SAPPERの兵隊・抑留記 -16ページ目

兵隊・抑留記(11) 生きて虜囚の辱めを受けず

軍隊内反乱 館陶(タテトウ)事件 - 前編
 
 
 《この項を書くに当たり、当初、〔タテト事件〕と記憶していた。〔タテト〕とはどんな字を書くのか、場所は、発生年月等、分からぬままであった ところ、(1996年12月6日)戦友より〔館陶事件〕について『軍隊内反乱 小説 館陶事件 桑島節郎著(勁草書房 1990)』などのご教示を受けたので、事件の概要について記憶の補足、訂正を行った。》
 
☆ 盧溝僑(ろこうきょう)事件発生は1937年7月7日である。これが発端となって全面戦争《支那事変》へと突入していった。
 
 “俺”が現役兵として入隊した1940年12月ともなると、戦陣も少しずつ倦(う)んできたのだろう。また“俺”を含めて兵隊の質もガタガタ落ちてきたのだと思う。
 
  そこで、1941年1月、時の陸軍大臣東条英樹が全陸軍に布達したのが“戦陣訓”(戦場での心得要綱)であった。
 
 当時の“俺”は、このような頭から押さえ込む式の修身教育に対して、俺自身のことはさておき《よくもこんなものこしらえて、兵隊の質も悪くなったものだ》と、思ったものだ。
 
 戦陣訓は幹部候補生志願のころからよく読まされ、暗唱・暗記させられた。その中で、今でも覚えているのが一つある。
 
  恥を知るものは強し、常に郷党家門の面目を思い
いよいよ奮励してその期待に答うべし
生きて虜囚の辱めを受けず
死して罪科の汚名を残すことなかれ
 
 後に、ソ連・シベリヤに抑留され《生きて虜囚の辱め》を身をもって体験したのだから人生ままならず、皮肉なものではある。
 
 
 
 
 
つづく
 

兵隊・抑留記(10) 英国の缶詰にびっくり

大東亜戦争 
 
 
☆ 間もなく、12月8日大東亜戦争(第二次世界大戦)突入である。
 
 わが、工兵聯隊(れんたい)にも直ちに出動命令があり、唐山(天津と山海関の間)にあるカイラン炭鉱(英国系)を抑え、唐山駅付近の鉄道とカイラン炭鉱の警備に従事した。
 
 中隊指揮班に所属の“俺”は“命令受領”の為、図嚢(カバン)・ピストル・公用腕章を着用し、天津(聯隊本部)・唐山(中隊)間を鉄道を利用しての連絡係である。
 
 さすが、英国系の炭鉱だ。接収した物品は豊富で、物珍しい。
 
 先ず、絹布団の山である。部屋全体に五層にも六層にも布団を敷き、その中に潜り込んでも、尚、余る有様である。
 
 別の梱包は液体入りの缶詰だ。横文字が缶に直接印刷されている。おぼつかない頭で何回読んでも“ビ-ル”である。
 
 当時、缶に直接印刷する技術は日本には無かったのではないかと思う。又、それまで、“瓶詰のビ-ル”しか知らない“俺”は、“ビ-ルの缶詰”には驚きである。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 炭鉱付近の警備を他の部隊と交代して天津へ戻ってからは、中隊事務室勤務 に従事。主として、隊員名簿の整備、各隊員の戦時名簿への記録等、清書作業である。この際、ひたすら字を崩さず正確に書くことに専念した。
 
 転属者名簿など、清書作業のときは、作成完了まで中隊長室に缶詰だ。
 
 筆圧は強い方だったので、ガリ版切り(謄写版)、または、カ-ボン紙を入れた複写では、6部位なら十分見るに耐えるものを作成した。
 
 しかし、兵科乙幹9名位の最後尾を走っていたことには変わりはない。
 
 1942年(昭和17年)3月1日。軍曹になるか、伍長のままか、乙幹最後の進級当落日である。軍曹になったのは、席次8番「Ma」、15番「Km」そして14番の“俺”の3名だったと記憶している。
 
 1942年8月31日現役満期、ようやく乙種幹部候補生の教育期間が完了したわけである。
 
 9月1日陸軍軍曹・予備役編入・引き続き臨時召集により工兵聯隊に編入。
 
 何のことはない。命令は8月31日の分を含めて9月1日に聞いた。満期はあっても除隊はない。一晩寝たら引き続き‥‥‥であった。
 
 しかし、今日からは、晴れて座金なしの陸軍軍曹である。
 
 
 
 
 
つづく
 
 
 

兵隊・抑留記(9)  善良なる古兵もいるが・・・

幹部候補生(乙幹) - 後編
 
 
☆ 工兵隊隊員の娑婆(しゃば)での職業は、大工、鳶(とび)、土工、漁師と多彩である。
 
 中でも鳶・土工あがりの古兵に倶利伽羅紋紋(くりからもんもん)者が居たが、殆どが気持ちいい人たちであった。
 
 舟を漕がせれば漁師、穴掘りは土工、高いところを平気で飛び回る鳶、皆ピカイチで流石工兵隊だと感心させられたものだ。
 
 “俺”は、この善良なる古兵連中には及ばないが、候補生の中では腕力があった方なので、重宝がられた。物を担ぐ、右肩も左肩もそんなに強くないが、それなりに左右どちらでもいい。
 
 架橋の中の舟橋訓練である。鉄舟(舳先・中央・艫に3分割して陸送可能)を何そうも横に並べて固定し、その上に桁を渡し板を敷く。いわゆる舟の橋を作る訓練だ。
 訓練は“架橋教範”を丸暗記し、作業も教範通り行なわねばならない。
 
