兵隊・抑留記(51) 軍刀以外は武装解除
抑留 - その1
☆ 敗戦後、新京市街のあちこちにソ聯兵を散見するようにはなったが、我々とはある距離をおいており ソ聯軍と直接接触したのはかなり後になってからだ。
ソ聯軍による武装解除は、敗戦から約二週間経った8月30日頃だったと思う。その頃は、理由は分からないが、連続して宿所替えがあり、転々と新京の各大学を渡り歩いていたので、武装解除の場所は何処だったのだろう。覚えてはいない。
武装解除されたのは銃剣類・弾薬・手榴弾等である。が、何故か軍刀は対象外であった。
敗戦日の前日(8月14日付)『ポッダム曹長』に進級した“俺”は支給された曹長用軍刀の重さ、感触にいささか得意気であったのだからたわい無い。
携行を許されたこの曹長用軍刀後生大事に重たい思いをして腰に吊し、ソ聯・シベリヤの抑留地まで運んだところで、取り上げられ、彼らの薪割りの補助に使われてしまったのだから、阿呆な話である。
その前後、ソ聯軍の指示で集成第○○作業大隊(大隊長・M大尉、大隊本部・第1・第2・第3・第4中隊)が編成されのである。
この編成替えで“俺”はI中隊を離れ、第2中隊(T中尉)に転属となった。
今まで、一緒に行動してきたI中隊は第3中隊として、同じ作業大隊に所属はしていたが、天津教育隊時代の戦友達とは自然と疎通を欠くようになっていったのである。
第2中隊(T中尉)では中隊長付曹長ということだったが、既に中隊にはT中尉子飼いの曹長が居り、何処の馬の骨か分からん曹長が転属してきても使い辛いことは確かである。
中隊長付では“俺”の部下は居ない。が、だからといってイエスマンではないから、意見を言うときは、はっきり言う。嫌われたあげく、ますます孤立する。というわけで、中隊長との折り合いは必ずしもよくはなかったのである。
これが後に尾を引いて行くことになる。
つづく