SAPPERの兵隊・抑留記 -13ページ目

兵隊・抑留記(32)  地下住居ヤオトンとは

 
独立工兵聯隊 Ⅱ - その1
 
 
 
☆ 《窰洞(ヤオトン)》について触れておこう。
 
 《窰洞》とは黄河流域に広がる黄土高原において、黄土を切りとり、掘ってつくられた生土の洞穴居住空間をいう。この地下住居《窰洞》には、主に崖面に横穴を堀込んだ靠山(カオサン)式あるいは山懸(ヤマカケ)式と呼ばれる形式と、平坦な大地に矩形の縦穴を掘り下げることでできた中庭《院子(インズ)・坑院》の四面の崖に横穴を掘り込んだ下沈(カチン)式と呼ばれる二つの形式がある。
 
 氾水→コロウカン→黒石関→白馬寺→東十里舗→洛陽とこの辺り一帯、延々と続く広大な麦畑の中に、突如、長期間の浸食によるものか大地が裂け、地面がすとんと落ちている箇所がある。落差10mはあるだろう。住民はこの崖地に横穴を堀り、居住している。靠山式(山懸式)窰洞である。
 
 このような自然の崖地を利用したものの外に、麦畑の中に麦の穂と同じくらいの高さの土塀を回した一郭がある。四角に回した土塀の中、矩形の縦穴を掘り下げ、この崖面(東・西・北面)三面の横穴を住居と貯蔵庫としている。深さはやはり7~8米はあったろう。残りの南面には階段を設けてあった。下沈式窰洞である。
 
 村あれども村見えず。一般の建物が地表面から凸型であるのに対して、窰洞は凹型の居住空間といえる。霾(つちふ)る大地における生活の知恵というわけである。
 
 黒石関に駐留していた時など、この《カオサン式ヤオトン》住居を利用したものである 半円筒形の曲面天井は案外高く(入口面を高くしてなるべく奥まで外光を取り入れる効果もある)夏涼しく(外は暑くてもヤオトンの中は寝苦しいということはなかった)、また、住民の話によると冬は逆に暖かいとのことである。
 
 黒石関のヤオトンは前面の広場に上面平らな寝台位の大きさの石が置いてあった。これは現地住民の説明によると、日中、太陽熱で熱くなった石の上にアンペラを敷き裸に布団一枚かぶり、満天の星を子守歌にして寝るのだそうだ(朝まで十分冷めないとのことである)。
 
 
つづく

 

 

兵隊・抑留記(31)  死んだことになっていた俺…

 
独立工兵聯隊 Ⅰ - その6
 
 
 
 《報告》が終わったのが、午後の作業開始前であった。中隊長は作業隊全員を集めて訓示である。
 
 曰く、《●●●のとった行動は、適切であり万事、この様にせよ》。と、何のことはない、怒られるところ、褒められてしまった。
 
 貨物自動車は《コロウカン》の山道を通る。自動車のエンジンは冷却水が沸騰して暫時休憩に入った。山頂付近である。たしかこの辺だと散策す。あった、“俺”の掘った観測用掩体が。半ば以上埋まっていたが、それでも分かる。付近の景観は匍匐して見た状態とかくも違うのか。視点の高さはわずか1.5mぐらいしか違わないのにビルの屋上から見ているように視界が広い。《コロウカン》の戦いが済んでシミジミと掩体の脇に立つ、感激一入(ひとしお)である。
 
 7月中旬橋は完成した。T橋と命名された。
 
 洛水の右岸T橋の少し上流に《陸軍少佐 Tの墓》》と墓標(木柱)を建立した。2階級特進である。
 
 しかし、洛水という暴れ河の前に、T橋は短命であった。降雨による増水に抵抗出来ず、橋はあえなく押し流されてしまったのである。
 
 再度、橋を架設している。2代目は、洛水に敬意を表し洛水橋と命名したのだが。これも暴れ河の前にはあまりにも短命であった。
 
 橋の完成が近づき鄭州での木材積み下ろしの作業も終わったので、黒石関に復帰したころのことである。労役に使用していた支那軍捕虜2~3百名を密県に駐屯する第1中隊まで護送したことがある。密県まで距離はは山越えの10~12Km位だったろう。“俺”の分隊15名が担当した。捕虜は無腰ではあるが別に鎖で繋がっているわけではない。これだけ集まると不気味である。途中反乱もなく無事1中隊に引き渡すことができた。
 
