SAPPERの兵隊・抑留記 -12ページ目

兵隊・抑留記(40)  初年兵を連れて天津に戻る

 
初年兵教育 - その2
 
 
 次の日の行動《初年兵名簿受領》には支障なく、どうやら間に合った。
 
 “俺”は《埼玉県》担当だ。省線電車(JR)で浦和まで行き、埼玉県庁で《初年兵名簿》を受領した。
 
 東京での《初年兵受領》業務を終え、慌ただしい一時帰宅も約一週間、いよいよ戦地へ出発である。
 
 初年兵の集結先は、11月19日九州・福岡(博多)であった。 博多より海を渡り朝鮮の釜山へ、朝鮮を縦断して新義州を経、満洲・安東より満洲を横断して北支・山海関に至る。いよいよ北支である。
 
 初年兵の教育場所は独立工兵第○○聯隊誕生の地、天津・北站の北洋営であった。
 
“俺”と「北洋営」との関わり合いは、初年兵としてさんざしごかれた所でもあり、現役時代の一時期を過ごした所でもある。
 
 教育されたところで、今度は教育する側になったわけである。この地、北洋営にはにはよくよく縁があるらしい。
 
 
 
つづく
 
 

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ブログ管理人から

 

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兵隊・抑留記(39)  シラミと一時帰宅

 
初年兵教育 - その1
 
 
☆ 初年兵受領のため、新郷を後にして京漢線を北上す。北京・天津・山海関を通過して満洲に入る。錦州・安東を通過した所が朝鮮の新義州である。朝鮮半島を縦断、南下して釜山に至る。釜山にて連絡船に乗船、敵機・敵潜水艦の魚雷攻撃を未然に防ぐため交代で見張りに立つ。夕方、無事下関着。
 
 夜行列車にて東京へ向かう。
 
 噂には聞いていたが内地の食糧事情は芳しくない。下関で支給された《コッペパン》を食いつなぎ、24時間かかって東京の自宅にたどり着いた。
 
 1944年(昭和19)11月3日洛陽発、11月13日東京着であった。
 
 予告なしの帰宅である。
 
 玄関に出た末弟の第一声《兄貴、脱走してきたのか‥‥》。
 
 とんだ出迎えではある。
 
 〈まさか軍服を着て脱走もあるまい‥‥〉。
 
 家族全員が“俺”の一時帰宅を喜んでくれたのである。が、突然の帰宅に支那大陸最前線のお土産として(シラミ)を仰山持参したのだから、一騒動である。兎に角、襦袢・袴下の縫い代の裏は(シラミ)の卵がびっしりと銀色に光っているのだ。下着は釜茹、軍衣・軍袴は丹念に(シラミ・シラミの卵)潰しである。下着は洗濯後アイロンなどによる強制乾燥である。
 
 一番大変だったのは《おふくろ》だ。
 
 人間は風呂へ、久方振りの入浴である。
 
 
 
つづく
 
 

“黒石関” 木橋流失

 

 

 “黒石関”の木橋は軍事物資を前線(洛陽方面)に送る作戦上重要な地点である。ところがこの夏降雨増水のため二回流失してしまった。大陸の河は延々と長い。

 

china bridge2

 

“洛陽”の西“七里河”に駐屯していた我々は橋を押し流すような降雨を感じた記憶はない。多分この河の遠く上流地帯に大雨があったのであろう。
 china bridge1
 

制空権が未だ我が方にあった時の話である
 
それ以降 “七里河”の我々部隊は〔茄子唐辛子〕部隊となってしまったのである   
 
                         2008.2.2 記

制空権

 
 黄河の鉄道橋を夜中に渡ったのが1944年5月“覇王城”-“氾水”を抜き“コロウカン”を制圧したところで米戦闘機P51の銃撃を受けたがその後は 敵機の襲来はなかった
 
 制空権は未だ我が方にあり 昼間の移動運行は自由に出来 ガソリンもあった その年の秋 米空軍は着々と“老河口”と“ナンゴウ”(古い地図で捜すがナンゴウは未だ見つからない)に飛行基地整備しB29(長距離重爆撃機)発着を可能にしつつあった
 
