後期 - その4
当時のラーゲリの居住環境・食糧事情等は悪化の一途を辿っていた。
シベリヤの環境に順応できぬまま、栄養失調・発疹チフスなどに冒される者が続出し、この地、ブカチャチャでの戦没者のほとんどが、翌、昭和21年の春にかけて集中しているのである。
春先、炭坑で働くいわゆる健常者と称する者の中ですら、栄養のバランスを欠き、特に野菜が不足し、歯茎から出血する者続出というありさまであった。
栄養失調の特徴として 食べたものは不消化のまま体内を直通して体外へ、更に、頻繁に厠に通うようになる。
栄養失調で亡くなった戦友を思う時、栄養の補給なく、何回も通う《11月の厠》は真冬の零下30度を越える寒さには及ばないが、体力の消耗は激しかったと思う。
彼が何回も厠に通ううち、たまたま厠までもたず、我慢し切れず厠の裏側に回りしゃがんだところで、事件は起きた。
彼は柵の手前にいた。当然、不干渉地帯へは侵入してはいないのである。
望楼の監視兵は、低い柵に近づき蹲った彼をよく確認もせずに、“脱柵逃亡中”として、無造作・冷酷・無残にも、マンドリン型連発小銃を発射したのである。
何発発射されたかは知らぬが、彼に命中したのは二発と聞く。一発は軍外套の腰についている短剣吊り用帯革のフック金具に命中、弾はフック金具に挟まっていたそうな、他の一発が致命傷となった。
無念、祈る冥福。
つづく
兵隊・抑留記(82) K氏の銃殺事件真相(2)
抑留後期 - その3
この《シベリヤ日記》によれば、銃殺されたのは昭和20年11月となるが(I隊戦友会名簿 5/5頁 0414)では昭和21年2月17日没とあり、月日に食い違いがある。おそらく守谷大隊長のシベリヤ日記の方が正しいと思うが、今となっては正す術はない。
戦没年月を昭和20年11月として若干補足してみたい。
“俺”が一日の炭坑作業を終え、、収容所(ラーゲリ)に帰るや否や、ラーゲリ内は《K事件》で沸き立っていた。何たる無法、忿懣やる方なし。
収容所の塀(有刺鉄線)は高さ4~5米ある。この塀の内外20米位離れたところに、夫々高さ1m位の低い柵(有刺鉄線)がある。
この内外40mの不干渉地帯に立ち入る者は『銃殺』と、厳しく決められていた。尚、この不干渉地帯は、ここの住民との接触防止のためでもあった。
塀の角々には俺たちが作った望楼が設置されている。収容所内の我々は四六時中、ソ聯兵の監視下にある。と、いうわけである。
厠(便所)は、細長く、出入口は両妻側の二ヵ所である。内部は、片側通路になっており、一段上がったところに、西洋梨を縦に切ったような穴が西洋梨の頭を通路側に向けて、十数個ある。金隠し、左右の仕切り、扉等は無い。
無論、暖房設備のない吹きさらしであった。
Kが使用した厠は、衛兵所に隣接する望楼の近くにあり、厠の裏側が高さ1mの外柵に触れんばかりの位置にあった。
つづく
兵隊・抑留記(81) K氏の銃殺事件真相(1)
抑留後期 - その2
I隊戦友会名簿 5/5頁 0414に、「I隊員・K(福岡県鞍手郡 昭和21年2月17日没 栄養失調)」とあるが、事実は不法にもソ聯兵により、彼は『銃殺』されたのである。
《追憶ブカチャチャ - シベリヤ日記 守谷勝吉著 昭和53年9月30日発行 28頁~より抜粋》
収容所のおける最初の犠牲者は、ソ連の監視兵によって銃殺された。表面的には逃亡を企て、見張りのソ連兵により銃殺されたことになっている。 「I隊の者だ。こんな馬鹿なことがあるか。」と言い捨てて、医務室の方へ負傷兵の後を追うように付いて行った。その兵は、哀れにも医務室でその日のうちに息を引き取った。「朝から下痢気味で、作業も休んでいた者が逃亡しようなど、考えられんことだ。」
不幸にも死んだ兵に対し、I隊全員で整列し、葬ってやれたのがせめてもの慰めであった。 |
つづく
俘虜郵便 〈赤十字経由〉
敗戦の年(1945)ブカチャチャ抑留収容所に入ったのは10月である。この年の冬、ブカチャチャ(チタ地区)は、シベリア中で特に気温が低かった。厳しい冬、なれぬ労働・劣悪な食料事情・衛生環境などなど、苛酷の上にも苛酷であった。
戦没者の大半はこの期間に集中している。
こんな経験をした者が書く俘虜郵便だ。ソ連当局もピリピリしたことだろう いろんな制約のもと書いたのがこれである。検閲しやすいよう、全文「片カナ」書である。
抑留中、たった1回だけの通信である。貴重な葉書が家に残っている。
表
俘虜用郵便葉書(往)
(受信人) ・・・・・・・ (同住所) トウキョウト・・・ ─────────────────────── (発信人)
俘虜の氏名 ・・・・・・・ 俘虜の住所 ソヴィエトレンポウウラヂオストックシショバコダイ・・ゴウ |
裏(縦書き)
タイヘンゴブサタイタシマシタ。トツゼンニオタヨリモウシアゲマス。
チヽウエハヽウエゴケンショウデアリマスカ。
・・・ハケンザイデアリマスユヱ ゴアンシンクダサイ
アニヤオトウトカラレンラクアリマシタカ
・・・クンルスチュウハ ヨロシクタノムゾ
デハマタ オショウガツモチカイコトユエ ナニカトイソガシイコトデショウ |
2008.5.9記

