兵隊・抑留記(58) 反動分子は日本に帰すな
抑留 - その8
さて、抑留時代を振り返ってみると大きく〔初期〕〔中期〕〔後期〕の三つに別けられる。
〔抑留初期・(1945・冬~46年春まで)〕
抑留という精神的痛手と、希に見る厳しい冬であり、環境の変化に順応出来ぬ者続出、加えて、ソ聯全土の農作物の不作。特にウクライナ穀倉地帯の不良があり、食料事情の劣化。居住、衛生環境の劣悪が重なり、栄養失調・発疹チフスにより、ブカチャチャ地区戦没者の八割以上がこの期間に集中している。
収容所内には、炊事場はあるが食堂はなかった。このため、毎食兵舎に持ち帰り食べていたのである。これでは衛生状態はだんだんと悪くなり、暖房(ペチカ)で暖かい環境の中では蠅が湧き、白い紙など吊しておくといつの間にか蠅の糞茶色の霜降り状態に染まってしまう有様であった。
1946年春先には、野菜不足のため多くの人がビタミンCの不足(?)により歯ぐきから血が出る始末だった。
〔抑留中期・(1946春過ぎ~47年秋頃まで)〕
“俺”にとって、この期間は、精神的にも肉体的にも、比較的に安定した期間と位置づけられる。
抑留初期の地獄のような環境を経験した我々は、この経験を生かし、収容所構内の空地に、馬鈴薯・キャベツなどを栽培した。
“浴場”、“床屋”、“熱気消毒(シラミを殺す)”、“食堂の構築”などの衛生関係、“演芸”、“壁新聞”、“碁・将棋”などの娯楽関係、と整備されていったのである。
〔抑留後期・(1947年秋過ぎ~ナホトカから復員船に乗船、ソ聯領海外に出るまで)〕
ソ聯に迎合し(チタの学校)で洗脳された一部日本人が、収容所の指導者となり、共産党以外は人に非ず、の施策を行った時期である。
明けても暮れても“天皇制打倒”、“反動分子は日本に帰すな”、“祖国・ソ聯万歳”である。いわゆる洗脳教育だ。
密かにスパイを養成し、今までの仲間がスパイとなり反動分子摘発を行った。
“俺”はその網に引っ掛かった。“吊し上げ”、“村八分”である。
仲間が信用できないのである。こんな悲しいことはない。この時期は精神的重圧期とでも表現しておこう。
つづく