敗戦前後 その1 | SAPPERの兵隊・抑留記

敗戦前後 その1

 

 日本の敗戦は1945年8月15日である。
 
 工兵の分隊長だった俺は、この日を満洲国首都「新京」に在った。あれから六十三年経つ。
 
 少し溯った7月末、工兵中隊は支那河南省鄭州に在った。鄭州より南、奥地展開していた連隊主力の到着を待っていた。そんな最中命令が下った。
 
〈中隊は先遣隊として満洲「通化」の陣地構築へ転進〉
 
 8月始め「鄭州」発「徐州」「済南」「天津」「唐山」満支国境の「山海関」通過が九日である。この日ソ連侵攻を知り、車中に緊張感が走る。列車は「錦州」「奉天」「梅河口」と進んだところで停車。ここから南下すれば目的地「通化」であったが、「梅河口」での停車は数時間に及んだ。ようやく列車が動きだす。気づけば最後尾に接続された機関車は「奉天」に向かってバックである。命令が混乱しているのだろう。「奉天」に引き返した。
 
 奉天駅構内は前線から避難の邦人列車と、前線に赴く部隊の列車が交錯し、大混雑である。次々入線する列車で我々の列車もいつの間にか引き込み線の奥に閉じ込められてしまった。機関車は機関車で給水給炭などやり繰り大変なのだろう、これでは当分身動きできない。
 
 列車を降りて周辺の偵察に出かけた。避難列車の周辺は一斉に用事を済ましたせいか、雲古の山である。
 
 奉天駅頭ゴミは散乱、近くには満人らしい死体が放置されていたのを覚えている。
 
 奉天駅に長時間滞在したのは確かだが、一泊したかどうかは記憶にない。ようやく列車は戦線に向かう。途中空襲警報が発令され、列車は急停車した。我々工兵は直ちに飛び降り列車から50メ-トル以上退避した。速い。
 
 敵機は他に向かったらしく間もなく空襲解除となる。
 
 列車に戻る。車中に在って待避しなかった在満部隊が、”工兵の腰抜け共”と嘲笑っている。北支戦線でさんざん敵機に悩まされ続けた我々工兵とは違うなと感じた。こいつら俺達より戦争を知らないなと。こんな連中と一緒じゃしんどいぞ”と感じたことである。
 
 9日「山海関通過」後3日を経て、12日ようやく「新京」駅で下車、関東軍司令部(跡)に入る。司令部は既にもぬけの殻、それでも中佐だったか少佐だったか参謀と若干の兵が残っていた。
 
 
 
          (つづく)     2008.8.15記