SAPPERの兵隊・抑留記 -10ページ目

兵隊・抑留記(54)  収容所で軍刀没収

 
抑留 - その4
 
 
☆ われわれは、大型の有蓋貨車に乗せられ、ブラゴエチェンスク出発である。 シベリア鉄道本線を東進すれば、ウラジオストック方面である。わずかな望みを“東進”に賭ける。しかし、無情にも列車は西進する。
 
 ソ聯国内に入るまでは、ウラジオ経由で日本に帰すとの実しやかな噂を流し、それにまんまと引っかかった我々は日本軍捕虜である。
 
 ソ聯国内に入ってしまってから、いくら騒いでみてもしょうがない。ものの見事に、ソ聯の巧みな謀略に乗せられた、というわけである。
 
 “俺”は、当時、こうなることを、ある程度予測していたので、生半可な考えでは今後の生活は出来ないぞ、兎に角[精神的に安定し、体力は日本に帰るまで温存せねばなるまい]との感を益々深くしたのである。
 
 チタ州のカガノビッチ(現・チェルニシェフスク)でシベリア本線と別れ、支線を北上、終着駅・ブカチャチャという炭坑町で下車。10月2日であった。収容所まで歩く。収容所の入口で軍刀を没収される。何のことはない、こんなことなら重たい思いをして持参することはなかったと、思うがすべて後の祭りである。
 
 これも、ポッダム曹長として軍刀の支給を受け、一時期、得意になっていた報いである。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(53)  豚の背中を歩く - ツンドラ地帯

 
抑留 - その3
 
 
 《皇国の繁栄》という大いなる目的をもって、一身を捧げ《戦争》してきた部隊(集団)が、敗戦という未曾有の事件に巻き込まれ、どうしたらいいのか分からぬまま、単なる烏合の集と化せば、推移次第では、集団の無法化は時間の問題と考えたのである。これは大変だ‥‥。
 
 先ず、無用な摩擦を避け、部隊全員無傷で帰国することを願おう。
 
 次に、抑留中の、鬱々たる憂悶を遣るよすがとして《趣味》《演芸》《娯楽》等がいい。と、“俺”なりに考えたのである。
 
 そこで“俺”もこの際、全く知らない《囲碁》を覚えようと決めたのである。
 
 後に、碁盤・将棋盤等の作成にあたっては、《建築設計資料集成》に拠るところ大であった。
 
 9月の下旬、一千名を越す集成第○○大隊は、延々と続く有蓋貨車に分乗し、新京駅を出発・北上。ソ満国境、黒龍江(アムール河)河畔の街《黒河》で下車した。列車の終点である。対岸の町はブラゴエチェンスクという。
 
 噂にあった、国境付近の“トーチカ”などの撤去・解体などの作業に入る気配はなかった。 一部の兵力は、黒河に残されたようだが、主力は対岸、ソ連領内へと連行されたのである。
 
 渡河には、船体の両舷側に夫々大きな水車が付いた初めて見る汽船(この大きな水車を回転させて推進する)が使われた。愈々、ソ聯入りである。入ソ第一日は、ブラゴエチェンスク郊外に野営する。
 
 この地は、満洲とは打って変わり、付近には草と枯れかけた小灌木しか生えていない。樹木らしい樹木は見当たらなかった。地面は、豚の背中を歩くようにブルブルと不気味に動く。ツンドラ地帯・不毛の地とはこのことか。
 
 食事については、新京出発の時に携行した糧秣(高粱)の炊き出しである。主食や薪などについて特にソ聯側からの支給は無かった。5ガロン缶に手持ちの高粱を入れ、高粱粥の炊き出しだ。
 
 さて、わずかに生えている小灌木を燃料とするが、湿っていてなかなか火がつかない。思案のあげく《碁の本》を焚き付けにしてしまった。折角ここまで持参したのにと、残念だったが致しかたない。
 
 
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(52)  零の発見 - ポンスレの捕虜生活で覚悟を決める

