兵隊・抑留記(12) 反乱の大きな代償
軍隊内反乱 館陶(タテトウ)事件 - 後編
太平洋戦争(1941年12月~)に突入し、戦線が拡大し将兵の消耗が増加するに連れて、頻繁に転属命令が発せられるようになった。
前にも書いたが、中隊事務室勤務で中隊長室に缶詰になり、人事関係書類・転属命令書の清書などやっていた頃の延長線上に《館陶(タテトウ)事件》を思い出す。
この事件は転属命令に対し不満を持った一部の札付き兵士が反乱を起こした事件である。事件後、われわれの工兵隊でも折りある毎にこの事件を事例として、軍紀の粛正(しゅくせい)が叫ばれたのである。しかし、当時は、事件の詳細については知らさていなかったのではないかと思う。
《館陶》というのは、〈中国・山東省の省都・済南の西方150キロの地点にあり、すぐ西は低い稜線の起伏する広野の街館陶県の県都(県城)である。事件は1942年(昭和17年)12月に起きた。
各部隊からの転属者で構成された歩兵部隊〔第12軍 第59師団『衣』 歩兵第53旅団 独立歩兵第42大隊 第5中隊(200名)〕が編制されたのは昭和17年4月上旬であった。5月中旬、第5中隊は《館陶》に移駐した。事件の起きる7ヶ月位前である。
ところが転属してきて、未だ一年も経たないのに、(札付き)を含めた一部兵に又々転属命令が出されたのである。この転属命令の伝達時期・方法に不満を持った一部の札付き兵が、酒の勢いを借りて暴発し、鬱憤(うっぷん)の収まらぬまま、衛兵所を襲う。衛兵司令以下衛兵全員危険を感じて守備離脱、もぬけの殻の衛兵所から、弾薬を奪い、中隊長室・人事掛准尉室に乱入、中隊長等も危険を感じて兵営離脱、逃亡してしまった。反乱兵は、銃を乱射し、営庭に手榴弾を投げて炸裂させ、兵営を離脱して民営の飲み屋を襲い飲酒するという始末‥‥‥。反乱兵は暴れるだけ暴れてようやく、出発時刻を大幅に遅れて転属先行きのトラックに乗車、任地先で御用となる。
この事件は、上官暴行、悪質さ、規模の大きさ、且つ中隊長逃亡、将校以下衛兵まで全員逃亡という、前代未聞の事件であった。
その後の事件処理について触れておこう。
転属兵 9名中反乱に加担したのは6名〔死刑2名、無期1名、懲役6年1名、懲役4年1名、懲役3年1名〕であった。
少尉(禁固10ヶ月)、曹長(禁固11ヶ月)、兵長(禁固10月)、上等兵 (禁固4年1名、3年1名)一等兵(禁固8ヶ月1名)とあるが、少尉と曹長は部下不鎮圧、他は衛兵勤務離脱・歩哨守地離脱である。
中隊長は自決した。(させられた)
《反乱兵共》は、普段から上官を馬鹿にし“酒癖の悪い札付き集団”であり、それに加えて、中隊長の転属命令伝達は、他隊では数日前に伝達されているのに、この中隊では中隊長の意思で前日、中には転属者の出発予定時間の数時間前に発令されたのであった、という。転属者をペテンにかけたのである。騙しのつけは大きい。
《転属》の名を借りて、“札付き”処理を計画した上官の考えに甘さがあり、又、こんな連中を受け取る、受入れ側部隊はアウトロ-集団、出した方の部隊 はイエスマン集団、これではどちらにしても、兵隊の質はだんだん悪くならなければおかしい。この事件後、軍律とか、戦陣訓とか、何とかいって、兵に対する引締めは益々厳しくなり、煩(うるさ)くなったことだけは確かである。
つづく