SAPPERの兵隊・抑留記 -9ページ目

兵隊・抑留記(64)  丸太で指をつぶす

ブカチャチャ炭鉱 - その6
 
 三角横穴で丸太送りは、例により《セーノ》《セーノ》のかけ声で、丸太の端に手をかけ頭の方から足下の方へ送るのである。

 

 或る日、“俺”が丸太に手をかけた瞬間、次の丸太が送られてきて右手の人差し指がコツンと叩かれてしまった。“痛い”作業中は交代もできず、地上に上がって(カンテラの光では暗くてよく見えない)しげしげ見れば、爪の生えぎわがやられて紫だ。指先はシビレ、冷気に当たると余計、ズキンズキンと突き上げるように痛む。

 
指負傷R


 作業を終えてから医務室に行く。ソ聯側の女医(仇名・メダマ)と日本の《To軍医》が居た。《To》はろくに診もしないで曰く、“これくらいなんでもない”《翌日も働け》との宣告だ。“俺”はこの野郎じゃ駄目だと引き上げた。
 
 翌日、痛む人差し指(倍ぐらいに腫れあがり紫色だ)を抱えて、作業に出る。入坑直後、ソ聯側の監督に事情を話した。監督は《直ちに入坑控室に行き休め》という、この方がよほど物分かりがいい。暖房の効いた控室で昨夜の寝不足解消に努めた。
 
 それにしても、《To軍医》てェー奴はとんでもネー野郎だ。
 
 しかし、これは《T》が尾を引いているのかもしれない。と、勘ぐってしまう始末だ。“俺”は相当な札付きなのだろう。
 
 さて、その後の話だが、爪の生えぎわの組織が破壊され根元は死んだが爪先は生きていた。こんなに栄養が悪くても爪は毎日伸びているのだ。
 
 このため、伸びる爪が爪先に邪魔されて瘤のように盛り上がってしまった。爪先の爪がはがれ、瘤がなくなるまで相当な期間がかり、爪先のシビレがとれ、変形した爪がまともに見られるようになったのは、復員後十年位はかかったと思う。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(63)  坑道で丸太を引きずる

 
ブカチャチャ炭鉱 - その5
 
 
☆ 坑内での《木材運搬(レサノース)》は主に木材を上部坑道から切羽まで運ぶ作業である。木材(丸太と丸太を割いた半月型のもの)は地上から上部坑道まで、手押しトロッコにより運ばれている。木材はすべて手頃(スリムで軽い)なものだけではない。どうしても運びやすいものから手がつけられる。したがって、根株に近い部分がやたらと太い材とか、必要以上に太い(当然重い)材などは運搬されずに残されていく。
 
 木材を引きずって運搬するため、道具《細いワイヤーロープの一端の小さな環〔蛇口(へびぐち)〕に他端を通して輪を作る。他端には棒切れなどをつけて引きやすいようする》を使う。
 
 先ず、木材の端にロープの輪を通して引き締める。次にロープの他端を引くことにより木材は坑道を引きずられていく。
 
 ところが、地上からの木材補給が順調な時はいいが、補給に齟齬(そご)があったりすると、根株付きや、やたらと重い木材も運ばねばならない。この運搬が簡単ではない。
 
 マイナス30度以上の地上からプラス4度位の坑内に入った木材の表面は坑内の湿度(水分)が凍り、最初はうっすら白くキラキラ光っているが、日にちが経つに従い、湿度は次々と木材全面に凍りついて成長し、まるで雪の花が咲いたようになってくる。
 
 重いので、引きずろうにもビクともしない、雪の花を払う、数人で抱える、。服はびしょ濡れとなる。 横に寝て手送りする三角横穴は、ただでさえ狭い空間であるのに、太い丸太や、根株に近い丸太などを通すのは、人と丸太が中々交(かわ)らなくなったりして、ひと苦労することになる。“労多くして、効率悪し”である。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(62)  発疹チフス

