兵隊・抑留記(8)  毒ガスをぶち込まれる | SAPPERの兵隊・抑留記

兵隊・抑留記(8)  毒ガスをぶち込まれる

幹部候補生(乙幹) - 前編
 
 
☆ 幹部候補生に合格したのは、1941年(昭和16年)5月1日であった。
 
 襟章は、丸い座金(幹候の印)付きの一等兵(星2つ)である。
 
 班の銃架(銃を置く棚)は、入口近く左から成績の順に並べられる。
 
 “俺”は兵科15名中の14番目であった。
 
 ドン尻の「Ko」は、優秀な奴であったが、初年兵(一期)の最後を天津陸軍病院で過ごしてしまい、教育を完全に受けておらぬため、銃架の席次はビリというわけである。したがって、実質的な《ビリ》は“俺”というわけだ。
 
 おおまかに、前から6番目位までが甲種幹部候補生(将校候補)後が乙幹候補(下士官候補)と色分けされる。候補生の6、7番前後の連中は順位の争奪に大変な努力をしており戦々兢々である。そこにいくと“俺”は気楽なものである。上を見て少し上がっても乙幹(下士官)には変わりがない。
 
 ただ、(落幹)にならないよう努力していればなんとかなるのだから‥‥‥。
 
 
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☆ 訓練は、昼だけではない。夜中に非常呼集がある。“完全軍装で営庭に集合” はまだいい。寝入りばなに毒ガス筒(窒息性ガス・催涙ガス等)一本を内務班にぶち込まれるのだから大変である。
 
 早く気付いたものが“ガス”と大声で叫ぶ。呼吸を止めて常備の防毒面を装着する。そこまではいい。ところが半分寝惚けているので、防毒面の通気栓を外すのを忘れている。今まで我慢して止めていた呼吸をしょうとするがこれでは呼吸できない。アワを喰って防毒面をはずし、大きく“ガス”吸い込んでしまう。
 
 窒息性ガスの場合など鼻水・咳込み・呼吸が困難・吐き気など‥‥‥。
 
 催涙ガスの場合、涙が出て目玉が刺すように痛む。皮膚の露出している部分がヒリヒリする。衣服に染み込んだガスはなかなか取れず、一回このガスをくらうと一週間ぐらいは抜けず、全員(われわれに接触する教官・助教も含めて)眼を真っ赤にして涙をこぼす。
 
 “俺”は完全に万歳である。
 
 
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☆ 候補生“Ko”の席次は4・5番目位だったと思う。
 
 早稲田大学理工学部建築学科卒業の彼は、中学校(東京府立第八中学校=現在の小山台高校)時代、25メ-トルプ-ルでの校内水泳大会で、最長潜水競争に出場、多くの潜水者は、25メ-トルはクリアできても、50メ-トルは潜水できず、途中で浮かび上がってしまった。が、彼は、ただ一人50メ-トルをタ-ンして、プ-ルの中程65メ-トル位のところで浮かび上がらず、沈没したという、先生が飛び込んで、救い上げられ人工呼吸で助かった、という豪の者である。
 
 その彼曰く、“オレは頭がいいから下手すると将校になっちゃう”
 
 先ず、彼の日記5月1日である 《溺死体は泡立つ酒を飲むだろう》
 
 5月2日‥‥‥。
 
 ある夜、非常呼集“完全軍装、営庭集合”があった。
 
 点呼の後、遠く離れた日本租界の天津神社まで駆け足行軍である。
 
 彼は、営門を出るか出ない内から、“フ-フ-ハ-ハ-”やりだす。
 
 候補生班から落後者を出さないよう皆で声をかける。
 
 “Ko”大丈夫か、頑張れ、‥‥‥等々。
 
 当然、将校、教育班長に注目される。しかし、彼は潰れそうで潰れない。班員に銃を持ってもらうこともなく最後まで完走する。《将校は駄目だが、下士官にはしておこう》と印象づけるための努力である。
 
 候補生全員、7月1日陸軍上等兵の階級を与えられた。
 
 それから間もなく、7月20日に甲・乙の幹部候補生に分けられ、甲幹(士官候補)合格の6名位は士官教育を受けるため他所に転属して行き、われわれ乙幹(下士官候補)は聯隊に残った。
 
 彼“Ko”は、“俺”と共に見事乙幹(下士官候補)に合格。その後、難関である特務機関を志願し、これまた見事突破。我々とは別れた。
 
 戦後、東京・品川区で建築設計事務所を営み、健在なることを知る。
 
 
 
 
 
つづく