SAPPERの兵隊・抑留記 -15ページ目

兵隊・抑留記(20)  河南作戦発令

召集  独立工兵聯隊 - その3
 
 
 
 作戦準備中の短い期間、連日、訓練、演習である。匍匐(ほふく )前進を実施する。演習の終わる頃に聯隊長Tがのこのこやってくる。中隊長より演習終わりの報告を受けた後、聯隊長の《講評》がある。
 
 顎を突き出して[てめェらのは、匍匐前進じゃあねェーや、勝手前進だ。小便して行けらァー 糞ひって行けらァー‥‥]と、ベランメー口調でまくし立てるが、“俺”にはどうしても虚勢としか思えない。
 

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 4月に入ってから、河南作戦が発令された。一個聯隊(人員・821名、馬匹・90頭、自動車・4輛)の大移動である。有蓋貨車で天津→北平(北京)→保定→‥‥‥と新郷まで南下した。
 
 第3中隊は新郷で、聯隊本部・第1・2中隊と別れ、別行動となる。一緒の召集仲間であるK軍曹(第1中隊所属)と別れたのもここである。
 
 我々第3中隊は無蓋貨車に乗り換え、南進。黄河北岸に天幕を張り野営する。
 
 濁流滔々たる黄河を挟んいる北岸と南岸は一本の鉄道橋で結ばれていた。この鉄橋は3300mあり、聞くところによると明治37・38年頃にドイツ人の設計で完成したとか。黄河の濁流にも負けぬ堂々たる鉄橋である。
 
 野営はこの鉄橋の左岸(黄河・北岸)下流側に設営された。
 
 黄河の北岸では野営する他部隊の中に工兵××聯隊(“俺”の現役時代)を見つけ、昔の上官・同僚等を表敬訪問した。久しぶりの邂逅(かいこう)である。
 
 〈なんだ、除隊させるんじゃなかった‥‥〉。
 
 〈貴様、そんなところに居らずこっちの隊に来い‥‥〉。 ご挨拶である。
 
 〈またまた、しごかれる。真っ平ご免‥‥〉と。
 
 
 
 
 
つづく


兵隊・抑留記(19)  馬の尻に捧げ銃(つつ)

召集  独立工兵聯隊 - その2
 
 
 
 聯(れん)
隊長・T少佐については、工兵下士候隊が、“俺”の初年兵・現役時代の兵舎(北洋営)の隣だったので、よく知っている。兎に角、《人のアラを捜してこずき回す、灰汁(あく)の強い(まあ、下士候隊の隊長ぐらいが適任か)》との印象が強く残っている。兎に角嫌な奴だ。
 
 また、聯隊長Tにしても、なんとなく“俺”を覚えていた節がある。
 
 聯隊の正門前の運河は白河に通じる。運河に向かって左が上流、右が下流である。下流側50m位のところが敷地のはずれであり、そこに木橋が架かっている。
 
 現役当時の話をすれば、橋を渡らず右折して聯隊の塀に沿って行くと、右側に下士候隊の正門がある。逆に、橋を渡った先が、天津市街方面であり、営外官舎方面でもある。朝、営外官舎住まいの将校連中は、橋を渡って出勤してくる。
 
 “俺”がまだ“座金の付き伍長(幹部候補生)”で衛兵勤務に就いている頃のこと、営門を佐官(大佐~少佐)以上が通過する時は、衛兵は衛兵所前に整列、“捧げ銃・頭右(ささげつつ・かしらみぎ )”の礼を行う。
 
 聯隊長K大佐の場合、乗馬の聯隊長は橋の中程まで来るとわざわざ馬を引き止め足踏みして、衛兵に知らせた後、ゆったりとやってくる。衛兵は衛兵所前に整列、“捧げ銃・頭右”の礼をする。聯隊長はおもむろに答礼して営門を通過する。
 