 
ブカチャチャ炭鉱 - その4
 
 
 炭坑作業の中で日本人(抑留者)が携わっていた作業は、《木材運搬(レサノース)》《支保工(クリピーチク)》《運炭(ナワラダボイシュク)》《ワゴン押し(リカボーイ)》等であり、〔爆破、コールカッター運転、コンベアモーターの運転管理〕等は含まなかった。
 
 上方の三角型横穴での木材運搬は悪戦苦闘であった。三角型の直角側に切羽の方に足を向けて横向きに寝る。横穴の長さに応じて、何人も寝るわけである。送られてくる丸太の端に手をかけて足先の方へ送るのである。その際力を合わせて一斉に《セーノ》《セーノ》の号令だ。
 

 

 
そんなある日、Sさんが発疹チフスに罹った。
 
 彼は普段頑健だったのが災いした。発熱で脳症を併発、夜中、裸足にシャツ一枚で中央病院を飛びだし、収容所内を徘徊したのである。
 
 《ダモイ(帰還)だ、ダモイだ、皆起きろ》と、夢うつつに聞いた彼の声が“妙に耳にこびりついて放れない。
 
 シベリアの五月はまだまだ寒かった。薄着の彼の体力は極度に消耗し、遂に帰らぬ人となってしまったのである。
 
  無念やるかたなし、祈る冥福。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(61)  電気爆破~運炭作業

 
ブカチャチャ炭鉱 - その3
 
 
 電動コールカッター(長方形をしており、厚さは5~60cm位の鉄の塊状で、内部にウインチに巻かれたワイヤーとチエンソーがある)のワイヤーを延ばして上部に固定し、本体より直角に出したチエンソーの回転により炭層は切られる。
同時に、ワイヤーを巻き上げ本体は上部に移動する。

 

 次に、切られた炭層の間に一定間隔に短く切った丸太を押し込み炭層が大きく崩れぬようにする。その後炭層にドリルで穴をあけ雷管付きのダイナマイトを差し込み、しっかり粘土で蓋をしてから作業員総員待避、電気爆破する。
 
 爆破音を数え、安全を確認して切羽に入り、運炭(コンベアに石炭を入れる)である。この運炭作業を(ナワラダボイシュク)と称した。
 
 下のトンネルでは送られてくる石炭を受けるため鋼製ワゴン(トロッコ)が待っている。ワゴンが一杯になると空のワゴンと交代しするという仕掛けである。このワゴン押しを(リカボーイ)といった。
 
 炭坑作業は24時間作業である。朝の八時から夕方の四時まで、夕方の4時から夜中の12時まで、夜中の12時から朝の8時までの3交代で行われていた。Sさんと一緒の班だった頃は班員14名(1日2人ずつ休み、実働12人)だったと思う。
 
 この《三尺層》での作業は、主に、他の番方が石炭を払った後の段取り替え作業が多かったと思う。
 
 払い残しの石炭を払った後の作業は、
 
 ・ 石炭層と裏山との間が広く、補強されていないので、早急に支柱を立てる
 
 ・ コンベアを炭層の近くに移動するためコンベアの組み立てボルトを分解
   して支柱をかわして移動し、組み立てる
 
 ・ 使用する支保工用木材の運搬補給をする

 などである。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(60)  切羽(きりは)

 
ブカチャチャ炭鉱 - その2
 
 
 石炭はこの坑道(E~F)の壁(炭層)を横(C~D方向)に払うことによって産出される、というわけだ。無論、この主要坑道(トンネル)の横壁を上から下まで全部払ってしまうと、上下の横のトンネルが潰れてしまうので、上下夫々10m位は炭層を残して掘削していくわけである。
 
 炭層を払ったあとの空間(裏山を大きな天井と見れば《支柱》は割り箸みたいなものであろう)は、急激な大崩壊を回避するため、石炭を払った後に残った用済み支柱を取り除き大自然の土圧でゆっくりと潰していくのである。
 