 1中隊のK軍曹が飛んできて、《●●●、貴様死んだことになっている》と、とんだご挨拶である。経緯はこうだ。3中隊の戦死者の中で、N軍曹、●●●兵長の名がある。それが、1中隊には下士官では軍曹がやられ‥‥‥、名前の中に●●●というのがあった‥‥‥。それで、●●●軍曹戦死となって、伝えられたのである。
 
 K曰く、《新郷の貨車の中で別れる時に、●●●の奴、今度会うときは靖国神社で会おう。と、言ったっけ。冗談でも、ああゆうことは言ってはならぬ》と、話し合っていたところであったという。元気でお互い別れた。
 
 夕方近く、帰りの山道も不気味であった。
 
 
 
つづく


兵隊・抑留記(30)  発疹チフス?猩紅熱?

 
独立工兵聯隊 Ⅰ - その5
 
 
 
 翌5月24日13時洛陽攻撃開始。

  《15~16時頃、S中隊長・指揮班洛陽東北角に取りつく。●●●兵長
 戦死、M伍長大腿部盲管銃創・S中隊長代行右手首貫通銃創等四~五名
 負傷す。U小隊(第一小隊)は洛陽城外東北角の教会に潜む敵に向かう。
 塀に取りついたU小隊長負傷す。手当中Y上等兵戦死、すこし下がった
 ところで戦車隊を迎え戦車隊に続き東北角に進出。中隊指揮班と合流、戦車
 隊城内進入路の作業に従事す》、と。 (戦友S氏――資料)

 
 
 
 昭和19年5月25日8時30分洛陽陥落。
 
 S中隊長代行負傷のため、M少尉中隊長代行となる。
 
 さて、洛陽攻撃のときは一体“俺”や第3小隊はなにをしていたのか。“俺”は23日(洛陽攻撃)の朝、旅団司令部の副官より、司令部直轄を解かれ、小隊復帰となったらしい。(どうもそのへんが分からない)器材と一部兵隊を宿舎に残し、朝から、小隊を探しに、洛陽城外東北角付近をさ迷い歩いていたことになる。“俺”のやったことといえば、前日、地雷一個掘り出したことぐらいか。 午後になって、廟入口付近で、負傷した中隊長代行S少尉・M伍長他5~6名か、衛生兵の手当を受けているところに行き当たった。中隊長代行に報告並びに見舞い、M伍長を見舞っているところに、こつ然と無傷のK小隊が現れたのである。ようやく小隊に合流することができた。
 
 洛陽戦線における第3中隊の損耗は、戦死13名・戦傷者30名と記憶する。しかし、“俺”が所属する第3小隊だけ無傷であった。これは、洛陽総攻撃の際、最前線付近まで行っているのだが戦列には参加していなかった。と、いうことである。
 
 洛陽攻略が終わって、暫くした6月上旬、かって下士候隊教官であった聯隊副官のM中尉が第3中隊長として赴任してきた。これまた、戦死したT前中隊長に負けず劣らず、演習と戦場の区別のつかない、且つ又、兵はしごけばしごくほど戦力が上がるとでも思っているだろう、困った隊長であった。
 