 少佐・T下士候隊長は違う。わざわざ他所の聯隊の営門(表門)を通り裏門から下士候隊に入るという意地悪を時々やってくれる。
 
 歩哨も早めに衛兵整列を知らせるが、整列の気配を感じると、橋から真っ直ぐ下士候隊に向かってしまう。
 
 今朝はどうかな、馬は並み足、ゆっくりと橋を渡っている。そのまま、真っ直ぐ下士候隊へ向かうと思っている歩哨の一瞬の隙を突いて、急に馬の鼻面をこちらに向け今度は速足だ。正に突進である。歩哨は泡を食って衛兵整列を叫ぶが、時既に遅し。“捧げ銃・頭左”は営門通過後の“馬の尻”に“なってしまう‥‥。どうやら、ゲームを楽しんでいるようだ。兎に角〔嫌な奴〕だ。
 
 “俺”は直ちに聯隊本部に赴き、聯隊副官に事故報告する。副官曰く、《あれは、趣味だほっとけ‥‥》。一件落着である。
 
 あるとき、衛兵所の通過の際、馬を止めしげしげと“俺”を見て《座金付き(幹部候補生)を衛兵に就けるとはおかしい》と、“俺”に向かって言う。しかし、“俺”に言ったってしょうがない。又、聯隊副官に報告。曰く、《ほっとけ‥‥》。 
 
 聯隊編成後、直ちに聯隊全員(約1千名)を集めての聯隊長の訓示があった。
 
“俺”は目立たぬよう後列に並んでいたが、訓示後、そこの下士官《只今の話を復唱せい》と、“俺”を指すではないか。“俺”は最初から、ろくすっぽ聞いていないので、すかさず《ハイッ、忘れました》。聯隊長、唖然、声なし。独立工兵第××聯隊編入第一日である。
 
 
 
 
 
つづく



兵隊・抑留記(18)  “俺”が狩り出されるようじゃ

召集  独立工兵聯隊 - その1
 
 
 
☆ 1943年(昭18)12月28日編成過剰人員として、千葉県・柏の近衛工兵聯隊補充隊(東部14部隊)を除隊した“俺”は、娑婆の空気を吸ったのは2ヵ月半強。翌1944年(昭19)3月15日(東部14部隊)に再度召集となった。体のいい慰労休暇というところか、又々のご奉公である。
 
 召集仲間を見渡すが知った顔は見当たらない。同じ除隊組の中では、“俺”が一番早い召集だったように思う。「まさか、こんなにも早く!」「“俺”が狩り出されるようじゃ、日本も危ないかな」と、当時の実感である。
 
 まだ薄ら寒い3月だというのに、新品の夏服が支給された。「これは、南方戦線かな」と思う。付添いの家族に娑婆の衣服を渡して、面会が終わる。と今度は夏服を脱ぎ捨て、除隊の際着用してきた同年兵の名前の入った冬服に衣替えである。これは企図秘匿のためか。
 
 3月28日九州・博多港出帆、釜山上陸、これより陸路→安東→山海関を通過、現役時代を過ごした思い出の地、天津の北站・北洋営に到着したのが4月2日であった。
 
 4月3日独立工兵××聯隊第3中隊第3小隊に編入・配属となった。
 
 独立工兵聯隊(仁部隊)はこの年の3月15日、新たに編成されたばかりである。《在天津・北支那方面軍工兵下士官候補者隊を閉鎖・在北支軍よりの転属・現地召集者・内地よりの召集者の混成により編成された。したがって、下士候隊隊長・教官は夫々聯隊長・中隊長に横滑りである》。
 
 聯隊長・T少佐、第3中隊長・T中尉、第3小隊長・K少尉、小隊付き・A曹長、“俺”は第3小隊の第1分隊長であった。
 
 小隊は4個分隊編成。一個分隊は分隊長以下15名編成である。
 
 K小隊長は大正10年代頃の一年志願の将校という年配者だった。
 
 
 
 
 
つづく



兵隊・抑留記(17)  英霊T伍長に敬礼

陸軍軍曹満洲除隊 - 後編
 
 
 駐屯地は海岸に近く、河口付近の湿地帯は一面、葦(あし)の草原であった。
 
 この葦を原料として、邦人経営のパルプ工場があった。
 
 この辺りは干潮・満潮の差が激しく、3m近くはあったのではないか。 演習はこの河口地帯で架橋・湿地帯通過訓練である。満潮の時は架柱橋・舟橋など、もっぱら架橋訓練である。干潮時は湿地帯通過訓練である。湿地は底無し沼状で、ずるずると入ってしまう。太股まで入ったら一人では脱出できない。葦を炭俵状に編んでくるくると丸めておき、それを湿地帯に敷く、その上を渡るのである。
 