 44年秋 “寨子街”南方の山岳地帯で陣地構築のため測量などしていた頃 朝 爆音空いっぱいに銀翼連ねたB29の編隊数組 次々と飛行機雲を残し東北方向へ飛んで行く
 
 高度8000メ-トル位か‥‥ (飛行機雲なんて始めて見た) 何日か過ぎて前線に送られてくる新聞に 北九州爆撃などの記事があったりするようになった 
 
 44年11月には 黄河の鉄道橋はB29の爆撃により橋の中央付近で1スパン崩落 制空権は徐々に敵方に移りつつあった
 
 翌年(1945年)春になると制空権は完全に敵軍の手に渡り 昼間の行動は制限され 部隊の移動は専ら夜間となったのである P51など執拗に飛んでくるようになった              
 
                       2008.1.18 記

兵隊・抑留記(38)  轟々たる急流…破壊された鉄橋を渡る

 
独立工兵聯隊 Ⅱ - その7
 
 
 線路上にはトラック2台後部と後部を連結しタイヤを鉄道車輪に換えた車両があった。荷台に便乗、顎紐(あごひも)を掛けてはいるが軍帽が飛ばされそうな猛スピードで橋梁上を突っ走る。このままブレーキが効かず黄河に転落するかと危ぶまれる位の速さだ。急ブレーキがかかり爆破地点である。下車‥‥‥。
 
 爆破によりワン・スパン橋梁が欠落している。爆破による破損鉄骨などは既に撤去されたのか無かった。
 
 下流側の橋側より艦船でよく見る網状の縄梯子が垂れ下がっている。高さ10数m以上はあるだろう。下は轟々たる急流、大黄河である。縄梯子を降りる。下は民船による急造舟橋だ。舟橋は矯脚に何本ものワイヤー等でしっかり固定してあるが、舟橋は上下に激しく揺れている。転落しないよう慎重に舟橋を渡ると今度は縄梯子の登攀だ。橋梁上ではトラック貨車が待っててくれた。
 
 K閣下・鉄道工兵旅団の気配りに感謝して大黄河に別れを告げる。
 
 夜になって新郷に到着す。久方振りの客車である。電灯がこんなに明るいと
は‥‥‥。京漢線を北上する。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(37)  天ぷらで食あたり

 
独立工兵聯隊 Ⅱ - その6
 
 
 こんなことがあってから、間もなくだったと思う。臨汝鎮での陣地構築作業を完了し洛陽への転進命令と一緒に《●●●軍曹・広瀬伍長は初年兵受領要員を命ず‥‥‥》とあった。10月下旬のことだった。
 
 臨汝鎮――竜門――洛陽まで中隊主力と行動を共にした。洛陽では他中隊の初年兵受領要員と一緒になり(6~7名?)、或いは、同時発令になった“遺骨宰領”組も一緒ではなかったか。洛陽を出発したのが11月3日であった。
 
 洛陽――東十里舗――白馬寺――黒石関へはトラックに便乗した。黒石関には第2中隊(?)が駐屯しており、一泊。夕食のテンプラは(桐油(きりあぶら)?)の混ざった油で揚げたのか全員、嘔吐・腹痛・下痢等にかかったが、もともと油類はあまり好まず少ししか食べていない“俺”は一回の嘔吐と一回の腹下しで済み案外と軽かったのを覚えている。
 
 次の日、黒石関より陸路、コロウカンの山越えする便がなく、洛水を氾水まで舟で下る。氾水からは他部隊の輸送トラックに便乗、鄭州経由(?)黄河南岸に到着したのが夕方近くだったろう。
 
 黄河南岸・北岸に架かる鉄橋は、敵・B29の爆撃により橋の中央付近が爆破されていた。
 
 鉄道工兵旅団(旅団長 K少将閣下)が、橋の修復・応急処置・維持管理並びに警備等に当たっていた。
 
 旅団長・K少将閣下は“俺”の現役時代の聯隊長だ。聯隊長時代の、気さくな好好爺然とした、K少将(聯隊長時代大佐)を思い浮かべ、渡河の交渉は“俺”が引き受けることにした。
 
 早速、表敬訪問するべく副官を通じ面会を申し入れたところ、快く許された。
 
 無論、閣下が工兵聯隊長時代の初年兵・乙幹だった“俺”なんかいちいち覚えているわけはないとは思ったが、《現所属、独立工兵何々聯隊であり、工兵何々聯隊出身であること、初年兵受領で日本に行くこと‥‥‥》等手短に話をしたところ、ひとつひとつ頷きながら懐かしそうに目を細め、昔の部下の用件を聞いてくれたのである。
 
