SAPPERの兵隊・抑留記 -14ページ目

風呂と兵隊 (1)


 兵営内の風呂は 浴槽は木製であるが 大きい 15人程度は入れるだろう 入浴順序は内務班単位でである   入浴が一番先の時は大変である 浴槽の湯はキンキンに沸いている 熱くてしり込みする 少しでも水を入れようとすれば 風呂当番の古年兵から「コラッ うめるな」罵声が飛ぶ
 
 戦友仲間から 貴様から入れとご指名だ
 
 俺は言う「湯に触るな」
 
 ゆっくり片足から入る 兎に角熱い 両足を入れ 尻が湯に触る頃が一番熱い 次は臍(へそ)のあたりか
 
 後は首までスム-ズに入る 結局皮膚と熱い湯との間に体温で幾らか冷やされた水膜が出来るのではないだろうか 出るときは ゆっくり入りと反対のことをやればいい  浴槽に一番長く入っていたのは 足だ 赤くなった皮膚 特に膝から下は真っ赤でヒリヒリする 火傷寸前である 後は冷水を頭から被って さっさと風呂場退出だ
 
 のろまの俺にとっては上出来である
 
 不思議なもので 一人入ると次々入り 班全員が入浴完了時には 熱いけれど入れない温度ではなくなる 入浴順がおしまいの方に近づくにつれ 浴槽は濁ってドロッとしたぬるい湯が膝位までしかない ということになりかねない
 
 効率の悪い風呂釜を預かる風呂当番としては 罵声も もっともなことと理解される
 
 初年兵最初の2~3ヶ月間(冬の天津一番寒い頃)は 石鹸・歯磨きなど使ったことはないと記憶する そういえば手は皹(あかぎれ)て痛かったなあ
 
 
               2008.01.09補足01.12 記

 

 


カメラと兵隊 (2)



 

 河南作戦(洛陽攻略)1944.5~ 俺の携行したカメラはドイツ製、ベスト半裁、沈胴式レンズ装着、ずんぐりしており重量感のある代物。名称は失念していたところ弟よりドイツ製でベスト半裁だったら(フォスデルビー)じゃないかと知らせてきた。カメラ博物館などで実物を見れば分かるかも知れない。
 
 レンズの明るさF・6、シャッターはフォーカルプレーン。シャッター音はカシャッと明快な感じだったと記憶する。ベストフイルム3本をようやく手に入れて戦地に赴いたのである。(ベスト判1本で8枚 半裁だから16枚 大きさ41ミリメ-トル×6・5/2ミリメ-トル)
 
最前線でウロチョロしていたため 撮影したフイルム(3本)現像焼付は出来ずフイルムの補充もできない。
 
 同年11月新しく入隊する(初年兵)の教育班長を命ぜられ、初年兵受領のため内地帰還した際、カメラとフイルムを自宅に託し戦地に赴いたのである。
 
したがって、この写真に出会ったのは、1948年の秋であった
 
東京空襲は3月10日が有名だが、その外にも何回もありその度に、防空壕に入ったり出たりしたようだ。
  
 湿気の多い環境に放置されたこともあっただろう。俺が見た時はフイルム表面は銀でギラギラしており、再現不能。印画紙はお互い張り付きダンゴ状態だった。
 
 水に浸し丹念に剥がしたが、はがれないものもあり苦労して救われたのがこの写真である。

 
従軍001  

 

 
ところが失敗がある、カメラの距離表示はフィートであった。俺はメートルと感違いして写したので 近距離の画像はすべてピンボケ。救われたのは∞(無限大)のみ。
 
 どうにか見られるのは3本中1本位か。

 

                                    2008.1.5 記

 

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参考: フォスデルビーのスペルは「Foth Derby」

 

 

黄河に掛かる3Kmの鉄道橋

     黄河鉄道橋 補足

 

 
 単線の鉄道橋である 道路橋ではない 鉄道橋は通常レール2本の下は レールを支える枕木 それを支える鉄骨の梁(はり)がある だけだ しかも枕木と枕木のあいだから下は丸見えである これでは誰でも平気で渡れるというわけにはいかない そこで此処を確保警備している鉄道工兵が枕木の長さ分 レールの高さ間で木材を敷き 歩行できるようにしてあった 延々・3キロメートル 大変な作業だったろう
 

 木道の幅は枕木の長さしかない 両側に手摺などない

 

