SAPPERの兵隊・抑留記 -11ページ目

兵隊・抑留記(47)  自爆攻撃用に蛸壺を掘る

 
敗戦 - その3
 
 
 8月12日だったと思う。新京(長春)に到着。直ちに関東軍司令部に入る。見たところ、関東軍司令部は将校一人(少佐)と当番兵を残してもぬけの殻である。
 
 ともあれ、弾薬・爆薬並びに食料確保のため、兵器廠・兵站部を訪れる。
 
 ところが、兵器廠には三八式小銃の弾丸がなかった。在庫しているのは、九九式用の弾丸だという。〈九九式は三八式より口径が太い〉。
 
 これでは三八式小銃には使えない。
 
 結局、河南より各兵持参の90発以外弾丸が無いということがわかった。工兵用器材として爆薬・円匙・十字鍬など携行してはいるが、陣地構築には役立っても、火器、それも弾丸は
不足し、補充がないと分かって状況は最悪と認識する。
 
 重火器を持たぬ工兵隊はこれには困った。徒手空拳とはこのことだろう。
 
 かくして、敵ソ聯軍・重戦車群は新京の北西約100Km《白城子》付近まで侵攻して来たとの情報が入ったのが、8月14日夜である。
 
 直ちに出動。郊外の《白城子》に至る道路を中心に展開して、蛸壺(たこつぼ、一人用陣地・ここに潜んでおり、敵・重戦車に爆薬と共に体当たりする)並びに道路を遮断するための掘削作業だ。
 
 
 
つづく
 
 

給料とは我慢料

 

番傘
 
 
 某県某局長赴任の挨拶。局員を集めて、
 
『紹介にあずかりましたAです。私は、気づいたことはいいます。ところが、声が大きい。「ガミガミ」と聞こえる人もあるだろう。その時は「番傘」をさしなさい。大雨の音は盛大に聞こえるが、被害は僅少である。雨が止んだら傘をすぼめ、雨水を切り、青空のもと闊歩すればいい』
 
 それ以降、あだなは「番傘」と言われたとか、言われなかったとか‥‥
 

 
 
聞かなかったことにする
 
「話」を根堀り葉堀り聞き、挙句の果てに「この話」聞かなかったことにする‥‥  なんていう上司に出会ったことは、ありませんか。
 
川柳を作ってみた。
                          や つ
根堀り聞き 聞いちゃいねエーと ほざく上司

 

 こちらが「話」しているのは、「イエス」か「ノ-」か、「ゴ-」か「ストップ」かを仰いでいるのだ。
 
「+」とでれば上司(ヤツ)の手柄、「-」とでれば知らなかった、となる。
 
かかる上司(ヤツ)を鮃(ヒラメ)という。
 
(夜行性で高級魚の鮃は 成長の過程で右目が左に寄る したがって上ばかり見てるようになる)
 
鮃を肴に〈無論本物の鮃ではない上司(ヤツである〉鬱憤を晴らす輩で、場末の飲み屋など、結構栄えるのである。
 
昔、しがないサラリ-マン時代、倅が言う『親父 給料とは我慢料のこと』と。
 
 
 
              2008.1.25 記 2.27 改
 
 
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ブログ管理人から

 
倅であります。「給料には我慢料も含まれている」と言った様な覚えがあります。

あれこれ書きたいところですが、父のブログなのでガマンガマン。

 

 

 

兵隊・抑留記(46)  敵機襲来

 
敗戦 - その2
 
 北上するダイヤが中々組めないのか、奉天・操車場に小半日は居ただろう。奉天駅頭を散見する。付近の道路には満人らしき死体がころがっている。治安当局者自体、このような状態の中では、事態が混乱して手が回らぬのが実状だろう。土色の壁、埃ぽい街との印象だ。
 
 ようやく北上である。先々の駅では、邦人婦女子満載の貨車とすれ違う。
 
 いやが上にも緊迫感が漲ってくる。
 
 北上中、列車が急停車し、空襲警報が発令された。我々工兵隊の行動は迅速だ。《下車、散開》の号令で、直ちに貨車から100m位離れて散開した。河南戦線で敵のP51の機銃掃射など実戦の経験から、先ず列車から離れることだ。
 