 最初は葦の位置がはっきり分かるが、だんだん沈んできて葦の位置が分かりにくくなってくる。はずしたら前記のように引き出すのにひと苦労である。
 
 兵舎から半里(2km)位の河口付近に野営し、テント生活である。
 
 近くに邦人パルプ工場の社宅・寮があり、演習中時々、娑婆(しゃば)の匂いの濃厚な風呂に入れてもらったことがある。《兵隊が入浴した後は汚くて掃除が大変》と言われぬよう娑婆の匂いが消えるほど掃除をしたの覚えている。
 
 夏、腸チフスで入院した内務班員T上等兵が亡くなった。病院や火葬場が何処だったか覚えていないが、一日目は病院から火葬場へ、二日目は火葬場で骨を骨壺に入れ、列車(南満洲鉄道)での帰営である。
 
 営口駅では聯隊(れんたい)長以下将兵に出迎えられ、《英霊に対して敬礼》を受けた。聯隊長に欠礼したのは初めてである。
 
 この年の秋、師団全体の総合演習があった。
 
 この演習の後であった。近く“俺”に《英霊T伍長》の遺骨宰領(さいりょう)として内地出張命令が出る、との噂が中隊事務室辺りから聞こえてきた。
 
 衛兵(司令)勤務を終えて内務班に戻って休んでいたところに、中隊長の呼び出しである。《貴様の遺骨宰領は取り止めになった。しかし、もっといいことがあるぞ》と言われた。《何を気休めに》“俺”はむくれた。内務班に戻って布団被って寝てしまった。
 
 ところが、何日かして《編成過剰人員として内地帰還》との命令をうけ、千葉県・柏の近衛工兵聯隊補充隊に帰還し、12月28日除隊となったのである。
 
 翌29日、共に除隊した同年兵のT君と二人で埼玉県・川越の故T伍長の実家を訪れ色々と報告し、喜多院だったと思う、お墓参りをした。
 
 
 
 
 
つづく
 

初めてひ孫とご対面

 

 

すこやかに 曾孫の微笑て 年迎ふ

             (えみ)



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ブログ管理人から

 

 

11月に生まれたひ孫が昨日、初めて遊びに来ました。

 

父も母も写真を眺めては「早く会いたい」と言っていたので、やっと念願がかなったというところでしょうか。

 

ひ孫を抱いて感触を確かめたり、ほっぺをツンツンして、とても喜んでいました。

 

今日になって、父から「ほい」と渡された紙片にこの俳句が書かれていました。

 

本人はそれ以上余計なことは言いませんが、俳句が全てを語っていますね。 

 

 

 

ところで、私の初孫になるのですが、いやーかわいいですね孫は。 (^_^;)

 

本人は上向いて、時々「あー」と言って手足をバタバタしているだけなんですが。。。

 


兵隊・抑留記(16)  体験のはずが本格的凍傷に

陸軍軍曹満洲除隊 - 前編
 


☆ 1942(昭和17)年8月31日現役満期 9月1日予備役編入・引き続き臨時召集により工兵第○○聯隊に編入 陸軍軍曹(下士官候補生の印・襟章の脇に付いている、座金を取り外した)である。
 
 この頃の印象はあまり残っていない。天津市の郊外にあって、警備・討伐・新兵・補充兵教育など無難にこなしていたのではないとか思う。
 
 占領後の英国租界の警備というより見学といった方が当たっていると思うが、ビクトリア公園・競馬場などを覚えている。
 
 天津の北洋営(駐屯地)は東側に運河があり、西側は下士官候補者隊と背中合わせになっていた。

 
 1943(昭和18)年8月、聯隊は満洲の営口に移駐した。師団司令部は錦州にあった。
 
 駐屯地・営口の冬は北支(天津付近)より寒さが厳しいらしく、兵舎は半地下式・出入り口は二重扉であり、且つ、扉は自動で閉まるようになっていた。自動式といっても、垂直に取りつけられる扉を、上下の蝶番の芯を少しずらすことによって、扉は自動的に閉まる。と、いうわけである。
 