 洛陽より白馬寺を通り黒石関に戻る。本格的木橋(列柱橋)の架設である。第2中隊は左岸より、第3中隊は右岸より両岸協力しての架設だった。
 
 “俺”は兵20名と共に架橋本隊を離れ、鄭州駅付近に駐屯して、木材(架橋用)の積み替え(貨車から貨物自動車)作業に従事することになった。
 
 出発の際、中隊長訓示は《伝染病など病人をだすな》であった。ところが、4・5日経たところで隊員の一人に《高熱・発疹》が出た。これは発疹チフス?猩紅(しょうこう)熱?と疑い、本人を鄭州の野戦病院へ入院させ、宿舎内の器材資材などを屋外に出してから、屋内に乾燥した草を敷き、火をつけて燃やした。家の壁は、日干し煉瓦のため大火事になることはない。室内のお邪魔虫(蚤・虱・南京虫等)を退治である。
 
 直ちに、中隊長に《経緯・処置》を報告するため貨物自動車に便乗して黒石関・架橋現場に向かう。 
 
 
つづく

 

 

兵隊・抑留記(29)  みやげは地雷


独立工兵聯隊 Ⅰ - その4
 
 
 
 さて、この地雷はどうして爆発しなかったのか、本体と上面の緖型鉄板を結ぶ4本のボルトの中、2本が欠落し、紐で結んであった。軍馬は2本のボルト側を強く踏んだため、他側の2本の紐が切れて、緖型鉄板と木板とを跳ね挙げてしまい、全然信管に触れていない状態だ。踏んだ奴は誰だろう、無論、踏んだ本人は知らないだろうが、兎に角運のいい奴だ。“俺”はビックリしたというわけである。
 
 掘り出している暇もないので、前進である。そこから15分位してようやく旅団司令部宿営地(洛陽東北角郊外)に到着した。5月23日15時頃であった。直ちに、旅団司令部副官に到着報告をする。副官は“途中に地雷あり”と聞いて“直ちに撤去せよ”とのこと。兵一名を連れ、副官付き曹長と共に現地に向かう。地雷との再会である。しげしげと見れば見るほど《人の生死なんて、全く紙一重だ》と、つくづく思う。
 
 撤去作業に入ったら、いままで側に居た曹長いつの間にか遠くに離れてしまった(利口な曹長である)。信管を抜き雷管をはずす。雷管は丁度付近を流れていた小川に放り込み、本体の地雷を脇に抱え司令部へ、副官へ《こんなものがありました》と、放り出したら、副官あわてて、《こんなもの、早く始末しろ》と、飛び退いた。フフフ‥‥。朝からの鬱憤、こんなことで晴らすとは“俺”も小さい小さい。
 
 さて、中隊の主力は、K小隊は何処に居るか司令部に尋ねるが皆目分からない。この時点ではN軍曹以下3名の戦死と若干名の負傷については、まだ、知らない。
 
 夕方遅く、司令部から呼び出しがあり、直ちに赴く。《洛陽攻撃のため火焔放射器を用意しろ》と、“俺”は中隊の主力や器材小隊が何処に居るのか、果たして中隊は、火焔放射器を携行しているか、K小隊は携行してない等々‥‥、司令部自身が中隊主力の所在が分からないのに、“俺”に分かるわけがない。

 

 明日の突撃までに間に合わすこと非常には困難である。と、具申した。色々言われ、曲折はあったが、“俺”はあくまで《K小隊は携行していない、中隊主力器材小隊の所在不明、中隊は火焔放射器を携行しているや不明の状態では、動きたくても動けない》。と、ようやく、火焔放射器不採用と決まる。ヤレヤレ‥‥。副官は思い付きで言っているのだろうか。言われたほうは非常に困る。
 
 大体、司令部は工兵の一個分隊7名を洛陽突撃の時点で何に使い、どう使おうとしていたのか、思いつかないし、不思議である。
 
 
 
つづく
 

 

兵隊・抑留記の用語解説

 

 

