敗戦前後 その3
地形地物など陣地に利用できるものの乏しい上に、敵は〔白城子〕に侵出、戦闘近し。‥‥と異常な緊張感の中で15日朝を迎えた。
今日は「西の主要道路遮断及び蛸壺掘削」だ。
作業出発時、『正午に重大放送』とのこと。
『重大放送』はラヂオに向かって中隊長以下隊員整列。
『玉音放送』である。
しかし、雑音と音声ウエ-ブで、内容が分からない。
隊長以下分からぬまま午後の作業に夫々出発する。
午後は古い枕木を譲り受けるため、新京駅の施設部へ向かう。〔古枕木は鹿砦(ろくさい)に代用〕
施設部では「兵隊さん戦争は終わったよ」と言って年輩の職員が涙を流している。
「嘘だと思うなら再放送があるから聴きなさい」と。
再度『玉音』拝聴。しかし「戦争継続か停止か」釈然としない。情けない話だが半信半疑のまま分隊をまとめ司令部跡に戻った。
外の分隊も続々戻って来ている。
中隊長小隊長等の幹部は将校室に入ったままだ。
隊員はあっちこちに集まり、ワイワイガヤガヤである。
時が経過するにつれて、雲行きが怪しくなってきた一団がある「夕食後脱走」「馬賊となって日本まで逃げ帰ろう」「ソ連の捕虜になるよりまとまって逃げよう」等々‥‥。
俺は考える「軍の最後はこれでいいのか」と。
午後3時過ぎ「東亜新報」の号外が来た。
『玉音』放送(詔書)である。記事を読み「敗」を知る。(誰の起草か知らぬが、内容の分かり難い文言ではある。
少なくとも、戦場向きではない)と、見た。
俺は号外を片手に将校室に飛び込んだ。
「このまま放置すれば、明朝迄に隊員は半減する」
「夕食前迄に全員を集め詔書の説明を」と。
直ちに小隊毎に集合、小隊長より詔書の説明、並びに、隊員はまとまり行動せよ。との訓示があった。
〔つい先程まで、重火器装備の戦車を軸にしたソ連兵に対し、こちらは歩兵銃(弾丸90発)と若干の爆薬のみである。防衛線は死守せねばならぬが、勝ち目の無い戦いだ〕
異常に緊張した状態におかれていた、それが、戦争という目標を突如外され、混乱したが、張り詰めた空気が抜けていくにしたがい気持ちも落ち着いてきた。
なぜか、「ホッ」としたことを覚えている。
分隊の兵を集め人数を確認する。
(つづく) 2008.8.19記
用語解説
【蛸壺】(たこつぼ)戦場における一人用の壕。
【関東軍司令部】(かんとうぐんしれいぶ)
8月12日司令部は通化(満洲東南)に移駐。
【鹿砦】(ろくさい)敵の侵入を防ぐため、尖った枝などを櫛状に並べた柵。逆茂木(さかもぎ)とも。
敗戦前後 その2
さて、「新京」に移駐したものの『土地勘』は皆無だ。大雑把に①周辺偵察、②弾薬確保、③食料確保として関東軍司令部跡は新市街の一画にあった。新市街は広大な平野に碁盤の目状、幅広い道で整然と区画されている。旧市街方面は立ち入ってないので分からない。
少なくとも新市街付近には河川、湖沼、堀、丘、土塁等の障害物は皆無と見た。無防備都市である。
②の弾薬確保について、工兵は三八式歩兵銃と弾丸(90発)を常備しているが、ソ連軍侵攻に直面して、(90発)だけでは何としても心細い。弾丸の補充は必至だ。
兵站(へいたん)に向かう。しかし、兵站に(三八式歩兵銃)の弾丸はないと分かった。〔在庫は(九九式歩兵銃)用〕という。
銃の口径がちがう。(九九)>(三八)。
これにはしばし茫然、兎に角(90発)で戦わねばならない。事態は深刻である。
③の食料補給は確保した。
かくして、時は刻々と刻まれていく‥‥。
14日夕刻の情報は“ソ聯重戦車群〔白城子(新京北北西約100Km)〕に出没”とある
(つづく) 2008.8.16記
用語解説
【兵站】(ヘイタン)戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給や整備・連絡にあたる機関。
敗戦前後 その1
日本の敗戦は1945年8月15日である。
工兵の分隊長だった俺は、この日を満洲国首都「新京」に在った。あれから六十三年経つ。
少し溯った7月末、工兵中隊は支那河南省鄭州に在った。鄭州より南、奥地展開していた連隊主力の到着を待っていた。そんな最中命令が下った。
〈中隊は先遣隊として満洲「通化」の陣地構築へ転進〉
8月始め「鄭州」発「徐州」「済南」「天津」「唐山」満支国境の「山海関」通過が九日である。この日ソ連侵攻を知り、車中に緊張感が走る。列車は「錦州」「奉天」「梅河口」と進んだところで停車。ここから南下すれば目的地「通化」であったが、「梅河口」での停車は数時間に及んだ。ようやく列車が動きだす。気づけば最後尾に接続された機関車は「奉天」に向かってバックである。命令が混乱しているのだろう。「奉天」に引き返した。