 二列横隊に並ぶ。前列の一番は何、後列は何、二番の前列は‥‥‥と、並んだ場所によって、行う作業が決められている。
 
 “俺”は一番が、三番が、前列が、後列が、と、いちいち覚えるのが苦手であり、又、内心馬鹿馬鹿しく思っていたので、何番かの後列に目を付けた。他の連中があまりやりたがらない“錨(いかり)を打つ”作業である。
 
 まず両腕で錨をバランスよく水平に支える。
 
 “投げ”の号令で錨を川底に打ち込んだ後、錨綱を強く引く。川底に錨爪が食い込み固定されたのを確認して、“よし”と叫ぶ。
 
 最後に、錨綱を調節して舟を所定の位置に固定する。
 
 これで“俺”の持ち分の作業はおわりだ。
 
 錨は端に錨綱、他端には爪が二本ある。
 
 当たり前のことだが、爪が川底に食い込まなければ、錨は用をなさない。そこで腕力とコツが要求される。まず、錨の軸を水平に持ち上げて、胸のところに固定して支える。この状態は重心が極端に片寄っている。大体右利きの人が多いので、錨の重心が右側にあるときはまだいいが、舟の方向で重心が左側に片寄ると、揺れる舟の中で錨を両腕で支えバランスをとりながら正確に打ち込むのは他の連中には簡単ではないようだった。
 
 “俺”は、錨ばかりやっているので、上手くもなるわけだ。
 
 とうとう中隊長に見つかり“貴様一番の前列をやれ”“ハイ、忘れました”、お目玉をくらってしまった。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 地雷探索訓練は楽である。予め演習場に埋めてある模擬地雷を掘出せばいい。いわゆる宝捜しである。
 
 まず、手製器材の作成からはじめる。〔長さ2尺(60センチメ-トル位)の木棒の先端に鍵形に曲げた鉄線(6~8番線位)を括りつけたもの〕、これが器材である。如何にも原始的ではあるが、これが中々の威力を発揮する。
 
 一列に並び、各々地面を引っ掻きながら、おもむろに前進する。番線から伝わる土の感触、その他金属・木などの感触など、かすかな感触・振動・音の違いを感知して地雷を掘り当てる。
 
 後に、番線の先を真っ直ぐに改良して、直接、土に突き通し、感触の信頼性を増大した。
 
 一列に並んだ仲間のうち一人でも失敗すれば、《ドカン》である。 失敗は許されない。模擬地雷であるから別に爆発して怪我をしたり、命を奪われることはない。が、罰として、全員《ビンタ》か、一食抜き位は覚悟しなければならない。まあ、大したことはない。
 
 この訓練は、後に、独立工兵聯隊に召集された際の河南作戦・最初、覇王城攻略の地雷除去を初めとして河南作戦中非常に役立ったのだから面白い。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 善良なる古兵だけではない。中には、始末の悪い、ガラが悪くて手がつけられない古兵連中もいた。消灯後、この“古兵二つ星連中”は徒党をなして候補生班を襲ってくる。
 
 曰く“軍隊は星の数じゃねぇ、メンコ(食器)の数だ”と、理屈抜きで殴る。軍隊で芽の出ない腹癒せ(はらいせ)に、“もうすぐエラクなる幹候”を殴ることによってウサを晴らそうとする始末の悪い連中であった。
 
 善良組も始末の悪い連中を含めた古兵連中はその年の秋ごろ、編成過剰人員として内地へ転属して行った。
 
 替わりに新兵が入隊してきたのもその頃だったろう。
 
 やれやれ一安心である。
 
 後日談がある。
 
 1942年(昭和17年)の秋だったか、召集されてきたた補充兵の中に、“古兵二つ星連中”の一人が居り、たまたま“俺”の居る中隊へ配属されて来た。
 
 彼がどう出るかと最初様子見していたところ、組し安しとみたのだろう。昔と同じように、勝手な行動をし規律を乱す。こんなのを野放しにしていたら、示しがつかない。
 
 “俺”は彼を兵舎の屋上に呼び出した。
 
 《勝手な行動は許るさん。文句があるなら、この俺が相手だ‥‥‥》。
 
 この一言で、以後、彼はおとなしくなった。 結局、徒党を組めば、行動できるが一人では、大したことも出来ないケチな野郎だったいう訳である。
 
 1941年11月1日(昭和16年)に伍長の階級に進む。襟章は座金付きの伍長である。この頃になると、われわれ乙幹連中も、所属中隊に戻され夫々の内務班に配属されたようだ。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 1941年12月1日は、八路軍(現在の中国共産党軍)討伐のため、天津を離れある小部落に居た。
 
この部落で、“一年間禁煙しよう”と、決めて応召してから一年目の、禁煙解禁日を迎えたのである。 
 手にした煙草は“金鵄(ゴ-ルデン バット)”であった。さて一服と、大きく吸う、ところがよろしくない。一回吸っただけで、、吐き気がして気持ち悪くなり、苦く、辛く、不味く、頭がクラクラしてしまったことを記憶している。
 
 ここを拠点として、近くの河川(幅30メ-トル位)に応急架橋を実施し、軍の通行を円滑にするため橋梁の補強・監視・警備に従事していた。
 
 と、突然の転進命令である。討伐作戦を中止した前線の歩兵などが続々と帰って来る。全軍渡り終えたところで、追尾の八路軍を遮断するため、僅かの日数しか使用していない橋梁を爆破。部隊の最後尾を急遽天津の聯隊へ戻った。
 
 
 
 
 