用語解説

塹壕 ざんごう 守備隊等が体を隠して射撃できるように掘った防御用のからぼり。
円匙 えんぴ 《「えんし」の誤読》シャベルのこと 主に軍隊で用いられた語。
討伐 とうばつ 兵を出して従わない者を攻め討つこと。
盧溝僑事件 ろこうきょうじけん 盧溝僑《中国、北京市南西部の永定河にかかる橋。マルコポーロがヨーロッパに紹介したため、マルコポーロ橋ともいう。長さ235m。》
1937年(昭和12)7月7日、盧溝僑付近で夜間演習中の日本軍が、数発の射撃音と一名の兵士の一時行方不明を理由に、中国軍を攻撃。その後全面戦争に突入した。
戦陣訓 せんじんくん 1941年(昭和16)1月、陸軍大臣東条英樹が全陸軍に布達した戦場での心得要綱。
三八式歩兵銃 さんぱちしき-ほへいじゅう 日本陸軍の歩兵銃。村田銃改良型の30年式小銃をさらに改良して操作を簡便にしたもので1905年(明治38年)採用。第二次大戦末期まで使用された。
内務班 ないむはん 旧日本陸軍の兵営内での日常生活上の一まとまりの単位。30~40名で班長は軍曹または伍長。 
ノモンハン事件 ノモンハン-じけん 1939年(昭和14年)5月、満蒙国境 (現在の中国東北部とモンゴルの境)のハルハ川付近で起きた日ソの武力衝突、日本軍はソ連の機械化部隊によって壊滅的な打撃を受け、以後対ソ開戦論は後退。
トーチカ 軍隊用語で「火点」 小砲塁、保塁、コンクリートで固め、中に銃火器を装備した小型陣地。作戦上の拠点となる。
匍匐前進 ほふくぜんしん 這って前進すること
高粱 コウリャン=中国語 (こうりょう )中国産のモロコシ 高さ四米に達する。高粱酒。
旅団 りょだん 陸軍の部隊単位の一つ。聯隊と師団の中間。旧日本陸軍では二個聯隊で編制。
師団 しだん 陸軍で独立して作戦を担当する戦略単位。旅団の上位。
兵団 へいだん いくつかの師団が合わさった大部隊
兵站 へいたん 戦場の後方で作戦部隊への軍用品の供給・輸送および補給線の確保などを担当する
杜子春伝 とししゅんでん 中国・唐代の伝奇小説 晩唐の李復言(りふくげん )編 『続玄怪録』中一編。
杜子春という若者が現世を離れ入仙(にゅうせん )を志す。道士の課す試練に耐えるが最後に戒律を破り宿願を果たせない芥川竜之介の翻案がある。
発疹チフス はっしんチフス 病原はリケッチア・プロワツエキコロモジラミ。血液媒介、出血性発疹・高熱。
神楽桟 かぐらさん 「神楽」、「おかぐら」、「車知」ともいう。
木材・石・建物など重量物を牽引、揚上させるための道具、2本の土台、2本の冠木(かぶりき)および 4本の柱で構成された枠を地面に固定し、上地板(うわじいた )下地板(したじいた )の中心にある轆轤 (ろくろ )という心棒を2本の手木(てぎ)で回転させ、物に掛けてある縄を巻き寄せる道具。特に近世初期には「南蛮轆轤(なんばんろくろ )」ともいった。
コンクリートミキサー

骨材・セメント・水などを所定の配合割合に練り混ぜて均質なコンクリートを作る機械。ここでのミキサーは、《可傾式コンクリートミキサー》であった。
ホッパー

セメント・骨材・コンクリートなどを受け入れて硫下させるための漏斗状の装置。
便衣 べんい ふだん着。平服。
便衣隊 べんいたい 日中戦争の時、平服を着て敵の占領地に潜入し、後方攪乱をした中国人のグループ。
ポッダム Potsdam ドイツ東部、ベルリンの南西郊外にある都市。サンスーシ宮殿ほか多数の離宮・別荘などがある。人口142,000。
ポッダム宣言 ポツダムせんげん
1945年7月26日、ポッダムにおいてアメリカ合衆国・中華民国・イギリス(後にソ聯が参加)が日本に対して発した共同宣言。戦争終結、日本の降伏条件を定めて、軍国主義的指導勢力の除去、戦争犯罪人の厳罰、連合国による占領、日本領土の局限、日本の徹底的民主化などを規定。日本ははじめこれを無視したが、原子力爆弾の投下、ソ聯の参戦により同年8月14日受諾して、太平洋戦争終了。