奉天駅構内は前線から避難の邦人列車と、前線に赴く部隊の列車が交錯し、大混雑である。次々入線する列車で我々の列車もいつの間にか引き込み線の奥に閉じ込められてしまった。機関車は機関車で給水給炭などやり繰り大変なのだろう、これでは当分身動きできない。
列車を降りて周辺の偵察に出かけた。避難列車の周辺は一斉に用事を済ましたせいか、雲古の山である。
奉天駅頭ゴミは散乱、近くには満人らしい死体が放置されていたのを覚えている。
奉天駅に長時間滞在したのは確かだが、一泊したかどうかは記憶にない。ようやく列車は戦線に向かう。途中空襲警報が発令され、列車は急停車した。我々工兵は直ちに飛び降り列車から50メ-トル以上退避した。速い。
敵機は他に向かったらしく間もなく空襲解除となる。
列車に戻る。車中に在って待避しなかった在満部隊が、”工兵の腰抜け共”と嘲笑っている。北支戦線でさんざん敵機に悩まされ続けた我々工兵とは違うなと感じた。こいつら俺達より戦争を知らないなと。こんな連中と一緒じゃしんどいぞ”と感じたことである。
9日「山海関通過」後3日を経て、12日ようやく「新京」駅で下車、関東軍司令部(跡)に入る。司令部は既にもぬけの殻、それでも中佐だったか少佐だったか参謀と若干の兵が残っていた。
(つづく) 2008.8.15記
兵隊・抑留記(101) 勝手知ったる三尺層
抑留後期~帰還まで - その6
さて、炭坑の作業現場は、もとの古巣、勝手知ったる三尺層であった。
ロシア人監督は顔見知りであり、久しぶりの再会というわけであった。
当時、炭坑作業の中で“俺”が従事したことがない作業は、“コンベアのモーター番”と“発破”ぐらいのものであり、それ以外の作業である運炭(ナワラダボイシュク)、坑木運搬(レサノース)、支保工(クリピーチク)、トロッコ係(リカボーイ)など大概の作業に経験があったから、監督は便利な奴が来たと喜んでくれたのである。
抑留初期の炭坑作業と違って、この頃になると「ノルマ(作業標準量)」の達成率に応じて“賃金”が支払われるようになっていた。が、三尺層の「リカボーイ(トロッコ押し)」は、いくら一生懸命働いたとしても、肝心な石炭が出てこないので「ノルマ」達成には程遠い職場である。従って、抑留者の多くが敬遠する職場であったようだ。
“俺”は“五体満足・体力温存”主義だから、皆が敬遠する「リカボーイ」に喜んで従事したのである。
つづく
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
ブログ管理人より。
抑留関係のホームページを検索していたところ、「旧ソ連抑留画集 」にたどり着きました。
当時の様子を描いた貴重な資料だと思います。
http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm
兵隊・抑留記(100) 卑劣、アクチブ
抑留後期~帰還まで - その5
普段、『労働は神聖なり』『労働に貴賤なし』と称している「アクチブ」からは、『こんな男は炭坑作業‥‥』となり、岡(おか・地上)作業から地下(炭坑)作業に追いやられたのである。
何が『労働は神聖なり』だ。何が『労働に貴賤なし』だ。全く、矛盾も甚だしい。
しかし、“俺”の心に“グサッ”ときた一番の痛手は『教育隊時代の初年兵の中にスパイがいた』ことである。何もかも、誰も信用出来ないのである。こんな情けないことはない。
その『教育隊時代の初年兵』は仲間を売り、同胞を売り、ソ聯に媚び、「アクチブ」に媚びていれば、少しでも早く日本に帰してもらえる。とでも思っていたのだろう‥‥。情けないが『小さい小さい』。
「アクチブ」は、同胞を離反させ〔“抑留”という人の弱み〕を餌にスパイをさせることにより、権力維持を計ったのである。とんだ労働貴族・困った狂人集団である。
つづく
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
ブログ管理人から
いつの間にか兵隊・抑留記も連載100回を迎えました。
いつもブログを読んでいただいている皆様、ありがとうございます。
父に100回記念の感想を訊いたところ「考えておく」とのことでした。(^_^)
兵隊・抑留記(99) 骸骨の金玉にぶら下がるのは…
抑留後期~帰還まで - その4
こんな「狂人集団」と、まともに論争してみても始まらない。すっかり腹をくくってしまった“俺”は言う。
『現在もそう思っている、反省などとんでもない』。
「アクチブ」『かかる反動は《骸骨の金玉にぶら下がる溝鼠(どぶねずみ)》的存在である』
『かかる男を日本に帰していいでしょうか』。とアジる。
「帰すな帰すな」‥‥集団は大合唱する。
“俺”の仲間も大きな声で「帰すな帰すな」‥‥。うまい、これでスパイの目を誤魔化せる。
『こんな男と口を聞く奴は反動である』と、加えて
