SAPPERの兵隊・抑留記 -8ページ目

兵隊・抑留記(73)  設計図の整備、建造物の実測図の作成

 
抑留中期 - その4
 
 
 鉱山管理局での上司は、《ビタリエ・ワシリウィッチ・ポポゥフ》という建築技師長であった。
 
 《一炭》からは“W”氏、《二炭》からは“俺”という日本人2名が、新たに、ポポゥフ技師長の部下となったのである。
 
 主な仕事は炭坑関係建造物の設計図の整備、建造物の実測図の作成など、散逸してしまった設計図の整備を、鉱山管理局の一室を日本人2人が占拠し、お互いに、《一炭》《二炭》の情報を交換しながら、作業を進めていたのである。
 
 流行歌を歌いながら‥‥‥
 
     紫煙るララァーラララー   歌詞はぜんぜん知らないのである。
 
 鉱山管理局関係建造物のうち、大きなものの設計図はあるが、小規模の建物については整備されていないので、筆記具と巻尺を手に一人で、実測に向かったものである。建物の周辺をうろうろしていると必ずといっていいほど民間人が巻尺の片方を持ってくれたことを思い出す。
 
 しかし、こんな生活も長続きはしなかった。或る日の朝、いつもの通り衛門を通過しようとしたら、〔今日は鉱山管理局行かなくていい〕と言われて所内待機となった。暫くして呼び出されて行ったところがソ聯軍の将校事務室である。
 
 
つづく
 
 

寝返り

 

曾孫の 寝返り 美事 花便り

 

(そうそんの ねがえり みごと はなだより)

 

 

畚(もっこ)

 

 
sakura6

 

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ブログ管理人から


3月にひ孫が遊びに来た時は、一生懸命寝返りをしようと体を弓なりにして練習していました。

昨日、お母さんからついに寝返りができるようになったとのメールが届きました。

腹ばいになって嬉しそうに笑っているひ孫の写真も一緒に。

 

兵隊・抑留記(72)  時には不審者扱い

 
抑留中期 - その3
 
 
 夕方など、仕事帰りに、垢だらけで且つ薄汚れた軍服を着用した者が一人、とぼとぼ歩いているのを目撃したら、不審に思わぬ民間(ソ聯)人は居ないと思われる。
 
 帰路は、どうしても仕事疲れと腹が空いて颯爽とは歩けない。何回も不審訊問を受けたものである。最初のころはロシア語の《ラーゲリ》(収容所)はいいとして《ルダゥ・ウポラブレニィエ》(鉱山管理局)となると、いささか、なめらかには言えず、(パスポート)を示して説明するが、なかなか理解してもらえず困ったものである。
 
 それでも、箒になる草木を採取し、持ち帰り多くの戦友に使ってもらったり、採取した、白くて丸くマシュマロに似た茸を、飯盒(はんごう)いっぱい持ち帰ったりした。
 
 それを塩茹でにして、同室の仲間と食べたりした。歯触りのいいものであった。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(71)  解放と自由を満喫

 
抑留中期 - その2
 
 
 “俺”は、《太陽を体一杯受けてみたい》《このままではモヤシになってしまう》と感じ、なんとかして陸(おか)に上がる術(すべ)はないものかと、思案していたのである。
 
 そんな折も折。《鉱山管理局、建築技術者募集》のニュースが飛び込んできた。
 
 チャンス到来とばかり応募した結果、見事“合格”。ようやく、陸に上がることが出来たのである。
 
 炭坑勤務者は、早くから収容所正門前に5列縦隊に整列させられる。それから監視兵2名による員数点検がある。夫々両側から〈5,10,15‥‥‥〉数えるわけだ。ところが、毎回、両名の数がなかなか合わないのだから始末が悪い。酷寒の中でこれをやられると、体力の消耗は特に激しい。ようやく数が合って、衛門が開かれて行進開始である。隊列の前後を剣付鉄砲の兵隊に監視され、わずか4、5分の道程を、“ダワイ、ダワイ”“ベストラ、ベストラ”(早く歩け)と、《二炭》へ送り込まれる。帰りはこの逆だ。‥‥こんな繰り返しの毎日であった。
 
 《鉱山管理局(ルダゥ・ウポラブレニィエ)》は、収容所の衛門を出て、北へ約2キロメートル、丘を一つ越えた所にあった。
 
 〔鉱山管理局行きパスポート〕は、ペラペラで大きさは名刺ぐらいの紙4・5枚を、無造作に片側を止めた代物であったが、これを見せるだけで衛門を通過出来、鉱山管理局への往復はフリー(監視兵なし)で、しかも、一人で行動出来たのだからこの〔パスポート〕の効力は絶大なものであった。
 
 収容所から鉱山管理局までの約2キロメートルだけではあるが、自由に外を歩けることがで出来たということは、この収容所の抑留者の中では、数少ない者の一人だったと思う。 毎日、往復の、暫しの時間ではあるが、すごい解放感と自由を満喫したものである。
 