 この石炭を払う空間を《切羽(きりは)》という。切羽は、長さ2m位の半割材(桁)と2本の支柱で天井部分を支える。支柱の間隔は2~3米位である。
 
 切羽はこの《クリピーチク(支保工)》により作業空間が確保されるというわけである。見方のよって石炭産業とは、少量の木材と大量の石炭との交換作業ともいえる。
 


炭鉱ABCDEF



 《クリピーチク(支保工)》が使う丸太材などは、上のトンネルから搬入する。ところが、切羽はどんどんと横に(B~C方向)移動しているため上のトンネルから10m進むと炭層を払った跡の裏山にぶつかる。ここから横に炭層と潰れた裏山との間、僅かな三角形の空間が切羽に向かって残っている。
 
 この空間が木材など運び入れる大切な要路なのである。切羽が横に進行しするに従い、裏山は一日一日と大自然の圧力で潰れが進行し、三角空間も益々狭小となり、やがて使用出来なくなってしまう。
 
 したがって、三角空間が使用できなくなる前に予測した位置に上のトンネルから10m掘削して切羽の到着を待つというわけである。
 
 下のトンネルと裏山の関係は、“上”を逆にした形になるが、“上”の三角形になる部分は、“下”ではコンベア(石炭運搬用)の盛り替え作業があるので潰れ速度を遅らせるため、支柱間隔を狭くしてあるが、これもやがては大自然の中に埋没してしまう。
 
 切羽には上方から下方に向けて樋型のコンベアがある。樋に載った石炭は下方にゆっくり上方に速く動く。これで石炭は下方にザッザッと送られる様になっている。このコンベアを動かすモーターは相当強力であった。と記憶する。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(59)  未体験の炭鉱に入る

 
ブカチャチャ炭鉱 - その1
 

 
☆ 抑留初期、兵隊は色々なことを経験しているが、炭坑については殆ど知識がなく、無条件に怖がったり、ビビッテいた時期である。〔Tより炭坑へ〕を選択した“俺”にしても、全てが未経験であり、見ること聞くことみな新しい体験であった。
 
★ 隊隊員・S氏 (奈良・奈良 昭和21年5月没 発疹チフス)(戦友会名簿) 
 Sさんとは炭坑の《三尺層》で一緒だった。三尺層とは、厚み90cm位の炭層のことである。
 
 シベリア・ブカチャチャ・第2炭坑での話である。
 
 先ず、話に入る前に、一枚のダンボール紙をイメージしてください。 

・ 紙の四隅を時計回りに夫々ABCDとする。
・ 紙を横から見ると、直線AD(向こう側は直線BC)となります。
・ それからAB線を上に、DC線を下に斜めに傾けたダンボール紙をイメ
 ージしてください。
・ このダンボール紙が《炭層》です。

 


炭鉱ABCDEF


 
 ブカチャチャ炭坑では、私の記憶によれば、ダンボール紙《炭層》二枚の間に別の紙《岩盤》を挟んだ形、すなわち炭層は上層・1m50cm厚、そして5~60cm厚の岩盤を挟んで、下層・90cm厚の炭層2層が傾斜角約19度位か、地下に存在しているのである。
 
 先ず、地表から炭層(A~D線)に沿って地中深く斜めに坑道(トンネル)を造る。次に、この主坑道に直角(A~B・D~C)方向、炭層の上部と下部に坑道を造る。
 
 この3本〔コの字型〕の坑道はこの炭坑の中核をなす存在である。
 
 ・ A~D線は、作業員の出入り口であり、産出された石炭を地上に運び出
   す坑道。
 ・ A~B線は、炭層の上部にあり、主に坑内で使用される木材の運搬用ト
   ロッコ(手押し)通路である。
 ・ 炭層の下部にあるD~C線は、電気機関車(十数台の石炭満載のワゴン
   を牽引する)により石炭をD点に集め、又、作業員の主要な通路でもあっ
   た。
 
