兵隊・抑留記(109) 再開
復員(ナホトカ → 舞鶴) - その5
父から舞鶴引揚援護局気付で葉書が届いていた。
「一家父母兄弟健在○○の引揚を一日千秋の思いで待って居ります」と読めた。
電報を打つ。「二二ヒマイヅルタツヨテイ○○○」 復員列車は夜、京都駅で夕食朝食の配給があり、新聞を見る。久しぶりの活字である。中に〔帝銀事件〕記事あり。
国府津あたりの景色は車内から見る限り、昔のままだ。川崎を過ぎて多摩川を渡る。蒲田・大森の海側一帯焼け野原である。焼け跡に花崗岩の門柱がポツンポツン、窓枠が焼け落ちたコンクリ-トの建物が黒々と残っているのが印象的である。戦後の復興未だしの感あり。
品川駅で下車。更に北上する戦友を見送る。と、突然俺の肩を後ろに引く奴がいる。「あっ違う!」と言って立ち去ろうとする。なんと弟である。俺は慌てて「俺だよ!」。
迎えに来た弟と、とんだ再会であった。
おわり
2008.10.1 記
用語解説
【帝銀事件】(ていぎんじけん)1948.1.26午後、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に現れた男が行員らに青酸カリを飲ませ、12人死亡、4人を重体に陥らせて、現金などを奪った事件。
兵隊・抑留記(108) 黙れアクチブ
復員(ナホトカ → 舞鶴) - その4
夕食時、一人当たり5勺(しゃく)の日本酒が配られた。久しぶりの日本酒だ。五臓六腑に染み渡り、やはり日本酒一番である。
広間の片隅からアクチブ〈ソ連の手先〉が立ち上がり「我々は揃って代々木に行こう‥‥」アジが始まる。「黙れ、ここは祖国日本だ。お前等の祖国ソ連じゃない。もう一回しゃべってみろ、叩き出してやる!」アクチブの付近が立ち上がり騒然となった。
5勺酒の1幕である。
給料の支給があった。総額960円位だったと思う。
多いと思うか少ないと思うか見当つかない。酒保(日用品販売所)で、煙草「ピ-ス両切10本入」が60円である。10箱も買えば、給料の半分以上が飛んでしまう。貨幣価値の変動について多少聞いてはいたが、びっくりする。
つづく
用語解説
【勺】(しゃく)尺貫法の容積の単位。合の10分の1
約18ミリリットル
【代々木】(よよぎ)東京代々木の日本共産党本部
【アジ】アジテ-ションの略。社会運動で、演説し煽動すること。
兵隊・抑留記(107) 本土の土
復員(ナホトカ → 舞鶴) - その3
船中2泊か3泊した。夜、就寝後夢うつつに船のエンジンの振動が止んだのを覚えている。翌払暁、厠に起きる。望見すれば、岸壁上に整然と植えられた黒松?が見える。シベリアに無い景色である。正しく日本本土だ。船倉の仲間が入れ替わりたち替り、甲板に出たのである。
舞鶴港シベリア抑留引揚者一覧によれば、
大郁丸 昭和23年年9月18日入港
引揚者(人)2000名とある。
19日上陸、本土の土を踏む。
所属部隊など本人確認の際、係の名簿には、俺の名の上に赤い印があった。多分行方不明だったのだろう。
確認事務後、風呂場へ直行。着衣類は鍵付き脱衣箱へ、風呂場の入口でタオル、大きい浴槽は白く濁った薬湯だ。湯は温く少ない。片側から入りしゃがむ臍位まで湯に浸かる。そのままヨチヨチ前進、向こう側に押し出される。浴室出口で褌(ふんどし)。次の建物に通ずる渡り廊下では上から左右から白い粉の噴射を浴びる。褌を緩めて中にデデッ。通り抜けて白い粉を払う。襦袢(シャツ)袴下(ステテコ)軍袴(ズボン)軍衣(ウワギ)‥‥と流れ作業だ。白い粉=DDT
講堂の跡か、畳敷の大広間に落ち着く。寝座(なぐら)である。
翌日脱衣室の衣類は白い粉だらけになっていた。
つづく
用語解説
【DDT】防疫・殺虫剤