 
抑留 - その2
 
 
 何回目かの宿所替えで、新京工業大学 建築科 学生寮を宿所としたことがある。学生諸君は、ソ聯軍の侵攻を知るや着の身着の儘で飛び出し急遽南下・避難したのだろう、寮室には生活の匂いがそっくりそのまま残っていた。
 
 ここに残された学生諸君の蔵書の中から、《建築設計資料集成 日本建築学会編(丸善)》《零の発見 吉田洋一著(岩波新書》《碁の入門書》などを頂戴し、携行することにした。
 
 集成第○○大隊(総員約一千名)が、約1ヵ月半新京市内を転々としている間に、どこからともなく、
 
 ・不要になった国境付近のトーチカ陣地を破壊取り除くため、労力が必要。
 ・満洲は治安が悪いので、シベリア回りで日本に帰す‥‥‥。
 
等々の噂が、隊内で実しやかに囁かれるようになっていた。
 
 
  《零の発見》の冒頭に、次のような事が書いてある。引用する。
   〔―――人のよく知るように、ナポレオンのロシア遠征(1812年 )はモス
  クワの大火にあってよにも悲惨な退却におわった。フランスを出るときには
  35万をかぞえた大軍もそのうち25万はついに帰らなかったと伝えら
  れる。寒さと飢えとにさいなまれ、追撃するコサック騎兵に踏みにじられて、
  人馬ともにたおれるもの相継ぎ、わずかに死をまぬがれたフランス兵も捕え
  られてとりことなるものが数少なくなかった。こうして捕虜となった人々の
 なかに、ポンスレという名のひとり年若い工兵士官があった。
  ポンスレは2年にわたる捕虜生活の間、その―――〕。とある。
 
 
“俺”はこの1ヵ月半の間、色々と考えに考えた末《少なくとも1年は帰れない》と思うようになっていた。
 
 トーチカ撤去等の軽作業が終わり次第、治安のよいシベリア経由で、すんなり日本に帰すなんてことは、あるわけがないと、思う。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(51)  軍刀以外は武装解除

 
抑留 - その1
 
☆ 敗戦後、新京市街のあちこちにソ聯兵を散見するようにはなったが、我々とはある距離をおいており ソ聯軍と直接接触したのはかなり後になってからだ。
 
 ソ聯軍による武装解除は、敗戦から約二週間経った8月30日頃だったと思う。その頃は、理由は分からないが、連続して宿所替えがあり、転々と新京の各大学を渡り歩いていたので、武装解除の場所は何処だったのだろう。覚えてはいない。
 
 武装解除されたのは銃剣類・弾薬・手榴弾等である。が、何故か軍刀は対象外であった。
 
 敗戦日の前日(8月14日付)『ポッダム曹長』に進級した“俺”は支給された曹長用軍刀の重さ、感触にいささか得意気であったのだからたわい無い。
 
 携行を許されたこの曹長用軍刀後生大事に重たい思いをして腰に吊し、ソ聯・シベリヤの抑留地まで運んだところで、取り上げられ、彼らの薪割りの補助に使われてしまったのだから、阿呆な話である。
 
 その前後、ソ聯軍の指示で集成第○○作業大隊(大隊長・M大尉、大隊本部・第1・第2・第3・第4中隊)が編成されのである。
 
 この編成替えで“俺”はI中隊を離れ、第2中隊(T中尉)に転属となった。
 
 今まで、一緒に行動してきたI中隊は第3中隊として、同じ作業大隊に所属はしていたが、天津教育隊時代の戦友達とは自然と疎通を欠くようになっていったのである。
 
 第2中隊(T中尉)では中隊長付曹長ということだったが、既に中隊にはT中尉子飼いの曹長が居り、何処の馬の骨か分からん曹長が転属してきても使い辛いことは確かである。

 

 中隊長付では“俺”の部下は居ない。が、だからといってイエスマンではないから、意見を言うときは、はっきり言う。嫌われたあげく、ますます孤立する。というわけで、中隊長との折り合いは必ずしもよくはなかったのである。

 

 これが後に尾を引いて行くことになる。
 
 
 
