兵隊・抑留記(15) 折り畳み舟で河を渡る
工兵操典 - (後編)
春の期間中の訓練は主に野戦築城すなわち地形に合った塹壕・機関銃の掩体(えんたい=射撃をしやすくし、かつ敵弾から射手を守るための設備)掘削・構築など、いわば土方専門であった。
この年の夏、敵前渡河の総合演習が中支・蚌埠でおこなわれた。
天津から津浦線(天津・浦口間)を南下するとまず、滄州・濟南‥‥そして徐州、更に南下すると淮河(ホワイ河)がある。この淮河の鉄橋を渡ったところが蚌埠(パンプー)というところだ。
北支・中支など各地から集められた支那派遣軍精鋭の総合演習場である。
演習地は淮河を渡る津浦線の鉄橋の上流側だ。演習地の河幅は、はっきりとは覚えていないが、500m位はあったろう。
この河も北支の河川と同じように茶色く濁り、手を入れたところから下は全く見えない。何しろ一升瓶にこの水を入れて一晩置くと、10糎位黄土の澱が出来る。
器材は演習中河中に落としても引き上げられるよう紐をつけて、万一の場合に備えている。
われわれも、現地住民にならい、河の水を汲んで水瓶に移し、一晩置いてその上澄みを日常に使用するわけだ。無論、炊事など、飲用には煮沸したものを当てている。
淮河を舞台にして、実際に歩兵を乗せての操舟・渡河訓練である。
使われた舟は《九?式折り畳み舟》である。この舟は組み立て式であり、舳先(へさき )と艫(とも)の二つに分解され、機動性よく、軽量、本体は合板、折り畳み部は良質のゴムだった。簡単に組み立てられ、浮力が大きく、機密性に優れていた。
昼は主に、舟の組み立て、分解、運搬、操舟機の取扱い整備。それに操舟・門橋(3艘の舟を横に並べて繋ぎその上に桁を架け板を敷いた状態の舟 )の組み立てなど。夜は夜で、敵前渡河訓練である。対岸の模擬敵部隊に発見されぬよう夜陰に乗じて隠密に事を運ばねばならない。
まず、分解された舟を、対岸の敵に発見されないよう地形・地物を利用し、土手の陰など、河岸近くぎりぎりの所まで運ぶ。無論人力である。パーツの重さは平均に各人の肩にかかっているので比較的軽く行動も楽である。ここで舟は組み立てられ操舟機が取り付けられると、重さが艫の部分に片寄るため、艫の部分を担ぐ左右の奴に負担がかかる。
艫を先頭にして河岸に進む。右肩の強い人は多いが、左は少ない。担ぐ奴がいないのである。“俺”は前にも書いたが右も左もどちらもそれなりに、どっこいどっこいなので“俺”が担ぐことになる。兵も下士官もありはしない。総力をあげて事に当たるわけだ。
しかし、いくら粋(いき)がっても重いことには変わりはない。河までの地面には凹凸があり、凸の部分に差しかかると、腰はミリミリ、頭はクラクラして目先が暗くなる。何とか踏んばって前進だ。
河岸に着いて、静かに艫の方から河に押し出す。艫は川下に流れ、舳先は自然に上流を指す。しっかり舟を押さえて、歩兵を乗船させ、腰を落として重心を低くさせる。
最後に、部下と“俺”が乗船して出発準備完了である。
小隊長の合図で出発である。流れに舳先を取られぬよう、舳先は上流側にしてわずかに対岸に振り、静かに櫓での前進だ。別の舟に乗り込んだ小隊長は、頃あいをみて合図の旗を振る。合図を確認して、各舟一斉に操舟機を発動させる。操舟機の紐を一斉に南無三と引くわけである。操舟機整備の成果がこの一瞬に決まる。ドッドッドーゥ舳先を斜め上流に向けて流れに逆らい、ひたすら対岸目がけて前進である。敵は操舟機の音に感付き盛んに撃ってくる。演習と分かっていても、射撃音で歩兵がビクッとざわめくのを抑える。舟の中は“俺”が親分だ。
対岸に着けば舳先にいる部下が河に入り、いち早く舟を固定し歩兵の上陸を円滑にする。後は歩兵の領分である。
ここでやることがある。長い竿の先端に赤色灯をつけ上陸点を対岸の味方にに知らせる。対岸からはこれに合せて青色灯が立てられ、2回目以降の航路が確定される。
往きの歩兵を乗せた舟は上流側を、かえりの空舟は下流側を通る循環航路が完成されるわけだ。
蚌埠の駐屯地は広い、ところが電力事情が悪い、工兵隊の宿舎は敷地のはずれにある。夜になって一斉に電灯を点けるとわれわれのところは200V用電球のフィラメントが少し赤くなるだけで明るくはならない。100V用電球に替えるとそれなりに少し明るくなる。ところが消灯時間近くなるとなるとまごまごしてはいられない。急激に明るさを増し、100Vの電球は一瞬、すごい輝きを残して切れてしまう。これで電球を何個駄目にしたことか。
それにしても天津に駐留していた工兵隊が、よくも蚌埠まで演習に行ったものだと思う。
この項を書くにあたり、手持ちの地図で確認したところ、“俺”の記憶は、蚌埠(パンプー)がバンプーであり、淮河(ホワイ河)が准河《さんずいでなく、にすい》ワイ河と覚えていたこと。それから蚌埠が徐州よりも更に南に在り、むしろ南京に近いこと、など認識を新たにした。
又、戦後の地図には、浦口(南京の北・揚子江を渡った対岸)という都市の記載はなく、津浦線という名称は戦前・戦後の地図にないことを知った。