兵隊・抑留記(106) ソ連領海通過
復員(ナホトカ → 舞鶴) - その2
甲板は清掃され磨きあげられていた。
整列した乗組員の敬礼。温かい出迎えである。
案内された船倉は大きい。ペンキのはがれかかった鉄板や肋骨がむき出しだ。ここに2段に仕切られた大きな板の間、そこが我々の寝座(ねぐら)である。
ソ連領海通過を知る。
甲板に立った俺は、大きく深呼吸、解放感を満喫した。甲板の舷側に鉄製半月型の大きな樋が長々とある、樋の両側に板を敷く、樋を跨いで厠(トイレ)だ。前後に腰の高さの仕切りがある。ずらりと並んだ仕切りは、なかなかの壮観である。樋内は溜り次第、上手よりの放水で押し流され日本海へサヨナラする。
樋の内面はピカピカ光っていた。
日本海の塩風を受けての厠は爽快でであった。
つづく
兵隊・抑留記(105) さらばシベリア
復員(ナホトカ → 舞鶴) - その1
60年前(1948)の9月19日はシベリア抑留を終え帰還船にて舞鶴港上陸の日である。
ナホトカは日本海に面した港街だ。俺たちの一団は長い列となって街なかを歩く。波止場へ向か途中この街で働く同胞(抑留者)とすれ違う。何処をどう歩いたか、ようやく前方に大きな船が見えてきた。近づくに従い、黒い船体はいかにもくたびれていたが、帰還船(貨物船大郁丸)とわかる。
隊列が止まり、乗船開始も近い。
シベリアよさらばだ。愈々最後の詰めである。しかし乗船手続きは遅々として進まぬ。俺は思案する。
〔名簿に俺の名前はあるか〕〔骸骨の金玉‥‥以来『貝』となって、それなりに苦労してきたつもりだ〕〔ソ連当局・手先のアクチブ・迎合するスパイなどに足止めされたら大変だ〕
一刻も早く乗船してシベリアを離れたい。緊張の連続である。
隊列の先の方が動き出した。姓名が読み上げられ乗船開始である。俺の名はロシア語のアルハベットのどの辺なのか、待つこと久し。呼ばれて無事関所を通過できた。船に向かって一歩を踏み出す。タラップに足がかかる。
シベリア大地よ、さらば!
つづく
用語解説
【骸骨の金玉‥‥】アクチブにより、反動分子として吊しあげられた時「骸骨の金玉にぶら下がるどぶ鼠」と言われた。(参照)
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ブログ管理人から
原稿が切れて、しばらく書き込みが途絶えていました。
何度か父に催促してやっと原稿ができあがってきました。
それにしても、60年も前のことをよく覚えているものだと感心します。
兵隊・抑留記(104) ダモイ(帰還)
抑留後期~帰還まで - その9
1948年(昭和23)9月、待ちに待った日本への帰還の機会が訪れた。当時ソ聯の親分は『スターリン』である。『ダモイ(帰還)』の声を聞いて間もなく、敗戦時日本軍から押収した衣類(軍服)が新しく支給された。
「アクチブ」は言う。『これも偉大なるスターリンのおかげである』『感謝の気持ちを表すため、この書類に署名せよ』ロシア語で何が書いてあるか分からない紙に署名させられた。
書類の内容は多分《洗脳してくれてありがとう。新しい衣服ありがとう。‥‥‥‥》とでも書いてあったのかもしれない。馬鹿馬鹿しい限りである。
3年間“お世話”になった収容所・ブカチャチャを後にし、『ダモイ』の列車はシベリア本線をひたすらナホトカに向かって東上中である。
「アクチブ」は車中で、〔これから《虱(しらみ)》の検査をする。全員裸になって衣服をあらためよ。《虱》の居たものは正直に申し出よ〕と。“俺”の衣服にも《虱》が居たが、密かに潰して知らん顔だ。ところが正直に《虱》が居たと申し出た“奴”がいた。「アクチブ」はアジる。《虱》のいた“奴”を指して〔かかる者は組織を乱す反動である‥‥云々〕と。全く馬鹿馬鹿しいがどうしょうもない連中だ。