 

 

参考資料

 
《新制 最近世界地圖(改訂版)三省堂編輯所編》 昭和10年1月20日発行

 

 

兵隊・抑留記(28)  不気味な霊廟を通過する

独立工兵聯隊 Ⅰ - その3
 
 
 
 昼下がり、丘のはずれで休憩している通信隊を見つけた。やれやれ一安心と、ロバの背の荷物を下ろし、荷車を牛から外して、われわれも昼食だ。
 
 この台地から右手に洛陽の城壁が見える。後で聞くところによると、通信隊自身が司令部を見失い城壁に近寄り過ぎたとのことであった。
 
 と、間もなく通信隊は休憩を終り、荷車にサッと馬をつけ出発してしまった。又、取り残されてしまった。心細いが仕方ない。あせってもどうにもならない。覚悟を決めて、十分な昼食時間をとり、ゆっくり、確実に荷をつけて、通信線を頼りにして超スローペースの進軍であった。
 
 しばらく行くと、左手の麦畑の中に砲弾が散乱している。見ると麦の茎が或る直径範囲すり鉢状にない。砲弾の集積場だったのだろうか、土は殆ど掘れていない。薬莢内の火薬の誘発だろう薬莢内は空であった。見事である。
 
 途中、右手に廟(祖先の霊をまつる建物)があった、何となく静かである。これを不気味というのだろう。あとで分かったことだが、ここに相当数の敵兵が隠れていたそうだ。7名位で通過したのだから、危ない危ない。
 
 廟を通過して1時間以上は歩いたろう。と、道路の中央付近に地雷が付設してあった。この地雷には強く踏まれた跡[軍馬の蹄(ひづめ)跡]がある。付近を注意して見るがこれ一個で、他には見当たらない。
 
 《地雷は爆薬を直径30~40cm・厚さ6cm位の円板状鋳鉄製箱に収め、中央に雷管・信管を装着し、信管には安全ピンがある。このピンを踏み切ると起爆する仕掛けである。信管の上面を緖型鉄板で覆う。この緖型鉄板と爆薬箱を4ヵ所ボルトで結ぶ。 これは鉄板の何処を踏んでも信管のピンを踏み切り起爆するように細工してある。次に地面を掘り、地雷を入れる。上面の緖型鉄板の上に薄い木板を敷き土で覆う。これで地雷の付設完了である》。
 
 
 
つづく

 
 

兵隊・抑留記(27)  ロバと司令部を追いかける

独立工兵聯隊 Ⅰ - その2
 
 
 
 “俺”の分隊は天津を出発したときの編成が15名だったが、洛陽攻撃が近づくにつれて、一人二人と脱落し、遂に“俺”以下兵7名プラス現地徴用の支那人1名(牛・ロバ係)となってしまった。この残った兵7名は、現役兵(3年兵、2年兵)であり、よくこの“俺”をサポートしてくれたと、今でも感謝している。
 
 この時点で、脱落者に戦死・戦傷者なし、下痢、腹痛、歩行困難‥‥‥等々。大半が仮病と見た。その後、洛陽攻略が済み、一段落し、ある程度命に別状なしと分かってから、のこのこ全員復帰してきたのだからあきれてしまう。これらの兵隊の殆どは、海千、山千の現地召集者であった。
 
