兵隊・抑留記(5) 窓から銃を放り投げた男 - 同年兵《N》
同年兵《N》
☆ 同年兵《T.N》のことに触れておこう。
赤羽の近衛工兵聯隊に入隊した同年兵の中に《N》が居た。
初年兵第一日目のことである。夜、新兵のねぐらは、営内の柔剣道場であったことは前にも書いた。
消灯時間が過ぎてまもなく、見回りの不寝番(古兵)が“お前等の中に脱ぎ替えた娑婆の衣類を家族に渡さなかった者は居らぬか”と尋ねまわるが、応答なし。不寝番が去ってから“親が俺を勘当したんなら、今度は、俺が親を勘当してやる”と嘯く(うそぶく)奴がいる。何か曰くがありそうだ。
しばらくして、今度はその男浪花節を唸りだした。不寝番が戻ってきて“誰だ、唸っている“奴”は‥‥、うまいからもっとやれ”“ハイッ”褒められたとでも思ったのか、つづけて『白井権八』かなんかを一節やってしまったのだから凄い。
大した野郎が居るもんだ。
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☆ 翌日から訓練が始まった。まず基本動作の「不動の姿勢(気をつけ)」である。ところが新兵の中に、顎を前に出し、背を丸め、銃を杖のようにしてる奴がいる。係りの上等兵が“アゴを引け、背すじを伸ばせ、銃に寄りかかるな”と言うが、一向に改まる風はない。痺れを切らした上等兵、頬を一発ぶちかました。と、その男銃を放うり出して“鉄砲 壊れますよ”上等兵唖然として言葉なし。すげえ奴が居る。
北支・天津の工兵第○○聯隊では、すげえ奴《N》は第一中隊であった(“俺”は第二中隊配属)
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☆ 各班に配属された新兵の仕事のひとつに食事の準備と、後の食器洗いがある洗い場は各班が競って場所の確保と食器が飛散しないよう監視しながら、素早く洗わねばならない。一個でも食器数(員数)が不足すると、食事当番たるもの“ビンタ”を免れることはできない。
その洗い場に、《N》が現れると、大変である。彼は、先ず流し場一杯に食器をぶちまく。そして次に、さっと食器を集める。その早いこと、気が付いてみれば、我が班の食器の数は少なくなっているというわけだ。
食器洗い場に《N》が現れるということは、彼の班の食器が員数不足になっていることを示している。注意していてこれだから‥‥何回“ビンタ”をくらったことか。
《N》について、だんだん分かってきたことは、彼は娑婆では、前科のある豪の者だったということだった。
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☆ われわれ初年兵は一期教育の終わり近くにになると、いよいよ天津付近警備のため討伐に出かける。
事件はある部落討伐のときに起こった。その部落には、事前に便衣隊(支那の民間人の服装をした者)が入りの敵状探索をを行っていた。われわれ本隊が安全を確認しながら部落に入ったとき、暫くして、小銃の乾いた音が一発、聞こえてきたので、“スワ‥‥“と一瞬緊張した。
それは《N》が、ろくに確認もせず、出会い頭の味方(便衣)を銃撃してしまったのである。撃たれた味方は重症である。
この事件で、「小心者、作戦には不向き」とのレッテルを貼られてしまった《N》は、その後の討伐作戦には選ばれず、K准尉(営内官舎住まい)の当番兵をしていたのである。
平時は内務班(衛兵に着くもの、営内作業の当番、等混在する)編成であるが、討伐命令が下ると、その都度、留守隊と討伐隊に編成替えが行われる。
それは、何回目かの討伐編成のときだった。
討伐隊に編成された“俺”は携帯食糧や弾薬などの配給配分を受け、いよいよ明日からの討伐に備えて、眠りに付こうとしていた矢先。まさに寝入りばな《N》が「Nの銃はありませんか」と各分隊を巡回してきた。“俺”は夢うつつの中で聞いていた。
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☆ 討伐が終わり帰隊してから分かったことだが、留守隊は大変だった。
《N》は、「討伐に連れてってもらえないなら、鉄砲なんかいらない」と、営内官舎の二階の窓から銃を外に放り出してしまった。
暫くして、やはり気になる。銃を見に下に降りたところ無傷である。“エィクソ”とばかり銃口の方を持ってコンクリ-ト舗装の通路に向かって降り下ろした。今度は銃把(木の部分)のところがパクリと折れてしまったのである。
折れた銃を見て、ようやく、これはしまったと気づき、銃の処置に困った彼は、折れた銃を兵営の外へ投げ捨ててしまったのである。
それから偽装工作である‥‥‥。「《N》の銃はありませんか」‥‥‥。如何にも彼らしい。
“銃の紛失”は大変なことである。留守隊全員で営内外くまなく捜したところ、営内官舎の近くの塀の外で、問題の銃は発見された。
《N》の頭は可笑(おか)しいのではないかと、天津陸軍病院精神科に入院させられた。
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☆ 天津の陸軍病院の精神科は長い中央廊下の突き当たり、一番奥にある。そこでおとなしくしていれば、まだ良かったと思われるが、そこが《N》である。看護婦さんにいたずらしたり、水のしたたり落ちる汚れた棒雑巾を斜めに構え、喚声を挙げ、行き先は長い廊下を一直線、病院の売店へそのまま飛び込む。驚いている店員を尻目に商品を適当に掠め取り、意気揚々と引き上げていく等々。
これは精神病ではないと、銃破損の罪に問われ、北京の軍法会議で、禁固1年8ヵ月(?)だったか、刑務所暮らしである。
軍隊では、刑を終えるとまた元の隊に戻される。刑期を終えて《N》が戻ってきた。禁固というのは、体が萎えてしまうのか、運動不足というか、戻ってきた当初、一階から二階への階段がフウフウいってなかなか昇れない。
戻された中隊も困った。何しろ中隊長の訓示中《N》は“中隊長、飲み屋のF子ちゃんにベタベタしていて、偉そうなこと言っても通用しないよ”‥‥である。
《N》は、また天津陸軍病院精神科に送り込まれ、その後、外地不向きということで、我々より一足先に内地送還となった。
部隊はその後、一九四八年八月に北支・天津から満洲国・営口に転進した。満洲では、“皇紀2600年兵”の“俺達”は、1948年12月、編成過剰人員として千葉県柏の東部第14部隊で満期除隊となったのである。(われわれの部隊から、北支の他部隊に転属した者達には除隊はなかったと、聞く)。
東部第○○部隊(近衛工兵補充隊)には、先に内地送還された《N》がいた。禁固期間中は兵役に参入されず、その分余計に在籍するとのことだ。それでも我々を懐かしがり尋ねてきたのが印象に残っている。
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☆ 1949年3月、数ヵ月前除隊したばかりの、東部第○○部隊(近衛工兵聯隊補充隊)に召集されたときは、部隊正門前近くの小学校の講堂に数日いただけで、北支に新たに編成された独立工兵第○○聯隊(仁第○○○○部隊)要員として天津へ向かったので、その後の《N》の噂は杳として聞かない。
50数年前のことである。
つづく