兵隊・抑留記(9) 善良なる古兵もいるが・・・
幹部候補生(乙幹) - 後編
☆ 工兵隊隊員の娑婆(しゃば)での職業は、大工、鳶(とび)、土工、漁師と多彩である。
中でも鳶・土工あがりの古兵に倶利伽羅紋紋(くりからもんもん)者が居たが、殆どが気持ちいい人たちであった。
舟を漕がせれば漁師、穴掘りは土工、高いところを平気で飛び回る鳶、皆ピカイチで流石工兵隊だと感心させられたものだ。
“俺”は、この善良なる古兵連中には及ばないが、候補生の中では腕力があった方なので、重宝がられた。物を担ぐ、右肩も左肩もそんなに強くないが、それなりに左右どちらでもいい。
架橋の中の舟橋訓練である。鉄舟(舳先・中央・艫に3分割して陸送可能)を何そうも横に並べて固定し、その上に桁を渡し板を敷く。いわゆる舟の橋を作る訓練だ。
訓練は“架橋教範”を丸暗記し、作業も教範通り行なわねばならない。
二列横隊に並ぶ。前列の一番は何、後列は何、二番の前列は‥‥‥と、並んだ場所によって、行う作業が決められている。
“俺”は一番が、三番が、前列が、後列が、と、いちいち覚えるのが苦手であり、又、内心馬鹿馬鹿しく思っていたので、何番かの後列に目を付けた。他の連中があまりやりたがらない“錨(いかり)を打つ”作業である。
まず両腕で錨をバランスよく水平に支える。
“投げ”の号令で錨を川底に打ち込んだ後、錨綱を強く引く。川底に錨爪が食い込み固定されたのを確認して、“よし”と叫ぶ。
最後に、錨綱を調節して舟を所定の位置に固定する。
これで“俺”の持ち分の作業はおわりだ。
錨は端に錨綱、他端には爪が二本ある。
当たり前のことだが、爪が川底に食い込まなければ、錨は用をなさない。そこで腕力とコツが要求される。まず、錨の軸を水平に持ち上げて、胸のところに固定して支える。この状態は重心が極端に片寄っている。大体右利きの人が多いので、錨の重心が右側にあるときはまだいいが、舟の方向で重心が左側に片寄ると、揺れる舟の中で錨を両腕で支えバランスをとりながら正確に打ち込むのは他の連中には簡単ではないようだった。
“俺”は、錨ばかりやっているので、上手くもなるわけだ。
とうとう中隊長に見つかり“貴様一番の前列をやれ”“ハイ、忘れました”、お目玉をくらってしまった。
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☆ 地雷探索訓練は楽である。予め演習場に埋めてある模擬地雷を掘出せばいい。いわゆる宝捜しである。
まず、手製器材の作成からはじめる。〔長さ2尺(60センチメ-トル位)の木棒の先端に鍵形に曲げた鉄線(6~8番線位)を括りつけたもの〕、これが器材である。如何にも原始的ではあるが、これが中々の威力を発揮する。
一列に並び、各々地面を引っ掻きながら、おもむろに前進する。番線から伝わる土の感触、その他金属・木などの感触など、かすかな感触・振動・音の違いを感知して地雷を掘り当てる。
後に、番線の先を真っ直ぐに改良して、直接、土に突き通し、感触の信頼性を増大した。
一列に並んだ仲間のうち一人でも失敗すれば、《ドカン》である。 失敗は許されない。模擬地雷であるから別に爆発して怪我をしたり、命を奪われることはない。が、罰として、全員《ビンタ》か、一食抜き位は覚悟しなければならない。まあ、大したことはない。
この訓練は、後に、独立工兵聯隊に召集された際の河南作戦・最初、覇王城攻略の地雷除去を初めとして河南作戦中非常に役立ったのだから面白い。
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☆ 善良なる古兵だけではない。中には、始末の悪い、ガラが悪くて手がつけられない古兵連中もいた。消灯後、この“古兵二つ星連中”は徒党をなして候補生班を襲ってくる。
曰く“軍隊は星の数じゃねぇ、メンコ(食器)の数だ”と、理屈抜きで殴る。軍隊で芽の出ない腹癒せ(はらいせ)に、“もうすぐエラクなる幹候”を殴ることによってウサを晴らそうとする始末の悪い連中であった。
善良組も始末の悪い連中を含めた古兵連中はその年の秋ごろ、編成過剰人員として内地へ転属して行った。
替わりに新兵が入隊してきたのもその頃だったろう。
やれやれ一安心である。
後日談がある。
1942年(昭和17年)の秋だったか、召集されてきたた補充兵の中に、“古兵二つ星連中”の一人が居り、たまたま“俺”の居る中隊へ配属されて来た。
彼がどう出るかと最初様子見していたところ、組し安しとみたのだろう。昔と同じように、勝手な行動をし規律を乱す。こんなのを野放しにしていたら、示しがつかない。
“俺”は彼を兵舎の屋上に呼び出した。
《勝手な行動は許るさん。文句があるなら、この俺が相手だ‥‥‥》。
この一言で、以後、彼はおとなしくなった。 結局、徒党を組めば、行動できるが一人では、大したことも出来ないケチな野郎だったいう訳である。
1941年11月1日(昭和16年)に伍長の階級に進む。襟章は座金付きの伍長である。この頃になると、われわれ乙幹連中も、所属中隊に戻され夫々の内務班に配属されたようだ。
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☆ 1941年12月1日は、八路軍(現在の中国共産党軍)討伐のため、天津を離れある小部落に居た。
この部落で、“一年間禁煙しよう”と、決めて応召してから一年目の、禁煙解禁日を迎えたのである。
手にした煙草は“金鵄(ゴ-ルデン バット)”であった。さて一服と、大きく吸う、ところがよろしくない。一回吸っただけで、、吐き気がして気持ち悪くなり、苦く、辛く、不味く、頭がクラクラしてしまったことを記憶している。
ここを拠点として、近くの河川(幅30メ-トル位)に応急架橋を実施し、軍の通行を円滑にするため橋梁の補強・監視・警備に従事していた。
と、突然の転進命令である。討伐作戦を中止した前線の歩兵などが続々と帰って来る。全軍渡り終えたところで、追尾の八路軍を遮断するため、僅かの日数しか使用していない橋梁を爆破。部隊の最後尾を急遽天津の聯隊へ戻った。
つづく