SAPPERの兵隊・抑留記 -7ページ目

紫けむる‥

 
 第二収容所の門からゆるい下りの道はやがて前面の丘にとりつき上る。丘の上は広々とした原っぱだ。これを真っ直ぐ突っ切った丘の麓に「鉱山管理局(ルダゥ・ウポラブレニィエ)」はあった。

 

 第一収容所からくるWさんと一緒にこの管理局の一室でで建築関係の仕事をしていたことがある。二人で口遊(ずさ)んだのが『紫くむる‥‥ララア』である。これは前にも触れた。
 
 最近、『紫けむる』で検索してもらったところ「歌詞」が分かった。題名「新雪」映画の主題歌・1942年とある。俺の現役満期除隊は1943年(昭和18年)12月末である。翌年3月には召集されているから、当時娑婆にいたのは2ヵ月半である。おそらく街のレコ-ド屋さんから繰り返し流れてくるものを、うろ覚えにしたものだろう。
 
 六十数年ぶりの再会であった。甘い感懐に耽ったひとときであった。
 
                         2008.5.8 記


兵隊・抑留記(80)  アクチブの吊し上げ

 
抑留後期 - その1
 
 
 一部将校を除き大方の将校が収容所を去った〔1947年(昭和22)秋頃(?)〕、新たなる収容所管理者としてシベリア・チタの日本人学校(共産党教育)を受講した連中[アクチブ]が乗り込んで来てから次第に政治的圧力(無論、ソ聯をバックにした)が加わってきたのである。
 
 このあたりから〔抑留後期・(1947秋過ぎ~復員まで)〕と位置づけられる。
 
 連中は何か権力を誇示するものはないかと、暫く様子を伺っていたが、格好の相手として、N教授を選んだのである。
 
 [アクチブ]の『日清・日露戦争は侵略戦争であった』に対し、N教授は「侵略戦争ではない」と真っ向から反論したのである。
 
 このため「教授」は「軍国主義者で天皇制を擁護する反動分子」ということになり吊し上げられ、「かかる反動と口を利く者は反動である」と、分かったような分からん理由をつけて彼を『村八分』にしたのである。
 
 「アクチブ」というソ聯をバックにした「労働貴族」・「狂人集団」は、収容所という閉鎖された空間内で、言論の自由を奪い、ソ同盟を謳歌したのである。
 
 密かにN教授と連絡をとった我々グループに対して、「教授」は言う。「自分(N)には近寄るな」「無用な摩擦は避けよう」と言い、泰然とされていたのを思い出す。
 

 

つづく

 
 

ポルチャンカ

 
 炭坑作業には専らパンプス状のゴム靴を履いた。ヒ-ルはない。左右もない。ガボガボのしろものである。
 
 〈馬鹿の大足 間抜けの小足 中途半端のろくでなし〉
 
 どんな文数でも入ってしまう、というしろものだ
 
 靴下は白無地のネル(風呂敷状)2枚だ。これで足を包み込む。布(ネル)の端を中に折り込むのだがすぐにほぐれてしまうので始末が悪い。ゴム靴が脱げぬよう布がほぐれぬよう、発破(石炭層爆破)に使った銅線を巻つけ固定する。しかし毎日の繰り返しで訓練されたのか、コツがわかったと言うか、布はほぐれぬようになったが、ゴム靴は相変わらず銅線のお世話になったのである。如何せん靴が大きすぎた。
 
 ネル靴下をポルチャンカと言った。
                              (2008.4.29 記)

 

 

 【パンプス】婦人靴の一種。甲部が浅く紐(ひも)留金。ベルトなどを使わずにはく靴。
 【フランネル】【ネル】起毛した柔らかい布。
 

 