 同じ列車の歩兵部隊は列車から待避せず、将校が《さっさと逃げる工兵の腰抜け共‥‥‥》と、軍刀を振り回してわめいている。相手は飛行機だ。軍刀振り回して何となる。実戦の経験がない部隊とはこんなものか、我々からすれば阿呆集団に見えた。
 
 敵機にすれば、列車は格好な獲物である。特に機関車を狙う、あと列車には兵員の外なにが載っているか分からない。たとえば、爆薬が積載されており、これが爆発したら、その付近の兵員の損害は計り知れない。
 
 幸い、敵機は他方面に向かい、ことなきを得た。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(45)  ソ聯軍、満洲に侵攻

 
敗戦 - その1

 
☆ 独工○○聯隊の主力(聯隊本部と第1、3中隊)も南支方面より北上中とのこと、あと一週間もすれば、われわれと合流する。との情報もあり、いよいよ《第2中隊の寄生虫的存在》から解放される日も近い。と、大いに期待していたのである。
 
 そんな最中に軍命令は発令された。
 
 曰く。《直ちに、先発隊として、満洲・通化・防衛陣地構築のため出発》と。
 
 8月1日、原隊(第3中隊)復帰を目前にして、第2中隊(先発隊)と共に、支那・河南省・鄭州を出発、開封・徐州・濟南・天津・唐山を経て、8月9日山海関通過・満洲国に入る。この日、8月9日は日ソ中立条約(1942年4月に締結された、日本・ソ聯間の領土不可侵・中立維持を約した条約)を一方的に破棄したソ聯は不法にも《日本弱し、やるなら今》とばかり満洲に攻め込んできた日である。

 ソ聯軍の満洲侵攻により、国境付近はもとより、停車駅毎に刻々と入ってくる情報は深刻である。列車ダイヤの混乱した中で、わが工兵隊を乗せた輸送列車は錦州――奉天(瀋陽)を過ぎて、満洲・南東部の通化方面に向かっていた。
 
 ところが、奉天――吉林の中間点の〈梅河口(バイカコウ)〉まで行った列車は停車した儘、通化に向けなかなか発車しない。
 
 混沌とした中で命令変更があった。機関車は後部に付け替えられ、元来た道をバックし、奉天(瀋陽)の操車場に入り、北上待ちである。
 
 奉天・操車場は、何編成もの客車・有蓋貨車・無蓋貨車で一杯であり、北満の戦禍をのがれて南下する邦人婦女子でひしめきあっていた。暫時の停車時間に降り立った婦女子は先ずトイレである。いつ発車するかわからない列車からあまり離れられない。操車場全体がトイレと化している。若い娘が母親だろうか袖を広げた人の向こうで用を足している。白いお尻が印象的だ。機関車は水・石炭など又、邦人は食料などの補給がついたのだろう。慌ただしく一編成毎に出発していった。《兵隊さん頑張ってください》の声をのこして。気持ちの引き締まる一瞬である。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(44)  空襲!命中か?

 
初年兵教育 - その6
 
 
 
 「臥竜崗」付近の地雷掃討を終え更に南下、尹河左岸の部落「大盆陽」に至る。「大盆陽」は支那大陸での作戦行動で“俺”が到達した最南端ということになる。「大盆陽」での任務は尹河に架かる橋梁の補修・監視であった。
 
 ここでは昼間空襲に遭う。その日は、作業の合間に蛸壺を掘る訓練をしていた。と、微かに爆音がする。尹河の南の空に黒点が二つ、みるみる大きくなってくる。〈空襲〉だ。林の中に全員〈待避〉!。確認したら一名足りぬ。〈N〉だ。林の反対側部落の土塀の辺りからのろのろこちらに向かおうとしている。――伏せろ――敵機は双発の爆撃機二機だ。すでに爆撃態勢に入り尹河の上空に差し掛かったところで、なにやら黒いものをパラパラ落とすのが見えた。
 