 『虎と戦車と軍医』鈴木博著(鹿島出版会)にこの橋を夜中に苦労して戦車で渡った記述がある 
 

 著者の鈴木軍医少佐は この橋を〔黄河の木橋〕と書いてあるが 鉄橋(鉄道橋)のあやまりである
 

 夜暗闇で見た木道の印象が強烈だったのだろう
 

 同著の中に行動略地図があり 俺たち工兵隊が渡った同じ位置の橋(鉄道橋)を渡っている
 

 戦車軍団は直進〔鄭州〕方面へ
 

 我々工兵部隊は右手〔覇王城〕台地攻略作戦に加わったのである

 

 

                                    2008.01.13 記

 

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ブログ管理人から

 

兵隊・抑留記(20) と、兵隊・抑留記(21) に出てくる鉄橋についての補足です。

全長は3300mあり、明治37・38年頃にドイツ人の設計で完成した鉄橋だそうです。

 

黄河の橋

 

父が辞典に載っている写真を見せ「こんな絵を付けてくれ」と言うので、せっせと書いてみました。

(追記) 掲載した絵を見た父が「こんなんじゃない」というから、話を聞きながら描きなおしました。

これならいいそうです。

 

3.3Kmというと、東京駅から御徒町駅か、東京駅から浜松町駅より少し長いくらい。

東京-神田-秋葉原-御徒町の距離に相当する鉄橋だとすると、これは長い。

歩く気はしないけれど、時速4Kmで歩けば45分以上もかかる計算。

 

 

 


俳号〔畚〕由来

 

 便りのないのが 元気な証拠 これは若い頃の話
 

 この年になると 便りのあるのが生きてる証(あかし)と変化する
 

昨年の秋 最初に女子 一ヵ月半位過ぎに男子と二人の曾孫(ひまご)にめぐまれた そこで新年を迎えて一句

 

 


 すこ          ひまご    え み
健 や か な   曾 孫 の 微 笑 て   年 迎 ふ 
 

                                        畚
 

 

 

〔畚〕漢読み(ホン)訓読み(もっこ)である
 

 (もっこ) 荒縄で網状四角に編んだ四隅に夫々紐(紐の端は蛇口(輪)状)がついている
 

四角の大きさは(150センチメ-トル角)位か
 

 この中に 土砂など入れて 蛇口に棒を通して前後二人で担いで運搬する道具 
 

俺は土 セメントの匂い トロッコ レ-ルの軋む音など好きだ 
 

幼少の頃(俺にも幼少はあった)
 

兄がいう お前はすぐオダテにのる そういう奴を(もっこ)と言うんだ 馬鹿だよお前は『鶴亀算』がなんで出来ないんだ 「全部鶴とする……」 冗談じゃない「俺が聞いているのは 鶴亀算だ 亀の足4本だ それを2本………どの足かくしたのか……」なんて混乱する 難しかった理解に苦しんだ 馬鹿な証拠だ
 

 昨年秋 俺は俳号を作ろうと思い気に入ったのがこの(もっこ)である最初「木古」としたが「枯」と間違い混乱しておもしろくない 電子辞書を見ていたら「畚」の字を発見したというわけである 但し句は寡作である
 

                                   2008.01.08
 

 

 

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ブログ管理者から

 

もっこ(畚)とは、かすかに聞いたことはありますが、形が浮かばないので調べてみました。

Webに載っていた写真から、スケッチした図を載せます。

 

もっこ図

    もっこ

荒縄で網状四角に編んだ四隅に夫々紐がついている

 


この図を見ていると、ふんどしの人夫が二人で担いでいる様子が浮かんできます。

もしかして、江戸時代のなんとか銀山の絵に出てくるのを記憶しているのかも知れません。

 

 


兵隊・抑留記(25)  傾いた橋を支える

召集  独立工兵聯隊 - その8
 
 
 
 4月20日覇王城攻撃開始から、進軍して黒石関に着いたのが5月5日頃であったろう。最初は、単舟《折り畳み舟》に歩兵を乗せ対岸に渡す。単舟では運べない馬匹・歩兵砲などについては、門橋舟(折り畳み舟を3艘横に並べて上に板を敷く)で運搬だ。朝、6時から翌朝8時過ぎまで、食事は食べながら26時間休み無しであった。
 