 われわれ抑留者(日本人)が働いていた当時は、このD~C線より下部の炭層には手が着けられていなかったと記憶する。
 
 さて,この上下の坑道(A~B,D~C)を結ぶもう一本の坑道(E~F)を、主坑道A~Dに並行して造る。
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(58)  反動分子は日本に帰すな

 
抑留 - その8
 
 
 さて、抑留時代を振り返ってみると大きく〔初期〕〔中期〕〔後期〕の三つに別けられる。

 

〔抑留初期・(1945・冬~46年春まで)〕

 

 抑留という精神的痛手と、希に見る厳しい冬であり、環境の変化に順応出来ぬ者続出、加えて、ソ聯全土の農作物の不作。特にウクライナ穀倉地帯の不良があり、食料事情の劣化。居住、衛生環境の劣悪が重なり、栄養失調・発疹チフスにより、ブカチャチャ地区戦没者の八割以上がこの期間に集中している。
 
 収容所内には、炊事場はあるが食堂はなかった。このため、毎食兵舎に持ち帰り食べていたのである。これでは衛生状態はだんだんと悪くなり、暖房(ペチカ)で暖かい環境の中では蠅が湧き、白い紙など吊しておくといつの間にか蠅の糞茶色の霜降り状態に染まってしまう有様であった。
 
 1946年春先には、野菜不足のため多くの人がビタミンCの不足(?)により歯ぐきから血が出る始末だった。

 

 

 

〔抑留中期・(1946春過ぎ~47年秋頃まで)〕

 

 “俺”にとって、この期間は、精神的にも肉体的にも、比較的に安定した期間と位置づけられる。
 
 抑留初期の地獄のような環境を経験した我々は、この経験を生かし、収容所構内の空地に、馬鈴薯・キャベツなどを栽培した。
 
 “浴場”、“床屋”、“熱気消毒(シラミを殺す)”、“食堂の構築”などの衛生関係、“演芸”、“壁新聞”、“碁・将棋”などの娯楽関係、と整備されていったのである。
 

 

 
〔抑留後期・(1947年秋過ぎ~ナホトカから復員船に乗船、ソ聯領海外に出るまで)〕

 

 ソ聯に迎合し(チタの学校)で洗脳された一部日本人が、収容所の指導者となり、共産党以外は人に非ず、の施策を行った時期である。
 
 明けても暮れても“天皇制打倒”、“反動分子は日本に帰すな”、“祖国・ソ聯万歳”である。いわゆる洗脳教育だ。
 
 密かにスパイを養成し、今までの仲間がスパイとなり反動分子摘発を行った。
 
 “俺”はその網に引っ掛かった。“吊し上げ”、“村八分”である。
 
 仲間が信用できないのである。こんな悲しいことはない。この時期は精神的重圧期とでも表現しておこう。
 

 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(57)  炭坑労務を志願


 
抑留 - その7
 
 
 収容所(ラーゲリ)は外柵や兵舎(バラック)が、一応それなりに整備された10月下旬、第3中隊(I隊)から炭坑労務者(第一次)が選抜され入坑した。“俺”は炭坑町に来たからには第二次、第三次‥‥と炭坑労務の要求があるな。と、思っていたところ、果たせるかな11月上旬になって第2中隊(T隊)に入坑者募集があった。
 