つづく

兵隊・抑留記(8)  毒ガスをぶち込まれる

幹部候補生(乙幹) - 前編
 
 
☆ 幹部候補生に合格したのは、1941年(昭和16年)5月1日であった。
 
 襟章は、丸い座金(幹候の印)付きの一等兵(星2つ)である。
 
 班の銃架(銃を置く棚)は、入口近く左から成績の順に並べられる。
 
 “俺”は兵科15名中の14番目であった。
 
 ドン尻の「Ko」は、優秀な奴であったが、初年兵(一期)の最後を天津陸軍病院で過ごしてしまい、教育を完全に受けておらぬため、銃架の席次はビリというわけである。したがって、実質的な《ビリ》は“俺”というわけだ。
 
 おおまかに、前から6番目位までが甲種幹部候補生(将校候補)後が乙幹候補(下士官候補)と色分けされる。候補生の6、7番前後の連中は順位の争奪に大変な努力をしており戦々兢々である。そこにいくと“俺”は気楽なものである。上を見て少し上がっても乙幹(下士官)には変わりがない。
 
 ただ、(落幹)にならないよう努力していればなんとかなるのだから‥‥‥。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 訓練は、昼だけではない。夜中に非常呼集がある。“完全軍装で営庭に集合” はまだいい。寝入りばなに毒ガス筒(窒息性ガス・催涙ガス等)一本を内務班にぶち込まれるのだから大変である。
 
 早く気付いたものが“ガス”と大声で叫ぶ。呼吸を止めて常備の防毒面を装着する。そこまではいい。ところが半分寝惚けているので、防毒面の通気栓を外すのを忘れている。今まで我慢して止めていた呼吸をしょうとするがこれでは呼吸できない。アワを喰って防毒面をはずし、大きく“ガス”吸い込んでしまう。
 
 窒息性ガスの場合など鼻水・咳込み・呼吸が困難・吐き気など‥‥‥。
 
 催涙ガスの場合、涙が出て目玉が刺すように痛む。皮膚の露出している部分がヒリヒリする。衣服に染み込んだガスはなかなか取れず、一回このガスをくらうと一週間ぐらいは抜けず、全員(われわれに接触する教官・助教も含めて)眼を真っ赤にして涙をこぼす。
 
 “俺”は完全に万歳である。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 候補生“Ko”の席次は4・5番目位だったと思う。
 
 早稲田大学理工学部建築学科卒業の彼は、中学校(東京府立第八中学校=現在の小山台高校)時代、25メ-トルプ-ルでの校内水泳大会で、最長潜水競争に出場、多くの潜水者は、25メ-トルはクリアできても、50メ-トルは潜水できず、途中で浮かび上がってしまった。が、彼は、ただ一人50メ-トルをタ-ンして、プ-ルの中程65メ-トル位のところで浮かび上がらず、沈没したという、先生が飛び込んで、救い上げられ人工呼吸で助かった、という豪の者である。
 
 その彼曰く、“オレは頭がいいから下手すると将校になっちゃう”
 
 先ず、彼の日記5月1日である 《溺死体は泡立つ酒を飲むだろう》
 
 5月2日‥‥‥。
 
 ある夜、非常呼集“完全軍装、営庭集合”があった。
 
 点呼の後、遠く離れた日本租界の天津神社まで駆け足行軍である。
 
 彼は、営門を出るか出ない内から、“フ-フ-ハ-ハ-”やりだす。
 
 候補生班から落後者を出さないよう皆で声をかける。
 
 “Ko”大丈夫か、頑張れ、‥‥‥等々。
 
 当然、将校、教育班長に注目される。しかし、彼は潰れそうで潰れない。班員に銃を持ってもらうこともなく最後まで完走する。《将校は駄目だが、下士官にはしておこう》と印象づけるための努力である。
 
 候補生全員、7月1日陸軍上等兵の階級を与えられた。
 
 それから間もなく、7月20日に甲・乙の幹部候補生に分けられ、甲幹(士官候補)合格の6名位は士官教育を受けるため他所に転属して行き、われわれ乙幹(下士官候補)は聯隊に残った。
 
 彼“Ko”は、“俺”と共に見事乙幹(下士官候補)に合格。その後、難関である特務機関を志願し、これまた見事突破。我々とは別れた。
 
 戦後、東京・品川区で建築設計事務所を営み、健在なることを知る。
 
 
 
 
 
つづく
 

兵隊・抑留記(7)  八路軍の秘密トンネル爆破

討伐 - 後編
 

 
 そんな、ある討伐での出来事である。
 
 その日は昼間の行軍を早めに切り上げ夕食も済ませ、野営するばかりだった。夜になって、急に企図秘匿の移動である。その夜は鼻を抓まれてもわからない真の闇中の行軍であった。
 
 敵は近い、敵も何かを感じ取ったのだろう、やたら、探りを入れてくる。いわゆる盲撃ちである。小銃の発射音に迫撃砲が混じる。
 
 小銃弾は、“チーッ、チーッ”と小鳥が鳴いているように聞こえるいるうちは、まだ遠い。“タッ”障子紙を箸のようなもので突き破ったように聞こえてくると、これは危ない。至近距離である。
 
 迫撃砲の方は、“ポワッ”発射音に続いて“シュル,シュル,シュル”やがて“バッカーン”。着弾が前方ならまだいい。味方の後方に落ちるようになると危険である。いわゆる、迫撃砲の射程距離内に入ったことになる。兎に角、狙ったところに着弾しない、何処に落ちるか分からないので始末が悪い。不気味である。
 