 小隊の器材をロバ3頭、牛車1台、に積載できるよう仕分けして、移動に備える。A曹長の命令待ちである。
 
 近くに露営していた他部隊が、どんどん出発して居なくなってしまった。
 
 ところが、命令受領に行ったA曹長が戻らぬことには行動できない。
 
 むなしく過ぎる時間にしびれを切らし、十分位離れた旅団司令部へ、駆け足で様子見だ。司令部は一部後方連絡者を残し、主力は出発した後であった。どさくさの中にようやくA曹長を発見。のんびりとした口調で曰く、《Aはここに残ることになった。●●●分隊は、直ちに司令部を追尾せよ》と、“俺”は曹長を怒鳴りつけた。“馬鹿野郎! なんで早く知らせんのだ”。
 
 こんな野郎といつまでも付き合っては居られない。急ぎ分隊に戻り、出発せねばならない。
 
 器材のうち牛車の分は積載固定しておけるが、ロバの背に載せる荷は出発間際につけないとロバが疲労する。ロバへの装着時間がいたずらに長く感じられる。それに加えて軍馬2頭(小隊長・小隊付曹長用)K分隊長は小銃まで置いていってしまったのだから始末が悪い。
 
 器材の積載を完了し、かれこれ1時間遅れて、司令部を追尾した。
 
 1時間遅れの追尾は大変である。先ず、旅団司令部の行き先がわからない。
 
 そこで、最後尾部隊を捜すことにした。2頭の軍馬を走らせ偵察させる。ようやく、発見、追尾するが、器材搬送の牛とロバはいくら急がしてもロバや牛のペースである。遅々として進まない。
 
 先頭と最後尾はだんだん開らいて1Km以上にもなったろう、遂に最後尾部隊を見失ってしまった。無論、地図も磁石もない、その上、困ったことに洛陽方向も分からない。
 
 さて、どうするか、と、付近を偵察したところ、通信隊付設の後方連絡用通信線(黄色)を発見した。《これは司令部に通じている》救いである。伸びきった分隊をまとめて、牛やロバのペースで前進した。
 
 
 
つづく


木橋建設用資材運搬 (黒石関-鄭州)

 

 洛陽陥落後 軍事物資(弾薬・食料等)を円滑に前線へ送るため 独立工兵隊(以下独工)に橋(木橋)建設の命が下った 洛河“黒石関”地点である

 

 俺は本隊より離れ兵20名を率いて“鄭州”近郊に駐留 貨車で運ばれてくる資材(主として木材)を鄭州駅でで受取 貨物自動車(トラック)に積み替え “黒石関”に送り込む作業に従事した
 
 写真は 1944夏(敗戦1年前)である 
 

木橋建設
 
 
 車は“コロウカン”の峠道をあえぎながら登っているところです 峠の頂上で沸騰した冷却水を冷ますため暫時休憩です
 

 
                     2008.1.17 記

 

 

風呂と兵隊 (2)

 
 現地人の生活用水は河川の水である 井戸はみかけたことがない 水桶二つに川の水を汲み天秤棒を通して担ぐ姿をよく見かける

 

 川は大地を削りながら流れるので 土色に濁っている どれくらいの濁(にご)りかというと 川の中に手を入れると 入れたところから見えない もし魚が居るとしたら 魚同士どうやって交信しているのだろう(余計な心配しないで 話を本題に戻そう)
 
 汲んだ水はこのままでは使えない 住居内の竈(かまど)の脇に大きな水瓶が三つ程置いてある 汲んだ水は水瓶にあける
 
 一晩おいて土砂を沈殿させその上澄みを生活用水にするわけだ
 
 水瓶の大きいのは大人一人かがめば入る 
 
 よし これで「瓶(かめ)風呂」を作ろう 瓶に湯を入れて……ではなく(大体湯を沸かす大きな釜なんて見当たらない)煉瓦(れんが)でカマドを作りその上に水瓶を置く 瓶の底を火で炙(あぶ)ろうと言うわけだ(カマドといっても簡単である 煉瓦を数段積んだもの二筋 瓶が安定するくらいの空間あけた上に水瓶をおく)
 