 〈N〉が土塀に沿ったところで伏せるのを確認。
 
 低空で飛行機が通過して間も置かず《ダダーン ダダーン》と数発部落直撃である。〈N〉の伏せたあたりの土塀が土煙で一瞬見えなくなった。
 
 てっきり、〈N〉がやられたと思う。
 
 ところが〈N〉は映画の中のスローモーションの如く、ゆっくり起き上がり土塀の中を覗くではないか。 助かったァ。
 
 犠牲者なし、ホッとした一瞬である。
 
 その後、南方に展開していた友軍は戦線を縮小し、逐次北上して来るようになった。われわれも最後の友軍が通過後、7月下旬、作戦が変更され、奥地前線より撤退してきた歩兵部隊の通過を最後にして橋(舟端)を撤収し、第2中隊・主力の集結して居る河南省・鄭州(ていしゅう )まで撤退・合流した。
 
 
 
つづく
 
 
 
 

兵隊・抑留記(43)  P15来襲~落下傘爆弾

 

初年兵教育 - その5
 
  
 1945年(昭和20年)晩春、許昌の南の「南陽」から更に南へ約2Km行ったところの「臥竜崗」まで進出した。
 
 我々工兵隊は、南陽市内に入らず、迂回して「臥竜崗」に入る。ここに駐屯して、「南陽~臥竜崗」間の主として道路周辺の地雷撤去作業を行なう。
 
 「臥竜崗」は『三国志』に「劉備」が「諸葛孔明」を軍師として迎えるべく《三顧の礼》を尽くしたという故事のあるところである。この丘には大小の石碑が林立し、〔流石、『三国志』だけのことはある〕と、感じたものである。
 
 地雷撤去中、畑で働く農民が地雷に触れ、爆死したりする。そんな中、敵機(P51)一機の来襲だ。無防備の我々を発見し、超低空で迫ってくる。地雷未探査の道路側溝に飛び込んだ。操縦室から身を乗り出すようにしている敵の顔がハッキリ見えた。機銃の掃射なし。大きく旋回して2回目、今度は一発ずつ、“落下傘爆弾”と“大型で銀色に光る爆弾?”の御見舞だ。これはお陀仏か、と、思った瞬間、落下傘爆弾は、不発であり、“大型で?”は風船のように空中を泳ぎながら落ちてくるではないか。燃料の補助タンクだった。 ホッ!
 
 又、未探査の側溝内にも地雷なく犠牲者なし。
 
 「臥竜崗」からは、「南郷」「老河口」などの敵爆撃機《B29》の基地までさほど遠くない位置にあった。
 
 落下傘は初めて見る《ナイロン》製、中央に穴があり爆弾が真っ直ぐ落ちるよう工夫してあった(低空爆撃用)。補助タンクは《ジュラルミン》製、航空燃料一升瓶2本分。これが《戦果?》である。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(42)  羊羹(ようかん)事件

 
初年兵教育 - その4
 
 
 
☆ 1945年(昭和20年)春、一期の教育を終了した初年兵を連れて天津の教育隊を出発南下、当時、河南省・鄭州(ていしゅう )を拠点にして作戦を展開していた独立工兵第○○聯隊第2中隊に合流、“俺達”第3中隊要員(K小隊)も第2中隊(I中隊長)の指揮下に入った。
 
 既に、制空権は敵にあり、昼間は空襲を受ける危険があるので、部隊の移動は、敵機の来ない夕方から夜間であった。
 
 糧秣(りょうまつ)の集積場所(兵站、へいたん)は空襲を避けるため、昼間、“無人部落”を装う。したがって、昼間は兵站4Km以内に立入り厳禁となる。
 
 糧秣受領は夕方より行動開始、夜間に受領し後、明け方までにこの部落を遠く離れねばならない。
 
 ある明け方、H伍長の率いる糧秣受領班が「空荷」で帰隊した。
 
 Hの奴、夜陰に乗じて相当派手に盗んだのだろう、兵站の出口で発覚。兵站側に『糧秣』は『窃盗品』と共に全量没収され、さんざん、油を搾られたうえでの『手ぶらの帰隊』である。
 