 片側が崖地でありその下の道を通過中だった。行軍の前方で迫撃弾が炸裂した。“バッカーン”一人(ヤラレタァー)と叫び、ひっくり返ったようだ。
 
 (大丈夫か、しっかりしろ、傷はどうだ)など、闇の中に交錯する。
 
 行軍は一時停滞だ。衛生兵が、そして軍医が駆けつける。やられた本人(Y)は腰が抜けて立てない、相当な重症であるとみた。兎に角、闇の中の手探り診断である。しかし、損傷はない、五体満足である。暫くして分かったことは、崖の中腹に迫撃砲弾丸が当たり、その爆発土砂を腰に食らったのだった。
 
 常々、(Y)は“軍隊は星の数じゃねェ、メンコ(食器)の数だ”とわめいていた古兵仲間の一人である。それ以降あまり威張らなくなった。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ ある夜、寝入りばなだったか、非常呼集である。ラッパはまさしく非常呼集を知らせている。演習ではない。討伐隊を編成をおわり、駐屯地を出発したのが明け方だった。天津・北站駅から貨車に乗り、着いたところが唐山(天津・山海関の中間)であった。唐山からは鉄道を離れ、北へ向かって行軍である。各兵、通常装備の外に爆薬携行である、これは重い。
 
 着いたところは《ロカコク(どんな字か》という、岩山に囲まれた谷あいの部落である。時は春、杏子の花が咲き競う至ってのどかな山村にみえた。
 
 しかし、少数の歩兵隊がここに野営すると、翌朝までに何回か全滅の憂き目を浴びさせられているそうだ。
 
 しかし、何回目かの調査で、周辺の山の中腹にほら穴があることがわかった。
 
 部落に野営している歩兵隊は、山の方からは見下ろせるし、丸見えである。油断をついて夜襲をかけられ大打撃・全滅ということになる。
 
 そこで工兵隊の出動となったわけである。
 
 昼、重い爆薬を担いで中腹のほら穴まで、あえぎあえぎ登山である。ほら穴の中2~30m深く爆薬を仕掛けた。敵は奥深く潜んでおり射撃してこない。導火索を長くし入口近くで点火する。全員待避である。行きは重く大変だったが帰りは身軽である。仕掛けた爆薬(黄色薬)は相当な量だった。
 
 爆破の瞬間、“ズズーン”ほら穴が崩れたのか、山が大きく鳴動し、一部陥没、大きく身震いしたのを覚えている。
 
 身軽になったわれわれ工兵隊は、作業用器材を撤収して作戦終了。後は歩兵隊に任せ帰隊した。
 
 後に、このほら穴の中に縦横にトンネルがあり、八路軍の一大拠点だったという。兵器庫、弾薬庫、衣服庫、病院など次々と発掘、発見され、戦果は甚大であった。
 
 戦利品の中には、わが軍の三八式歩兵銃や防毒面があったり、われわれ先輩古年兵の名前入り防毒面が出てきたりした。
 
 
 
つづく
 
 
 

兵隊・抑留記(6) 手製爆弾で威嚇

討伐
 
 
☆ 初年兵も1941年(昭16 )の春頃から討伐に駆り出されるようになった。
 
 平時の駐屯地《天津・北洋営(聯隊)》は聯隊本部、器材小隊の外、中隊は四個、一個中隊は四個小隊、一個小隊は四個内務班、で編成され、一個内務班は15名~20名位だったと思う。
 
 駐屯地《北洋営》に留守隊を残して、討伐隊は編成される。
 
 一個分隊は、初年兵(3)に対して、古年兵(2)位で、構成されていたと思う。古年兵の中には、なにかにつけ自己を誇張し、威張りちらす奴が居るものだ。こんな連中はこのときとばかり、ますます増長する。
 
 討伐隊編成時各兵に弾薬、糧秣(米五合、非常用圧縮食料など)が支給される。
 
 工兵の場合、兵一人当携行弾丸数(三八式歩兵銃)は、前弾丸入れ(一個)30、後弾丸入れ60 計90発である。
 
 戦闘が主目的の歩兵は前弾丸入れ《二個》、後弾丸入れ《一個》の計120発を携行し、その外、重機関銃、軽機関銃、歩兵砲などの火器がある。
 
 工兵の火器は歩兵銃と、若干の軽機関銃があるだけだ。その外、《火焔放射器》(トーチカ攻撃用)があった。この火焔放射器は敵トーチカに近づきトーチカ内を焼き、敵兵を殺傷するための兵器である。繰り返しの演習・訓練はまず、重い燃料ボンベを背負っての匍匐前進(ほふくぜんしん:腹ばいになって前進する)である。匍匐の際重いボンベで首筋を押さえ込まれるので、前方確視が困難である。嵩張った背中のボンベはいくら匍匐しても敵のトーチカより丸見えである。その上、肝心なときに点火不良をおこす。こんな信頼性《ゼロ》の不良品では、自殺行為に等しく、実戦には役に立たないしろものであった。
 
 そこで、多用されたのが《爆薬投擲(とうてき)器》だ。これは爆薬を豊富に利用できる工兵独特の兵器である。
 
 凡そ、30センチ立方位の鉄の箱の上面に直角に木棒(直径4~5センチ・長さ30センチ位)を取りつけ、箱の中は爆薬(黄色薬)である。これに正副2本の雷管を固定する。雷管には長さ4~5センチ位の導火索(黒)を挿入緊結し、導火索の他端には引き抜くと発火する発火装置を固定する。雷管2本は信頼度を増すためである。これが投擲される爆薬のあらましである。
 
 《投擲器》は木棒の径に合った鉄製のパイプを鉄製の台に角度45度位に固定したものである。パイプの根元に小さな穴を設ける。発射用の黒色薬はパイブの上部から挿入され、しかる後に爆薬の柄を静かにパイプの中に入れ、爆薬の発火装置の紐は投擲器に固定される。
 