 初冬に凍傷体験があった、先ず、氷に塩を入れ、温度を下げる。この中に指を入れると、約三分で指は真っ白に凍る。氷水との境がピリピリする位で、指先は全然感覚がない。これを乾いた布で摩擦して感覚を戻す。これが痛い。
 
 “俺”の場合、3分間入れて引き出し、中隊長に見せたところ、中隊長曰く《不十分》。さらばと、更に3分間入れたところ、今度は見事に凍ってしまった。完全な凍傷である。指の関節は動かない。丹念に布で摩擦し感覚を戻したら、これが痛いの何のといって猛烈である。三日三晩睡眠もロクロク取れぬ有様。一ヵ月位したら凍ったところを境にして爪は残ったが皮膚は一皮剥けてしまった。右手の小指だったので、右手での敬礼が出来ず、その間、左手で行っていた。治ってからも敬礼する度に右手の小指がスウスウしたのを覚えている。これが、凍傷体験である。
 
 
 
 
 
つづく
 

 

兵隊・抑留記(15)  折り畳み舟で河を渡る

工兵操典 - (後編)
 
 
 春の期間中の訓練は主に野戦築城すなわち地形に合った塹壕・機関銃の掩体(えんたい=射撃をしやすくし、かつ敵弾から射手を守るための設備)掘削・構築など、いわば土方専門であった。
 
 この年の夏、敵前渡河の総合演習が中支・蚌埠でおこなわれた。
 
 天津から津浦線(天津・浦口間)を南下するとまず、滄州・濟南‥‥そして徐州、更に南下すると淮河(ホワイ河)がある。この淮河の鉄橋を渡ったところが蚌埠(パンプー)というところだ。
 
 北支・中支など各地から集められた支那派遣軍精鋭の総合演習場である。
 
 演習地は淮河を渡る津浦線の鉄橋の上流側だ。演習地の河幅は、はっきりとは覚えていないが、500m位はあったろう。
 
 この河も北支の河川と同じように茶色く濁り、手を入れたところから下は全く見えない。何しろ一升瓶にこの水を入れて一晩置くと、10糎位黄土の澱が出来る。
 
 器材は演習中河中に落としても引き上げられるよう紐をつけて、万一の場合に備えている。
 
 われわれも、現地住民にならい、河の水を汲んで水瓶に移し、一晩置いてその上澄みを日常に使用するわけだ。無論、炊事など、飲用には煮沸したものを当てている。
 
 淮河を舞台にして、実際に歩兵を乗せての操舟・渡河訓練である。
 
 使われた舟は《九?式折り畳み舟》である。この舟は組み立て式であり、舳先(へさき )と艫(とも)の二つに分解され、機動性よく、軽量、本体は合板、折り畳み部は良質のゴムだった。簡単に組み立てられ、浮力が大きく、機密性に優れていた。
 
 昼は主に、舟の組み立て、分解、運搬、操舟機の取扱い整備。それに操舟・門橋(3艘の舟を横に並べて繋ぎその上に桁を架け板を敷いた状態の舟 )の組み立てなど。夜は夜で、敵前渡河訓練である。対岸の模擬敵部隊に発見されぬよう夜陰に乗じて隠密に事を運ばねばならない。
 
 まず、分解された舟を、対岸の敵に発見されないよう地形・地物を利用し、土手の陰など、河岸近くぎりぎりの所まで運ぶ。無論人力である。パーツの重さは平均に各人の肩にかかっているので比較的軽く行動も楽である。ここで舟は組み立てられ操舟機が取り付けられると、重さが艫の部分に片寄るため、艫の部分を担ぐ左右の奴に負担がかかる。
 
 艫を先頭にして河岸に進む。右肩の強い人は多いが、左は少ない。担ぐ奴がいないのである。“俺”は前にも書いたが右も左もどちらもそれなりに、どっこいどっこいなので“俺”が担ぐことになる。兵も下士官もありはしない。総力をあげて事に当たるわけだ。
 
