兵隊・抑留記(52)  零の発見 - ポンスレの捕虜生活で覚悟を決める | SAPPERの兵隊・抑留記

兵隊・抑留記(52)  零の発見 - ポンスレの捕虜生活で覚悟を決める

 
抑留 - その2
 
 
 何回目かの宿所替えで、新京工業大学 建築科 学生寮を宿所としたことがある。学生諸君は、ソ聯軍の侵攻を知るや着の身着の儘で飛び出し急遽南下・避難したのだろう、寮室には生活の匂いがそっくりそのまま残っていた。
 
 ここに残された学生諸君の蔵書の中から、《建築設計資料集成 日本建築学会編(丸善)》《零の発見 吉田洋一著(岩波新書》《碁の入門書》などを頂戴し、携行することにした。
 
 集成第○○大隊(総員約一千名)が、約1ヵ月半新京市内を転々としている間に、どこからともなく、
 
 ・不要になった国境付近のトーチカ陣地を破壊取り除くため、労力が必要。
 ・満洲は治安が悪いので、シベリア回りで日本に帰す‥‥‥。
 
等々の噂が、隊内で実しやかに囁かれるようになっていた。
 
 
  《零の発見》の冒頭に、次のような事が書いてある。引用する。
   〔―――人のよく知るように、ナポレオンのロシア遠征(1812年 )はモス
  クワの大火にあってよにも悲惨な退却におわった。フランスを出るときには
  35万をかぞえた大軍もそのうち25万はついに帰らなかったと伝えら
  れる。寒さと飢えとにさいなまれ、追撃するコサック騎兵に踏みにじられて、
  人馬ともにたおれるもの相継ぎ、わずかに死をまぬがれたフランス兵も捕え
  られてとりことなるものが数少なくなかった。こうして捕虜となった人々の
 なかに、ポンスレという名のひとり年若い工兵士官があった。
  ポンスレは2年にわたる捕虜生活の間、その―――〕。とある。
 
 
“俺”はこの1ヵ月半の間、色々と考えに考えた末《少なくとも1年は帰れない》と思うようになっていた。
 
 トーチカ撤去等の軽作業が終わり次第、治安のよいシベリア経由で、すんなり日本に帰すなんてことは、あるわけがないと、思う。
 
 
 
つづく