 《投擲器》は発射の反動でひっくり返らぬよう前部に鉄杭を打ち、且つ土嚢などを置き固定する。これで準備完了。八路軍は討伐隊の動きに合わせて、付かず離れずある一定の距離をおいて移動し、我に隙あらば攻撃しようとしているのが分かっている。
 
 そこで野営の際の夕方、敵を威嚇するためによく発射した。《投擲器》のパイプの小さな穴からなかの黒色薬に点火する。“ボワーン”発射である。爆薬は西日に向かってゆっくりと柄を回転させながら飛んでいく。やがて、地上2~30m上空で炸裂する。“ババリーン”空気が裂けて辺りが一瞬真っ赤になる。これは破壊力はないが、音は凄い、脅かすにはもってこいである。我が討伐隊は朝までゆっくりと休息できるというわけである。
 
 駐屯地《聯隊》の営庭に整列した討伐隊は足並みを揃え、威風堂々、ラッパを吹奏しながら営門を出て敵地に向かう。当分電灯とお別れとなる。駐屯地には、明るくはないがそれでも、電灯はある。ところが、天津を離れてすこし郊外に入ると、夜は、途端に江戸時代となる。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
 電灯のない野営地の“明かり”としては、アセチレンガス(カーバイト)が一番、蝋燭(ろうそく)が二番、“お皿に灯油灯心”はこの中で一番暗い。これは上部はまだしも、お皿が影になり下部が暗い。なにかものを書いたり読んだりするのに、非常に不便である。
 
 そこで、蝋燭は貴重品となる。燃焼熱で溶けて流れないよう、大事に使用しなければならない。
 
 まず、一升瓶を輪切りにして、切り口を煉瓦などでこすって角をとりコップの大きいのを作る。これに水を入れる。蝋燭は水よりやや軽い。浮かしたとき蝋燭が倒れないように、針金を螺旋状に巻いたものを倒れぬようコップの中心置く、螺旋状針金の中に蝋燭を差し入れて浮かすと、蝋燭の頭は水面より少し出た状態になる。回りが水で冷やされているので燃焼熱による溶け出しがない。また瓶の水面の高さが蝋燭の燃焼点になるので、その分手元が明るい。効率はいいし使用勝手は上々というわけである。 
 しかし、消灯後の外は月夜ならいざ知らず、月のない夜は全くの闇である。
 
 朝から夕方まで、只々敵を求めての進軍である。一時間4キロメートル、一日8時間は歩く。銃は肩に食い込んでも、黙々と歩くのみ。
 
 行軍中は、銃に弾丸(5発)を込め、暴発防止のため安全装置をしたうえで、不意の敵襲に備える。 
 

 
 
 
 
つづく
 
 
 

兵隊・抑留記(5) 窓から銃を放り投げた男 - 同年兵《N》

同年兵《N》
 
 
☆ 同年兵《T.N》のことに触れておこう。
 
 赤羽の近衛工兵聯隊に入隊した同年兵の中に《N》が居た。
 
 初年兵第一日目のことである。夜、新兵のねぐらは、営内の柔剣道場であったことは前にも書いた。

 
 消灯時間が過ぎてまもなく、見回りの不寝番(古兵)が“お前等の中に脱ぎ替えた娑婆の衣類を家族に渡さなかった者は居らぬか”と尋ねまわるが、応答なし。不寝番が去ってから“親が俺を勘当したんなら、今度は、俺が親を勘当してやる”と嘯く(うそぶく)奴がいる。何か曰くがありそうだ。
 
 しばらくして、今度はその男浪花節を唸りだした。不寝番が戻ってきて“誰だ、唸っている“奴”は‥‥、うまいからもっとやれ”“ハイッ”褒められたとでも思ったのか、つづけて『白井権八』かなんかを一節やってしまったのだから凄い。
 
 大した野郎が居るもんだ。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 翌日から訓練が始まった。まず基本動作の「不動の姿勢(気をつけ)」である。
ところが新兵の中に、顎を前に出し、背を丸め、銃を杖のようにしてる奴がいる。係りの上等兵が“アゴを引け、背すじを伸ばせ、銃に寄りかかるな”と言うが、一向に改まる風はない。痺れを切らした上等兵、頬を一発ぶちかました。と、その男銃を放うり出して“鉄砲 壊れますよ”上等兵唖然として言葉なし。すげえ奴が居る。
 
 北支・天津の工兵第○○聯隊では、すげえ奴《N》は第一中隊であった(“俺”は第二中隊配属)
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 各班に配属された新兵の仕事のひとつに食事の準備と、後の食器洗いがある洗い場は各班が競って場所の確保と食器が飛散しないよう監視しながら、素早く洗わねばならない。一個でも食器数(員数)が不足すると、食事当番たるもの“ビンタ”を免れることはできない。
 
 その洗い場に、《N》が現れると、大変である。彼は、先ず流し場一杯に食器をぶちまく。そして次に、さっと食器を集める。その早いこと、気が付いてみれば、我が班の食器の数は少なくなっているというわけだ。
 
 食器洗い場に《N》が現れるということは、彼の班の食器が員数不足になっていることを示している。注意していてこれだから‥‥何回“ビンタ”をくらったことか。
 
 《N》について、だんだん分かってきたことは、彼は娑婆では、前科のある豪の者だったということだった。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ われわれ初年兵は一期教育の終わり近くにになると、いよいよ天津付近警備のため討伐に出かける。
 
 事件はある部落討伐のときに起こった。その部落には、事前に便衣隊(支那の民間人の服装をした者)が入りの敵状探索をを行っていた。われわれ本隊が安全を確認しながら部落に入ったとき、暫くして、小銃の乾いた音が一発、聞こえてきたので、“スワ‥‥“と一瞬緊張した。
 