つづく

 

 

歩哨

 

 初年兵としての基本教育(一期)が過ぎると一般勤務に付く。衛兵勤務の中の火薬庫歩哨もその一つだ。
 
 兵営の片隅を鉄条網張の柵で仕切り、その中央に赤煉瓦平屋の火薬庫がある。この柵内が“火気厳禁”の火薬庫である。
 
 何処の火薬庫(弾薬庫)もそうだろうが、此処もご多分に漏れず、昼間でも人気のないひっそりした空間である。
 
 火薬庫のまわりは歩哨が巡回できるよう空間がある。柵内への入口は一ヵ箇所だ。
 
 歩哨は一人で、火薬庫守備に当たっている。次の歩哨が交代に来るまで、緊張した時間を過すことになる。
 
 兵営内には『七不思議』とか度胸試しみたいな、幼稚な「話」が存在し、火薬庫辺りは妖怪、化け物、幽霊など恰好のすみからしい。
 
 夜中、草木も眠る丑三っ時となれば舞台はそろう。
 
 付近の草木が「妖怪」や「幽霊」にみえないこともない。しかし、適度に緊張している俺はこのような「妖怪」にかかわってはいられない。
 
 雨の夜である。本日の「週番司令」は直属の中隊長殿だ。何か予感がする。「夜中の勤務状態査察に」である。
 
 外灯の明かりが火薬庫の赤煉瓦壁を鈍く照らし出している。また外灯の明るいところだけ雨筋が見える。
 
 と、外灯の光が届きにくい闇の中に忍び足の人影を発見。こちらへ接近するのを確かめて『誰か!』と叫ぶ。視野の中に「週番司令の中隊長殿」だ。敬礼し「異状無し」と報告する。
 
 「司令」は音のしないよう、腰の軍刀をはずして手に携行している。勤務状態査察。予感的中。
 
 「作戦要務令」だったと思うが歩哨は近づく不審者に対し「誰か!」と誰何する。3回呼ぶも答え無ければ殺すか捕獲すべし、となかなか物騒な文言が記されている。
 
 「司令」が立ち去り 急に緊張感が緩んでしまったようだ。
 
 雨中、何処だろう、艶やかな匂いがしてくる。辺りを捜すが見つからない。何気なく鼻が銃に近づいたら、匂いは銃からする。銃口の隣に槊杖(さくじょう)が収納されているが、その隙間を固形油が塞いでいる。それが匂いの犯人だ。
 
 銃を雨から護るため、古年兵がこっそり鬢(ビン)付け油を塗ってくれたものだと、後で分かった。
 
 日本髪の和服の女性の匂いである。
 
 鬢付け油は兵器用の消耗品だ。
 
 兵営内で唯一の女性の匂いかもしれない。
 
                                2008.03.06記
 
 

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 【槊杖】(さくじょう)
   小銃の銃身内部を掃除するのに用いる細長い棒
 

 【鬢付け油】(びんつけあぶら)
   日本髪で鬢を張らせたり、髪を固めて形づくるのに用いる固く練った油。
   生蝋を植物油で練って香料を混ぜたもの。
 

 

兵隊・抑留記(50)  消えた伍長

 
敗戦 - その6
 
 
 夕食後、薄暗くなってから、現地召集の古年兵・M上等兵が“俺”の所に来た。《分隊長、どうしても汽車が見たい。機関車・レール・新京駅の雰囲気等に接すれば安心して帰隊する。これは肌身離さず持っていた女房・子供の写真だ。帰隊するまで預かっていてくれ‥‥‥》と、汗の染みた写真を差し出すではないか。こいつは《逃亡》だなと、直感した。《貴様の女房・子供の写真を“俺”が持っててもしょうがない。貴様が持っていてこそ価値がある‥‥》と、彼の手に戻し、《行ってこい、駅でも、何処でも、貴様の気の済むまで‥‥》と、言ったら、彼は《分隊長!そこまで信用されたら逃げられない‥‥》と、急に泣きだした。
 
