兵隊・抑留記(88)  第◎内務斑の戦没者 | SAPPERの兵隊・抑留記

兵隊・抑留記(88)  第◎内務斑の戦没者

 
抑留後期 - その9
 
 
  天 津 教 育 隊 第 ◎ 内 務 班 の こ と 

 
 第◎内務班編成時(1944年11月)の人名表
 

 


名簿1
 

                      (以上 班長以下30名)
 
 表中7名については入ソ・抑留されたかどうか分からない。
 

 隣班のH伍長(編成時)は新京(長春)までは一緒だった記憶はあるが敗戦後は、どうなったか不明である。
 
 重ねて記す

 

名簿2

 
 俺の内務班中 シベリア地区戦没者は8名である
 
 内訳 栄養失調5 発疹チフス1 下利1 落磐1
    東京4 千葉2 埼玉1 愛知1

                               合掌
 
 
 上記の死没年月日と“俺の記憶”とが異なっているのがこの4名である

 
名簿3
 

 

 初年兵教育は1944年(昭和19)12月、聯隊編成時の北洋営(天津・ 北站駅付近)で行われた。
 
 教育隊は〔3ヶ小隊、小隊は3ヶ内務班(隊全体で9ヶ内務班)〕編成である。期間は1944年11月~45年3月である。俺はその中の一内務班長であった。
 
 班は、班長1、班付上等兵2、初年兵27、計30名で構成されていた。このことは前にも触れた。 
 
 1期(基礎)教育を終了した初年兵を夫々の中隊に配属させるため、天津を 出発、南下。河南省・鄭州において第2中隊(I中隊)と合流。しかし、第1中隊と第3中隊は 鄭州より更に南下し作戦中とのこと、暫時、第2中隊指 揮下に入った。鄭州より許昌を経て南陽付近まで南下したが、その後少し北上、《ダイボンヨウ》において軍橋の保守・警備等を経て、更に北上、鄭州に集結したのが1945年(昭和20)7月下旬であった。
 
 8月1日転進命令を受けて鄭州を出発、8月9日に山海関を通過(同日ソ聯はソ満国境を突破、満洲国へ攻め入る)8月15日新京(長春)において敗戦。 この間、原隊より離れたものとして、甲種幹部候補生(士官候補生)とか・鄭州・黒河などで別れた者が居たとしても、少なくとも23名は入ソしたことになる。
 
 ◎班のソ聯での戦没者は、8名(約3分の1)を数える。何としても無念。只々冥福を祈るのみ。
 
 
つづく