兵隊・抑留記(104) ダモイ(帰還)
抑留後期~帰還まで - その9
1948年(昭和23)9月、待ちに待った日本への帰還の機会が訪れた。当時ソ聯の親分は『スターリン』である。『ダモイ(帰還)』の声を聞いて間もなく、敗戦時日本軍から押収した衣類(軍服)が新しく支給された。
「アクチブ」は言う。『これも偉大なるスターリンのおかげである』『感謝の気持ちを表すため、この書類に署名せよ』ロシア語で何が書いてあるか分からない紙に署名させられた。
書類の内容は多分《洗脳してくれてありがとう。新しい衣服ありがとう。‥‥‥‥》とでも書いてあったのかもしれない。馬鹿馬鹿しい限りである。
3年間“お世話”になった収容所・ブカチャチャを後にし、『ダモイ』の列車はシベリア本線をひたすらナホトカに向かって東上中である。
「アクチブ」は車中で、〔これから《虱(しらみ)》の検査をする。全員裸になって衣服をあらためよ。《虱》の居たものは正直に申し出よ〕と。“俺”の衣服にも《虱》が居たが、密かに潰して知らん顔だ。ところが正直に《虱》が居たと申し出た“奴”がいた。「アクチブ」はアジる。《虱》のいた“奴”を指して〔かかる者は組織を乱す反動である‥‥云々〕と。全く馬鹿馬鹿しいがどうしょうもない連中だ。
有蓋貨車に乗せられた我々抑留者はシベリア鉄道をひたすら東進し、ようやく、帰還船の待つ“ナホトカ”で下車した。
『ハラショウラボータ(優良作業者)からダモイ(帰還)させる』と言って『ハラショウラボータ』の一編成が、ブカチャチャを去ったのは一年も前のことだったろう。“俺”はすっかり忘れていたが、その『ハラショウラボータ』がなんと、ナホトカで港湾業務に就いているではないか。《彼等》の我々(ダモイ組)を見る恨めしそうな目が脳裏にこびりついて離れない。 労働を『ダモイ』という餌で釣るための芝居だったのである。
つづく