 遂に、操舟機は冷却水用ポンプ弁の磨耗により、一斉にダウンしてしまった。補充弁が届かず、旅団の参謀が飛んできて怒鳴るがどうしょうもない。
 
 さて、今度は舟橋(鉄舟を横に並べて上に板を敷く)[鉄舟の不足分は民船を徴収]を架設する。作業中も友軍が通過する。そうこうするうち、左岸近くの鉄舟(舳先・艫・中央と三つに分解できる。全長6m位?)一艘の組み立て用掛け金(連結部分に上下2個、計8個)下部1個が破損、連結部で大きく開き、浮力の減少により橋の甲板が傾むいてしまった。“俺”は河に入り橋桁を担ぎ支えた(岸に近く深さ胸位だったのが幸いした)。友軍を通行させながらの応急補修をやったことを覚えている。

 

 

   《5月5日頃黒石関に至り渡河作業につく。(独歩九旅団の指揮を離れる)
  民船による応用架橋を構築する。
   5月12~13日頃、洛陽東十里舗に在り、S中隊主力は黒石関軍橋が
  降雨増水による流失危機のため黒石関に向かう。第一小隊(U小隊)は東
  十里舗の敵陣偵察並びに地雷除去作業に任ず。
   5月16日頃Y旅団(歩兵67旅団)A大隊(歩兵66旅団第137
  大隊)に配属され、5月18日夜上清宮攻撃に参加、N軍曹以下3名
  翌日19日正午頃戦死外負傷者若干名を出す。
   5月23日払暁、上清宮攻略占拠、S中隊主力と合流す》
 
   (戦友S氏資料より)
 
 

 黒石関の舟橋は段々と補強整備されてきた頃、黒石関を離れる。 黒石関と東十里舗の間はその後も何回か往復している。記憶がはっきりしないが、第3(K)小隊(“俺”が所属する小隊)は、橋梁補修・監視・警備にため黒石関に残されたこともあったのではなかったか。
 
 S氏資料にある、〔上清宮〕とは、東十里舗の近辺だとは分かるが“俺”の記憶から完全に欠落している。又この時点でS中隊主力と合流とあるが、K小隊は別行動だったと思う。
 
 
 
 
 
つづく
 

 

 


兵隊・抑留記(24)  コロウカン制圧

召集  独立工兵聯隊 - その7
 
 
 
☆ 《最近世界地圖・三省堂・昭和10年1月20日修正6版発行》によれば河南とは(洛陽)のことである。その河南(洛陽)へ向かって進軍である。

 

 氾水から黒石関に至る途中に低い山が連なる。この辺りを《コロウカン》という。その一つの山の頂きが歩兵の最前線であった。谷を挟んだ向うの山々は何重にも鉢巻きをしたよう、段々畑が見える。敵は上半身裸で盛んに塹壕(ざんごう)を掘っているのが肉眼にはっきりと捉えられる。所々に点々とトーチカの銃眼が黒く点々と見える。直線距離で100か150m位か。案外近くだ。
 
 ここに、野砲聯隊より観測用掩体(えんたい)の要求があった。作成命令は第3小隊に下った。“俺”は観測用掩体の詳細を諳(そらん)じていたので、掩体本体は俺の分隊が引き受けた。出番である。他分隊は掩体に至る蛇行塹壕の掘削作業である。
 
 夕方より匍匐(ほふく=這うこと)して山頂に出る。姿勢を低くして位置を決め、最初は敵に発見されぬよう寝たままの掘削だ。それは、掩体上蓋に穴を明け、そこから《角型(つのがた)双眼鏡》を突き出し、観測が終わると引っ込めるという、潜水艦の潜望鏡式の掩体である。
 
 夜、作業中、彼我入り乱れて、銃声(パンパン)、弾道音(遠いとチィー・近いとタッ)、迫撃砲(ポワッ‥‥シュルシュル‥‥バッカァーン)味方の重機関銃(ドッドッドッ)と、周囲の山々にこだまし一大交響楽である。
 
 一夜明けて聞くところによると、夜襲を仕掛けた歩兵一個小隊が全滅したと聞く。
 
 未明に観測用掩体とそこに至る蛇行した塹壕を完成し、野砲隊に引き渡した。野砲隊の少佐から、泥だらけの“俺達”に対し《これは、いいものを作ってくれた》と、感謝されたのを覚えている。
 