 関東軍司令部の少佐のピストルによる自決を聞いたのはこの頃だったろう。
 
 もう一つ、天津教育隊第八内務班長だったH伍長(ポッダム軍曹)の風聞は、(新京まで一緒だったことは分かっている)この辺りからプッツンと途絶えている。目先の利く彼のことだから、病気で入院?,逃亡?,いずれにしても判然としない。
 
 8月14日付で全員一階級進級した。いわゆるポッダム進級である。
 
 “俺”も《曹長》に進級した。戦争が終わったというのに召集以来携行してきた《三八式歩兵銃》を返納し、代わりに軍刀を支給されたといって喜んでいるのだから他愛ない。
 
 新京の治安は日一日と悪くなったて行くようだ。爆竹の音に混ざり銃声が聞こえる。不測の事態に備えて、駐屯地(関東軍司令部)周辺の警戒を厳重にする。
 
 
 
 つづく
 
 

行軍(つづき)

 

 支那大陸の北部やモンゴルで強風のため吹き上げられた多量の砂塵が、偏西風に乗って日本に飛来する現象を、歳時記(春)に、霾(つちふる)、霾(バイ)、霾(よな)ぐもり、霾風(バイフウ)、霾天(バイテン)、黄砂などとある。
 
 この『黄砂』の本拠地での行軍のこと。横殴りというより吹き上がるような強風は大粒の砂塵も巻き上げ、頬に痛い。眉毛、まつ毛、鼻、口回りなど埃で白く、太陽はかすみ、まるでおぼろ月のようだ。
 
 行軍に先立ち兵の携行する銃は、敵襲に備え弾丸を装填、安全装置を確認する。当然、銃はどんなに悪天候でも常にむきだしである。
 
 そこで銃内部に塵埃雨水などの侵入防止として、銃口に手製の紙キャップ(古葉書などで作製)で覆い、他の隙間などは鬢(ビン)付け油で密封する。
 
 「道は一本真っ直ぐがいい」とは、何かの格言で見た記憶があるが、平坦で道幅もありしっかりした道ばかりなら『4キロ行軍』も楽にこなせる。
 
 大陸の作戦地では舗装された道などなかなかお目にかかれない。道幅が広かったり、狭かったり、小川に架かる狭い橋、泥濘、片側崖片側谷などの幅の狭い山道もある。
 
 当然、前が詰まれば、後方は渋滞である。それもいつ出発か分からないので、銃を担ったまま待機である。
「隘路をようやく通過。気がつけば本隊は遥か前方、急追。」では、休む暇が中々取れない。
 
 『4キロ行軍』も条件により苦労することもある。
 
                                       2008.03.05記
 
 
【鬢付け油】(びんつけあぶら)
 
   日本髪で鬢を張らせたり、髪を固めて形づくるのに用いる固く練った油。
   生蝋を植物油で練って香料を混ぜたもの。
 
 
 

兵隊・抑留記(50)  消えた伍長

 
敗戦 - その6
 
 
 夕食後、薄暗くなってから、現地召集の古年兵・M上等兵が“俺”の所に来た。《分隊長、どうしても汽車が見たい。機関車・レール・新京駅の雰囲気等に接すれば安心して帰隊する。これは肌身離さず持っていた女房・子供の写真だ。帰隊するまで預かっていてくれ‥‥‥》と、汗の染みた写真を差し出すではないか。こいつは《逃亡》だなと、直感した。《貴様の女房・子供の写真を“俺”が持っててもしょうがない。貴様が持っていてこそ価値がある‥‥》と、彼の手に戻し、《行ってこい、駅でも、何処でも、貴様の気の済むまで‥‥》と、言ったら、彼は《分隊長!そこまで信用されたら逃げられない‥‥》と、急に泣きだした。
 
 関東軍司令部の少佐のピストルによる自決を聞いたのはこの頃だったろう。
 
 もう一つ、天津教育隊第八内務班長だったH伍長(ポッダム軍曹)の風聞は、(新京まで一緒だったことは分かっている)この辺りからプッツンと途絶えている。目先の利く彼のことだから、病気で入院?,逃亡?,いずれにしても判然としない。
 