 しょうがない、『糧秣』が無くては部隊が干上がってしまう。あまりいい役ではないが、今度は“俺”が行くことになった。5~6Km離れた兵站まで、各分隊より駆り出した兵10名位に牛車2台で向かう。暗闇の兵站は各部隊の糧秣受領で混雑していた。兎に角、昨夜の詫びを入れ、受領手続きを終える。と、闇の中に罵声だ。昨夜の今夜。見回りは厳しい。
 
 
  《コラッ 待て!》 どこかの兵が捕まった。窃盗でもあったのか。
 
  《貴様、何年兵だ!》
   ――2年兵です――。やれやれ、“俺”の隊ではないな。
  “俺”の連れてきたのは初年兵だ。
 
  《何処の隊だ!》
   ――独工○○――。 チッ! 何でェ、“俺”の隊ではないか。
   〔兎に角、拙(まず)いことは、現地解決だ〕。“俺”は声の方にすっとんで行く。
  下手に兵站本部に行かれては『事』が面倒である。本部方向の通路を塞ぐようにして
   ――何があったんですか ――
 
  《こいつが 甘味品(羊羹)を盗んだ》 見回りの下士官が怒っている。
  見れば、初年兵の“A”ではないか。
   兎に角、窃盗した奴と一緒では、謝りにくい。
   ――馬鹿野郎! あっちに行っていろ――  “A”の背中を大きくどやし
  て、彼を闇の中に解放する。これで現行犯は居なくなった。
   ――しゃーない奴だ。しかし、甘味品に手を出すとは可愛いところがある。
  “俺”なら米に手を出す―― これでは謝っているのかどうか分からない。
 
 
 
 相手の下士官何やらブツブツ言っているが、それでも一件落着だ。
 
 大事に至らず、糧秣確保。無事帰隊であった。
 
 
 
つづく
 
 

行軍

 

 工兵部隊の移動は、目的地近くまでなるべく鉄道を利用する。無論客車ではない貨車(有蓋貨車・無蓋貨車)である。貨車を降りた後はひたすら徒歩である。
 
 「4キロ・6キロ行軍」という。1時間に4キロメ-トル又は6キロメ-トル歩くことだ。1時間(60分)のうち45分で歩き、あと15分休憩というわけである。
 
 午前中4時間、昼食休み1時間、午後2~3時間行軍である。宿営地では、天幕を張る。水を確保する。水は川の水(流水)を使う。茶色に濁った水である(池の水など溜り水は使わない)。川の水でも生水は絶対飲んではいけない。赤痢菌など病原菌がうようよしているそうだ。
 
 必ず煮沸して利用する。
 
 濁った水で炊飯する。多少ジャリジャリするがしかたない。
 
 翌朝、食後水筒を煮沸水で満たし、昼食を携行、天幕を畳み出発準備完了である。
 
 
 軍靴〔編上靴(へんじょうか)〕と読む。
 
 初年兵時代、班付の古兵から「足を靴に合わせろ」なんて無茶なことをいわれたものだ。「馬鹿の大足、間抜けの小足、中途半端のろくでなし」の足だ。『ピッタリ』なんてあるわけがない。それでもなんとか合わせている軍靴だ。半日も歩けば足の裏は「マメ」(水疱)だらけだ。
 
 休憩後の第一歩が痛い。それを我慢して最初に2~3回飛び跳ねる。と、痛さがぼやけてきて安定する。
 
 そうだ「子供の頃、転んだり、薄の葉などで切ったりして生傷は絶えたことなどない。風呂の湯がしみて実に痛い。思い切ってドブン。「アッ」しみて痛いが瞬間的なものだ。後はマヒして痛くない」‥‥あれと同じだろう。
 