 それは《N》が、ろくに確認もせず、出会い頭の味方(便衣)を銃撃してしまったのである。撃たれた味方は重症である。
 
 この事件で、「小心者、作戦には不向き」とのレッテルを貼られてしまった《N》は、その後の討伐作戦には選ばれず、K准尉(営内官舎住まい)の当番兵をしていたのである。
 
 平時は内務班(衛兵に着くもの、営内作業の当番、等混在する)編成であるが、討伐命令が下ると、その都度、留守隊と討伐隊に編成替えが行われる。
 
 それは、何回目かの討伐編成のときだった。
 
 討伐隊に編成された“俺”は携帯食糧や弾薬などの配給配分を受け、いよいよ明日からの討伐に備えて、眠りに付こうとしていた矢先。まさに寝入りばな《N》が「Nの銃はありませんか」と各分隊を巡回してきた。“俺”は夢うつつの中で聞いていた。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 討伐が終わり帰隊してから分かったことだが、留守隊は大変だった。
 
 《N》は、「討伐に連れてってもらえないなら、鉄砲なんかいらない」と、営内官舎の二階の窓から銃を外に放り出してしまった。
 
 暫くして、やはり気になる。銃を見に下に降りたところ無傷である。“エィクソ”とばかり銃口の方を持ってコンクリ-ト舗装の通路に向かって降り下ろした。今度は銃把(木の部分)のところがパクリと折れてしまったのである。
 
 折れた銃を見て、ようやく、これはしまったと気づき、銃の処置に困った彼は、折れた銃を兵営の外へ投げ捨ててしまったのである。
 
 それから偽装工作である‥‥‥。「《N》の銃はありませんか」‥‥‥。如何にも彼らしい。
 
 “銃の紛失”は大変なことである。留守隊全員で営内外くまなく捜したところ、営内官舎の近くの塀の外で、問題の銃は発見された。
 
 《N》の頭は可笑(おか)しいのではないかと、天津陸軍病院精神科に入院させられた。
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 天津の陸軍病院の精神科は長い中央廊下の突き当たり、一番奥にある。そこでおとなしくしていれば、まだ良かったと思われるが、そこが《N》である。看護婦さんにいたずらしたり、水のしたたり落ちる汚れた棒雑巾を斜めに構え、喚声を挙げ、行き先は長い廊下を一直線、病院の売店へそのまま飛び込む。驚いている店員を尻目に商品を適当に掠め取り、意気揚々と引き上げていく等々。
 
 これは精神病ではないと、銃破損の罪に問われ、北京の軍法会議で、禁固1年8ヵ月(?)だったか、刑務所暮らしである。
 
 軍隊では、刑を終えるとまた元の隊に戻される。刑期を終えて《N》が戻ってきた。禁固というのは、体が萎えてしまうのか、運動不足というか、戻ってきた当初、一階から二階への階段がフウフウいってなかなか昇れない。
 
 戻された中隊も困った。何しろ中隊長の訓示中《N》は“中隊長、飲み屋のF子ちゃんにベタベタしていて、偉そうなこと言っても通用しないよ”‥‥である。
 
 《N》は、また天津陸軍病院精神科に送り込まれ、その後、外地不向きということで、我々より一足先に内地送還となった。
 
 部隊はその後、一九四八年八月に北支・天津から満洲国・営口に転進した。満洲では、“皇紀2600年兵”の“俺達”は、1948年12月、編成過剰人員として千葉県柏の東部第14部隊で満期除隊となったのである。(われわれの部隊から、北支の他部隊に転属した者達には除隊はなかったと、聞く)。
 
 東部第○○部隊(近衛工兵補充隊)には、先に内地送還された《N》がいた。禁固期間中は兵役に参入されず、その分余計に在籍するとのことだ。それでも我々を懐かしがり尋ねてきたのが印象に残っている。
 
 
 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 
 
☆ 1949年3月、数ヵ月前除隊したばかりの、東部第○○部隊(近衛工兵聯隊補充隊)に召集されたときは、部隊正門前近くの小学校の講堂に数日いただけで、北支に新たに編成された独立工兵第○○聯隊(仁第○○○○部隊)要員として天津へ向かったので、その後の《N》の噂は杳として聞かない。 
 
 
 50数年前のことである。

 

つづく


兵隊・抑留記(4) ハンマーを壊したのは誰だ

燕尾鎚(えんぴづち)事件 
 
 
☆ 縄や鉄線による木材と木材の緊結作業もある。
 
 その日は、鉄線(八番線 )による木材緊結であった。訓練は二人一組である。相棒の「K」(娑婆では鳶職、背中に倶利迦羅紋紋《くりからもんもん》の刺青あり)は、見掛けは兎も角、人のいい素直な奴だ。
 
 先ず、訓練で何回も繰り返し、使い古した鉄線の癖を直すことから始まる。癖をとるために鉄線を丸太にくぐらせ、夫々燕尾鎚(えんびつち:釘抜き付ハンマー)の柄に端部を巻きつけ、相棒と交互に引っ張る。鉄線は丸太に触れたところで癖がとれる。
 