 歩兵は、夜明けと共に攻撃開始、野砲の援護をうけ《コロウカン》を制圧した。後から我々工兵も進軍である。
 
 《コロウカン》山中を抜けて、洛水(河)の右岸にたどり着く。対岸(左岸)は黒石関という部落だ。暫時、休憩である。そこに、突如山陰から現れた敵戦闘機《P51》一機から機銃掃射の洗礼を受けた。不意をくらった我々は土手に張り付いたままなす術なし。幸い死傷者・損害等無し。
 
 
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(23)  ヒョロヒョロ弾で命拾い

召集  独立工兵聯隊 - その6
 
 
 
 撤去作業に夢中で気が付いたら、いつの間にか昼過ぎになっていた。分隊を纏めて安全な休憩場所として土手(高さ10m位)の陰を選び、そこまで歩こうとするが、急に腹ペコと疲労を感じ、分隊全員元気なし。やむなく土手の20~30米ぐらい手前で昼食休憩である。腰をおとし疲れた両足を投げ出す。飯を食おうとした瞬間、股ぐら中心軍袴の縫い目に沿ってピューと筋状に《熱》を感じた。探したら尻のほうから敵の小銃弾が出てきた、まだ熱い。
 
 もう少しで“金玉”命中である。ヒョロヒョロ弾で命拾いした。この弾丸は記念に持っていたのだが、その後いつの間にか紛失してしまった。

 

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 覇王城平定後、氾水(はんすい)に向かう。その頃我が3中隊は独立歩兵第9旅団(S兵団)に配属されていた。我らが第3中隊長・T中尉は下士候隊の教官をやっていて、長いこと実戦から遠ざかっていたのだろう、兎に角、張り切り中隊長である。兵隊がへとへとになってようやく野営地に着いても、休ませることを知らない。なんだかんだと仕事を仕入れてきては働かせる。
 
 ここは演習場や訓練場ではないのだ。戦場である。戦力の温存を考えない困った隊長であった。早速あだ名をつける《注文取り》。
 
 氾水かその近辺だったろう。T隊長は当番兵と二人で、敵情偵察といっても付近の地形偵察だったろう、出掛けた。畑の畦道みたいなところを手に持った棒切れで周りの草を叩きながら、隊長が先頭で当番兵は隊長の軍刀を持ち5m位後を歩いていた。と、一瞬、隊長自らが地雷を踏んでしまったのである。
 
 隊長の両手は肘から先、両足は膝から下を失ったという。爆死である。
 
 河南作戦第3中隊戦死者第一号となってしまったのである。後ろを歩いていた当番兵は無傷であった。
 
 第3中隊は直ちに第1小隊長のS少尉が中隊長代行となり態勢を建て直した。
 
 
 
 
つづく

 

 

 

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ブログ管理人から


子供の頃に父からあたり損なった弾の話は何回か聴かされていました。その都度「ハハハ、危なかったね」なんて言っていたものです。しかし、自分が子供を育てるくらいの年になってふとこの話を思い出すと、あれ?もしかしてオレって生まれてなかったかも知れないな、と気がつくわけです。ハハハ.....
 

 


兵隊・抑留記(22)  偽装爆弾に注意

召集  独立工兵聯隊 - その5
 
 
 
 歩兵の進軍した後、ようやく、工兵の出番である。不急の資材、天幕等の衣料を崖下に残し、身軽になって台地全面に散在する地雷の撤去作業に従事した。
 
 現役時代、地雷の撤去訓練は一応受けてはいるが、実際の地雷に接するのはこれが始めてである。最初は非常に緊張した。撤去は慎重の上にも慎重である。
 
 地雷の探索用具については、前にも書いた。木の柄に鉄線(6番線ぐらい)をくくり付け、それを地中に刺して伝わるわずかな感触を感知して地雷を掘り当てるのである。非常に原始的であるが信頼性はなかなかのものであった。
 
 中には、地雷本体と信管との間にびっしり土砂が入り込み、作動しないものもあった。
 
 地雷掃討中、高台に出た。歩兵の最前線で日の丸の旗を大きく振っているのが見える。友軍機がそれに答えて、敵陣に爆撃を加えている。
 
 野戦重砲の凄ましい音が、ゴーッ ゴーッと頭上を走る。重機関銃が発射音ドッドッドッと400~500mぐらい先の敵陣に吸い込まれるように着弾する。
 
 負傷者が何人も後方へ下がってくる。担架で下がる人もいる。道の脇には歩兵の戦死者か、衛生兵が小指を切取り認識票や名札と共に雑嚢に納めている。印象的だ。攻撃開始から時間は僅かしか経っていない。これが戦争である。