つづく
春の期間中の訓練は主に野戦築城すなわち地形に合った塹壕・機関銃の掩体(えんたい=射撃をしやすくし、かつ敵弾から射手を守るための設備)掘削・構築など、いわば土方専門であった。
この年の夏、敵前渡河の総合演習が中支・蚌埠でおこなわれた。
天津から津浦線(天津・浦口間)を南下するとまず、滄州・濟南‥‥そして徐州、更に南下すると淮河(ホワイ河)がある。この淮河の鉄橋を渡ったところが蚌埠(パンプー)というところだ。
北支・中支など各地から集められた支那派遣軍精鋭の総合演習場である。
演習地は淮河を渡る津浦線の鉄橋の上流側だ。演習地の河幅は、はっきりとは覚えていないが、500m位はあったろう。
この河も北支の河川と同じように茶色く濁り、手を入れたところから下は全く見えない。何しろ一升瓶にこの水を入れて一晩置くと、10糎位黄土の澱が出来る。
器材は演習中河中に落としても引き上げられるよう紐をつけて、万一の場合に備えている。
われわれも、現地住民にならい、河の水を汲んで水瓶に移し、一晩置いてその上澄みを日常に使用するわけだ。無論、炊事など、飲用には煮沸したものを当てている。
淮河を舞台にして、実際に歩兵を乗せての操舟・渡河訓練である。
使われた舟は《九?式折り畳み舟》である。この舟は組み立て式であり、舳先(へさき )と艫(とも)の二つに分解され、機動性よく、軽量、本体は合板、折り畳み部は良質のゴムだった。簡単に組み立てられ、浮力が大きく、機密性に優れていた。
昼は主に、舟の組み立て、分解、運搬、操舟機の取扱い整備。それに操舟・門橋(3艘の舟を横に並べて繋ぎその上に桁を架け板を敷いた状態の舟 )の組み立てなど。夜は夜で、敵前渡河訓練である。対岸の模擬敵部隊に発見されぬよう夜陰に乗じて隠密に事を運ばねばならない。
まず、分解された舟を、対岸の敵に発見されないよう地形・地物を利用し、土手の陰など、河岸近くぎりぎりの所まで運ぶ。無論人力である。パーツの重さは平均に各人の肩にかかっているので比較的軽く行動も楽である。ここで舟は組み立てられ操舟機が取り付けられると、重さが艫の部分に片寄るため、艫の部分を担ぐ左右の奴に負担がかかる。
艫を先頭にして河岸に進む。右肩の強い人は多いが、左は少ない。担ぐ奴がいないのである。“俺”は前にも書いたが右も左もどちらもそれなりに、どっこいどっこいなので“俺”が担ぐことになる。兵も下士官もありはしない。総力をあげて事に当たるわけだ。
しかし、いくら粋(いき)がっても重いことには変わりはない。河までの地面には凹凸があり、凸の部分に差しかかると、腰はミリミリ、頭はクラクラして目先が暗くなる。何とか踏んばって前進だ。
河岸に着いて、静かに艫の方から河に押し出す。艫は川下に流れ、舳先は自然に上流を指す。しっかり舟を押さえて、歩兵を乗船させ、腰を落として重心を低くさせる。
最後に、部下と“俺”が乗船して出発準備完了である。
小隊長の合図で出発である。流れに舳先を取られぬよう、舳先は上流側にしてわずかに対岸に振り、静かに櫓での前進だ。別の舟に乗り込んだ小隊長は、頃あいをみて合図の旗を振る。合図を確認して、各舟一斉に操舟機を発動させる。操舟機の紐を一斉に南無三と引くわけである。操舟機整備の成果がこの一瞬に決まる。ドッドッドーゥ舳先を斜め上流に向けて流れに逆らい、ひたすら対岸目がけて前進である。敵は操舟機の音に感付き盛んに撃ってくる。演習と分かっていても、射撃音で歩兵がビクッとざわめくのを抑える。舟の中は“俺”が親分だ。
対岸に着けば舳先にいる部下が河に入り、いち早く舟を固定し歩兵の上陸を円滑にする。後は歩兵の領分である。
ここでやることがある。長い竿の先端に赤色灯をつけ上陸点を対岸の味方にに知らせる。対岸からはこれに合せて青色灯が立てられ、2回目以降の航路が確定される。
往きの歩兵を乗せた舟は上流側を、かえりの空舟は下流側を通る循環航路が完成されるわけだ。
蚌埠の駐屯地は広い、ところが電力事情が悪い、工兵隊の宿舎は敷地のはずれにある。夜になって一斉に電灯を点けるとわれわれのところは200V用電球のフィラメントが少し赤くなるだけで明るくはならない。100V用電球に替えるとそれなりに少し明るくなる。ところが消灯時間近くなるとなるとまごまごしてはいられない。急激に明るさを増し、100Vの電球は一瞬、すごい輝きを残して切れてしまう。これで電球を何個駄目にしたことか。
それにしても天津に駐留していた工兵隊が、よくも蚌埠まで演習に行ったものだと思う。
この項を書くにあたり、手持ちの地図で確認したところ、“俺”の記憶は、蚌埠(パンプー)がバンプーであり、淮河(ホワイ河)が准河《さんずいでなく、にすい》ワイ河と覚えていたこと。それから蚌埠が徐州よりも更に南に在り、むしろ南京に近いこと、など認識を新たにした。
又、戦後の地図には、浦口(南京の北・揚子江を渡った対岸)という都市の記載はなく、津浦線という名称は戦前・戦後の地図にないことを知った。
つづく