有蓋貨車に乗せられた我々抑留者はシベリア鉄道をひたすら東進し、ようやく、帰還船の待つ“ナホトカ”で下車した。
『ハラショウラボータ(優良作業者)からダモイ(帰還)させる』と言って『ハラショウラボータ』の一編成が、ブカチャチャを去ったのは一年も前のことだったろう。“俺”はすっかり忘れていたが、その『ハラショウラボータ』がなんと、ナホトカで港湾業務に就いているではないか。《彼等》の我々(ダモイ組)を見る恨めしそうな目が脳裏にこびりついて離れない。 労働を『ダモイ』という餌で釣るための芝居だったのである。
つづく
兵隊・抑留記(103) 昆布になれ
抑留後期~帰還まで - その8
こんなことがあってどのくらい経ったのか忘れたが、指揮班の“K准尉”が密かにいう『貴様みたいな馬鹿はいない、こんなところでツッパッて居たってしょうがないではないか。海の昆布やワカメを見ろ、海面近くでは海流に逆らわず、適当に揺れているが、しかし、根はしっかりと岩にくらい着いている』『岡(建設作業)では貴様を欲しがっている』『「アクチブ」も岡に上げる理由を失っている』と。
“K准尉”のアドバイスは、有難かった。
翌日「アクチブ」の本部に乗り込んだ。
“俺”は言う『ソ聯も嫌いだし、共産党も嫌いだ。しかし、食わず嫌いなところもある。ソ同盟について知りたい』と。
「アクチブ」はそれを待っていたのだろう。早速、『ソ同盟小史』という日本語の分厚い本を渡された。これを読めとのことである。「アクチブ」は岡に上げる理由ができたのである。
ようやく、岡に逆戻りもどりしたのであった。
「狂人集団」のすることは分からない。戦友の中にスパイが居たり、『骸骨の金玉‥‥』になったり、精神的にくたくたである。ただひたすら『復員』するまでの我慢と『貝』になっていたのである。
つづく
抑留と囲碁
シベリア抑留中に「碁」を覚えた。
『師匠』は兵隊仲間のSさんである。
手頃な厚紙を46×42.5センチメ-トルの大きさに切り「碁盤」とした。罫線(縦横19路)の割りつけ、墨入れは俺がひきうけた。
罫線引き用の直定規と碁石用木材は戦友T先輩(大工)作である。厚紙は安全カミソリの刃(両刃)で切断した。罫線の墨入れは「烏口」である。「碁石」は白樺で丸棒を作り、これを輪切りにした。個数は約400(正確には361)。
半分は煤を水に溶かし飯盒で煮る。これが黒石、残り半分を白石とした。碁笥(ごけ)も用意した。
この「囲碁用具1式」なかなか評判よく、碁盤など数面製作注文があったくらいだ。木製の碁石は、軽く不安定だったが、碁打ちは喜んで飛びつきゲ-ムを楽しんだのである。ところが、木の丸棒輪切りは、木口面に手垢・脂などで白石が汚れ、黒白の判別がしにくくなってしまった。
そこで、白樺の板の巾を碁石の大きさ(少し大き目)とし、次に四角に切り落として碁石とする。この四角い碁石を四角より八角、八角より十六角煉瓦を代わりにして1個1個研ぎあげた。加えて厚みも丸み付けたのである。‥‥ 碁石らしくなり、汚れもつきにくくなった。
この代用碁石、手間はかかったが評判は上々であった。さて、碁の手ほどきだが、素人の俺に対して、冒頭に記した『師匠』のSさんの薫陶(くんとう)を受けどうにか出来るようになった。有難いことです。以来『師匠Sさん』に感謝している次第です。
あれから63年「碁歴」だけは長い。
何「棋力?」いいこと問うてくれました。不肖の弟子未だ、ザル碁の域を出ておりません。
2008.9.3記
用語説明
【烏口】(からすぐち)製図用具の一。くちばし状の部分にインクをいれ、線を引くもの。