 これで準備完了 瓶に水を張り カマドに火で瓶の下から炙った 効率は悪かったがなんとか入れるくらいの湯加減になり さて入浴 片足が入り両足が底につくやいなや 『ガボッ』瓶の底が抜けた 

 
 幸い人間は無傷だったが 失敗である
 
 釜風呂のイメ-ジから脱却できず 「水を沸かすには 容器の底を炙るものだとばかり思っていたとは」
 
 水瓶の底は水圧(水の重量)に堪えるよう内側に凹んでいる ところが(水の重量)+(体重)には壊れてしまったのである
 
 そこで俺は考えた 当たり前のことだが
 
 ・瓶底を補強する
 ・瓶の側面を暖める
 
 先ず 瓶底の内側(凸レンズ状)に凹んだところを 土で埋め(土に水を加えよく練ってダンゴ状した上に瓶を置きよくなじませる 瓶の縁から余分な土が出ればOK)

 

 次に瓶の廻り すこし離して煉瓦を積む 煉瓦は上部を瓶側に絞りながら一番上は瓶に密着させる 隙間は土で塞ぐ 一方を焚口の穴とし 反対側に煙出穴を設け出来上がりだ
 
 煉瓦と瓶の間の空間が炎や煙の通り道である
 

瓶風呂
 

 写真は 痩せたニヤついた男が瓶風呂に入っている   印画は60×45ミリメ-トルだから写真機はセミキンカだ 天津時代の後半 ある討伐作戦でのある部落だろう
 
                      2008.01.10 記 

兵隊・抑留記(26)  寺に張り紙

独立工兵聯隊 Ⅰ - その1
 
 
☆ 第3小隊(K小隊)は中隊主力とは合流せず、Y兵団の司令部と行動を共にした。
 
 黒石関と東十里舗との間に〔白馬寺(日本の高僧・弘法大師が学んだという由緒ある寺)〕がある。

 

白馬寺1

 

 寺の一廓は黒色の煉瓦塀で仕切られており、入口はアーチ型である。中は塀に沿って左右に回廊、正面の本堂は白木造り。と、簡素ではあるが歴史を感じさせられる佇(たたず)まいだ。

 

白馬寺2
 
 寺の扉に《昔、日本の高僧が学んだ由緒ある寺である。寺を荒らさぬように‥‥一将校より》の張り紙があった。中々粋な将校ではある。

 

白馬寺3
 
  
 河南(洛陽)から5~6Km手前の東十里舗付近まで進軍したとき、命令変更があり、2~3Km戻ったところから、左へ、洛陽を右に見て時計回りに、左へ大きく迂回する。途中、洛水(黒石関の上流)を2回徒渉する。軍靴を脱ぎ裸足だ。最初は、深いところで膝位か。転ばぬよう注意して行く。2回目は浅く20cm位か、この辺りは水も澄み、清流というところか。飛行場(草ぼうぼうの只の原っぱ)を突っ切る。尚も迂回する。露営地は洛陽の北又は北東4~5Km位のところだったろう。時は5月22日夕方、洛陽攻撃開始の前々日であった。(洛陽攻撃開始24日13時)
 
 これまでのところ、K小隊長の指揮のもと、第3小隊の一員として行動してきた第1分隊(●●●分隊)は、二十三日早朝、K小隊長より《旅団命により、●●●分隊は、Y旅団司令部(旅団長Y少将閣下)に直属し、小隊の器材をまとめ追尾せよ、司令部の行動など、子細はA曹長の指示による》との命令を受けた。
 
 “俺”は、命令を受けた瞬間、《工兵一個分隊切り離して以後何をさせようとしているのか、中隊より一個小隊切り離されただけでも機能が束縛され、器材の調達もままならず十分な力を発揮しにくい。これではこま切れである。戦力低下は免れまい。それに、小隊長も小隊長だ。小隊器材も携行せずこれから何をしょうとして居るのか》との疑問を抱いたが、命令は命令である。
 
 K小隊長は他の分隊を引き連れてさっさと出発してしまった。

 

 

 

つづく