『かかる男が地上作業とはおかしい。炭坑作業につかせろ』。
「そうだそうだ」。
とうとうN教授と同様「村八分」にされてしまった。
いわゆる『吊し上げ』である。『骸骨に金玉はあったっけ?』疑問は残るが致し方ない。
つづく
兵隊・抑留記(98) アクチブの吊し上げ
抑留後期~帰還まで - その3
作業も済み食事を終えてやれやれ一服という時間に、全員集合である。
兵舎内の中央廊下に集まったところで、突然、“××出てこい”。
中央廊下の端に机が一つ、「アクチブ連中」と“俺”がその机を挟んで立ったのである。
「アクチブ」『貴様は何月何日こういうこと(青年行動隊のこと)を言ったろう』『こうも言ったろう』。これには、たまげた、“俺”より詳しいのである。
“俺”『言った‥‥』。多少言い回しに違うところもあるだろうが、言ったことは確かである。
「アクチブ」『今、現在言ったことに対してどう思っているか。反省はしているのか、自己批判を聞きたい』。
つづく
兵隊・抑留記(97) そっと教えてくれたのは…
抑留後期~帰還まで - その2
そんなある日、“俺”のところに、天津教育隊時代の初年兵2名が尋ねてきた。『班長殿、今度、青年行動隊というのができる、そこで隊員を募集しているが、参加した方がいいだろうか』と。
今更、班長殿でもあるまいが、“俺”はいう「俺たちの目的は何だ、全員五体丈夫で帰還することではなかったか、青年行動隊に参加しないで済むならそれに越したことはない」と。
こんなやりとりがあったことはすっかり忘れた頃であった。
そんなある日の建設作業の合間であった。“作業仲間”の一人が『今日、おまえの吊し上げがある』と、さりげなくそっと知らせてくれたのである。
“仲間”は言う。『吊し上げ』の際、集団の中に「アクチブ」のスパイが配置され、『同情して下を向いたり』『発言の少ない者』を監視し、次の『吊し上げ』の対象にする。と、如何にも“狂人”の考えそうなことではある。
大きな声で「そうだ、そうだ」「帰すな帰すな」と発言するから承知していてくれ。と、
つづく
兵隊・抑留記(96) アクチブと洗脳教育
抑留後期~帰還まで - その1 (1947秋頃~48秋)
この期間は精神的重圧期であった。
前にも一寸触れたが、ソヴィエト聯邦の“スターリン”の率いる“狂人集団”はシベリア地区・チタに“日本人洗脳学校”を開設し、卒業生を「アクチブ」と称して各収容所に送り込んできたのである。
これら日本人の顔をした「アクチブ」(労働貴族)は指導者づらをして収容所の実権を握り、“労働歌を歌い、ソ同盟を謳歌し、軍国主義反対、天皇制打倒、反動分子は日本に帰すな”‥‥。
あげく、“祖国・ソ同盟万歳”とくる。いわゆる洗脳教育のつもりであろう。しかし、『なんで祖国がソ同盟なんだ』。
薄っぺらな、底の知れている思想を強制してくる。俺としても何とか手を打ちたいが、相手が“狂人”ではこれといった打つ手が思いつかず、ただ火の粉を被らぬよう気を使う毎日であった。ところが…
つづく
Bさんの奇妙な体験(その5) --後日談--
さて『事件』のことだ。(馬賊の捕虜)とは不名誉な話だ。二人の胸の内に深くしまい込み他言無用、と決める。幸い出張予定期間内に帰ることができる。
出張所では相棒と一緒に調査報告書を纏め上司に提出。後は平常の業務に戻った。
2~3ヶ月経った頃だったと思う。支社から例の「調査報告書」の件で呼び出された。
省庁の役人との打合せだ。省庁の会議室には、既に庁側の役人が入室していた。大きなテ-ブルを挟んで挨拶を交わす。一番上座の男を見て飛び上がらんばかり驚いた。『馬賊の頭目』だ。彼の顔はニコニコしながら片目をつぶり「何も言うな」と知らせている。
蛇足
頭目は例の「事件」後、満洲国側に帰順して省庁の高官に就いていたのだ。
銃声や、徐行する列車の後の方に乗った人影は、おそらくBさん達監視のための尾行者だったのだろう。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
【准尉】(じゅんい)軍隊の階級で尉官の下、下士官の最上位。
【満洲国】(まんしゅうこく)日本が満洲事変によって占領した中国東北部(現在の黒竜江省吉林省遼寧省内モンゴル自治区北東部)につくりあげた傀儡(かいらい)国家。
【満洲事変】(まんしゅうじへん)1931年(昭和6年)9月18日奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄線路の漠は事件を契機として始まった日本軍の中国東北部への侵略戦争。
【傀儡】(かいらい)陰にいる人物に思いどおりに操られ利用されている者。
【馬賊】(ばぞく)馬に乗って荒らし回る賊。特に清代末頃から中国東北部(旧満洲)を中心に荒らし回った騎馬の群盗のこと。