 兵隊はひたすら歩くのみ
 
 
                                    2008.2.14記
 
 
【行軍】(こうぐん)軍隊が徒歩で長距離を移動すること
【有蓋貨車】(ゆうがいかしゃ)扉のある貨車
【無蓋貨車】(むがいかしゃ)屋根の無い貨車  砂利・石炭等用
 
 
 

兵隊・抑留記(41)  憲兵に始末書

 
初年兵教育 - その3
 
 
 
 さて、この時代については、どんな教育をしたのか、特別記憶に残るような事柄はない。
 
 兎に角、他の連中よりは土地勘があったので、ずっこけた話ならある。
 
 
 
 ・ 当時、工兵の作業訓練では“白作業衣(袴)”を着用していた。ある日
 小隊長の居ないことをいいことにして、“俺”は分隊の隊員を引き連れて
 白作業衣着用のまま、日本租界・天津神社まで駆け足行進、参拝。天津神
 社の裏手にあった現地国防婦人会主催の「おばさんの家」に立ち寄り(汁
 粉餅)の接待をうけさせる。
 
  つぎに、租界内にある映画館(浪花館)に立ち寄り、館長に交渉して、
一幕只で映画を鑑賞して、何食わぬ顔をして帰隊した。
 
 
 
・ 初年兵教育の終わり頃だったと思う。週番下士官として勤務していたあ
る日の午後、I第3班長より“これより外出(隊長に無断)する。した
 がって、夜の点呼をよろしく、明朝早く帰隊する。”との伝言だ。
 
  時の週番士官はO准尉であった。第3班の夜の点呼はなんとか誤魔化
 した。何事もなく消灯時間も過ぎた。一応、各内務班など見回りが終わっ
 て、さて、寝ようかという頃、時間でいえば、11時過ぎだったろう。
  O准尉に呼ばれた。“Iが憲兵隊に保護されている。引き取ってこい”と。
 
   “俺”は直ちに兵2名を率い憲兵隊に向かった。いくら治安が良いと
  いってもここは北支那・天津の真夜中である。用心のため小銃に弾丸を
  込め、安全装置をする。
 
   Iの奴、酒を飲んで女性と一緒に居るところを憲兵の臨検に引っか
  かったのである。
 
  憲兵隊では、当のIはすっかりいい気持ちで出来上がっており、どう
にもならない。結局、素面(しらふ)の“俺”が 始末書を書いて、
  放免となった。
 
 
 
つづく
 

兵隊さんの匂い

 
 表通りから路地の突き当たりに二軒続きの貸家がある。その左側の家に、小学校一年の夏まで住んでいた。
 
玄関の反対側の窓を開けるとお墓でである。大家さんはお寺だったのであろう。(高徳寺)
 
墓地の向こうが歩兵聯隊(近衛歩兵第四聯隊)の兵営である。(現 都立青山高校)
 
朝な夕な、
喇叭(らっぱ)の音の中で育ったようなものである。
 
路地の出口右角はお煎餅屋さん。表通りを右に行けば原宿の代々木練兵場方面、左に行けば電車通り(市電)、電話局(現NTT)方面だ。お煎餅屋さんの向かい側は田中大将のお屋敷(田中義一 後 内閣総理大臣)又、近くには河上元帥のお屋敷などがあったためか、軍人さんをよく見かける環境にあった。
 
 兵隊さん達は表通りが代々木練兵場に通じる道のためか隊伍を整え行進してくる。やがて「足音」も「匂い」も尾を引きながらだんだん遠ざかっていく。俺は路地の角で飽かずに眺めていたものである。
 
 大正末期(幼年時代)の甘酸っぱい思い出である。
 
 
 昭和15年師走赤羽の近衛工兵隊に入隊した俺は数日後皮革類〔軍靴・帯革(バンド)・弾薬入れ等〕手入れ用の缶入り保革油が支給された。缶を開けて分かった。
 
幼年時代 脳味噌に刷り込まれた「兵隊の匂い」とは「実に保革油」の匂いであったとは。
 
 
                        2008.2.10記