 8月14日付で全員一階級進級した。いわゆるポッダム進級である。
 
 “俺”も《曹長》に進級した。戦争が終わったというのに召集以来携行してきた《三八式歩兵銃》を返納し、代わりに軍刀を支給されたといって喜んでいるのだから他愛ない。
 
 新京の治安は日一日と悪くなったて行くようだ。爆竹の音に混ざり銃声が聞こえる。不測の事態に備えて、駐屯地(関東軍司令部)周辺の警戒を厳重にする。
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(49)  動揺

 
敗戦 - その5
 
 
 1945年(昭20年)8月15日、敗戦。
 
 遂に、“俺”は昨年11月3日初年兵受領のため、原隊(第3中隊)を出発してから、《K小隊長の下、教育班長として教育した兵》を連れて、(第3中隊)に戻ることなく、《敗戦》を迎えたのである。
 
 当然、午後の作業は中止となった。

 ところが、あちこちに屯している各分隊の間で、《かくなる上は馬賊となって、内地へ帰還しょう》とか、《民間人に化けてまだあるだろう列車に紛れ込み南下しょう》など、ひそひそやっているものが出てきた。大分、動揺している。
 
 将校連中は、この開闢(かいびゃく)以来の出来事に鳩首対策を練っているためか、将校室に深く閉じこもって出てこない。
 
 “軍律”はまさに崩壊寸前であると思えた。
 
 この時点での“俺”の頭はなかなかどうして、〔《皇軍》《世界に冠たる日本軍》の終わりはそれに相応しく、整然と行わなければならない〕と、思っていたのである。
 
 これはいかん。“俺”は将校室に飛び込んだ。《兵隊の精神に動揺の兆しが見える、このときに、詔書の解説・今後の行動などの説明もせず、いたずらに時を失するならば、明朝までに兵員は半減するだろう‥‥》と、具申した。
 
 直ちに、各小隊毎に小隊長から説明・訓示がなされた。
 
 
 
つづく
 
 
 

兵隊・抑留記(48)  玉音放送

 
敗戦 - その4
 
 
 15日明け方、一旦、帰営〔関東軍司令部(跡)〕す。仮眠、午後の作業に備えて、早昼を済ませた。正午に玉音放送あり。
 
 正午に中隊全員整列し玉音放送を聞く。ラジオの音声はウエーブし、それに雑音が入るので、“俺”には何を言っているのか皆目分からない。
 
 分からなかったのは“俺”だけでは無かったようだ。I中隊長も勘違いされていたようだ。
 
 《陛下の玉音を拝し、一意専心陛下の御心に沿うべく‥‥》 とか何とか、兎に角、午後《道路遮断》作業に取りかかるため出動した。
 
 “俺”の分隊は、道路遮断用鹿砦(ろくさい)の材料(鉄道の枕木)調達のため、新京駅構内施設部を訪れ枕木の支給を申し入れたところ、施設部の年配の人が、《兵隊さん戦争は終わったよ。枕木なんか持って行っても何もならん。嘘だと思うなら13時に再放送があるから聞いてみなさい》と、涙をポロポロこぼして取り合ってくれない。
 
 施設部事務所で再放送を聞くが、終わったようでもあるが終わっていないようにも聞こえる。
 
 半信半疑のまま中隊に戻った。他の分隊も続々戻ってくるところだった。
 
 そうこうするうち新聞『東亜新報(?)』の号外が配られ、その活字を見て敗戦を確認した。日本は負けたのである。戦争に敗れたのである。
 
 ソ聯軍・重戦車の侵攻を防ぐには、初年兵教育班長として、先ず活模範を示さねばならない。「い」の一番に爆薬を抱えて戦車に体当たりをするのはこの“俺”だと決めていただけに、“俺”は心底ホッとしたことを覚えている。
 
 
 
つづく
 
 
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鹿砦とは、敵が侵入するのを防止するため、先端をとがらせた木や竹を鹿のツノのように並べたバリケード。