先日までの《二炭》の往復を考えると、正に雲泥の差である。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(70)  陸(おか)に上がりたい

 
抑留中期 - その1
 
 
☆ 厳冬のシベリアの寒さはとにかく凄い。マイナス30度・35度ともなると、外気に露出している頬・唇など紫色に強張(こわば)り寒いというより痛いのである。“寒い”と感じれば逆に大分暖かくなった証拠である。
 
 先にも書いたが、Sさんが発疹チフスによる熱発で亡くなったのが昭和21年(1946)5月17日である。
 
 〔抑留中期(1946年5月頃から~47年秋頃まで)〕この期間は、精神的にも肉体的にも、比較的安定していた期間である。
 
 抑留初期の地獄絵をを経験した我々は、少し利口になって、所内の空地を利用して馬鈴薯、キャベツなどを栽培したり、施設として、“浴場”、“床屋”、“熱気消毒所(シラミを殺す)”、“食堂”等を構築し環境は逐次整備されていった。
 
 日本の晩春である五月のシベリアは、日ざしは日毎、伸びてくるのが分かるが、まだまだ寒く、ある年の5月5日が吹雪だったことを記憶している。
 
 しかし、半年もの間穴の中に居ると《二炭》の坑内は、隅から隅まで一応手に取るように分かり、一人で《二炭》坑内に置き去りにされても這い上がる位、一端(いっぱし)の炭坑夫になっては居た。が、燦々と降り注ぐ日中は穴の中、又は陸(おか)に上がっていても睡眠中という繰り返しの日々にいささかうんざりしていたのである。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(69)  ストライキに陰ながら拍手

 
抑留初期 - その3
 
 
 《採炭》現場は、ハッパをかけたら、直ちに石炭を払い、《裏山》が急激に潰れないよう(作業安全のため)支柱を立て、《コンベアー》を移動して、ハッパの準備をする。これの繰り返しである。
 
 放置された切羽(きりは・坑内作業現場)は《裏山》がゆるんで、放置期間が長引けば、それだけ危険は増大するわけだ。加えて、《裏山》が、潰れてしまってからでは採炭は不可能となる。
 
 鉱山管理局に緊急事態発生である。直ちに、この事件で生じた坑内作業の穴埋めを《二炭》側に求めてきたのである。
 
 《二炭》では作業各班からピックアップした人員をトラックで緊急輸送し、《一炭》の要請に答えたのである。
 
 “俺”もこのとき動員されている。《一炭》の印象は、《二炭》より炭層は浅いと見た。しかし、坑内の坑道は広く、斜坑の昇降にはワゴン車があるなど、なかなか整備されている感じであった。
 
 抑留者が、ソ聯側の指示(それを鵜呑みにした大隊長)に抗議して《ストライキ》を敢行したのであるから、痛快である。当時の俺達は、この勇気ある行動に対して、陰ながら拍手をおくり絶賛したものである。
 
 この《ストライキ》の結果、食事の配分は元に戻ったという。
 
 しかし、成果もあったが、代償もでかい。首謀者は《チルマ(軍隊でいえば重営倉)》に入れられ、大分油を絞られたという。が、その後の詳細については知らされてない。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(68)  第一収容所でストライキ発生

 
抑留初期 - その2
 
 
☆ ソ聯側は、われわれが炭坑労務に馴れるにに従い標準作業量《ノルマ》なるものを設定し、労働の強化を図ったのである
 
 しかも、強化の方策として、《ノルマ達成者》と《ノルマ不達成者》にわけて、食料に差をつけるよう指示してきたのである。
 
 この命令に対して、当収容所のM大隊長は、《ただでさえ少ない食料に差をつけたら大変なことになる》と、これに強く反対し、“食料配分”は平等に行なったと聞く。
 
 ところが、第一収容所《一炭》では、ソ聯側の指示通り食事に差をつけたため、日頃の不満が、一部作業者のストライキとなって暴発したのである。
 
 この事件で一番泡を食ったのは、《一炭》の炭坑管理者だった。とにかく炭坑は一旦採炭が始まった坑区は石炭がなくなるまで休むわけにはいかない。
 
 時々刻々と採炭後の《裏山》は(支柱を立てようが立てまいが、お構いなく)大地の圧力で潰れていくからだ。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(67)  精神的肉体的暗黒期

 
抑留初期 - その1
 
 
☆ 〔抑留初期・(1945・冬~46年4月まで)〕
 
 抑留という精神的虚脱感と、この年ソ聯でも希に見る寒波(マローズ)に見舞われるなど、急激な環境変化に対応出来ぬ者続出。農作物の不作による食糧事情の劣化。居住衛生環境の劣悪。等々‥‥‥と重なり、戦没者の八割以上がこの時期に集中しているのである。
 