 

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 地雷には、円板状のものと柄付き手榴弾型のものがあった。このうち柄付き手榴弾型地雷は、わざわざ目に付きやすいところに4~5個ずつ並べて置いてある。敵が退却の際置き忘れたのかと、うっかり持ち上げるとその場で爆発する仕掛け(瞬発信管)のものであった。
 
 柄付き手榴弾の構造は柄の中心は空洞である、紐はこの穴を通して信管に接続し紐の他端には指にかけるリングがある。リングに指を入れ柄を握って遠くに飛ばす式の手榴弾であるが、なぜか、われわれには地雷用、本来の手榴弾用の見分けつかない。現場で紐を切断する。この柄付き手榴弾型地雷の撤去は他分隊がおこなったのだと思う、“俺”の分隊が撤去したという記憶はない。
 
 円盤型地雷については“俺”の分隊だけでも20~30は撤去したと思う。
 
 
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(21)  覇王城から迫撃砲を撃たれる

召集  独立工兵聯隊 - その4
 
 
 
 
 敵は南岸に向かって右側(鉄橋の上流側)の台地に展開して居る。この台地は《覇王城》といい前面に切り立った崖をもつ、天下の要害であった。覇王城の敵は野営中の我が軍を察知し、迫撃砲を撃ってくる。《シュルシュル‥‥バッカーン》久しぶりに聞くが、いつ聞いても不気味である。飛距離が足りず我々の前面で炸裂している間はまだいいが、友軍を飛び越えて後ろで炸裂しだすと怖い。狙った所に落下しないのが迫撃砲の特徴だ。《何処に落ちるか分からない》と、いうものは怖いものである。
 
 4月18日夜、夜陰に乗じて北岸を出発、完全軍装(背嚢・工兵器材・食料等)に銃を担ぎ、兎に角重い、背骨がミシミシする。鉄橋に差しかかる。長い鉄橋だ。途中点々と橋梁歩哨が立っていので、どのくらい歩いたか聞くが、まだまだだという。
 
 暗闇の中進軍は遅々として進まず、荷はますます肩に食い込む。橋の途中では休憩場所もない。兎に角長い。
 
 橋には一条線路が敷かれているが、歩きやすいよう線路の高さまで平らに木板を敷き詰めてあった。
 
 敵は、鉄橋を十分破壊しきれず退却したのだろうが、何れにしても、我が軍の鉄道工兵によって補修されていたのだと思う。
 
 ようやく橋を渡り終え、南岸に達し、覇王城崖下に進出したのである。
 
 我が工兵隊は、直ちに、断崖登攀(とうはん)を容易にするため登攀路確保・整備作業を行なう。
 
 20日未明、攻撃開始。覇王城台地に取りついた歩兵は、友軍機(当時は未だ制空権は我にあり)や砲兵の援護をうけて台地をみるみる平定して行く。
 
 
 
 
 
つづく

 

カメラと兵隊 (1)

 

 

 支那大陸河北省天津で初年兵教育を受けていた時期はカメラどころではなかったが(カメラ等持っていたら、生意気だとブン殴られる因子になりかねない)、乙種幹部候補生(下士官候補)になって、多少余裕が出来たので、娑婆にいた時使っていたカメラを自宅より取り寄せた。

 

 カメラはドイツドレスデン(1919)製、イカレット、ブロニー判(ブロニーフイルム8枚撮り)普及機、レンズ(ドミナー)蛇腹、折りたたみ式(60×90ミリメートル)。シャープに写るので戦友の間では評判よく喜ばれたものである(高級機はテッサー装着)  
 

 天津市内の日本租界(兵営から4キロメートル位)には写真屋さんが2軒あり、現像・焼付やフイルムも購入できた。
 
 しかし、討伐(天津付近の治安見回り)では如何んせん、かさばる、重い、ブロニー1本で8枚(うまくやって9枚)という欠点があった。
 
次に手に入れのは、日本製セミキンカ (ブロニー半裁)である。小型軽量携帯に都合よかったが、日本租界内の道路(石畳)でカメラと一緒に転んでしまった。
 
それ以来、中央は何とか見ることができるが周辺がボケるようになってしまったのである。
 
現在 写真の貼ってあるアルバムが見当たらず捜索中である。