【碁笥】(ごけ)碁石を入れる、ふたのある丸い容器
【木口】(こぐち)木材を横に切った断面。きぐち
兵隊・抑留記(102) 執拗なアクチブ
抑留後期~帰還まで - その7
さて、「アクチブ」(労働貴族)はしつこい。
ある日、こともあろうに〔“俺”の作業状況〕査察のため、わざわざ炭坑内にやって来た。
そして曰く、「反動分子」が「リカボーイ」みたいな軽作業とは怪しからん。と、直ちに「ナワラダボイシュク(運炭夫)」にまわされたのである。
“俺”は平気だ。どんな作業に回されてもそれなりにこなす自信と体力がある。ただ必要以上のことはやらない。兎に角、体力温存である。
「リカボーイ」の作業を説明しよう。
まず、コンベアーから出てくる石炭をトロッコを少しずつずらしながら平均に積む。次に、“石炭満載のトロッコ(実車)”に“空車”をぶつけて前方に押し出すのである(無論、コンベアーは運転したまま)。
ところが、作業途中、下手をして“実車”が一旦停車してしまうと、一人では頑として動いてくれないのである。何処で力を入れ、何処で力を抜くか、たかが“トロッコ押し”だが、なかなかのくせ者であり、コツがいるのである。
作業は労力的には楽だが、“トロッコの実車と空車の関係”“線路の傾斜”“線路のくせ(段差‥‥)”など十分知悉してないと、うまく作業が進まないのである。
「リカボーイ」を“俺”と交代した“奴”はそれを知らないから、石炭はトロッコに入らず、線路に落ちコンベアを止める始末、「監督」は「アクチブ」に食ってかかり、“俺”は「リカボーイ」に復帰した。
つづく
敗戦前後 その4
前回は〔分隊の兵を集め人数を確認する〕迄書いた。
この夜、俺の分隊員で脱走を企てた者も居ったが、未然に防ぐことができ、その後も俺の分隊から脱走者は無い。
16日になって全隊員8月14付で1階級昇進した。俺は曹長に進級、歩兵銃を返納し新たに軍刀が支給された。
俺は軍刀を腰に“悦”に入っていた。馬鹿丸出しである。
朝、関東軍司令部参謀(佐官)自決を知る
敗戦後約2週間は司令部(跡)に居住し、その間ソ連軍との接触はなかった。8月末「ソ連軍により武装解除」と「部隊の編成替(大隊単位約1000名)」があった。俺は隣の中隊へ、中隊長付曹長として転任した。中隊長付き曹長には部下はいない。
その頃からだろう、誰言うとなく、我々は「国境に点在するト-チカの破壊撤去作業に従事」、「満洲は治安悪化のためソ連領を通り内地へ帰還」などの噂が流れた。
俺は考えた「そんなにすんなりいくはずがない」と。
前に読んだ本に「ナポレオン軍がモスクワ遠征の際ロシア軍に大敗した。フランス軍のポンスレ工兵士官(数学者)は、2年間の捕虜生活後、ロシアの算盤をみやげに‥‥」とあった。
何故か、この(2年間)に引っかかった。時代も、国の形態も違うのにだ。
われわれは、戦争という目標を失った集団だ。しかも2年間もだ。ようやく思いついたのが、「趣味」「娯楽」を広めよう。何か一つでもいいから覚えよう。と
俺は「囲碁」を覚えることにした。
9月12日新京発、満洲鉄道を北上。
9月22日黒河から国境のアム-ル河を渡りソ連領に入る。ブラゴエチェンスク郊外に野営。
10月2日チタ州ブカチャチャ着。
(この項おわり) 2008.8.23記
用語説明
【現地召集】(げんちしょうしゅう)外地に居住する人が外地の部隊に直接召集されること。
【消灯】(しょうとう)灯を消すこと。
軍隊では就寝時間をラッパを吹いて知らせる。(平時)
新兵さんには、“新兵さんは辛いもんだネー/又寝て泣くのかヨー”と聞こえる。
【ト-チカ】コンクリ-トなどで造った堅固な小型の砦(とりで)。
参考
【零の発見】吉田洋一緒 岩波親書(初版1939)