 “Tからの脱出”を考えていた“俺”は、少なくとも炭坑での作業中は“奴”の顔を見ないで済む。と、考えて、早速この機会を捕らえて炭坑労務を志願したのである。
 
 念願叶い“T”から脱出できたのである。これで、少なくとも、作業中は“奴”の顔を見ないで済む。
 
 経緯はわからないが、大分経ってから気がついて見れば、いつの間にか隊の中に“一労務者”として、潜り込んでいたのである。
 
 これは支那戦線では中隊の一員として転戦していたが、隊の古兵とは接触少なくなじみが薄かったため、認識が遅かったのではないかと思う。
 
 これは〔隊長が(Tと“俺”の折り合いが悪い)との噂を知り、真っ先に救いあげてくれたのかもしれない。
 
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(56)  このゲンコ預かった

 
抑留 - その6
 
 
 10月中旬か下旬の初め頃には、兵舎も形態を整え、天幕生活から兵舎生活に移り、暖房の恩恵を受けることができた。
 
 しかし、ここで第2中隊長Tと衝突してしまった。何が原因だったのだろう、“俺”にはよくわからないが、彼は彼なりに鬱積した何かがあったのだろう、多くの兵の中でいきなり“お前みたいな曹長は使い道がない”と、頬を殴られた。
 
 多分、“俺”の意見具申や何かで日頃からの鬱積したものが重なり、カンにさわっての爆発だろう。(活字にすると意見具申だが、彼、T中隊長にすれば“文句”の多い奴位のところか)。他所から転属して来た早々から、大きな顔をしやがって。とでも思ったか、とにかく、事毎に面白くなかったのかも知れない。 
 
 2回目、殴りかかってきたから、一歩踏み込んで、彼の右手首をぐっと押さえ込んだ。“このゲンコ預かった”彼、青くなり震えていたっけ。どう見ても“ヤクザ”ぽい。

 


げんこは預かった

 
 抑留の身でありながら、このザマだ。チョッピリ反省するが、性格なんてそうそう簡単には、直らないものだ。それにしても、殴られ損である。
 
 どうも面白くない。“こんな奴のところにいつまでも居られるか”と思う。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(55)  収容所の整備 - 支柱も釘もない

 
抑留 - その5
 
 
☆ 炭坑町・ブカチャチャの収容所は第二分所と称した。
 
 最初の作業は外柵の設置・直ぐそこまで来ている“冬”に備えて兵舎内のペチカ(暖房)築造・2段ベッドの設置等である。第2中隊(T中隊)へ転属していた“俺”は、古巣の第3中隊(I中隊)と一緒に外柵設置班に配属された。ソ聯側からの資材の支給は、有刺鉄線だけである。 
 
 その他木材・釘等の資材、金槌・鋸等の工具の支給はない。工具については、(独工○○は技能集団であり、大工は大工道具、左官は左官道具の鏝等を持参していた)なんとかなる。しかし、支柱と釘が無い。支柱となる丸太は夜陰に乗じて炭坑で使用される木材(坑木)を盗んで来いというのである。たまげた国だ。
 
 釘は再度交渉した結果、ようやく鉄線(8~6番線位)を確保できた、これを鏨(たがね)で切り、股釘(U字形に折れ曲がった釘)を一個一個作ったのである。
 
 外柵は収容所を四角に仕切り、四隅と正門の脇、計5ヵ所、監視用望楼を設置した。
 
 兵舎(バラック)は東西に長く、且つ中央廊下、出入り口は、前室付きの二重扉であり、東西に夫々1ヵ所あった。中央廊下の両側は二段寝台でびっしりと埋まり、急造のため、寝台の柱は皮付き丸太であった。
 
 ペチカは東西の出入り口近くに夫々設置された。流石、これだけの大集団の中には“ペチカの築造技術者”は居るものである。彼の指導により次々と効率のよいペチカが築造されていった。
 
 外壁は柱(30cm角位)の両面厚板打ちつけ、防寒のため間に石炭殻(石炭の燃え殻)と大鋸屑(おがくず)を混ぜたものを詰めてあった。
 
 
 
つづく
 
 

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ブログ管理人から

 

父は昔からカメラ好きで、今ではフィルムカメラよりデジカメを愛用しています。

知り合いの子供たちが遊びにくると、デジカメで撮影してフォト専用プリンタで印刷して渡しています。

 

撮影したデータは私が一括して保管しています。

ふと見たら、どこかのたぶんお寺の池の写真があったので表紙にしてみました。