兵隊・抑留記(79)  漢字撤廃、N教授の講義

 
抑留中期 - その10
 
 
 さて、話を収容所に戻そう。
 
 同室者のNさんは、新京の或る大学の教授である。英文哲学(?)が専攻と聞いた。
 
 消灯後、寝床の中で「彼」N教授の初恋話、女性二人に言い寄られ困った話、贅沢なもんだと羨ましく、すっかり話術に乗せられてしまったことを覚えている。
 
 ソ聯側はこの頃から益々、天皇制打倒、ソ聯邦万歳を謳歌し、露骨に、共産主義を押しつけてきたのである。

 
 入所のとき、持っていた日本の文書(本)の提出を求められたが、提出したら戻らないことは分かっていたので、夫々隠して持っていた。“俺”の持ってきた「建築設計資料」や「零の発見」も密かに持つには嵩張り、だんだん一冊の本で持つことが難しくなってきたので、本を分解し、少しずつ別けて持つようにしていたのである。
 
 そんな中で、KS、MR、“俺”の他2、3人の有志が、密かにN教授のもとに集まり、〔哲学的人間学(高山岩男著・岩波書店・昭和13年)〕(無論、この本も分解され各人少量持参)の講義を受けたものである。


 N教授は、これからの日本の復興に大切なのは、子供の教育にある。と、言い、復員したら小学校の校長になると言う。
 
 「彼」は、『漢字撤廃』を提唱して、事象の表現には『かな』『カタカナ』『ローマ字』の三つあればいいという。

 

 漢字がある為に、日本語が混乱し、小学校児童に余計な負担をかけ、この負担を効率的に他に配分した方がいい。というのである。
 
 日本語には大体、「訓読み」、「漢読み」がある。例えば、「いくさぶね」と「軍艦」については「いくさぶね」だけでよい、という。「つめ」→(爪)、「つまづく」→(爪突く)→(躓く)、「つめる」→(爪入る)→(詰める)、「冷たい」→(爪痛い)→(冷たい)‥‥‥。 「むら」→(集まったところ)→(村)、「むらくも」→(叢雲)、「むらがる」→(群がる)、「むらになる」→(斑になる)‥‥‥。
 
 語源が同じなのに漢字に書くとこのように混乱する。と、いうわけである。
 
 N教授にいう。
 
 漢字にだっていいところはある。「貸し家」と「菓子屋」、「医者」と「石屋」のように、一目で分かる。と、言ったら。それは馴れでどうにでもなる。と、一蹴された。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(78)  困ったときはエキスパートに聞け

 
抑留中期 - その9
 
 
 収容所には各分野の『エキスパート』がいる。
 
 それを一人で聞くよりは二人の方がと、KSさんに駆り出されては、一緒に『エキスパート』を尋ねたものである。
 
 例えば、「養鶏術」、「椎茸栽培」、「竹の子の缶詰」‥‥等々。
 
 「彼」は的を射た質問をし、鋭かった。一生懸命に聞くので相手も快く教えてくれたものである。“俺”も脇役ながら「門前の小僧習わぬ経を読む」ではないが、いろいろと勉強させられたものである。
 
 「彼」は中学を出たところで父を亡くし、一家の柱となって、幼い弟妹達を大学卒業させたという。
 
 昭和10年代前半の木綿統制令発令までミシンを踏み、靴下などを縫合していたが、木綿が自由にならなくなっては、仕事の行き詰まりと予感し、単身僅かの資金を持って大陸・上海に渡る。
 
 日本円を中国準備銀行で兌換すると若干のプレミアムがつく。
 
 その中国準備銀行券を日本の銀行支店では日本円に等価交換してくれる。これを一日に何回か繰り返し資金を蓄積したそうな。
 
 「彼」は復員後、広島県で「KS砂利」として建設材料業として活躍したが、河川砂利採掘禁止になる少し前だったと思うが、突然死去された。委細不明である。
 
 
つづく
 
 

厠 (かわや)