 しかし、いくら粋(いき)がっても重いことには変わりはない。河までの地面には凹凸があり、凸の部分に差しかかると、腰はミリミリ、頭はクラクラして目先が暗くなる。何とか踏んばって前進だ。 
 河岸に着いて、静かに艫の方から河に押し出す。艫は川下に流れ、舳先は自然に上流を指す。しっかり舟を押さえて、歩兵を乗船させ、腰を落として重心を低くさせる。
 
 最後に、部下と“俺”が乗船して出発準備完了である。
 
 小隊長の合図で出発である。流れに舳先を取られぬよう、舳先は上流側にしてわずかに対岸に振り、静かに櫓での前進だ。別の舟に乗り込んだ小隊長は、頃あいをみて合図の旗を振る。合図を確認して、各舟一斉に操舟機を発動させる。操舟機の紐を一斉に南無三と引くわけである。操舟機整備の成果がこの一瞬に決まる。ドッドッドーゥ舳先を斜め上流に向けて流れに逆らい、ひたすら対岸目がけて前進である。敵は操舟機の音に感付き盛んに撃ってくる。演習と分かっていても、射撃音で歩兵がビクッとざわめくのを抑える。舟の中は“俺”が親分だ。
 
 対岸に着けば舳先にいる部下が河に入り、いち早く舟を固定し歩兵の上陸を円滑にする。後は歩兵の領分である。
 
 ここでやることがある。長い竿の先端に赤色灯をつけ上陸点を対岸の味方にに知らせる。対岸からはこれに合せて青色灯が立てられ、2回目以降の航路が確定される。
 
 往きの歩兵を乗せた舟は上流側を、かえりの空舟は下流側を通る循環航路が完成されるわけだ。
 
 蚌埠の駐屯地は広い、ところが電力事情が悪い、工兵隊の宿舎は敷地のはずれにある。夜になって一斉に電灯を点けるとわれわれのところは200V用電球のフィラメントが少し赤くなるだけで明るくはならない。100V用電球に替えるとそれなりに少し明るくなる。ところが消灯時間近くなるとなるとまごまごしてはいられない。急激に明るさを増し、100Vの電球は一瞬、すごい輝きを残して切れてしまう。これで電球を何個駄目にしたことか。
 
 それにしても天津に駐留していた工兵隊が、よくも蚌埠まで演習に行ったものだと思う。
 
 この項を書くにあたり、手持ちの地図で確認したところ、“俺”の記憶は、蚌埠(パンプー)がバンプーであり、淮河(ホワイ河)が准河《さんずいでなく、にすい》ワイ河と覚えていたこと。それから蚌埠が徐州よりも更に南に在り、むしろ南京に近いこと、など認識を新たにした。
 
 又、戦後の地図には、浦口(南京の北・揚子江を渡った対岸)という都市の記載はなく、津浦線という名称は戦前・戦後の地図にないことを知った。
 
 
 
 
 
つづく
 
 

兵隊・抑留記(14)  敵前渡河は軍の勝敗を左右す

工兵操典 - (前編)
 
 
☆ 太平洋戦争(大東亜戦争)は2年目(昭和17年)に入り、俺たち乙幹連中(下士官候補生)も、1年前の初年兵とは変わりだいぶ兵隊らしくなってきて いた。
 
 戦果は上がり、戦線はいやが上にも拡大膨脹している頃である。したがって転属も多くなり、また、補充として年配者が召集され、入隊してきた。
 
 聯隊長K大佐が鉄道聯隊長として転出されたのも、この頃ではなかったか。次の聯隊長はM大佐(?)と言ったと思う。この聯隊長は特に教育熱心で実地訓練(演習)も然ることながら、頭脳訓練として工兵操典(工兵の戦闘の教則などを規定した本)の解説、一字一句の持つ意味など自ら講義されたりした。

 例えば、

  敵前渡河は軍の勝敗を左右す
  野戦築城は軍の勝敗に重大な影響を及ぼす

のように、うっかりすると見過ごしてしまいそうな字句の中に、重大な意味、事柄が含まれているのである。

 M大佐は、聞くところによると長く陸軍参謀本部にあって《工兵操典》を自ら草稿・編纂された本人であるとのことであった。

 軍人というよりは何処かの大学の教授といった感じの人であったが、間もなく結核が進行していることが分かり、入院加療のため《北戴河(ペータイホ)結核療養所》へ転出されてしまった。