 
この抑留初期は精神的肉体的暗黒期と名づけよう
 
 ・ 兵舎の空間は二段に仕切り、この狭い空間に我々抑留者を定員を越えて
   押し込んだこと。
 
 ・ 給食は給食材料の不足に加え、炊事能力が不足していたこと。
   例として、食事に少量の《生煮えの大豆》が配給されたり、調理をして
   いない(調理が間に合わない)《乾燥した数の子》がそのまま、配られた
   りした。
   当然、栄養のバランスは考えられず、春先には野菜が不足し、抑留者の
   多くが、歯ぐきから血が出るという始末だった。
 
 ・ 食堂がなかったため、食べ物を飯盒(はんごう)に受け食事は兵舎で行っ
   ていたこと。このため、《食べ物の落とし屑》などを餌に蠅が大量発生す
   るなど、居住環境は極度に悪化して行ったのである。
 
 ・ シベリアでも希に見る寒波(マローズ)の年であり、急激な環境変化に
   対応できない者が続出したこと
 
 ・ 風呂などに入る機会は極度に少なく、全身は垢のかたまりであり、シラ
   ミの巣であったこと。
   等々、体力の低下と不衛生の中で、《栄養失調》、《発診チフス》に襲
  われ、多数の戦友を失うという惨状を極めたのである。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(66)  息ができない - ワゴンに挟まれる

 
ブカチャチャ炭鉱 - その8
 
 
☆ 《リカボーイ》(ワゴン押し)の話
 
 切羽より送られてくる石炭は、下の坑道にあるワゴン(鋼鉄製・容量2トン位か)に積込み、所定の場所に集積する作業である。
 
 入坑当初は、リカボーイは二人で行なっていたが、馴れるに従い一人になっていた。
 
 その日も、順調に作業は進んでいた。何台か溜まった石炭入りワゴンの連結が終わったところで、電気牽引車が来た。
 
 牽引されるワゴンの後について集積場まで行く。これは、集積場がゆるい上り勾配になっているため、牽引車がワゴンを切り離した時、後戻りしないよう最後尾ワゴンの車輪に楔(くさび)を支(か)うためだ。
 
 ところが、この日の集積場は満杯状態で、線路の分岐点近くまでワゴンがある。狭い坑内だ。隣のワゴンと線路の間のわずかな空間に半分寝たような状態で思い切り手を伸ばし、楔(くさび)は車輪まで、あと少しとなったところで、牽引車はワゴンを切り離したのである。
 
 《ガクン》‥‥緩やかな下り勾配を楔のないワゴンは後退する。伸び切った体は後退するワゴンと隣のワゴンに挟まれ、《グググー》息は詰まり、背骨はくの字だ。ところが、背骨が折れる寸前にワゴンは停止したのである。線路上の《“俺”の楔》がようやく外れず利いたのである。背骨はクタクタだが‥‥‥《助かったァー》。
 
 復員後、度々腰が痛むのは、これが原因の一つかもしれない。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(65)  落盤 - 危うく命拾い

 
ブカチャチャ炭鉱 - その7
 
 
☆ 《三尺層》での話。
 
 前の番方が取り残した切羽の石炭を払う作業だった。“俺”は切羽の最上部に入り《ナワラダボイシュク》(運炭夫)である。
 
 《三尺層》での移動は、上りは、両手・両膝・足先を使う。下りは主に両手と尻でずり下る。 《運炭》はシャベルを使い石炭をコンベアに入れる作業だ。天井が低いので座って行なう。
 
 運炭中、ガクン!“俺”の肩にのしかかるものがある。落磐だ。
 
 “俺”の顔は粉炭の中に半分埋まり、辺りは、もうもうたる炭塵だ。身動きできない。鼻先でコンベアが動いている。それでも肩に触れている岩盤を一生懸命支えている積もりだった。ひと呼吸ごとに押し付けられる。ところが、或る程度押し付けられたら肩が僅かに空くではないか。
 
 しかし、“俺”の下半身は、岩盤に押された石炭の中にあり身動きできない。“おーい、大丈夫か”と、仲間の叫び声が聞こえる。“俺”はそれに答えて、鼻先で動いているコンベアを止めてもらった。岩盤がずり落ちないよう、石炭の中を静かにもがきながら、コンベアを乗り越え、うまく裏山に脱出することができた。奇跡的に五体満足である。異常無し。《もし、‥‥‥だったら。》そんなこと、考えないことにする。
 
 とにかく、命びろいである。
 
 脱出後、分かったことだが、2本ある支柱のうち“俺”から遠い支柱は、くの字に折れて飛んでおり、“俺”の頭に近い方の支柱は、そのまま残り、且つ、支えの桁は支柱の際で折れたが切断されず、岩盤の重量を支えてくれたのである。岩盤の大きさは畳一畳、厚さ5~60cm位、重量約2トンはあるだろう。
 
 岩盤は斜めになった状態で、桁に寄り掛っていたのである。
 
 何のことはない。前日、苦労して運んだ太い支柱や、根株つきの桁が、“俺”を救ってくれたのである。
 
 
つづく