《よく訪ねてくれた、頑張るように‥‥》。と、激励され、尚、副官に《今日の便はあるか‥‥‥対岸の便は?‥‥‥》等々、渡河の便宜を図ってもらった。早速、出発である。
 
 
 
つづく
 

兵隊・抑留記(36)  上官に盾突く者がいる

 
独立工兵聯隊 Ⅱ - その5
 
 
 
 連日の行軍で、足の裏はマメの上にマメができて、休憩後の第一歩が火のように熱い。思い切り2~3回飛び上がると少し落ち着く。足裏をマヒさせて行軍である。野営数回、臨汝鎮に着く。(洛陽の南160Km位)
 
 臨汝鎮での任務は、歩兵の陣地構築であった。
 
 “俺”は7名位で班を組み、伏牛山系の八〇八高地の測量を行う。
 
 山頂付近で陣地構築をしている中隊主力が見えるうちは、心強く安心だが、駐屯地八〇八高地の東側駐屯地を離れ、高地の裏、西側山麓付近に入ると、重い測量器材運搬のため、火器・歩兵銃の携行2丁位では、やはり気持ちのいいものではない。八〇八高地の南東に少し低いがなだらかな台地(A)を含めた測量図を作成に数日要した。
 
 次の中隊長命令は、主力から離れた台地(A)の陣地構築であった。
 
 台地(A)南東隅に軽機関銃掩体を設ける作業だ。先ず、主軸線・射角を決め、掘削である。掘削が終わったところで、天蓋をつけ土で覆う。銃眼は敵方から黒々と見えるので偽装を施す。九分通り出来上がったところで、中隊長が馬でやってきた。
 
 作業員を集め、敬礼の後、作業報告をした。ところが、馬から降りて、掩体(えんたい)内部を査察した中隊長は、ジロリ“俺”の顔を見るなり《フン、貴様の作る掩体とはこんなものか》。“俺”はそれはないだろうと、《『築城教範』にあるものです。どこがおかしいのですか》と、一生懸命作業してきた部下の手前もあったのだろう、直ちに反論した。
 
 下士官候補者隊の教官・聯隊副官・中隊長と順風満帆だったM中尉は今まで部下から反論されたことがなかったのだろう、顔を真っ赤にして一言も喋らず、馬に飛び乗るや、ひと鞭くれると、サッと行ってしまった。
 
 中隊長、余程頭に来たらしい。次の日の朝礼である。中隊全員が集まったところで、M中隊長久々の挨拶があった。《昨今、作業に熱心の余り、上官に盾突く者がいる‥‥‥》。なんだい、“俺”のことじゃないか。
 
 
 
つづく
 

兵隊・抑留記(35)  寨子街(さいしがい)事件 小隊長 痔に救われる

 
独立工兵聯隊 Ⅱ - その4
 
 
   《8月中旬頃、第110師団歩兵139聯隊、
陣地構築のため

   七里河を出発す。8月25日寨子街(洛陽南西65Km)事件

   (歩兵139聯隊第3大隊幹部の暗殺事件を知る。K小隊長

   難を免れる)。9月上旬~中旬第139聯隊陣地構築作業を

   終わり洛陽に帰る。》 ―― (戦友S氏 資料) 
 
 
 蝗(いなご)の大群に羽が生え、高粱畑を丸坊主にした頃、七里河をあとに南下する。ひたすら行軍である。途中、磨崖仏で有名な《竜門》を通過する。休憩時間に石窟群のほんの一部であるが散見する。硬質な石窟に磨崖仏が整然とならんでいる。見事である。
 
 竜門石窟群の脇の川は清流であった。幅(100~200m位)はあったか。対岸の建物は蒋介石の別荘だったそうだ。近くの橋は爆破され橋脚を残すのみである。
 
 第3小隊(K)は中隊主力と一時別れ、歩兵139聯隊第3大隊を支援して行動していた。
 
 このとき、《寨子街事件》は起きたのである。
 
 洛陽南西65Kmの部落・寨子街(さいしがい )に進駐した歩兵聯隊の幹部に対し、部落の村長からの接待の知らせがあり、幹部連中は一部当番兵を連れて会場に赴いた。幹部の多くは会場入口で武器(軍刀・ピストル等)を当番兵に預けて入場した。当然、武器を持った当番兵は別室待機である。
 