 
    傘さして 厠するなり 麦畑
 

 
洛陽攻略作戦中のある朝、昨夜来の雨は未だ降り止まず。
 
転進準備はほぼ完了し〔出発〕命令待ちの慌ただしいひとときである。
 
どうせ行軍中は濡れるのだが、用事の間はなるべく濡れたくない。
 
濡れた葉が尻に冷たくチクリ。
 
傘は番傘である。
 
兵隊の携行備品の中に傘はないが、なぜか番傘があったのである。
 
雨音は大きいが雨遮断率も最高である。
 
細工のしっかりした品であったと記憶する。
 
どうにか出発時間に間に合った。
 
 
『小便一町』という。
 
小学校の算術(算数)の「追いかけ算」だ。
 
大変である。
 
まして『大』においておや。
 
 
 
【厠】(かわや)=便所
 

【町】(ちょう)=尺貫法の長さの単位 60間(けん)約109メ-トル
 
 
2008.4.24 
 
 

兵隊・抑留記(77)  努力家のKSさん

 
抑留中期 - その8
 
 
 とにかく、“俺”の趣味の一つに『囲碁』が定着したのも「KS先生」のおかげであり現在に至るも感謝の気持ちには変わりはありません。
 
 この碁石、軽いのは致し方ないとして、使い始めはまあまあだが、だんだん手垢がついて黒白がはっきりしなくなってくるのには弱った。これは、木口面に指が触れ、手の油が染み込みやすいことが分かり、それではと、厚さ〔碁石の厚さ〕・板幅〔碁石の直径幅〕の板を方形に切り、一個一個角を取り丸めて碁石らしくしたのである。これは細工に苦労した分、手垢がつきにくく長持ちした。
 
 KSさんは独立工兵第○○聯隊の現地(支那・上海)召集兵である。I隊の一員として北支を転戦していたが、“俺”の分隊に何時、何処でに配属されたのか分からない。兎に角、敗戦時〔満洲・新京(長春)〕では、“俺”の分隊であった。敗戦後の編成替えで別れ別れになっていたが、何故か“俺”とは相性がよく、穴(炭坑)から這い出て鉱山管理局勤務となり、同室となったときなど、心から喜んでくれたものだ。
 
 努力家であり、研究家である彼は、復員したら、祖国の疲弊し混乱した世情を一日も早く立ち直せるには、何ができて、何ができないかを、真剣に考えていた一人である。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(76)  娯楽・趣味に目を向ける

 
抑留中期 - その7
 
 
 前にも書いたが、炭坑作業は、一番方(午前8時から午後4時)、二番方(午後4時から午前零時)、三番方(午前零時から8時)に分けて勤務する。炭坑内の作業は24時間休みなしである。「番方」の交代は1ヵ月毎だったと記憶する。
 
 鉱山管理局勤務以来、昼間勤務となり、肉体的重労働の炭坑地下作業から解放され、心身共に余裕ができたので、“俺”は俺なりに娯楽・趣味に目を向けることにした。
 
 敗戦、抑留当初思い付いた『囲碁を覚えよう』の実行開始である。
 
 先ず、「碁盤・碁石」の製作であるが、〔建築設計資料(丸善・昭和17年)新京工業大学・学生寮から持参〕を参考に、碁盤は「白樺」の板材を、碁石は「白樺」材の丸棒の輪切りである。製作には、いずれもTa(I隊・岡山県)さんに協力を仰いだ。
 
 輪切り材の半分を、飯盒に油煙を入れて煮る。これが、黒石だ。
 
 “俺”は油煙の墨を『烏口』(製図用具)に入れ、「碁盤」の線引を行ったのである。
 
 「囲碁」の先生は、同室のKS(I隊・広島県)さんを先生とした。
 
 『囲碁の本』(内容は分からない)を持って入ソしたが、ブラゴエチェンスクで焚き付けとして燃してしまったのが何としても悔やまれる。
 
 こうして、“俺”の「碁歴」はブカチャチャに始まったのであるが、現在に至るも碁歴が長いだけで、腕の方は一向に上がぬまま、その現状を維持することも覚束ず「退化の傾向」とは残念の極みだ。
 
