歩哨
初年兵としての基本教育(一期)が過ぎると一般勤務に付く。衛兵勤務の中の火薬庫歩哨もその一つだ。
兵営の片隅を鉄条網張の柵で仕切り、その中央に赤煉瓦平屋の火薬庫がある。この柵内が“火気厳禁”の火薬庫である。
何処の火薬庫(弾薬庫)もそうだろうが、此処もご多分に漏れず、昼間でも人気のないひっそりした空間である。
火薬庫のまわりは歩哨が巡回できるよう空間がある。柵内への入口は一ヵ箇所だ。
歩哨は一人で、火薬庫守備に当たっている。次の歩哨が交代に来るまで、緊張した時間を過すことになる。
兵営内には『七不思議』とか度胸試しみたいな、幼稚な「話」が存在し、火薬庫辺りは妖怪、化け物、幽霊など恰好のすみからしい。
夜中、草木も眠る丑三っ時となれば舞台はそろう。
付近の草木が「妖怪」や「幽霊」にみえないこともない。しかし、適度に緊張している俺はこのような「妖怪」にかかわってはいられない。
雨の夜である。本日の「週番司令」は直属の中隊長殿だ。何か予感がする。「夜中の勤務状態査察に」である。
外灯の明かりが火薬庫の赤煉瓦壁を鈍く照らし出している。また外灯の明るいところだけ雨筋が見える。
と、外灯の光が届きにくい闇の中に忍び足の人影を発見。こちらへ接近するのを確かめて『誰か!』と叫ぶ。視野の中に「週番司令の中隊長殿」だ。敬礼し「異状無し」と報告する。
「司令」は音のしないよう、腰の軍刀をはずして手に携行している。勤務状態査察。予感的中。
「作戦要務令」だったと思うが歩哨は近づく不審者に対し「誰か!」と誰何する。3回呼ぶも答え無ければ殺すか捕獲すべし、となかなか物騒な文言が記されている。
「司令」が立ち去り 急に緊張感が緩んでしまったようだ。
雨中、何処だろう、艶やかな匂いがしてくる。辺りを捜すが見つからない。何気なく鼻が銃に近づいたら、匂いは銃からする。銃口の隣に槊杖(さくじょう)が収納されているが、その隙間を固形油が塞いでいる。それが匂いの犯人だ。
銃を雨から護るため、古年兵がこっそり鬢(ビン)付け油を塗ってくれたものだと、後で分かった。
日本髪の和服の女性の匂いである。
鬢付け油は兵器用の消耗品だ。
兵営内で唯一の女性の匂いかもしれない。
2008.03.06記
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【槊杖】(さくじょう)
小銃の銃身内部を掃除するのに用いる細長い棒
【鬢付け油】(びんつけあぶら)
日本髪で鬢を張らせたり、髪を固めて形づくるのに用いる固く練った油。
生蝋を植物油で練って香料を混ぜたもの。