兵隊・抑留記(31) 死んだことになっていた俺…
独立工兵聯隊 Ⅰ - その6
《報告》が終わったのが、午後の作業開始前であった。中隊長は作業隊全員を集めて訓示である。
曰く、《●●●のとった行動は、適切であり万事、この様にせよ》。と、何のことはない、怒られるところ、褒められてしまった。
貨物自動車は《コロウカン》の山道を通る。自動車のエンジンは冷却水が沸騰して暫時休憩に入った。山頂付近である。たしかこの辺だと散策す。あった、“俺”の掘った観測用掩体が。半ば以上埋まっていたが、それでも分かる。付近の景観は匍匐して見た状態とかくも違うのか。視点の高さはわずか1.5mぐらいしか違わないのにビルの屋上から見ているように視界が広い。《コロウカン》の戦いが済んでシミジミと掩体の脇に立つ、感激一入(ひとしお)である。
7月中旬橋は完成した。T橋と命名された。
洛水の右岸T橋の少し上流に《陸軍少佐 Tの墓》》と墓標(木柱)を建立した。2階級特進である。
しかし、洛水という暴れ河の前に、T橋は短命であった。降雨による増水に抵抗出来ず、橋はあえなく押し流されてしまったのである。
再度、橋を架設している。2代目は、洛水に敬意を表し洛水橋と命名したのだが。これも暴れ河の前にはあまりにも短命であった。
橋の完成が近づき鄭州での木材積み下ろしの作業も終わったので、黒石関に復帰したころのことである。労役に使用していた支那軍捕虜2~3百名を密県に駐屯する第1中隊まで護送したことがある。密県まで距離はは山越えの10~12Km位だったろう。“俺”の分隊15名が担当した。捕虜は無腰ではあるが別に鎖で繋がっているわけではない。これだけ集まると不気味である。途中反乱もなく無事1中隊に引き渡すことができた。
1中隊のK軍曹が飛んできて、《●●●、貴様死んだことになっている》と、とんだご挨拶である。経緯はこうだ。3中隊の戦死者の中で、N軍曹、●●●兵長の名がある。それが、1中隊には下士官では軍曹がやられ‥‥‥、名前の中に●●●というのがあった‥‥‥。それで、●●●軍曹戦死となって、伝えられたのである。
K曰く、《新郷の貨車の中で別れる時に、●●●の奴、今度会うときは靖国神社で会おう。と、言ったっけ。冗談でも、ああゆうことは言ってはならぬ》と、話し合っていたところであったという。元気でお互い別れた。
夕方近く、帰りの山道も不気味であった。
つづく