 癖のとれた鉄線を、くるくると輪状に纏め(まとめ)れば、作業準備完了である。
 
 緊結の訓練は丸太と丸太、角材と角材等十字、斜め、等と夫々緊結する。
 
 撤収はこの逆で、鉄線の癖を直して輪状に纏め
、燕尾鎚と共に、器材係へ返納する。
 
 午前の訓練が終わり、兵舎に帰って、昼飯の分配も済み、さて、これから食事という時に、器材係より、『欠損した燕尾鎚を黙って返納した奴がいる』との知らせが入った。
 

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 
 

  
 さあ大変。
 
 「燕尾鎚を欠損したのは“誰だ”正直に申し出よ」
 
 「犯人が出ぬ間は、飯は喰わさん」と、食事はお預けである。
 
 が、誰も“私でした”と、殊勝に申し出る奴はいない。
 
 かくして、食事抜きの午後の訓練も、夕方には終った。
 
 “昼・夕食”お預けのまま、「初年兵全員講堂に集合」である。
 
 “犯人は正直に申し出よ”と、講堂に軟禁状態となってしまった「厠(かわや・トイレ )」以外は出られない)。
 
 “俺”は最初から、《俺の預かり知らぬこと》と、只々沈黙、様子見である。数人ずつ、あちらでコソコソ、こちらでヒソヒソである。お互い、疑心暗鬼のなかに刻々と時間だけが過ぎていく。
 

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 
 

 
 ところが、消灯時間が過ぎても結論(犯人)が出ない。
 
 事情が少しずつ違ってきたのは、9時・10時過ぎになったからだ。
 
 夜の冷気は講堂を満たし、益々寒い。腹は減るし、その上、日中の訓練の疲れでいささか眠い。
 
 これでは、お互いの思考力も鈍ろうというものだ。
 
 この様な状態になってくると、だんだんと犯人の輪郭が浮かび上がってくるから、不思議なものである。
 
 まずよくしゃべりだす奴が出てくる。その挙句「誰か犠牲になって犯人にならないか」と。
 
 ふん、「こいつだな、犯人は」嫌な野郎だ。「誰か犠牲になり犯人に‥‥」とは、ふざけている。
 
 そう思ったら、思った奴が行けばいい、行けない事情があると睨んだ。
 
 “俺”は思考力の低下した頭で、なんで、こんな奴と一緒に居るのか、だんだん馬鹿々々しくなってきた。
 
 それにしても上官も上官だ。「こんなことでよくもまぁ」である。
 
 われわれの(苛酷な)訓練にも耐えられない不良器材の押し付けておいて、破損したからと犯人捜し。何でぃ、燕尾鎚のヒトツやフタツ‥‥‥。
 
 無論、(名乗り出ない奴)が悪いに決まっているが、何かにつけ我々初年兵をブン殴ることしか考えない、ブタか或いはそれ以下にしか扱っていない者が、こんな時だけ「良心に恥じないか」とは聞いて呆れる。
 
 “俺”の心境は単純だから、「ふざけんじゃねェ‥‥‥」。
 

 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 
 

  
☆ 夜、11時頃だったろう、「俺が犯人になってやろう」と決めた。
 
 決めたら早い。相棒「K」を講堂の隅に呼んで、そっと「俺が犯人と名乗り出る」ついては、貴様は後で呼ばれるから、その時は「可哀相で申し出られなかったと言え」と辻褄合わせをして、中隊事務室に向かった。
 
 どうせ、先のことは分かるもんか、と、後先あまり考えない、おっちょこちょいの行動である。「“ビンタ”と“重営倉”後はどうなるか、俺の知ったことか」「後は野となれ‥‥」と、ヤケッパチで中隊事務室に飛び込んだ。
 
 ところが、中隊事務室の将校、下士官はあっさりと「分かった、このようなことは、全員に迷惑を掛けることである。今後は十分心せよ」と、ビンタもなく“隣室待機”とのこと。
 
 さて、「これからどうなるか‥‥‥」と思っていたら、暫くして教育係の班付上等兵が迎えに来てくれた。班付上等兵が言うには「貴様じゃないないことは、この自分が一番良く知っている」と俺の肩に手を掛け、涙を流して感激しているではないか。
 
 無論、全員、解放である。どうも「K」を訊問した結果、直ぐにウソがばれてしまったらしい。
 
 その夜、ようやく、遅く冷え切った夕食にありついたのち、後片付けも早々に切り上げ、ようやく眠ることができた。
 
 翌日、中隊長室に呼ばれた。中隊長始め中隊付きの将校、小隊長などから、いろいろ訊問されたが、最後に、中隊長から『貴様、幹部候補生志願はどうするか』と問われ、「心を入れ替え一所懸命頑張ります」位のことを言って、神妙だったようだ。
 
 特にお咎めなし。
 
 大分後で分かったことだが、上官も眠くて誰でもいいから犯人が出ることを願っていたようだ。それに加えて、上官は「こいつは犠牲的精神が汪溢(おういつ)している」と勘違いしたようだ。
 
 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 
 

 
 聯隊(れんたい)本部勤務のH軍曹は、われわれ初年兵を受領に来て、内地から一緒だったので顔身知りである。
 
 中隊に配属された後も、営庭などで会った時など「貴様の顔を見ると殴りたくなる」などと忠告を受けたものだ。
 
 なんとなく気になる存在として“俺”がいたらしい。「ウスノロのくせに生意気な顔(態度)の奴」ぐらいの存在か。
 
 事件後、H軍曹に会う。『貴様派手なことをしたな』と言って笑っていた。どうやら『犠牲的精神汪溢』ということで話題になり、“俺”の株は少し上がったようである。
 
 軍隊は運隊である。
 
 
 
つづく
 
 
 
 
 