 宴たけなわとなり、アルコールも回った頃、突然、接待組の村長等は隠し持っていたピストルを乱射、多くの幹部が射殺されたのである。ピストルを手放さなかった一部幹部が直ちに応戦、銃声を聞いた当番兵が駆けつけた時は、村長などに扮装したゲリラ共の逃げた後だった。急遽、ここを脱出、駐屯地へ急変を伝えた。
 
 この時、わがK小隊は寨子街の隣の部落に駐屯していた。招待状は、K小隊長にもあったのだが、小隊長は持病として長らく痔を患っており、当日も調子が悪く欠席し、危うく難を逃れたのであった。(痔が命を救った話である)
 
 我々が事件を知ったのは、夜も大分更けた頃だったと思う。非常呼集、真っ暗闇の中、いつでも出動できるよう待機、厳戒体制に入る。
 
 歩兵聯隊では直ちに出動、部落内を掃討したが、村長始め部落民全員逃走後であり、一人も捕まらなかったという。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(34)  イナゴの大群

 

 

独立工兵聯隊 Ⅱ - その3
 
 
 我々兵隊は七里河の駐留部隊を別名茄子唐辛子部隊と称した。兵站(へいたん)からの補給線が延び、途中、黒石関などの要衝を通過するためか、物資が片寄り給養がままならなくなってきたのだろう、来る日も来る日も現地調達の高粱飯に、茄子唐辛子をアレンジしたものであった。
 
 ある日、忽然と地から沸き上がったように蝗(イナゴ)の大群が出現した。蝗は若くして未だ羽がない。次から次と沸き上がるように地面を這い進んでくる。思い思いの集団が右に左にあるいは後退もする。だが、全体として一定の方向に進んでいる。凄いエネルギーである。地面が動く、壁が動く、目がくらくらする。
 
 窓に西日を避けるために「よしず」が下げてあるが、それを次から次とよじ登る。大集団である。上端のわずかな隙間からポトリ、ポトリと室内に落ちてくる。これでは、勤務も儘ならない。
 
 「よしず」の片側面に取りついた蝗は逆光で真っ黒だ。「よしず」を外し、空(から)のドラム缶にあけるが数回で一杯になってしまう。
 
 厠(かわや)を襲った蝗は便槽に落る。先に落ちたやつは這い上がろうとするが、次々と落ちこんでくるので、槽の中は沸き返るようだ。やがて、これも一杯にして前進である。
 
 若い蝗は踏みつぶすと水となり、青臭い汁を残して気持ち悪い。
 
 これではロクに休憩もしてられない。流石の工兵隊精鋭もこれには参った。
 
 やがて、数日で羽が生え、一斉に飛び立つ、天空全面、黒い帯となり延々と。壮観である。高粱畑は丸坊主、全滅である。僅かに残った茎の先に蝗が一匹。
 

 

つづく

 

 

兵隊・抑留記(33)  洛陽で杜子春を想う

 
 
独立工兵聯隊 Ⅱ - その2
 
 
 
☆ 《黒石関の橋梁架設を終わり、七里河に駐留す》――(戦友S氏 資料)
 
その後、中隊は黒石関を後にして白馬寺を過ぎ洛陽西郊外の七里河に進駐、付近の警備に就く。
 
 氾水・コロウカン・黒石関・白馬寺と洛陽の東側は麦畑が多かったが、七里河付近は高粱(コーリャン)畑が目につく。これは麦の取り入れが済んだためかもしれない。駐屯地のすぐ側に小川が流れている。幅4~5m、深さ臍(へそ)位か、水は濁っているが、午後になると川に入り水浴びだ。汗を流す。底は泥でぬるぬるしているが、あまり濁さないように静かに入る。こんな小川でも大陸の川は延々と流れているためか、太陽熱を十分吸収して上面から30~40cmはまるでお湯であった。膝から下は冷たい。しゃがむと尻が冷たい。

☆ 伝奇小説「杜子春伝」は中国・晩唐の李復言(りふくげん )編『続玄怪録』中にあるものだが、要約すると、
 
《杜子春という若者が現世をを離れ、入仙(にゅうせん )を志す。
  道士の課す試練に耐えるが、最後に戒律を破り宿願を果たせない。》
 
 “俺”が読んだのは無論、芥川竜之介翻案の『杜子春』である。
 
 《或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる‥‥》で始まる。
 
 その、洛陽の西門に立ち、しみじみとあの怪奇小説・杜子春とその時代を想う。
 
 
 
つづく