兵隊・抑留記(14) 敵前渡河は軍の勝敗を左右す
工兵操典 - (前編)
☆ 太平洋戦争(大東亜戦争)は2年目(昭和17年)に入り、俺たち乙幹連中(下士官候補生)も、1年前の初年兵とは変わりだいぶ兵隊らしくなってきて いた。
戦果は上がり、戦線はいやが上にも拡大膨脹している頃である。したがって転属も多くなり、また、補充として年配者が召集され、入隊してきた。
聯隊長K大佐が鉄道聯隊長として転出されたのも、この頃ではなかったか。次の聯隊長はM大佐(?)と言ったと思う。この聯隊長は特に教育熱心で実地訓練(演習)も然ることながら、頭脳訓練として工兵操典(工兵の戦闘の教則などを規定した本)の解説、一字一句の持つ意味など自ら講義されたりした。
例えば、
敵前渡河は軍の勝敗を左右す
野戦築城は軍の勝敗に重大な影響を及ぼす
のように、うっかりすると見過ごしてしまいそうな字句の中に、重大な意味、事柄が含まれているのである。
M大佐は、聞くところによると長く陸軍参謀本部にあって《工兵操典》を自ら草稿・編纂された本人であるとのことであった。
軍人というよりは何処かの大学の教授といった感じの人であったが、間もなく結核が進行していることが分かり、入院加療のため《北戴河(ペータイホ)結核療養所》へ転出されてしまった。
当時、M聯隊長の薫陶を受けた乙幹連中は、その後も陸軍発行の季刊雑誌《工兵(部外秘)》を取り寄せたりして、研鑚を積んだものだった。
雑誌《工兵》には彼我の最新兵器・地雷の種類・工兵器材などの紹介・解説があったと記憶する。
次の聯隊長○○大佐(名前は失念した)は朝から酒を飲み演習終了時の聯隊長講評の際など相当酔っており、酔いどれ聯隊長の名を恣(ほしいまま )にしている、豪快な感じの人であった。この聯隊長は“ノモンハン事件”の際に、ソ聯の重戦車に対して“火炎瓶”を考案された人であるとのことであった。
この聯隊長、将校・下士官を集めた酒の席では、よく自席をはなれ、われわれ下士官連中のところにきては“ワイワイ”やる。“俺”が返杯の際《端末軍曹何々‥‥》と言ったところ、酔いどれ聯隊長は俺のことを違う名で覚えてしまい、聯隊長はそれ以来“俺”のことを違う名で呼ぶようになってしまった。
つづく