-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 
 
汪溢(おういつ): いっぱいにみなぎること。あふれ流れるほど盛んなこと。 
 


兵隊・抑留記(3) かじかむ手で爆薬訓練

初年兵教育
 
 駐屯地(所在地)は北支那河北省天津(天津)北郊外であった

 
 工兵聯隊(れんたい)の編成は、本部・四個中隊・器材小隊だったと記憶する。
 
 配属先名称は、北支派遣T部隊K聯隊筧隊である。〔後、企図秘匿のためか正式名を呼ばず、(極第XXXX部隊)と称した〕
 
 初年兵教育(一期)はここで始まった。

 当時のことである。内務班(一部屋)24~30名位、5年兵、初年兵半々である。


 基本として突撃、射撃などの訓練の他に、工兵特有のものとして、陣地構築(掘削、穴掘り、杭打)、敵陣爆破(火薬の取扱い)、架橋(縄や鉄線による木材緊結、操舟、杭打)、渡河(操舟)、地雷の取扱い‥‥‥等の基本訓練がある。

 


-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 

 

 

☆ 天津の冬は寒い。が、訓練は苛酷である。作業のため体はさして寒さを感じないが、皹(あかぎれ)た素手は、冷たくこわばり、動作は鈍り、いささか大変ではある。

 先ず、爆破訓練に触れておこう。 爆薬は、黒色薬・黄色薬・雷管・導火索(黒・赤)・導爆索などがあった。

 黒色薬は弱い方向に威力を発揮するが、黄色薬の威力は四方八方である。

 導火索の黒は燃焼速度1秒間に1センチメ-トル、赤は記憶が薄れたが、10メ-トル位だったかと思う。導爆索は1000メ-トル、名の示す通り爆発である。

 訓練には、主に、黄色薬・雷管・導火索(黒)が使用される。当然、野外作業である。
 

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 

 

 

 ・雷管と導火索の接続作業。

 先ず、黒い導火策(中心の粉薬が黒色)を長さ10センチメ-トルに切断する。その一端を縦に中心まで割り、マッチ軸の頭を索の中心に添えて動かぬよう紐で固定する。

 次に、索の他端を雷管に押し込み、索が雷管から抜け落ちない程度に軽く雷管の口をペンチ等で潰す。(強く索まで潰してしまうと、火が通らず不発に終わることあり)

 ・出来上がった雷管を黄色薬(化粧石鹸の箱位)に括り付ける。これで爆破準備完了である。 

 書けば簡単であるが、寒空のもと、皹(あかぎれ)たこわばった手で行うので簡単ではない。

 ・いよいよ爆破。初年兵は、爆破地点で一定間隔を取り横一線に並ぶ。左手で固定した(爆薬・雷管)導火索に取り付けられたマッチ軸の頭に、右手でマッチ箱を擦りつけるわけだ。

 教育係班長の“点火”の号令で一斉に点火する。うまく点火・爆発して当たり前、不発のときは、被っている鉄帽越しに木棒が飛んでくる。“ガァ-ン”鼓膜が破れそうだ。が、音の割合に痛くはない、しかし、罰として一食抜きは確実である。
 

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 

 

 掘削の話に移ろう。掘削量は、1立坪(りゅうつぼ)=6立方メートル。午前中の作業量だ。ただひたすら、円匙《(エンピ )シャベル》を使っての穴掘りである。

 

流石、娑婆で肉体労働をしていた鳶・土工あがりの連中は体力配分、要点ののみこみ、実に鮮やかなものである。掘削した穴が、すり鉢状でなく垂直に仕上がる。最初遠くに投げる。これは深くなるにつれて投土が楽になる仕掛けだ。早く、正確に掘り上げるコツを心得ている。
 
 彼らの円匙に盛られた土量を100とすると“俺”は、やっと60、良くて70位だろう。これが時間の差になって現れる。

 やっと出来上がって検査を受けると、“穴はすり鉢状である”回りを垂直に削られ、残土の掘り出しにひと苦労、掘り上げた土が遠くにとばず、無残にもずり落ちてくる。

 飯が遠くなるわけだ。

 

 

 

 

 

つづく

兵隊・抑留記(2) 馬糞と共に天津へ

北支派遣軍

 

 
☆ 12月中旬東京を出発、同月16日神戸港を出帆したわれわれ初年兵は、
玄海灘を渡る。

 

船は名にし負う玄海灘の荒波に大分揉まれたが、“俺”はあまり船酔いもしないうちに通過、北支那・塘沽港の沖合に投錨。ここでダルマ船(重油・馬匹など物資運搬船)に乗り換える。

 

われわれ《初年兵》は、企図秘匿とか称してこの船艙に閉じ込められてしまった。掃除をした形跡のない船艙は重油でベトベトと黒く、その上新しい馬糞がごろごろしている。加えて、混在せる異様な臭気は船艙に充満し、腰を下ろすなど、とんでもない。

 

 支給された銃は編上靴の上に置いて直接床に触れぬよう、汚れを防ぐ。このような場所に鮨詰めでは、息苦しく気分を悪くした者、続出である。
 

 われわれ《初年兵》は馬匹なみ、或いはそれ以下というところか。 交代で甲板に出ることを許されたのは、大分時間が過ぎてからであった。甲板上で深呼吸をする。
 

 

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 

 

 船はすでに海に別れを告げ、白河をゆっくりと溯航していた。
 

 甲板上の目線は大地とすれすれであり、見渡す限り海、川、大地は茶一色であった。空は重く鉛色、所々にある樹木は黒々として、緑はない。頬を打つ冷気、寒々とした灰色、そうだ正に灰色の世界である。
 

 東京では見られない光景であり、これが、上陸第一歩の強烈なる印象である。
 

 1940年(昭和15年)12月22日北支那河北省・天津に着いた。
 

 駐屯先は、天津市内のはずれ北站駅に近い、工兵聯隊(れんたい)である。
 

 

 

つづく