兵隊・抑留記(30) 発疹チフス?猩紅熱?
独立工兵聯隊 Ⅰ - その5
翌5月24日13時洛陽攻撃開始。
《15~16時頃、S中隊長・指揮班洛陽東北角に取りつく。●●●兵長
戦死、M伍長大腿部盲管銃創・S中隊長代行右手首貫通銃創等四~五名
負傷す。U小隊(第一小隊)は洛陽城外東北角の教会に潜む敵に向かう。
塀に取りついたU小隊長負傷す。手当中Y上等兵戦死、すこし下がった
ところで戦車隊を迎え戦車隊に続き東北角に進出。中隊指揮班と合流、戦車
隊城内進入路の作業に従事す》、と。 (戦友S氏――資料)
昭和19年5月25日8時30分洛陽陥落。
S中隊長代行負傷のため、M少尉中隊長代行となる。
さて、洛陽攻撃のときは一体“俺”や第3小隊はなにをしていたのか。“俺”は23日(洛陽攻撃)の朝、旅団司令部の副官より、司令部直轄を解かれ、小隊復帰となったらしい。(どうもそのへんが分からない)器材と一部兵隊を宿舎に残し、朝から、小隊を探しに、洛陽城外東北角付近をさ迷い歩いていたことになる。“俺”のやったことといえば、前日、地雷一個掘り出したことぐらいか。 午後になって、廟入口付近で、負傷した中隊長代行S少尉・M伍長他5~6名か、衛生兵の手当を受けているところに行き当たった。中隊長代行に報告並びに見舞い、M伍長を見舞っているところに、こつ然と無傷のK小隊が現れたのである。ようやく小隊に合流することができた。
洛陽戦線における第3中隊の損耗は、戦死13名・戦傷者30名と記憶する。しかし、“俺”が所属する第3小隊だけ無傷であった。これは、洛陽総攻撃の際、最前線付近まで行っているのだが戦列には参加していなかった。と、いうことである。
洛陽攻略が終わって、暫くした6月上旬、かって下士候隊教官であった聯隊副官のM中尉が第3中隊長として赴任してきた。これまた、戦死したT前中隊長に負けず劣らず、演習と戦場の区別のつかない、且つ又、兵はしごけばしごくほど戦力が上がるとでも思っているだろう、困った隊長であった。
洛陽より白馬寺を通り黒石関に戻る。本格的木橋(列柱橋)の架設である。第2中隊は左岸より、第3中隊は右岸より両岸協力しての架設だった。
“俺”は兵20名と共に架橋本隊を離れ、鄭州駅付近に駐屯して、木材(架橋用)の積み替え(貨車から貨物自動車)作業に従事することになった。
出発の際、中隊長訓示は《伝染病など病人をだすな》であった。ところが、4・5日経たところで隊員の一人に《高熱・発疹》が出た。これは発疹チフス?猩紅(しょうこう)熱?と疑い、本人を鄭州の野戦病院へ入院させ、宿舎内の器材資材などを屋外に出してから、屋内に乾燥した草を敷き、火をつけて燃やした。家の壁は、日干し煉瓦のため大火事になることはない。室内のお邪魔虫(蚤・虱・南京虫等)を退治である。
直ちに、中隊長に《経緯・処置》を報告するため貨物自動車に便乗して黒石関・架橋現場に向かう。
つづく