 当時、M聯隊長の薫陶を受けた乙幹連中は、その後も陸軍発行の季刊雑誌《工兵(部外秘)》を取り寄せたりして、研鑚を積んだものだった。

 雑誌《工兵》には彼我の最新兵器・地雷の種類・工兵器材などの紹介・解説があったと記憶する。

 次の聯隊長○○大佐(名前は失念した)は朝から酒を飲み演習終了時の聯隊長講評の際など相当酔っており、酔いどれ聯隊長の名を恣(ほしいまま )にしている、豪快な感じの人であった。この聯隊長は“ノモンハン事件”の際に、ソ聯の重戦車に対して“火炎瓶”を考案された人であるとのことであった。

 この聯隊長、将校・下士官を集めた酒の席では、よく自席をはなれ、われわれ下士官連中のところにきては“ワイワイ”やる。“俺”が返杯の際《端末軍曹何々‥‥》と言ったところ、酔いどれ聯隊長は俺のことを違う名で覚えてしまい、聯隊長はそれ以来“俺”のことを違う名で呼ぶようになってしまった。
 
 
 
 
 
つづく
 
 
 

兵隊・抑留記(13)  東条兼摂陸軍大臣通牒

軍隊内反乱 館陶(タテトウ)事件 - 参考資料
 
 
『軍隊内反乱 小説 館陶事件 桑島節郎著(勁草書房 1990 )』より

 

 
陸軍上等兵 勲八等 内山廣 大正8年2月28日生  死刑
  上官脅迫 上官暴行 軍中党与抗命首魁 党与用兵器上官暴行首魁
  党与用兵器上官脅迫首魁 軍用物損壊 略奪
 
陸軍上等兵 勲八等 坂五郎  大正8年10月24日生  死刑
  上官暴行 党与用兵器上官暴行首魁 上官殺未遂 用兵器軍務執行妨害

  党与用兵器上官脅迫首魁 軍用物損壊 略奪
 
陸軍一等兵 勲八等 大川栄次 大正8年6月30日生  無期懲役
  党与用兵器上官脅迫 軍用物損壊
 
陸軍兵長  勲八等 湯沢春夫 大正8年5月11日生  懲役6年
  軍中党与抗命 上官暴行
 
陸軍上等兵 勲八等 川上久光 大正8年10月15日生  禁固4年
  軍中党与抗命
 
陸軍上等兵 勲八等 下山明夫 大正8年5月26日生  禁固3年
  軍中党与抗命
 
陸軍兵長  勲八等 高山一平 大正8年8月1日生  禁固10ヶ月
  軍中勤務離脱
 
陸軍上等兵 勲八等 伊元太郎 大正8年2月4日生  禁固6ヶ月
  軍中勤務離脱
 
陸軍上等兵 勲八等 辺田義人 大正8年11月3日生  禁固6ヶ月
  軍中勤務離脱
 
陸軍一等兵     大北範夫 大正9年1月10日生  禁固8ヶ月
  軍中哨兵守地離脱
 
陸軍曹長  勲七等 岡村三郎 大正5年4月13日生  禁固11ヶ月
  部下多衆犯不鎮圧幇助
 
予備液・陸軍少尉、正八位勲七等 安部光雄

  大正8年4月14日生 部下多衆犯不鎮圧幇助  禁固10ヶ月

陸軍中尉 中隊長 志水 博  明治45年1月生  自決
 


北支那方面軍ノ軍紀上特に留意スベキ犯罪処刑人員表

(昭和14~17年10月  「北支の治安戦」2より)



昭14 昭15 昭16 昭17

対上官犯 58 39 44 30 171
強姦 45 27 16 20 108
辱職 37 31 36 23 127
逃亡 25 31 55 30 141
略奪 105 74 38 26 243
奔敵    
利敵    
271 202 197 131 801

 


東条兼摂陸軍大臣通牒(昭和17年12月19日)

 

1 上級指揮官の指導監督および処断の強化

 

2 下級幹部の能力向上

 

3 在郷軍人の軍紀風紀の緊縮

 

4 私的制裁の根絶

 

5 年齢年次の著しく異なる兵を混同して軍隊を編成することはなるべく避ける
 
 
 