 よく最初が肝心(最初の先生がよくないと後まで尾を引く)といわれるが、自分のことを棚に上げて、腕の上がらないのを「KS先生」の所為(せい)だなんた言っても、「先生」に失礼なだけである。
 
 
つづく
 
 
 

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兵隊・抑留記(75)  芸は身を助く

 
抑留中期 - その6
 
 
☆ 鉱山管理局をお払い箱になった“俺”は穴(炭坑)に逆戻りかとも思ったが、ソ聯側に『建築技術屋』として知られるところとなり、N准尉(I隊・静岡県)の指揮する「建築作業班」に配属された。補佐役(?)として、「共同住宅」の建設など、昼間の勤務であった。
 
 『芸は身を助く』というところである。
 
 〔抑留中期・(1946春過ぎ~47年秋頃まで)〕
 抑留初期(1945冬~46年春まで)〕苛酷な環境下あまりにも多くの戦友を失う地獄の期間を過ごした経験を生かして、床屋・浴場(トルコ風呂)食堂・衣服の洗濯室・衣服の熱気消毒室(虱退治)等が整備され・所内の空地を利用して馬鈴薯・キャベツ等を栽培した。
 
 政治色に染まってない素人演芸が行われたりした。
 
 兵舎の内壁は石灰の白に塗り替え、壁には『壁新聞』が貼られたりした。
 
 『床屋』には「ペペルモコ(望郷)」主演・ジャンギャバンの顔入りポスターがあり、よく見ると上に次週上映とあった。但し、いつ行っても次週上映か近日上映であった。食堂を建設したことにより、食べ物を兵舎内に持ち込まなくなったので、蠅の発生も少なく、兵舎内の衛生状態は格段と改良されたのである。
 
 したがって、この期間について、どこかで書いたと思うが、精神的にも肉体的にも、比較的安定した期間と位置づけられる。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(74)  尋問を受ける

 
抑留中期 - その5
 
 
 部屋の中、前面の机に制服のソ聯将校、3、4名、脇に通訳の女性が一人。将校連中の前に椅子が一つ。その椅子に腰掛けろという。何だか様子がおかしい。これでは犯人扱いか、訊問の始まる前に『ソ聯憲法第○△条により‥‥で始まり、真実のみをはなし‥‥嘘と分かったら監獄行きだ‥‥』と、書かれた紙切れに署名しろとのことだ。“俺”はロシア語は分からん。『紙切れの内容が分からんのに署名しない』(もし、ソ聯が気に入ったので帰化したい‥‥)などと書かれた紙切れだったら、取り返しがつかないと思ったのである。
 
 しかし、『お前が、どうこう』というのではなく、他のことを聞きたいのだというので仕方なく署名した。
 
 先ず、人定訊問である。この女性通訳、満洲のどこかの三業地あたりで働いていた人かもしれない。言葉が乱暴・粗雑である。

 

 『生まれた、何処』   まあ分かることは分かる。
 『歳いくら』      こんな通訳で本当に大丈夫なのか? はなはだ頼りない。

 

 訊問内容を要約すると

 

 問 『お前は、鉱山管理局で働いているが、給料は幾ら貰っているか』

 俺 『一銭も貰っていない』

 

 結局、鉱山管理局で払った給料(報酬)が、“俺”の手には渡らず、途中でネコババした者がいるということだ。
 
 無論、“俺”に対する給料が出ていたなんて、はじめて聞くことで、全然知らないことであった。調査・訊問は『給料』の件だけであり、終わったのである。わけが分からず呼び出され、不安だっただけにホッとしたことを覚えている。
 
 しかし、この事件以降、鉱山管理局に再び呼ばれることはなかった。
 
 
つづく