 
 
つづく
 
 

 

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ブログ管理者から

 

父の指摘でタイトルの「従軍日記」を「兵隊・抑留記」に変更しました。

従軍だと「軍隊に従って戦場に行くこと」となり従軍記者や従軍看護婦が該当するとの理由です。

 
 





兵隊・抑留記(12) 反乱の大きな代償

軍隊内反乱 館陶(タテトウ)事件 - 後編
 
 
 
 太平洋戦争(1941年12月~)に突入し、戦線が拡大し将兵の消耗が増加するに連れて、頻繁に転属命令が発せられるようになった。
 
 前にも書いたが、中隊事務室勤務で中隊長室に缶詰になり、人事関係書類・転属命令書の清書などやっていた頃の延長線上に《館陶(タテトウ)事件》を思い出す。
 
 この事件は転属命令に対し不満を持った一部の札付き兵士が反乱を起こした事件である。事件後、われわれの工兵隊でも折りある毎にこの事件を事例として、軍紀の粛正(しゅくせい)が叫ばれたのである。しかし、当時は、事件の詳細については知らさていなかったのではないかと思う。


 《館陶》というのは、〈中国・山東省の省都・済南の西方150キロの地点にあり、すぐ西は低い稜線の起伏する広野の街館陶県の県都(県城)である。事件は1942年(昭和17年)12月に起きた。
 
 各部隊からの転属者で構成された歩兵部隊〔第12軍 第59師団『衣』 歩兵第53旅団 独立歩兵第42大隊 第5中隊(200名)〕が編制されたのは昭和17年4月上旬であった。5月中旬、第5中隊は《館陶》に移駐した。事件の起きる7ヶ月位前である。
 
 ところが転属してきて、未だ一年も経たないのに、(札付き)を含めた一部兵に又々転属命令が出されたのである。この転属命令の伝達時期・方法に不満を持った一部の札付き兵が、酒の勢いを借りて暴発し、鬱憤(うっぷん)の収まらぬまま、衛兵所を襲う。衛兵司令以下衛兵全員危険を感じて守備離脱、もぬけの殻の衛兵所から、弾薬を奪い、中隊長室・人事掛准尉室に乱入、中隊長等も危険を感じて兵営離脱、逃亡してしまった。反乱兵は、銃を乱射し、営庭に手榴弾を投げて炸裂させ、兵営を離脱して民営の飲み屋を襲い飲酒するという始末‥‥‥。反乱兵は暴れるだけ暴れてようやく、出発時刻を大幅に遅れて転属先行きのトラックに乗車、任地先で御用となる。
 
この事件は、上官暴行、悪質さ、規模の大きさ、且つ中隊長逃亡、将校以下衛兵まで全員逃亡という、前代未聞の事件であった。
 
 その後の事件処理について触れておこう。
 
 転属兵 9名中反乱に加担したのは6名〔死刑2名、無期1名、懲役6年1名、懲役4年1名、懲役3年1名〕であった。
 
 少尉(禁固10ヶ月)、曹長(禁固11ヶ月)、兵長(禁固10月)、上等兵 (禁固4年1名、3年1名)一等兵(禁固8ヶ月1名)とあるが、少尉と曹長は部下不鎮圧、他は衛兵勤務離脱・歩哨守地離脱である。
 
 中隊長は自決した。(させられた)
 
 《反乱兵共》は、普段から上官を馬鹿にし“酒癖の悪い札付き集団”であり、それに加えて、中隊長の転属命令伝達は、他隊では数日前に伝達されているのに、この中隊では中隊長の意思で前日、中には転属者の出発予定時間の数時間前に発令されたのであった、という。転属者をペテンにかけたのである。騙しのつけは大きい。
 
 《転属》の名を借りて、“札付き”処理を計画した上官の考えに甘さがあり、又、こんな連中を受け取る、受入れ側部隊はアウトロ-集団、出した方の部隊 はイエスマン集団、これではどちらにしても、兵隊の質はだんだん悪くならなければおかしい。この事件後、軍律とか、戦陣訓とか、何とかいって、兵に対する引締めは益々厳しくなり、煩(うるさ)くなったことだけは確かである。
 
 
 
 
 
つづく